広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
日本列島最古の人類は廿日市市を選んだという。気持ちが浮き立つような発掘調査結果が発表された。
中国山地の標高約800メートルに広がる廿日市市吉和の冠遺跡から出土した旧石器時代の石器が放射性炭素年代測定で約4万2300年前のものであると、発掘調査を実施した奈良文化財研究所の国武貞克主任研究員らの研究チームが昨年5月、明らかにした。
これまで日本列島への到達時期は後期旧石器時代の3万8000年前ごろという説が有力だった。しかし今回の発見で、さらに古く中期旧石器時代にさかのぼり、通説が覆される可能性が出てきた。
その発掘調査報告会(主催=廿日市市教育委員会)が2月23日、ウッドワンさくらぴあ(同市下平良)である。
「わたしたちの祖先はいつ日本列島にやって来たのか」と題し、奈良文化財研究所(奈良市)の国武氏が講演。広島大学の藤野次史名誉教授は「旧石器時代のくらし」を、市教育委員会の妹尾周三専門員は「冠遺跡群の発見とその後」について話す。石器の展示もある。入場無料。
冠高原の遺跡群は数十年前から地元の研究者や県教育委員会などで調査を継続。出土地層の年代測定や分析のために自然科学分野の研究者も参加。石器が集中する深さを確認し、伴出した炭化物を放射性炭素年代測定法で分析したところ、最下層の炭化物の平均値が国内最古となる4万2300年前のものと判明。
時代ごとに分け、その年代に見合った通りの出土で、中期旧石器時代に相当するこれら石器の作り方や特徴は同時期の中国大陸や朝鮮半島のものと類似しているという。調査は継続中で、論文発表とその検証結果が待たれる。
廿日市市は平成の大合併で 旧町村の佐伯、吉和、大野、宮島と一体になった。山間や内陸〜沿岸〜島しょ部それぞれの自然や歴史文化は多様で奥深い。嚴島神社の祭礼の最終日に合わせ室町中期以降、毎月廿日(20 日)に立つ「市」が市名の由来。これよりはるかに歴史をさかのぼり、列島最古の人類がどこから、どうやってこの地にやってきたのかと想像をめぐらす。
30万年前にアフリカに誕生した新人類ホモ・サピエンス。彼らがユーラシア大陸を経て世界へ拡散していったグレートジャーニーと呼ばれる旅先の一つ、廿日市に列島最古の人類が到達したことが証明されると、世界の注目を浴びることになりそうだ。
国武氏は2017年から中央アジアの4遺跡を調査後、20、21年には長野県香坂山遺跡を発掘調査し、その後も列島での石刃石器群の成立過程解明に挑む。冠遺跡は研究者や専門家の間で注目されていたが、一般的には存在や価値が認識されていなかった。
宮島の嚴島神社とその前面の海や背後の弥山原始林を含む森林区域は世界遺産。神社の建造物群は6棟が国宝、14棟などが重要文化財。2万年前の後期旧石器時代、宮島には人が住んだ証があり、下室浜遺跡でナイフ形石器が出土している。市教育委員会は、
「冠遺跡では発掘体験も行っており、徐々に認知されるようになった。本物を見て歴史に触れて価値を知ってもらうことが大事。中世、嚴島神社の材木は吉和から調達されていた。地元を広く、深く知ることにより、自然に郷土への誇りが生まれてくる」
列島最古の人類はどんな暮らしをしていたのか。その証に耳を傾けたい。
気候変動の影響で瀬戸内海の海水温が上昇し、水産資源の減少や藻場の衰退といったさまざまな問題が懸念されている。広域で養殖カキが大量死した。急きょ横田知事や政府高官が現地を視察し、関係機関も調査に乗り出した。
高水温や降雨不足による塩分濃度の上昇をはじめ、いかだに密集させてつるす養殖法がストレス耐性を減らしていること、産卵後で体力を消耗した時期に強い北風が海底の低酸素水を押し上げたことなどが指摘されている。
自然に近い形で育てるなど多様化を検討すべきといった意見がある。大崎上島町の塩田跡の池でカキを養殖するファームスズキは、県内で大量死が明らかになった昨年9月25日から10月10日にかけて池の水質は酸素量、pH、塩分濃度のいずれにも異常は見られなかったという。
7月以降、水温が30度を超えたが、9月中旬まで歩留まりは95%と過去最高水準を維持。鈴木隆社長は、
「毎日、水質を数字で分析している。カキの生理に合わせて環境を整えられているかどうかが分かれ目になっていると思う。2012年から底の浅いカゴで密集を避け、エサを均等に行き渡らせる本場フランスの方式を徹底している。さらに2023年、広島県の支援を受けてフランスで開発された最先端の養殖システムを導入。高水温でも元気に成長する手応えを得ている。むしろ水温が高い方が育てやすいと感じる場面もある。このまま温暖化が進めば、カキ産地の地図が大きく変わりかねない」
