広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2025年6月12日号
    何事も自分次第

    元気で、生涯現役が一番いい。好奇心いっぱいに好きな仕事をするから、いつまでも元気なのだろうか。むろん経済力にも左右されるが、定年後に悠々自適で家庭菜園もいい。だが、定年後に転職。仕事の経験、能力を生かし、再雇用された職場で大きく花を咲かせる人もいる。
     ディー・エヌ・エー連結子会社でヘルスケア事業のデータホライゾン(西区草津新町)の顧問を務める吉原寛さん(80)は、大手製薬メーカーを退職後、関連会社などを経て63歳で同社へ転職。創業者で当時社長だった内海良夫会長から入社早々、大きな使命を託された。
    「わが社はITの技術力を活用して医療分野へ本格参入したい。そのために医療関連領域のレベルアップを図ってほしい」 
     縁あってシステム開発会社に飛び込んだが、まったく畑違いで一体何をすればよいのか、戸惑いがあった。しかし創業者のその言葉が響いた。その日から予防医学領域の情報収集にフォーカス。いつしか会社にとって、いなくてはならない存在となった。
     研究者になりたかったが京都大学卒業後、製薬メーカーでは新薬の営業を後方支援する部署などで活躍し学術部長を最後に定年。大手ならではの雇用環境や福利厚生になじんだ会社生活から一変した。退職後に医学出版、治験支援の会社に勤めたが企業文化の違いを痛烈に感じたという。
     転職を重ね、ようやく縁に出会った。内海さんの目利きか、一言でやる気にスイッチが入った。まずは広島大学大学院に聴講生として1年間通い予防医学指導士、その後、健康アドバイザー、医療事務管理士、メンタルヘルス推進指導員の資格を次々に取得。
     製薬メーカー在籍中は薬剤師、衛生検査技師、英語検定を、転籍後は千葉大学大学院の社会人院生として業務の傍ら研究に励み、薬学博士号を取得している。その向学心は衰えず、昨年10月には3年越しの挑戦で医療情報技師認定を受ける。医療情報システムの開発・運用・保守や情報の利活用などを推進する医療分野専門技師として居場所を見つけることができた。
    「私に託された使命は何だろうかと考え続けた。当社は医療情報データを活用し、健康寿命の延伸と医療費適正化に役立てようとまい進。いまは主力のデータヘルス関連事業の中核となる糖尿病性腎症の重症化予防関連事業を重点目標としている。広島大学の予防医学指導士の講座は本来、看護師や保健師、管理栄養士を対象としているが、やる気満々ですと猛アピールし、受講にこぎ着けた。主力事業に役立つために何が必要か。そこから行動に移し、その都度にチャレンジしてきた」
     社内で、生活習慣病や糖尿病などに関する基本的な知識を余すことなく伝えている。定期的に学会にも足を運び、最新の医療情報を収集。フィードバックしている。
     一定の年齢を超えてからは毎年、今年で契約終了かと備えていたが、傘寿を迎えて再雇用されることになり、一番に私が驚いたと話す。現在は週2〜3日ペースで必要に応じて出社。元気だ。
     定年退職後の人生をどう描き、どう生きるのか。全ては自分次第。自分で切り開く心構えと決意さえあれば、好きな道を歩むことができる。吉原さんは「若い人たちと働くと多くの学びがあり、パワーももらう」と屈託がない。さて、どうするがいいか。

  • 2025年6月5日号
    ちからの底力

    おいしいものを食べてもらいたい。しかし良い材料を使えば値段は青天井。安さを追うと味が落ち、客は離れる。ふらっと寄って安心して注文し、いつもの味に満足し、また来ようと思ってもらうには「材料の品質とコストとのあんばいが決め手」になる。飲食店にとって、本能ともいえる経営感覚なのだろう。
     市内中心にうどん・中華そばと和菓子の店をチェーン展開する「ちから」(中区)が6月10日、創業90周年を迎える。京都の餅と麺類や丼物を出す大衆食堂「力餅」で経験を積んだ創業者の小林角蔵さんが、のれん分けして店を構えた実兄に影響を受け、同じ道へと進んだのが始まり。
     大阪の店で餅の製造法やうどんだしの取り方を覚え、広島へと進出。物資の乏しい戦時中も入手できる材料で乗り越え、決して化学調味料は使わない。昆布や削り節など天然素材に徹しただしで、ちからの味をつないできた。4代目の小林正記社長は、
    「誠実に、うそをつかず、真面目にやってきた。むろん、おいしいのが命。ちからは決して高級志向ではない。だが二、三代にわたり通ってくれる顧客も多い。学生時代から通い、その後に社長になっても顔をのぞかせてくれる。商いに偽りがないと分かっていただいているのではないかと思う。適正な価格とおいしさ。これがなかなか難しい」
     しかし今年1月、ちからの味を支えてきた利尻昆布の水揚げ量が壊滅的となり、必要な使用量の確保が困難になった。何とか味を維持しようと1月22日の製造分から、真昆布を25%配合するだしに切り替えた。HPで詳しく説明し情報開示している。
     うどんだしは、利尻昆布と京都の老舗削鰹節製造卸売の福島鰹から仕入れる専用の削り節と、1935年創業から使い続ける兵庫の龍野しょう油を使う。だし職人5人衆が変わらぬ味を届ける。2010年からモンドセレクション優秀品質賞を連続受賞。
    「客観的にだしを評価してもらうことで何が足りないか、どう改善すればよいか気づかせてもらえる。応募の目的は果たして味が維持できているかを確認するため。健康志向などトレンドを意識しても基本を変えるつもりはない」
     人気の肉うどんに使う牛肉の部位も、コストはかかるが肩ロースにこだわる。
     現在店舗は市内に26、呉と廿日市で計28店を配す。中区の工場から、朝作ったものをその日のうちに各店に配送する。味を落とさないため出店エリアを広げるつもりはない。規模拡大を経営指標にせず、味の維持に軸足を置く。
     一方で、長く働いてほしいと雇用を維持する制度へ見直しを図った。4月から評価制度を導入し、給与に反映。フルタイムで週5日以上働く正社員が30人に対し、時給で働くパート従業員は220人に上る。その85%が女性。子どもの急な病気などにも、休みが取りやすい職場環境が定着し、支持されていたが、有休に対して欠勤の扱いが不明瞭になっていたという。
    「ちからの企業文化と風土になじんでもらうことが新制度の一番の目的。数年前からより意欲の湧く評価制度を考えていた。ようやく始動する」
     調理場は男性が受け持っていたが、いつの頃からか女性も当たり前に。コロナを契機に接客も会計も一人三役を明文化し、生産性の高い店舗運営を軌道に乗せた。
     老舗が姿を消す中、末長く看板を守り続けてほしい。

