一代で大きな仕事を成し遂げた男のすごさを秘め、どこか人懐っこい、おおらかさがあった。総合食品製造・販売のあじかん(西区)創業者の足利政春さんが1月16日亡くなった。86歳。
京都市下京区出身。京都の玉子焼の老舗吉田喜の吉田喜作社長からのれん分けされて広島で1962年に前身の三栄製玉を個人創業。瞑想法「阿字観」(われを見詰めて広く意見を聞く)という、商いの原点ともいえる言葉に由来し、78年から現社名に。2000年に東証2部上場を果たす。20年3月期連結決算は売り上げ447億円、純利益は5億5000万円。来年で創業60周年を迎える。
一燈を下げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め。
同社が創業50周年の年に「あじかんの原点と経営思想」(244ページ)を上梓。江戸時代の儒学者佐藤一斎が「言志四録」で述べた言葉から書き出す。あえて足利さんが語らなければ、途上で「死のうとまで思い詰めた」ことがあったとは知るよしもない。一度だけ本業を離れて、ガラス製造の事業を継承したことがあった。しかし苦心惨憺(さんたん)のあげく、わずか2年でただ同然に手放した。手持ち資金は泡のごとく消え、さらに個人負債まで抱える。資金繰りはひっ迫し、困窮を極めた。
「ショックのあまり、一時は死のうとまで思い詰めた」
ずいぶんと高い授業料になったが、性根を入れ替えて、玉子焼を一生の仕事にしようと決める。神様が、ふわふわしていた私にガツンと試練を与え、途中で投げ出さずにちゃんと玉子焼の道を歩めと諭してくださったに違いない。その意味でも、私は幸せ者ですと述べている。
何とも素直で、なおプラス思考である。経営存亡のピンチにどう立ち向かっていくのか。逃げることなく、真正面からぶつかったことが、危機脱出につながったのではなかろうか。玉子焼を一燈として提げて、ただひと筋に人生を歩む転機となった。
こんな話もある。地元同業者から申し入れがあり、対等合併で1970年に「広島製玉」をスタート。これが大失敗だった。何のかんのと理屈をつけて作業をボイコット。労働争議である。48時間にわたって交渉を続け、ボイコット派の社員に退職金を支払って辞めてもらうことでようやく決着した。
しかし、その後も難儀が続く。退職金を手にした彼らが会社の裏手で同じ商売を始めて数人引き抜いたほか、営業の先々で、あることないことを言いふらして歩く。こういうときこそ会社(経営者)が何を考えるかが勝負。ぐっとこらえて聞き流した。案の定その会社は1年半で倒産。つぶさに経過を見ていた社員は企業経営とはこういうものだと正当に評価し、一丸になってくれた。企業思想の継承とは、そうやって受け継がれていくものだと体験から学んだという。長年のうちに鍛え上げられた職人技のごとく骨身に染み込んでいる、特有の経営観なのだろう。
経営のコツここなりと気付いた価値は百万両。松下幸之助の有名な言葉である。誰かに教わったものでもなく、まねたものでもなく、実践の中で気付いたという「商いのコツ」について次号で。