水産大学校を卒業後、海産品卸に就職。欧米を視察しカキ養殖と流通量の壮大さに衝撃を受けた。実は、海外のレストランで提供される生食用カキのほとんどが欧米産。日本産はほぼ流通しておらず、見向きもされていなかった。
よほど悔しかったのか、国内各地を見て回り、大崎上島町でフランス式に適した塩田跡の池と出合った。08年にケーエス商会を設立し、11年にファームスズキを創業。全国一の広島産カキを世界へ届ける決意がにじむ。
塩田跡の池に海水を引き込んでおり、周囲の山からの湧き水がもたらす豊富な植物性プランクトン(エサ)など自然環境を最大限に活用。1~3月には「グリーンオイスター」と呼ばれるほど身が緑色がかり、甘さとまろやかさが際立つ。
生育設備の増強を進めており、最大生産能力は2~3年後に3倍超の3億円規模に拡大になる予定。台湾や香港、シンガポール、タイへの輸出を伸ばしている。
生態系の保護も意識し、昨年3月には県内のカキ養殖業者で初めて、環境や社会に配慮し養殖された水産物だと証明する国際認証「ASC」(水産養殖管理協議会)を取得している。
品質に自信を深める一方で、「漁師とファーマーは違う」という海外の事業者から投げ掛けられた言葉が強く印象に残るという。
「自然に任せるだけではなく、育て、設計し、価値を高めていく。その思いを社名の〝ファーム〟に込めた。広島全体のブランド力をさらに磨きたいと考え、カキの種(幼生)年間900万個のうち半数を2~3㌢に生育して同業者に卸している。水産業を志す若者が減り続ける現状を、何とかしなければならない。生産方式から抜本的に見直すことで〝もうかる仕組み〟をつくり、賃金などの待遇改善を通じて業界に呼び込む必要がある。広島モデルとして普及させたい」
人も自然と離れて生きることはできない。
「戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます」
高市早苗首相の国会答弁で大騒動になった。中国は再開していた日本産水産物の輸入停止といったさまざまなカードを切り、日本に揺さぶりをかける。レーザー照射などはもってのほか。防衛論議しきりだが、依然として高市政権の支持率は高い。過去最大規模の2026年度予算案を決定し、積極財政へ踏み出す。新年を迎え、高市さんはどんな計を立てただろうか。
日本の企業風土のせいか、創業100年以上の企業数は3万7000社を超え、世界で断トツという。日本式経営の良いところを再確認し、ひるむことなく革新に挑んだ老舗の歩みに経営のヒントが隠されていないだろうか。
清酒「千福」醸造元の三宅本店(呉市)は今年、創業170周年を迎えた。1856年の創業当初、みりんや焼酎の製造を手掛けていた。呉市制が施行された1902年に日本酒の製造を始める。翌年に旧帝国海軍工廠ができることを見越した決断だった。16年には赤道直下などに半年以上遠洋航海して酒の劣化耐性を調べる試験に合格。母国を離れても、うまい酒が飲めると全国の鎮守府で採用された。33年に満州で始めた酒造りの伸長もあり、41年には醸造量日本一へ登り詰めた。
しかし45年に蔵を含む全建物を空襲で焼失。ゼロから再スタートを切った。大陸を引き上げた従業員も抱え、一時は国鉄の枕木や漬物などを作って食いつないだという。
その後は戦後復興や高度経済成長期の波に乗り景況を回復。ところが2001年の芸予地震で五つあった蔵のうち三つを被災し、大きなピンチに立たされた。三宅清嗣社長(66)は、
「3度目の創業という覚悟だった。酒も衛生管理が重要になると踏み、知人が神戸で営むケーキ工場を参考に衛生管理を徹底した蔵を再建。設備配置や動線を見直し一般客も見学できる設計とした。過去ではなく、将来に備えた経営判断にためらいはなかった」
その後、リーマンショックや東日本大震災といった外部要因も重なり、酒類市場は一段と厳しくなった。
17年に大手酒類メーカーで経験を積んだ当時28歳の長男、清史さん(現・取締役統括本部長)が入社。現・瀬戸内ブランドコーポレーション社長の田部井智行さんを三宅本店の社外取締役に起用し、内々で清史さんの育成を頼んだ。確かな後ろ盾もあっただろうが、入社間もなく次々と改革を断行。新たに立ち上げた「ワクワク企画室」で若手のアイデアを採用し、真新しいコンセプトを打ち出した。コラボ商品企画、銀座での飲食店経営といった大胆な取り組みをリードした。
事業の棚卸しも行った。不採算商品や取引を整理し、主力商品に経営資源を集約。一方で、既存の焼酎用設備と日本酒造りで培った発酵技術を生かせる蒸留酒事業に狙いを定めた。1年以上を費やし開発したジンやウイスキーはじわじわと売り上げを伸長。25年3月期は6年ぶりに売上高10億円台へ回復した。