  • 2025年5月29日号
    軍艦島の写真展

    かつて人の営みがあった建造物が時の経過とともに朽ち果て、当時の面影を残しつつもまったく異質な景色が全国各地に点在する。変わる前と後が重なり合う「あわい」の時をどう捉えるか。その時を写真に残した特別展「軍艦島と雜賀雄二」―副題「死を生きる島」を撮り続けた写真家―が呉市立美術館で開催されている。6月15日まで。
     長崎市野母崎沖に浮かぶ通称〝軍艦島〟の端島はその異質な風景の一つ。1810年偶然に発見された石炭から端島の歴史が始まり、海底炭鉱として日本の近代化と戦後の経済成長を支えてきたが1974年1月閉鎖が決まる。
     周囲1・2キロメートル、面積6・3ヘクタールに炭鉱施設と住居がひしめき最盛期に東京都心部より人口密度が高い5300人が暮らしていたが閉鎖とともに無人島になった。その年の1月にテレビ報道で知り、カメラを手に軍艦島に降り立つ。
     雜賀氏(74)は12、3歳の頃、百科事典で軍艦島の存在を知り、その特異さに強く引かれた。閉鎖前の姿を一目見ておきたい。大学在学中に独学で写真を学び、閉鎖前年にキリシタンが住む長崎の島に渡り撮影するようになっていた。軍艦島へ毎日のように通い、住民らと交流しながら無人となる4月20日までの日々をカメラに収めた。 以降もたびたび訪れ風化で変貌する姿を撮り続ける。
     同美術館が1996年度に雜賀氏の作品「月の道」3点を購入した。その作品は月の光の下、長時間露光で写し取られた海と岸壁が不思議な異世界に誘う。その後、2022年の開館40周年を前にコレクションの拡充に踏み切ろうとした矢先、雜賀氏からプリントをまとめて譲りたいという意向が届く。まさに絶妙のタイミングになった。横山勝彦館長は、
    「呉市は旧海軍の軍港都市として発展し、戦後は平和産業港湾都市に転換されて復興した歴史を持つことから、当館は海と港をテーマとする写真作品を収集。20年には海と共に生きる―をテーマに戦後を代表する写真作家18人のコレクション展を開いた。月の道3点も展示。チケットにも採用し、好印象を持っていただいていたようです」
     1987年には写真集「軍艦島―棄てられた島の風景」で芸術選奨新人賞を受賞。高く評価されている。     
     5月18日、雜賀氏に出展作品に関するエピソードや写真家としての活動について語ってもらうトークイベントがあった。美大の教授も務め、大勢の学生の前で磨いたトークは時には笑いを取り、会場いっぱいに埋まった参加者を引き込んだ。終了後、大分から駆け付けたという男性が軍艦島で生まれ11歳まで暮らしたと明かし、「住んでいた31号棟(RC造5階建て)が鮮明によみがえった」と振り返った。写真の風景がよほど感慨深かったのだろう。
    「こうした予期しない出会いが美術館にあることを思えば作品鑑賞だけでなく、いろんな企画にチャレンジしていく価値があり、公立美術館として新たな可能性を広げていきたい。美術館を通じて、呉の良さ、歴史、風景の魅力も広く発信していきたい」
     と意欲をにじます。昨今の廃墟ブームのはるか前から軍艦島を見続け、作品にしてきた雜賀氏は、
    「軍艦島のファンは全国に散らばっている。微力ながら私の作品が全国から呉に足を運んでもらえるきっかけになればうれしい」

  • 2025年5月22日号
    創建イノベーション

    住宅業界が重大な転換期を迎えている。4月末に国土交通省が発表した2024年度の新設住宅の着工数は81万6018戸。前年度比2%増と3年ぶりプラスに転じたものの、06年の約129万戸に比較すると約60%の水準まで激減している。何より人口減少による影響が大きく、さらに業界の生き残りを懸けた厳しい戦いが続く。
     12月で創業40周年を迎える創建ホーム(竹原市)は24年12月期で売上高84億4000万円を計上。これで4期連続増収とし、過去最高をクリアした。ハウスからライフへ。新たな旗印を掲げ、リフォーム分野や家具・インテリア販売のほか、外構・エクステリア工事などの周辺事業も手掛ける。水回りなど小中規模の改修工事を手掛ける子会社の住宅工房創(東広島市)は前年比9.8%増の5億2000万円を売り上げる。衣食住に視野を広げ、今期決算でグループ年商100億円突破を目指す。
     どんな創意工夫があったのか。創業者の山本静司会長(78)は、1985年に人口が増え続けていた東広島で創建設工業を起こす。87年には竹原に創建ホーム本社を構える。数字はむろん、小さな出来事もおろそかにすることがなく、隅々に目の行き届く経営を心掛けた。130人ほどいた社員の日々や週間の行動予定などの確認を一日たりとも怠ったことがないという。よほど基本動作を徹底したのだろう。創業来、黒字を続ける経営基盤を築き上げた。
     2023年12月に2代目を継承した長男の山本慎社長(52)は、
    「役員から新入社員まで全員が一丸になり、良い緊張感の中で責任感を育んできた。こうしたたゆまない日々の積み重ねで創建ブランドを創り上げることができたと自負している。累計7500以上に及ぶ顧客の思いを一つ一つ形にしてきた経験は、何事にも代え難い財産です」
     創業精神を引き継ぎながら40周年を「第二創業期」の出発点に位置付ける。
    「時代のニーズがどこにあるのか洞察し、そこに事業を合わせていく工夫、変わる勇気を持つことが大切と教わってきた」
     県央に位置する東広島を重要拠点に据え、本部移転のプロジェクトを推し進めた。21年に開業した複合施設「ライフ&カルチャーマーケット L/C」はリフォームやインテリア、エクステリアまでワンストップで提案できるようにした。衣食住を巡る多様なイベントも開く。幅広い顧客との接点づくりに生かすとともに人材の確保、育成にもつなげているという。
    「本部と複合施設でしっかりとした営業体制を構築。支店を置く広島や竹原、三原、福山エリアに波及効果が生まれると見込んでおり、徐々に成果が見えてきた」
     24年の供給数250戸のうち、東広島は97戸の実績を挙げる。21年立ち上げたブランド「創建リフォーム」は定期イベントなどで認知度を高め、売上高11億8000万円を計上。家具販売は法人営業にも取り組み、1億4000万円を売り上げた。
     誰もが意見を出しやすい職場環境にも心を配る。役員とワンオンワンで面談をする機会を年数回設ける。新卒・中途採用を合わせて期末までに35人増のグループ総勢200人を計画。若手の役員登用も進める。高々と〝創建イノベーション〟を掲げ、第二創業へ踏み出した。

  • 2025年5月15日号
    歴史知り、誇り育む

    鯉城とも呼ばれる。カープのほか、その名を冠した会社や商品も多い。広島城を築いた毛利輝元没後400年を記念し命日に当たる4月27日、城の二の丸から南側の緑地帯に建立された輝元公銅像の除幕式が開かれた。
     広島の南北を貫く鯉城通りと東西をつなぐ城南通りが交わる堀端に立つ。台座も含めて約4㍍の高さ。その姿は築城の地と定めた広い島を指差す。天正17年(1589年)の頃、37歳の表情は決意と意欲を示し、りりしい。
     二葉山、牛田の見立山、己斐の松山(旭山神社)に登り、見渡す遠浅の海に浮かぶ江波島、吉島、仁保島、比治島などのうち、最も広い島を選んで広島と命名。ここに流通、経済の拠点を備える構想を描いていたという。やがて町を形づくり発展の礎となった。
     父隆元の急逝により、わずか11歳で毛利家14代当主に就く。祖父元就の死後、毛利両川と呼ばれる叔父の吉川元春、小早川隆景に補佐されて中国地方9カ国112万石を領した。だが、1600年の関ヶ原の戦いで敗軍となり、長州萩へ減封された。築城から約10年で広島を去る。 
     山口県の萩城跡には輝元の座像がある。大阪城に豊臣秀吉、熊本城に加藤清正、仙台城には馬上に雄々しい伊達政宗の像がある。昨夏、輝元公銅像建立プロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディングなどで資金調達に奔走した市民団体「広島城天守閣の木造復元を実現する会」の大橋啓一会長(ひろしま美術研究所校長)は、
    「私も含め、戦後生まれは8月6日の被爆を記憶に刻み、平和の尊さを学ぶが、それ以前の広島の歴史にやや関心が薄かったように思う。歴史を知り、郷土に誇りを持つことは大きな自信につながる。どこの国、地域だろうと生まれ育ったところの歴史を大切にしている。いまは国内外から広島に多くの観光客も訪れるようになり、郷土愛とともに歴史を語ってほしい」
     資金はクラウドファンディングと県内中心に69社と個人200人から目標の1000万円を大きく上回る約2500万円が集まった。残った支援金は広島城天守閣の木造復元へ向けた活動に役立てたいとし検討する。
    「都心部の再開発が進展し、広島城の周辺でもサッカースタジアムやゲートパークが整備された。都市機能の重層化とタイミングを合わせて広島が歩んだ歴史をひもとき、いまと重ね合わせながら時代を超えた街づくりの夢を描き、誇りを育んでもらいたい」
     輝元像の西側に位置する広島城三の丸の整備(市のパークPFI事業)に取り組む11社共同事業体「広島城アソシエイツ」代表法人の中国放送の宮迫良己社長は、
    「広島は築城から約350年後に被爆で焼け野原となり、その後輝かしい復興を果たした。そして戦国時代からの激動期を生き抜いてきた毛利家代々でつなぐ文化や郷土愛を教訓とする輝元公銅像をランドマークとし、永く後世へ伝えてもらいたい」
     3月末に開業した三の丸1期商業施設には武家茶道・上田宗箇流監修のSOKOカフェがオープンした。カジュアルな空間でお点前体験などを通じ、武家文化に触れることができる。来年には歴史館が開館する。広島城の歴史や近世の広島の歴史・文化をテーマにした新たな博物館施設になる。歴史や文化があるから人の暮らしがあり、新たな歴史を刻む価値がある。