「事業は伝統と革新の両輪で成り立つ。片輪ではその場を回るだけだが、両輪をバランス良く回すと前へ進む。ご愛顧を頂いた味を守るため、新たな事業基盤とファンづくりにまい進していく」
200年を視座に置く。
今週号で2025年の最終号。ほぼ時を重ね県政、広島商工会議所のリーダーが新旧交代し、街中では新駅ビル・ミナモアの開業が話題を振りまいたほか、紙屋町・八丁堀エリアの再開発事業は高層複合ビル・カミハチクロスが27年開業へ向け動き出した。カープはさておき、今年は何があったかと思い浮かべる年の瀬を迎える。
やはり城によく似合う。3月末に広島城三の丸整備等事業として、第1期商業施設が共用開始し開放的な和風建築に5店が軒を連ねる。その一つ。抹茶やスイーツを楽しみながら武家文化、茶道の美意識などに触れることができる「SOKOCAFE(ソウコカフェ)」は浅野家の家老を務め、400年以上にわたり武家茶道を伝える上田宗箇流が初めて監修した。城へ戻り、カジュアルなカフェスタイルを採用。変えてはならないものと変えなくてはならない不易流行を体現する。果たして流祖の宗箇さんがどう受け止めただろうか。
17代目を継ぐ若宗匠の宗篁さん(47)は、
「2年程前に提案を受け、思いを巡らした。カフェの気軽さと、崩してはならない茶道の品格をいかにバランス良く折り合いをつけるのか、これからも問い続けていくテーマだと思う。25年前に茶道人口は600万人。いまは180万人に減り、茶の湯の魅力を伝えていく工夫も大切。できるだけ多くの人にオープンな雰囲気で気軽に茶の湯に親しんでもらえる機会にしたいと考えました」
店内は床の間や釣釜、宗箇の時代から伝わる練り香も線香仕立てにするなど工夫。家元好の抹茶を、伝来の黒織部釘抜文茶碗や、上田家茶事預りの12代野村餘休作と10代祖休作の御庭焼茶碗のデザインを再構築した新作茶碗でもてなす。
かつては上田家の屋敷があった城内で家紋のあるカフェが伝統文化を醸し、若い人や外国人観光客に人気という。
「カフェを通して地元の伝統文化を掘り起こし、新たな価値を生み出す。そして、世の中の動き、空気を感じ取る機会になる。外国人の表情にも興味津々。改めて考えさせられます」
被爆を免れた古文書を掘り起こし宗箇の武勲と茶の湯の関係をひもとくなど、広島の武家文化を体系化。どんな企画ができるか構想を巡らす。
カフェを運営するCOCON(中区)の神尾正博社長は、
「27年春に2期エリアの三の丸歴史館が供用開始する予定。文化と歴史が織り成すスペースとして厚みを増す。カフェが歴史をたどる憩いの場になり、思いをはせるひとときを楽しんでいたきたい」
いま世界が日本文化に関心を寄せている。都心のオープンな空間で広島の歴史や文化に触れることができる試みは街に元気を呼び込む大きなヒントになりそう。
江戸期の書院屋敷、茶寮を廊橋でつなぐ構成を再現した西区古江東町の上田家上屋敷は過去に国内外から多くの賓客を迎えた。宗篁さんは新たなチャレンジにも余念がない。ライブ配信によるウェブセミナーや動画も手掛け、今月28日は稽古場のあるNY、独、仏を同時に結び5回目となるライブ配信も計画。
「上田家に関する古文書を調査している。戦国を生き抜いた宗箇が何を語るのかDXで何かできないか考えている」
伝統文化の継承も時代とともに変遷し、新たな光を放つ奇貨としたい。
印刷物・印鑑制作を主体に創業157年の老舗、文華堂(中区国泰寺町)7代目の伊東由美子さんが11月2日に亡くなった。76歳。8日午前10時から中区竹屋町の西正寺で営まれた葬儀には、親交を深めていた多くの経営者らが駆け付け、早過ぎる別れを惜しんだ。
21歳で文華堂の創業家6代目と結婚。8人の大家族は女手に恵まれており、家業の職場に身を置く日々。子息3人の母、嫁、主婦業の合間を縫って仕事をこなしていた。しかし、夫が脳内出血で倒れた。48歳で社長に就く。その日から20年近く介護にいそしみ、懸命に経営を学んだ。
本誌の取材にも度々応じて飾り気なく、実直に胸の内を明かしてくれた。
「私が35歳の頃、採用した従業員との問題で苦しんでいた時と重なり、和菓子の叶匠寿庵を創業した芝田清次さんの講演会に参加した。これまで多くの経営者から、きれい事だけでは経営に収まらないよと聞かされていた。だけどどうしても納得できないでいたのに、芝田さんの話を聴いて、すっと合点することができた。何よりも人を信じる心の経営が大事だという。迷いが消え、自然と涙があふれてきた。それから1カ月もしない頃、お茶請けの菓子が語りかけてくる気がして、それが芝田さんの菓子と分かり、矢も盾もたまらず創業地の滋賀県へ向かった。亡くなられるまで7年間ほど通い、育てていただいた。人は自分を映す鏡。自分をごまかさない。心美しく、生きていると実感のできる経営を全うしたい。次々難題が押し寄せてくる。そうした日々の座右に『過去が咲いている今。未来の蕾でいっぱいの今。未来は自由、全て自分次第』の言葉を置いている。原因があって結果がある。故に日々精進と肝に銘じている」
何役だろうと全力を尽くす原動力はどこから湧いていたのか。三男の剛社長は、
「伊東家に嫁ぎ、父の顕が病に倒れて本意でなかったと思うが、代表取締役を引き受けることになった。決して暖簾を降ろすことはできない。その執念に突き動かされているようでした。不安を払しょくするため日々、学び続けるほかなかったのでしょう」
礼儀や礼節に厳しく、先代から縁を大切にする心を学んだという。
経営を譲った後、自らの経験を原点に〝参謀〟を育成する新会社を2020年12月に設立。とりわけ中小企業にとって社長を補佐する参謀役の存在は重要。女性社長の約3割が配偶者からの承継というデータもある。自分自身がかつては夫、社長にとって誰よりも心を許すことのできた参謀役だったのだろう。
中小企業の社長夫人は社長の予備軍といわれる。だが、自ら社長に就くと相談できる相手のいない心もとなさや漠然とした不安が突き上げてくる。参謀塾は女性の経営者、幹部を対象に4年間で約60人が学んだ。剛社長は、
「特に中小企業は経営者と社員の皆が一枚岩とならなければ成長発展はできない。そこに到達するまでの道がまさに経営そのものと決心していたのでしょう、近年はぶれることがなくなっていた。どんなに苦しくとも人として正しく行動していれば、必ず明るい未来が訪れると決め込んでいたように思う」
感動と感謝。人の心を信じた経営、人生から何事にも代え難い宝物を受け取ったのではなかろうか。
まっさらな市場を創造し、急成長を目指すスタートアップにとって、経営リスクは限りなく大きい。広島大学発の再生医療ベンチャーのツーセル(南区出汐)は、膝の軟骨を治療する製品の実用化を見据え、2017年から臨床試験(治験)に着手した。だが、2023年、ほぼ確信に近かった予想に反し、有効性の証明には至らなかった。それから事態は急転直下、会社は急速な縮小を迫られることになる。当時、取締役として治験を率いた松本昌也社長(39)は、
「治験に協力してもらった医師から良い感触を得ていただけに、まさかだった。それまでの〝いけいけ、どんどん〟から一転。会社をたたむことも頭をよぎった」
共同開発で提携していた中外製薬が早々に契約の解消を発表。長年積み上げてきた関係が崩れ、将来への展望も一瞬にして閉ざされた。
「ただ、いちるの希望は残っていた。主要な評価項目では期待を裏切られたが、副次的な指標で軟骨の再生が確認されている。治験の設計次第でまだ道はある、と信じて疑わなかった」
事業再生へ踏み出す第一歩は、人員整理。断腸の思いで社員への解雇通告を進め、次に求めたのは、人生を懸けて会社を起こした創業者と、プロ人材として迎えた前社長の退任だった。それが経営継続の条件の一つだった。
「私も覚悟を決めた。すぐに二人を訪ねたが、すんなりと事情を受け入れてくれた。その上で彼らから、製品開発の可能性を絶やさないでほしいと強く激励された」
23年11月に再起を懸け、37歳で社長に就任。そこから取締役の長谷川森一氏、塚本稔氏と共に、会社の立て直しへ模索を始める。
90人を超えていた社員数は十数人にまで減少。旧本社から退去し、資産の売却を進めた。スタートアップ事業の源泉である知的財産を高値で売却する案も浮上したが、踏みとどまった。
「明日の資金が足りず、数字と向き合う日々。解雇を告げた社員からは、なぜ私が、ときつく問われたこともあり、苦楽を共にした仲間を失う苦しい時期だった」
それでも耐え抜けたのは、創業から受け継いだ志があったからだという。
「前回の治験で、当社の製品そのものが否定されたわけではない。むしろ今後の可能性を示す結果とも考えられる。われわれの志は、現在の医療では治療法のない、または根治が難しい患者に再生医療という新たな選択肢を提供することにある。誇りを持って突き進もうと、社員にメッセージを送り続けた」
一番大事な士気を失ってはならない。社員と膝を交え、会社の存在意義、製品の価値を共有し、いつも希望を語り合った。
いま光が見えてきた。6月に科研製薬(東京)との間で開発の進ちょくに応じて最大70億円に上るライセンス契約を締結。再び薬事承認を目指すステージに立った。
製薬会社に依存する不安定な経営からの脱却を図り、治験で積み上げたエビデンスを活用して自由診療の領域にも参入した。北海道の医療機関で同社の幹細胞を使った再生医療の提供が始まっている。今期は2年ぶりの黒字化を見込む。松本社長は、
「研究は根気そのもの。失敗は必然であり、乗り越えた先にしか成果はない」
執念こそ源泉という。