  • 2025年5月1日号
    団地中心部を改造

    その時の、市の着眼に間違いはなかった。昭和時代に17年をかけた「西部開発事業」は1966年に庚午、草津、井口沖の海面埋立事業に着手し、82年に竣工。過密化する都心の再開発や交通渋滞の緩和、流通機能高度化を目的に事業費1056億円を投じ、総面積328ヘクタールを造成した。
     埋立竣工後、地区内の事業所数と従業員数は大きく増えた。2021年には事業所数856、従業員数1万9328人(事業所統計より)。西日本有数の流通団地へと発展を遂げる。
     地元卸を中心に組合員203社を擁する(協)広島総合卸センター(伊藤学人理事長)が今年12月で創立50周年を迎える。国の高度化資金を導入する集団化事業で団地づくりを引っ張ってきた。竣工から40年余。施設老朽化が進み、16年に「卸団地の将来に向けての提言書」を市へ提出。10年間にわたる議論を重ね、ようやく3月に市が「商工センター地区まちづくりビジョン」をつくった。
     団地中心部の広島サンプラザ(経過年数39年)、市中小企業会館(同45年)と総合展示館(同44年)などの主要施設を改修して再配置する。広島の「西の玄関口」として「MICE(マイス)」施設を新設するほか、陸と海の玄関を備える交通機能の強化、国内外から観光客を呼び込む、にぎわい創出の三本柱を建て、一体的な街づくりを目指す。
     まず、耐震性が確保されていない中小企業会館・総合展示館の移転更新のため「MICE施設」(展示室約6000㎡と会議室約800㎡)を第五公園へ整備し、その後に展示館解体。同公園を改修。中央卸売市場に併設するにぎわい施設の整備と歩調を合わせて進め、おおむね10年以内に整備する。展示室、会議室規模は需要調査を踏まえて算出。今後の需要に応じながらMICE施設の拡張を検討する。
     次に、MICE施設による民間投資誘発などを踏まえ、ホテルなどが整備されるタイミングで中小企業会館・本館を解体。「ホテル」などの整備後に広島サンプラザ(本館)を解体。おおむね15年以内の整備を見込む。
     地区内の事業者や住民が日常的に交流する「アクティブセンター」などを一体的に整備。ペデストリアンデッキは駅からMICE施設→ホテル→草津漁港へ延伸する。
     市が進める広島型の新たな公共交通システム構築の動きと歩調を合わせながらヒトやモノの動きを支える交通機能づくりに取り組む。地区内の多様な交通モードの利用や地区外施設とのアクセス、飲食店や宿泊地などを含めたシームレスな移動を実現するMaaSの取り組みを推進。自動運転や超小型モビリティ、「空飛ぶクルマ」などの新技術を活用した交通DX・GXについても関係者と連携しながら将来的な課題に挙げる。
     草津漁港へ観光船を誘致して海からのアクセスを確保しにぎわい創出につなげる狙いだ。まずは宮島や原爆ドームなどを結ぶ社会実験に取り組み、次に不定期観光船の運航によって周辺観光地とのネットワーク拡大を図る。来街者向けの飲食・物販施設などが立地できるようAゾーンの規制緩和を必要に応じて段階的に取り組むとしている。
     時代が移り、比較はできないが、17年で1056億円を投じた西部開発事業。完成から40年余が過ぎた。官民一体で知恵を絞り、商工センター地区が一層元気になる仕掛けを講じてもらいたい。

  • 2025年4月24日号
    私たちは本が好きです

    今年の本屋大賞に、阿部暁子さんの著書「カフネ」(講談社)が決まった。全国の書店員が投票し、いま、一番売りたい票を集めた。先細る出版業界を現場から盛り上げようと2004年に同賞を創設。ベストセラーが約束される芥川賞や直木賞に匹敵するほど話題を呼ぶようになった。
     広島新駅ビルの商業施設ミナモア3階西館に廣文館(中区中町)が新スタイルの書店「ブック ギャラリー コウブンカン」を出店した。店頭を行き交う人を誘うように売り場の中心にギャラリー空間を配し、周りを本が囲む。駅最寄りの書店などではコンパクトなスペースに話題の新刊やビジネス書、学習図書などがバランスよく並ぶが、あえてギャラリー空間を設け、勝負に出た。〝毎日イベント〟を掲げ、多くの人が立ち寄り、集い、出会いが生まれる書店を目指す。丸岡弘二取締役COOは、
    「本離れが進み、このままでは厳しいという危機感があった。どうすれば本屋に立ち寄ってくれるのか、本屋の書棚を巡りながら目当ての本、読みたい本を探す人が戻ってきてくれるのか。ここ数年、ずっと考え続け、これからの時代が求める本屋のあるべき姿を追い求めてきた」
     中区の金座街本店を閉め、駅ビルのミナモアへ出店を決断。その時からギャラリーを併設する本屋の夢が具体化へ歩み出したという。
    「本を離れた人、本になじみの薄い人に本を好きになってもらうために、本屋に何ができるのか。本来、みんなが持ち合わせている知的好奇心を刺激しながら専門的な知見を豊かにしてくれる書籍の品ぞろえに努め、広島の底力を引き出し、元気にする役割を果たすことができれば、とてもうれしい。廣文館のブックギャラリーが、地元で活躍する作家やクリエイターを応援する晴れ舞台の役割を果たし、起業家を応援するスタートアップの踏み台となれるよう、さまざまな企画をぶつけていきたい」
     前身の広文館は1915年11月に創業し、48年に法人改組。2018年11月に分割設立された廣文館に事業を譲渡し21年11月、京都を拠点に全国展開する大垣書店グループとして再スタートを切った。現在、広島の商業施設内中心に11店舗を擁し、学校や企業・団体向けなどに卸売りも手掛ける。
    「書店員はみんな本が好きです。しかし日々の作業に追われると初志を忘れがち。経営が厳しい中、辞めずに頑張ってくれた書店員はリスタートの意味をしっかり受け止めている。〝私たちは本が好き〟という廣文館の信条を再確認するとともに業務の効率化、合理化を図って原点に立ち戻る環境が整ってきた」
     大垣書店は全国に50店以上を展開。ギャラリーなどを設けた複合型は麻布台ヒルズ店、京都本店、堀川新文化ビルヂングなど4店。グループ代表の大垣守弘さんは、
    「本は文化芸術、スポーツ、ビジネス、学術などあらゆる分野に広く、深くつながる。さまざまな企画があるギャラリー空間に触発され、新たな発想を広げてもらいたい」
     ネット販売や電子書籍が普及する一方で、書店の減少に歯止めがかからない。2月時点で全国の書店数は1万471店(日本出版インフラセンター集計)。10年前に比べ489店減った。県内は昨年12月で219店。10年前に比べて118店減った。巻き返しを期待したい。