広島から車で約2時間。この時間距離に〝広域観光〟の可能性ありと踏んだ。広島商議所・都市機能強化委員会の山下泉委員長(ゼネラル興産会長)は、さっそく「島根県石見地域との広域観光ルート形成へ向けた調査」をスタート。今後は広島、島根県と関係市、経済界の協力を得て実現へ動き出す。
2023年から委員会メンバーや広島市の観光関連担当者らと視察を重ね、現地自治体が抱える課題や広域連携の可能性などを探った。江津市・浜田市では温泉リゾートや日本遺産の石見神楽、はまだお魚市場などを見学。益田市は島根県芸術文化センターグラントワや萩・石見空港。
今年10月には大田市を訪ね、温泉街では全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された温泉津温泉や世界遺産の石見銀山などを視察。手応えを得た。本年度内に広島と島根両県に広域観光へ連携を働きかける。
広島には原爆ドームと厳島神社の二つの世界遺産があるが宿泊を伴わない、消費額の小さい通過型観光地という課題を抱える。平和記念資料館の入館者数は昨年初めて200万人を突破、広島市の入込観光客数は過去最多の1434万人に上り、うち外国人は251万人を記録。宮島の来島者数は過去最多の485万人。大いににぎわう。欧米豪中心のインバウンドで沸く。政策投資銀中国支店調査の人流分析で昨年度の広島の訪日外国人は138万人。岡山の38万人に比べて4倍近い。しかし1人当たり平均消費額は3万6534円にとどまり、岡山は5万3064円。大阪は9万円超と格段の差がある。
平均宿泊は広島の1.9泊に対し、岡山は2.2泊(24年度)。山下委員長は、
「待っているだけでは物事は動かない。こちらから出向くことで互いの意識、関係性も深まる。視察、対話、交流を通じて新たな課題、可能性が見えてきた。何としても自治体の関与が欠かせない。温泉や銀山、石見神楽などは外国人をひきつける。それぞれの地域、観光資源を生かし合うことで魅力は倍加する」
東京・新橋駅前で目にした岡山と鳥取の合同アンテナショップが発奮材料となった。広域観光は自治体の枠組みを越えた意思疎通、情熱が決め手という。
広島商議所には既に自治体を越えた広域連携の実績がある。広島〜山口の9市6町や商議所などでつくる「広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会(松藤研介会長)」が推進する体験型修学旅行の誘致活動だ。
08年度から商議所が音頭を取り、自治体の首長が参画して8地域協議会が体験の受け皿となり〝民泊〟事業を展開。19年度は過去最多の116校1万5093人を受け入れたがコロナ禍で一転。民泊受け入れ家庭へのテコ入れが課題となっている。対策として広域連携で1校を複数地域で受け入れる一方で、昨年から地域の本音を聞き、コミュニケーション不足を解消する座談会方式の交流会を開く。12月には安芸太田町、北広島町、庄原市で意見交換する。
災害時などの有事だけでなく、互いに懐に入る関係を日頃から築いておく。
「むろん行政任せはダメ。自治体連携のきっかけをつくりまずは、われわれが先頭に立って血の通う交流を深めんといかん。やればできる」
一段と熱意を込める。御年89歳。視線の先に広島の未来を描く。
とうとうガラスの天井を破った。日本で初めて、女性の総理大臣に就いた高市早苗さんの支持率が高い。いきなり外交に大奮闘し連日、ニュースや各局の報道番組で話題をさらう。隣りの国からX(旧ツイッター)に物騒な投稿があったという。しかし言うべきは言う。考え抜き、言ってはならないことは言わない。そこら辺りの加減が暫く、周囲をはらはらさせそうだ。何しろ近い国につわもの3人がそろう。
広島県知事選は11月9日の投開票で前副知事の横田美香さん(54)が初当選。中国地方初の女性知事が県政を引っ張る。呉市出身。東京大学法学部卒。1995年農林水産省に入り富山県副知事、内閣官房内閣審議官などを経て2025年4月に副知事。新しい風に期待したい。
広島経済界は6年ぶりにリーダーが交代した。11月4日にあった広島商工会議所の議員総会で、広島ガスの松藤研介会長を新会頭に選任。就任会見で「前例にとらわれることなく、常に新しい挑戦を続けた池田前会頭の広島活性化に向けた熱い思いを大切に継承していきたい」と意欲をにじます。副会頭は、ひろぎんHDの部谷俊雄社長、中国電力の皆本恭介副社長、オタフクHDの佐々木直義社長、福屋の大下洋嗣社長、マツダの菖蒲田清孝会長(再)。専務理事に西本尚士事務局長が昇格。女性初の正副会頭は、まだ先になりそう。
広島の県政と経済界リーダーが時を同じくし新旧交代。互いに言うべきことは言う。そうした意見交換を通じて広島を元気にする原動力へつなげてもらいたい。