  • 2025年4月17日号
    わがまちスポーツ

    野球談義が楽しい季節。カープの勝敗に一喜一憂し、大リーグ大谷選手の活躍にも心が躍る。ドジャースの本拠地は連日満員。チケットが高騰し、スタジアムには大創産業など日本企業の広告が並ぶ。そんな米国に比べて日本のスポーツ産業は民間投資やマーケットが成熟しておらず、伸び代は大きいという。
     広島県庁に事務局を置くスポーツアクティベーションひろしま(SAH)の代表に2月1日付で着任した秦アンディ英之さん(52)は、
    「有望な子どもが一流の選手になるまでに、たくさんのお金がかかる。練習環境の整備を含め、スポーツ振興には企業からの投資が欠かせない。メジャーなスポーツだけでなく、さまざまな競技に目を向けてもらいたい。特に中小企業ではスポーツ投資のリターンを明確化できていないためか、欧米の市場規模と大きな差が生まれている」
     秦さんはJリーグ特任理事やプロバスケチームGMなどを務めた後、スポーツデータ調査分析会社を経営。ソニー勤務時代にブランドマネジメント部でグローバル戦略構築を担当した経験も踏まえ、ズバリと指摘する。
    「スポーツ投資のリターンはブランド、売り上げ、社会貢献、ホスピタリティー、インナーマーケティング(社員の愛着強化や理念浸透)の五つに分類できる。売り上げ目的なら商品の購入者に選手グッズの抽選権を与えて拡販したり、ホスピタリティーやインナーマーケティングならチケットを贈ったり交流の場にするなど、狙いに沿った戦術を考えるべき」
     SAHは2020年4月に県スポーツ推進課が結成。国際・全国大会の誘致促進などを通じ、交流人口や観光消費額の増加を目指している。
     わがまちスポーツと銘打ち12市町のにぎわい創出の取り組みに3カ年で毎年2分の1・最大500万円を補助。21年に三次市で初開催された女子硬式野球西日本大会は毎年約30チーム・選手600人が集まる。女子野球チームとスポーツコミッションの結成などと併せて評価され、WBSC女子野球ワールドカップ(グループステージB)を10万人以下の自治体で初めて誘致した。
     このほか三原市の佐木島で離島初となるジャパンサイクルリーグ公認のロードレースを、空港近くの中央森林公園と同島ではファンライドみはらを開催。「尾道海属」のコンセプトを掲げ、マリンスポーツをサイクリングに次ぐ観光資源に育てる試みなども後押し。25年度はラグビー中国電力レッドレグリオンズの本拠地がある坂町の小学校で、機運醸成のためのタグラグビー体験などを支援する。
     県内25チームの競技の枠を超えた応援プロジェクト「チームウィッシュ」にも力を注ぐ。複数チームに関わる活躍予想ゲームなどを通じ、さまざまな競技への興味を喚起する。専用サイトで選手インタビュー記事などを掲載。
    「競技の枠を超え大きな力を生み、スポーツ資源を最大限に活用していく。広島をもっと笑顔あふれる街にしたい」
     今年は広島県などの誘致活動によって、アーバンスポーツの複合型イベント「アーバンフューチャーズ」(日本アーバンスポーツ支援協議会主催)が4月18〜20日にひろしまゲートパークで開かれる。来場見込みは5万人。
     さまざまなスポーツ競技の魅力が広まり、街に元気があふれる効果は大きい。

  • 2025年4月10日号
    で、どうする

    リフォーム事業で地場大手に成長したマエダハウジング(中区八丁堀)の前田政登己社長(59)は、
    「いつの間にか下りのエスカレーターに乗り、ついに経営の終点に着く。現状維持の意識では後退。常に前へ向かうチャレンジ精神でぶつかっていく。まして危機の時こそ変革のチャンス。不屈の闘争心で立ち向かえば、やがて答えは出る」
     自らの経験と重ね、次代が何を求めているのか、いま何をすべきかと考え尽くす。27歳の時に勤めていたリフォーム会社の社長が夜逃げし、残された案件を放り出すことはできないと独立を決意。ここが原点になった。2008年秋のリーマンショック、14年の広島土砂災害、18年の西日本豪雨による顧客の被災、コロナ禍など、何度も苦境に立たされた。
    「そのたびに本を開いたが、直接的な答えは書かれていない。しかし、たくさんの言葉を読み解き、気付いたことがある。住宅事業を真ん中に据えて顧客満足、社員の幸福、地域貢献を実現する理念や、わが社の存在意義に立ち返るしかない」
     不況に耐えられる弾力性を備える。新会社設立やM&Aによって不動産、新築、1級建築士事務所、不用品買取店などに領域を拡大。何かが落ち込んだときにカバーできる体制を敷くとともに、相互送客や設計施工ノウハウの向上などでグループのシナジーを発揮する。感染予防の緊急事態宣言下には柔軟な働き方を推し進め、DXによる業務効率化につなげた。
     昨年11月に廿日市市に開いた水回り専門店を含め県内7店を展開。注文住宅や法人向け改修の中島建設(福山市)の全株式を取得しており、福山店を開く予定。府中町のショールーム移転も検討する。
     前12月期グループ6社の連結売上高は前年比6%増の45億3000万円で過去最高を更新し、今期は50億円を目指す。前期決算には計上していないがM&Aで新たに3社を加え、30年のグループ10社、社員300人、売上高100億円へまい進する。
    「いつも思うことは〝で、どうする〟の精神。何をするかはむろん、誰とやるかが最も大切。会社の財産は人。自分の意見や気持ちを率直に表現できることが生産性を高め、新しい発想を生む。部門、グループ間の連携をもたらす。男性育休取得100%など働き方改革を整え、働きがい改革に挑戦中。誰もが参加できるよう忘年会は昼に開いた。社員が先日、息子をこの会社で働かせたいと言ってくれ、うれしかった」
     業界では建築確認申請の特例縮小によるコスト増や省エネ性能審査の厳格化が4月に始まり、2025年ショックとして取り沙汰される。同社はグループの総務や書式の統一、現場監督の相互派遣などで業務を効率化。主力事業では引き続き、断熱・耐震・防音の性能向上リノベーションを積極的に提案する。
    「自宅内でのヒートショックによる脳梗塞や心筋梗塞を無くし、安心安全な暮らしを提供したい。また、東広島市西高屋を人が集う町にリノベーションするプロジェクトでは第1弾のコミュニティーハウスを3月に開設。全国で増え続ける空き家を活用した室内農業の定額サービスなども構想し、シマウマの白黒柄のように社会課題の解決と経済成長という二つの要素を両立させるゼブラ企業を目指す」
     やりたいことは尽きない。