松藤会頭は1959年11月27日生まれで南区出身。83年に関西大学経済学部を卒業し広島ガスに入る。秘書部長や取締役常務執行役員エネルギー事業部長などを経て2017年に社長、24年から現職。家族旅行やスキューバーダイビング、カメラなどの趣味がある行動派。社長就任時の本誌インタビューで、
「地域社会から信頼される会社を目指す。受け次がれてきた経営理念を踏襲していくことが使命だと考えている」
と実直である。
広島ガス出身の会頭は山内敕靖さん、深山英樹さんに続き松藤さんが3人目。戦後80年。歴代の会頭出身企業(社名・肩書は就任時)を順に並べると、
①中国電力(鈴川貫一社長)
②広島機帆船運送(中村藤太郎社長)
③広島銀行(伊藤豊副頭取)
④フジタ(藤田定市社長)
⑤中国醸造(白井市郎社長)
⑥広島総合銀行(森本亨社長)
⑦広島電鉄(伊藤信之社長)
⑧マツダ(河村郷四専務)
⑨中国新聞社(山本正房社長)
⑩中電工(村田可朗社長)
⑪広島銀行(山田克彦副頭取)
⑫広島ガス(山内敕靖社長)
⑬中電工(中野重美会長)
⑭マツダ(山崎芳樹相談役)
⑮広島銀行(橋口収頭取)
⑯中電工(池内浩一会長)
⑰広島銀行(宇田誠会長)
⑱広島電鉄(大田哲哉社長)
⑲広島ガス(深山英樹会長)
⑳広島銀行(池田晃治会長)
松藤会頭は歴代21人目になり、広島銀行や公益性の高い企業のトップがずらりと名を連ねる。
会頭は中国地方商工会議所連合会会頭、県商工会議所連合会会頭や日本商工会議所副会頭も兼務。物価高対応、中小企業向け伴走型支援などを優先課題に挙げる。27年完成へ建設中の中区基町の高層ビルへの移転を控える。持ち前の行動力に期待したい。
やっぱり新米はうまい。一時は店頭からコメが消え、政府の備蓄米を争奪する現象さえ呈した令和のコメ騒動はいま、ようやく落ち着きを取り戻してきた。だが、コメは増産か、減産か、主食は大丈夫かと不安は拭えない。
2024度の日本の食料自給率はカロリーベースで38%にとどまる。東証グロース市場に上場する医療関連情報サービスのデータホライゾン(西区草津新町)を創業した内海良夫さん(78)は、かねて食料安全保障の観点から輸入に依存する現状に危機感を募らせていた。
もっか「(社)若者米作り推進協会」の設立準備を進めている。狙いは、耕作放棄地が増える水稲栽培へ若者の参入を促し、担い手を育てるビジネスモデル構想を描く。
「実は数年前、コメ増産につながればと思い立ち、輸出も念頭に入れてカップヌードルのような世界に通用する〝即席むすび〟をメーカーと数種類ほど試作した。しかし、うまくいかなかった。それではと100ヘクタールほどの水田を確保して自らコメ作りを手掛けようと情報収集したが、毎年1万数千ヘクタールもの水田が消えていく現実にぶつかり断念した」
と明かした。
企業経営者として社会課題の解決を事業目的に据えてきた。データホライゾンでは呉市モデルともいわれる重症化予防事業を起点に、医療保険者が担う効率・効果的な保健事業・データヘルスを確立し、国の事業へと促した。
世界情勢が緊迫しようと、コメさえ自給できれば命をつなぐことができる。内海さん個人で発案した若者米作り推進協は次第に賛同者が集まっている。「国を動かす心意気で現状に風穴を開けたい」と志は高い。
ビジネスモデルは、農業高校の新卒者らに水稲栽培の研修を受けてもらい、会社勤め並みの年収を2年間支給。その間に農業経営者として自立を促す。その原資は個人で賄う予定。水田は各地域の農地中間管理機構(農地バンク)の仲介で原則、賃借する。何よりも若い人が水稲栽培を希望し、進路にコメ作りを選びたくなる土壌を用意する構え。
八十八の手間がかかると言われるコメ作りだが、いまやロボット農機が登場。国策としてスマート農業が導入され始めた。内海さんは第一人者の北海道大教授や先進自治体の岩見沢市長らを訪問し、自らが果たすべき役割が次第に明確になってきたという。
広島県も重労働の追肥作業にドローンを活用し、成果を上げる。しかし広大な農地で生産性の高い北海道とは異なり、広島は中山間地が7割を占める。専業農家の損益分岐点の水田面積は7〜8ヘクタール。小規模では農機具や肥料などのコストに見合う収益を確保できない。もうかるコメ作りと程遠く、新規参入を阻む。既にコメ作り農家の平均年齢は70歳を超える。ここ数年が水田継承のラストチャンス。
9月9日、農林水産省は10年後に担い手不在の農地を都道府県別に初めて集計。拡大する耕作放棄地は西日本に多く、広島県は7割近い。北海道でさえ水稲の新規就農は昨年、わずか5人だった。
古事記や日本書紀に日本の美称に「豊葦原之瑞穂国」とある。葦がしげり、稲穂がみずみずしく育つ豊かな国という。その瑞穂の国の水田を無くしてはならない。決してコメ作りを他人事で済ませてはならない。いまや一人一人の覚悟が求められていると内海さん。まだ間に合う。