  • 2025年4月3日号
    広島の誇り

    いよいよ庄原市特産「比婆牛」の出番である。広島はおいしさの宝庫というブランドイメージの醸成を命題に掲げる県プロジェクト「おいしい!広島」の一環で、3月12日に中区小網町のイタリア料理スペランツァで比婆牛を食材に磨き上げた一品を試食するイベントがあった。
     肥育に従事する藤岡幸博さんが比婆牛の生い立ちや特質などを紹介した後、スペランツァの石本友記オーナーシェフによる一品料理のデモンストレーションを行った。JAひろしま西城肥育センター長も務める藤岡さんは、
    「子どもの頃から食べ慣れているが料理次第で比婆牛の可能性が広がると実感。ただ素牛(肥育前か繁殖牛として育成する前の子牛)が少ない」
     繁殖も肥育の農家も少ないのが実情。JAひろしま畜産課の担当者は、消費を増やす生産体制を県内全域に拡大したいと話す。
     中国地方は、古代から伝わるたたら製鉄に必要な砂鉄や炭、木材を運搬する力強い牛の品種改良が行われてきたが、農作業の機械化に伴い食用としての品種改良に移行。
     約180年前から受け継がれる伝統的な和牛の比婆牛は1843年に誕生し、日本最古の四大蔓牛のうちの岩倉蔓をルーツに持つ。畜産家の岩倉六右衛門が地元(旧比和村)の優良な雌牛を基につくり上げた。脂の融点が低く、くちどけの良さが特徴で、前菜にもメイン料理にもいける。
     G7広島サミットでも各国首脳の舌をうならせるなど、次第に名をはせるが、生産量は年200頭未満。そのおいしさに出会えるのは、地元と一部の小売店や飲食店にとどまり、生産と流通に課題を抱えている。
     こうした流通の価値向上とコストの最適化をテーマに、県は2024年度に三つのプロジェクトをスタート。その一つ「比婆牛ブランド共創プロジェクト」はバラ肉など通常、高級飲食店では扱わない部位の加工品を開発し、利活用を促す狙いだ。
     庄原で地元食材を使ったレストランを運営する水橋聴オーナーシェフがスジなどいろんな部位を使う土産商品の開発に挑戦し、レトルトカレー「伝説の比婆牛カレー」を商品化。地域プロデュース事業を展開するドッツ(中区)が商業施設ミナモアに開業した店で3月19日に披露した。一袋180グラムのうち50グラムが比婆牛という。
    「冷凍タイプは以前から扱っていたがレトルトの方が土産には適している。肉の食感を残しながら、店で出すカレーの味わいになるよう努めた」
     ヒレなど高級部位を使う贈答品は、東白島町でフレンチ店を営む今井良オーナーシェフが開発したローストビーフが採択された。
     県は21年度から付加価値要素の多い比婆牛に着目し、ブランディング事業に取り組んできた。農林水産局畜産課の宇田久康参事は、
    「担い手の高齢化、生産コストの高騰が進む。いろんな部位が適正価格で流通することが一つの突破口になる」
     比婆牛だけでなく県産和牛の広島牛や元就、神石牛も同様。全てを味わい尽くしてこそ、ブランド牛も生産者も報われる。
     生産者が精魂込めて育てた食材を、一流の料理人の手でさらに磨き上げ、おいしい!を広めるプロジェクト。このプロジェクトに呼応して生産者、流通、飲食、消費者が「広島の良さ」を誇り、丸ごと地域の元気へつなげたい。

  • 2025年3月27日号
    広島新駅ビルオープン

    旧駅ビルアッセの閉館から5年ぶり。ようやく晴れやかな春を迎えた。3月24日、国内外から広島を訪れる人を迎える玄関口として広島新駅ビルがオープン。地下1階から地上21階建て延べ11万平方メートルにホテルやシネコンが入り、地下1階から9階を占める商業施設「ミナモア」は中四国初も含めショッピングや食を楽しめる約220店が並ぶ。
     駅北口に向けて開く駅橋上・高架下施設エキエと自由通路でつながり、ビル2階へ直接乗り入れる路面電車は全国でも珍しく、市街地と郊外を結ぶ。広島らしさを打ち出す全館コンセプトは誰もが自分の居場所でくつろげる〝カフェ〟仕様。観光やビジネスで訪れる人は無論、地域の人もそれぞれの目的に応じ、憩い、楽しめる空間づくりに知恵を絞った。
     運営する中国SC開発(南区)は、一般と県内の大学・高専校合わせ13校対象に計20回に及ぶワークショップを開くなど、多くの人の意見や思いに耳を傾け、全精力を尽くした。4・6階の中央部にある共用空間の活用アイデアはコンペを実施。コンセプトやデザイン、公益性、実現可能性の審査を経て広島工業大学と呉工業高等専門学校の学生が、それぞれグランプリに輝いた。
     今後、受賞アイデアを具現化するまで応募作品の中から10提案をポスターにして張り出す。川と瀬戸内海のミナモ(水面)とミナ(みんな)の意味を込めるミナモアならではの居心地のよさを体感してもらう象徴的なエリアとして若い人の発想がどんな姿かたちとなり、みんなを迎えてくれるだろうか。
     広工大環境学部建築デザイン学科3年の立花一貴さんと小田成菜さんは意見を戦わせながら納得のいくまでアイデアを練った。立花さんは、
    「電車が乗り入れるターミナル空間との調和も考えながら休憩場所やポップアップショップの出店に活用してもらいたいと考えた。水面の揺らぎを感じられるカーテンでスペースを仕切り、可変性を持たせることでバリエーションのある使い方や、興味を引く動線にも工夫。人が自然と足を運んでくれる場にしたい」
     呉高専は4・5年生4人チームで、各店舗メニューを一覧できる交流スペースをプラン。窓からの陽光を水面からの反射光のように採り込み、和紙で作ったコイのモビールが泳ぎ回るような空間で広島らしさを演出。建築学分野の大和義昭教授は、
    「和紙は大竹のものを使う予定。新駅ビルでのプランの実施は大きなチャレンジ。一丸になって取り組みたい」
     建築業界を志望する学生は引く手あまた。特に関東・関西からの引き合いが強いという。県の転出超過に歯止めがかからないが、広島のまちづくりへ参加する若者の意気込みが心強い。街がみずみずしい魅力を発揮し、いつか転入超過に転じる日を願いたい。
     市は広島駅周辺と紙屋町・八丁堀地区の楕円形の都心づくりを目指す。中国SC開発の竹中靖社長は、
    「駅拠点の集客を紙屋町・八丁堀へ促し、広島全域に好循環させる仕掛けが大切。オープンはゴールではなく、いかにコンセプトを具現化できるかが勝負。誰もが集い、新たな出会いが生まれるミナモアを未来へつなげたい」
     3000人規模の採用枠に1万人超が殺到したミナモアに新しい職場が誕生。再生した玄関口から街の元気を振りまいてもらいたい。

  • 2025年3月20日号
    新老人のスピリッツ

    聖路加国際病院の循環器内科医師だった日野原重明さんの提唱により、2000年9月に「新老人の会」が発足。17年7月に105歳の天寿を全うされた後も、全国21カ所で活動が継承されている。 
     脳神経疾患が専門の医療法人翠清会(中区)会長で梶川病院名誉院長の梶川博さん(86)は、かつて同会中国支部の運営に携わり、いまは本部東京の会員として今年1月発行された会報誌に日野原先生との出会いや、心に残る思い出などを寄稿している。
     梶川さんは修道中・高等学校を経て、1963年に京都大学医学部を卒業。当時、卒後インターン制度があり、聖路加国際病院で1年間研修を受けた折、循環器内科で日野原先生の薫陶を受けたことに始まり、01年12月には広島で先生と会食の機会に恵まれたことや、新老人の会の話題などに触れており興味深い。
     なぜ、新老人と呼ぶのか。世界のどこよりも早く超高齢化社会に突入した日本人の75歳以上は国民の寿命が延びたことで生まれた新しい階層とし新老人と名付けた。会の理念は「愛し愛されること、何か新しいことを創(はじ)めること、苦難に耐えること」の三つ。いままでやったことのないことをする。会ったことのない人に会う。これが若さを保つ一番の秘訣という。どれもこれもシンプルだが、いざ、やるとなるとそう簡単ではなさそうだ。
     日野原さんは90歳になったとき、何か新しいことを創めたいと思い立ち、新老人の会を創設した。シニア会員になれるのは75歳以上。60〜74歳はジュニア会員、60歳以下をサポート会員とし、女性のジュニア会員がそう呼ばれて大いに喜んだという。
     老人という文言には、人生経験を重ねた思慮深いという畏敬の念が入っている。ところが政府は75歳以上の人を後期高齢者と呼ぶ。あれはダメです。高齢者を前期と後期に分けて線引きする役人の発想です。そう呼ばれた人がどう感じるのか、人の気持ちを考えていない。
     これは日野原さんの指摘だが、共感し、後期とは何事かと憤慨されている方も多いのではなかろうか。
     昨年12月に翠清会と梶川病院「開院45周年記念誌」が刊行された。A4判・505ページの大作である。梶川さんの歩みや著書、論文、翠清会の沿革と関連施設なども収録。日本医師会最高優功賞を受けた時の晴れやかな祝宴会を収めた写真もある。
     座右の銘はこれまでに多数あったが、好きな言葉として「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ(山本五十六)」「私は教師ではなく、道を尋ねられた同伴者にすぎない(バーナード・ショー)」「勉強、勉強、勉強のみが奇跡を生む(武者小路実篤)」などを上げる。最近では「人はその日の朝よりも夜のほうがより偉くなっている」「私は昨日よりコツや欠点がわかって上手になった」の言葉を人に奨めているという。ゴルフは昨年7月に市内ゴルフ場で82のスコアをたたき出す快挙を成し遂げた。コツコツと有言実行されているのだろう。
     少し気が楽になるメッセージもある。物忘れ(認知症)を何とかして改善したいと思うのが人情だが、そのネガティブの面を強調するのではなく、長生きの同伴者、長生きのご褒美と考えてみてはと助言する。いまを楽しく、上手に暮らす。そうそうは、かなわない境地に思える。