戦いに明け暮れた戦国時代が終わり織田信長、豊臣秀吉を経て徳川家康が幕府を開いた江戸時代は、世界にまれな天下太平の世だったという。
広島城下の地誌「地新集」に、江戸初期に始まった神輿行列「通り御祭礼」の様子を伝えている。
「町々両側に拝見の男女家毎に充満し、近国遠在よりも承り伝えてこの御祭礼を拝み奉らでやむべきかはとあらそいあつまるもの幾十万ということを知らず」
次第に町人も行列に加わるようになり、大いににぎわったようだ。
御祭礼は家康の没後50年(1666年)に始まり、その後も50年ごとに4回まで続いたが幕末の動乱、戦争、原爆によって途絶えていた。だが、経済界や市民らが協力し2015年、200年ぶりに復活。奇跡的に被爆による消失を免れた約1トンの大神輿(広島市重要文化財)を100人の肩、両手で担ぎ、総勢550人の時代行列が東区二葉の里辺りを練り歩いた。伝統芸能の花田植えや子供歌舞伎なども彩りを添えた。来場者は約7万人。
被爆で多くの人々が亡くなり、多くの伝統行事も途絶えたが、はるか時代を超えて広島城下町の華やかな光景をよみがえらせた意義は大きい。わが町の歴史に思いをはせた人もいたのではなかろうか。
次回の開催は2065年になるが、前回の御祭礼からまだ10年の今年、伝統継承への願いも込め、御祭礼を模した「広島神輿行列」を11月9日(日)に繰り広げる。
警護御先手足軽、町奉行、御弓、御鉄砲、拍子木打、御長柄、町年寄、壬生の花田植、麒麟獅子、御庭払、朱傘、太鼓・笛の楽人ら時代装束をまとった総勢約300人で、350メートルに及ぶ行列をつくる。
当日は、二葉の里の広島東照宮境内で出発式を済ませた後、午前11時ごろ饒津神社へと向かう。およそ3時間にわたり大神輿を担ぎ、華やかな石引台花車の山車を引いて東照宮から饒津神社までの往復約1・5キロを歩く。
共催事業もある。「広島江戸祭2025」は東照宮境内で伝統文化ステージ、文化体験ブース、飲食ブースなどを設ける。東照宮境内前のシリブカ公園で物販、飲食ブースなどを開く。
主催は、広島神輿行列実行委員会(山根恒弘委員長=ヤマネホールディングス会長)と中国新聞社。特別顧問に浅野家18代当主、徳川宗家19代当主、上田宗箇流家元を招く。副委員長は久保田育造(久保田本店会長)、山本一隆(中国新聞社特別顧問)、久保允誉(エディオン代表取締役会長)、長沼毅(長沼商事代表取締役)、久保雅義(サンフレッチェ広島社長)、平尾圭司(東照宮世話役会会長)、三戸皓一(神輿頭東照宮世話役会副会長)の各氏が名を連ねる。
長沼商事の先代社長で、東照宮責任代表を務めていた長沼博さんらが尽力し、1998年11月に御祭礼に倣って神輿行列を復活。実行委員会の副委員長を務めた長沼さんは2015年7月7日に他界し、楽しみにされていた、その年の御祭礼を見ることは叶わなかった。
広島市文化協会の山本一隆会長は、
「広島の秋を代表する神輿行列に定着すると、多くの人を集める観光資源として価値は大きい。世界情勢が緊迫する中、天下太平の歴史絵巻から平和を願う機会としたい」
わが町の伝統文化を再現するひと幕を見逃す手はない。
芭蕉は「不易流行」という俳諧の理念を示した。企業経営も変えてはならない(不易)ことがあり、一方で時代に合わせて何を変えていく(流行)のか、その両立を見極める岐路に立つことがある。
来年で創業170年を迎える、千福の醸造元の三宅本店(呉市)は祖業を守り続けながら、日本酒の消費量が減り続ける時代にどう対応するのか厳しい選択を迫られていたが、洋酒部門へ打って出る決断をした。10月6日、自社蒸留所「セトウチディスティラリー」で初めて、ジャパニーズウイスキー「瀬戸内 オロロソシェリーカスク」の発売に踏み切った。
キリンビールで営業を経験した後、2017年に28歳で創業家である家業に戻った三宅清史統括本部長(35)は、
「従業員が先々、安心して働ける環境をつくるには、まず経営の方向性を明確にしなければならないと痛感した。そこで着手したのは事業の断捨離。不採算商品や取引を整理し、主力の千福を中心に経営資源を集約していった」
ドラスチックな変化を受け入れられずに去った社員もいたが、会社が守るべきものを明確に示し、曖昧だった方向性に一本の筋を通した。
広報改革にも着手。テレビCMなどで年間数千万円に上っていた広告費を削り必要最小限の媒体に絞った。浮いた資金を商品開発に回し、新たな市場開拓へ力を注いだ。
こうして生まれた低アルコール飲料「瀬戸内蔵元ゆずれもんサワー」などのRTD商品は、日本酒になじみの薄い層に広く浸透し、売上構成にも変化が生まれた。
社内では「これ、いるんかな」の合言葉で改革に着手。仕事の目的を問い直し、当たり前を疑う。その視点が業務の隅々へ浸透した。経理に総務の知識を学ばせるなど、部門を越える取り組みから始めた。働く意識も変わった。年功より成果を重んじ、挑戦すれば評価が上がる。現状維持に甘んじれば評価が下がる人事制度に移行。むろん当初は職場に大きな戸惑いもあったが、やがて自ら考え、行動する気風が根付き、新しい息吹が生まれた。
採用面にも波及。今年4月に日本酒の醸造現場に大卒の女性が新卒で加わった。伝統に安住せず挑戦を続ける企業姿勢が、次の時代を担う若い人材を引き寄せた。
売り上げが低迷したコロナ禍の20年、既存の焼酎用設備と清酒造りの発酵技術を応用して蒸留酒事業を強化。21年には瀬戸内の果実を生かす「クラフトジン瀬戸内」を発売して手応えを得ると、長期熟成を前提としたウイスキー造りへ挑む決意を固めた。
23年には京都大学工学部大学院で研究を積んだ弟の清隆さんが戻り、ウイスキー造りに参画。蒸留器の調整や温度制御の改良など技術の安定化を担い、生産体制を築き上げた。また3年熟成が条件のジャパニーズウイスキー発売を見据えて0、1、2年の熟成過程を味わえる酒を発売。購入者を対象に月2回の有料工場見学会を開き、2年間で約400人に現場を体験してもらって信頼を醸成した。
25年3月期の売上高は5期ぶりに10億円台へ回復。清酒の需要が落ちる夏場にもジンやウイスキーといった新商品群が売り上げを支えた。試行錯誤の先に生まれたジャパニーズウイスキーは単なる新商品ではなく、社内改革の成果を映す結晶でもある。不易流行をとことん突き詰めた決断が、未来を開く。
中小企業団体全国大会が11月12日、中区基町の県立総合体育館で開かれる。全国に約3万組合を擁し、当日は各地から約2000人が参加する予定だ。今回で第77回を重ねる。広島で開く全国大会は65年ぶり、2回目。
団体中央会の全国組織と広島県中小企業団体中央会(伊藤学人会長)の共催。全国の意見をとりまとめ、国や関係方面へ表明し、併せて組合活動の功労者を表彰。同体育館B1で物産展も催す。
大会を終了後、リーガロイヤルホテルに会場を移し、約1000人が参加する「交流会」を開く。元総理の岸田文雄衆議院議員の来賓挨拶も予定。かつてない大規模な交流会を計画する。伊藤会長は、
「全国各地からさまざまな業種の人が大勢集まる、せっかくの機会を逃す手はない。顔を合わせて話すうち新しい角度、接点を発見し、思いがけないビジネスチャンスをつかんでもらいたいと考えた。むろん広島を好きになり、全国各地に広島の良さを宣伝してもらいたい」
参加者は約30分ごとに席を移動し、名刺交換や対話の機会を促す。日常を離れて出会った人、その地での出来事は印象に残りやすい。今後は広島方式の交流会が定着し、商取引のマッチングや人脈づくりの場へと全国に広がっていくきっかけになれば、その効果は大きい。
県中小企業団体中央会は12月に創立70年を迎える。会員組織で運営。経済団体としてはやや地味な存在だが、事業協同組合を中心に商店街振興組合や企業組合など会員は547組合に上る。組合に加入している企業を合計すると約3万200社になる。団体中央会の主な業務は、個々の事業者が団結、集団化することにより経済的、社会的な地位向上を図ろうとする中小企業の組織化(組合設立)を指導するほか、設立後も各組合の円滑な運営などを後押ししている。
いまはナンバーワン、オンリーワンが評価されるようになり、時代の流れが個へと振れている。革新的な技術、ビジネスモデルで短期間のうちに急成長を目指すスタートアップが脚光を集める。中小企業が助け合う組合の在り方を見直し、団体中央会も新たな運営活動が求められている。
1990年の905組合をピークに減り続け、35年間で358組合が去った勘定になる。しかし全国ネットワークを擁する団体中央会の情報力、異業種のノウハウなどにデジタル技術がかみ合うと、新たなビジネスチャンスが生まれる可能性も秘めている。ひとつ奮起してもらいたい。
歴代会長の在任期間が比較的長期に及んでいることも、ひとつの特徴といえよう。初代の長尾次郎さん13年、2代目の筒井留三さん16年、3代目の内海得治郎さんは6年だったが、4代目の伊藤学さんは体調を崩して辞任された2003年5月まで13年に及ぶ。5代目の白井隆康さんは5年、6代目の櫻井親さんは4年、7代目の伊藤学人さんは12年に就任以来、今年で13年になる。遺伝子のせいか親子共に会長職を担う。
伊藤さんは広島で開催された全国大会の世話役を多く経験してきた。広島青年会議所時代は全国大会懇親会担当委員長、全国法人会総連合の青年部会連絡会議実行委員長、国内最大級の全国菓子大博覧会は大会事務局長をこなし、大成功へ導いた。全国大会での出会いを縁に、いまも交流を続ける人は多いという。