広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2024年6月20日号
    カニカマ50周年

    インスタントラーメン、レトルトカレーに並び、戦後日本の「食品三大発明」と言われるカニカマ(カニ風味かまぼこ)は幾多の苦節を乗り越えてきた歴史がある。
     世界で主流となった棒状タイプの元祖と言われる大崎水産(西区草津港)の「フィッシュスチック」が3月で発売50周年を迎えた。大崎桂介社長は、
    「国内にとどまらず累計40カ国以上に輸出し、世界中の食卓に上っている。高い品質を維持し日本発の水産食品を世界中へ届けていきたい」
     良質な魚が水揚げされる草津で1928年に創業。漁業の傍らで板かまぼこ製造に乗り出し、近隣にも同業者が数多く軒を連ねた。戦後の傷跡が残る50年、二代目の勝一さんは板かまぼこをきっぱりと見切り、別の風味を付けたり別原料と組み合わせたりする珍味かまぼこに軸足を移した。第1弾のマツタケ風味「浜の松茸」はいまも販売が続くロングラン商品になった。 
    「もはや証明のしようはないが、浜の松茸は世界初の風味かまぼこだったと思う。いまは普通だが、当時は業界関係者から邪道とののしられたと聞く。新しいものを作れば売れる時代だったが、そうした中でも勝一は新しいことに挑む不屈の魂と進取の気概にあふれていたのだろう」 
     カニカマの誕生は思いがけないものだった。いつものように工場を見回っているとき「かに胡瓜」の製造機の前で足を止めた。かに胡瓜も開発した珍味かまぼこの一つで、本物のカニ肉を詰めたキュウリを、ノズルから出した魚肉で巻いて造る。ノズルから押し出されて残っていた魚肉にカニの汁が混ざり、それを食べるとカニにそっくりの味がした。挑戦の始まりだった。
     当初は手作りで連日深夜まで作業が及んだ。人による不ぞろいも課題だった。だが何としても完成させるという意気込みはすごく、近隣の町工場と組み、自ら製造機械の開発に乗り出す。20台以上を造っては潰し、現在につながる機械を完成させた。以降は量産化と市場拡大が重なり、停滞気味だったかまぼこ業界でまさに異彩を放った。
     水産大手を含め多くの業者が同分野に参入しているが、いまも存在感を放つ「品質の大崎」の誇りが原点にある。大崎社長は、
    「高級板かまぼこに使われるなど特に品質が良い、洋上生産すり身にこだわっている。漁獲後港に戻らず魚が新鮮なうちにすり身に加工。嫌な魚臭も発生せず、カニカマに加工してもしなやかな弾力を保つ。市場に出回る安価なものは弾力が弱く味も薄い。これがカニカマの常識になっていることに危機感がある。もちろん当社製品は原価が高く、経営は試行錯誤の連続だが、今後も品質へのこだわりを大切に引き継ぎ、安価な原料に変えるつもりはない」
     棒状カニカマの発明・普及、日本発の「世界食」の海外開拓、シート状カニカマの独自技術開発で、2013年に日本食糧新聞社の「食品産業功労賞」を受けた。業界への多大な貢献が評価された。
    「いまは輸出の割合が高く、国内の流通は多くない。広島で作るカニカマを地元の人に食べてもらえるよう、改めて販路開拓を進めている」
     勝一さんは1985年に財団法人を設立し、食文化向上を目指す研究開発に助成。いまも県食品工業協会や県食品工業技術センターへの寄付、研究機器の寄贈を続ける。感謝の思いがあるのだろう。

  • 2024年6月13日号
    市民主役の公共交通

    来春、JR広島駅に路面電車が乗り入れる新しいビルが完成し、広島の玄関口の姿が大きく変貌する。1階のバスターミナルと併せて乗り換えなどの利便性が高まり、さまざまなものが結びつく。
     一大プロジェクトに力を尽くした広島電鉄の椋田昌夫社長(77)は6月下旬の株主総会後の取締役会で代表権のある会長に就任し、代わって仮井康裕専務(64)が昇格するトップ人事を発表。コロナ禍がなければもっと早くに交代を考えたと言うが、やり遂げた実感もあったのだろう。
     プロジェクト実現までに紆余曲折があった。今から11年前。広島駅に乗り入れるルートをめぐり、車の流れを妨げない「地下方式」を独断専行しようとした前社長が臨時取締役会で解任され、社内外を驚かせた。理想の街づくりへ不退転の決意がぶつかった結果だが、当時専務だった椋田さんが社長に就き、乗り換える距離や時間の短さに優れた「高架方式」を進めていく。
     社長に就くやいなや、次々と利便性向上策を打ち出す。バリアフリー車両導入や乗車扉からも降りられる仕組みの採用に加え、他の事業者と協力してバスのエリア均一運賃などを推進。未来を描くレールを敷き、ひたすら走った。
    「高齢化や人口減少が加速する中、これまで通りのやり方を続ければ将来はなく、さまざまな分野の変革が急務だった。昔から変わらぬ路線を同じように走らせるだけではどんどんと乗客が減っていくのは当たり前。われわれ自身が〝公共〟という言葉に甘えていなかったか、厳しく自問した。新しい取り組みと同時に建物が老朽化していたホテル事業からの撤退など整理を進めた。外部からワンマンと見られたことがあるかもしれないが、社内でたくさん議論を重ねた上で、私が全て結果責任を持つと伝えてきた」
     12年に呉市交通局のバス事業を継承したときの経験が経営のヒントになった。高齢者からバスは乗降地が分かりづらい、車内転倒や事故が怖いといったイメージを持たれており、徹底的に改善。安心して外出できるようになったと感謝され、利用者数が増加に転じた。
    「電車やバスに乗って外出したくなる機会を生み出すべきだと気付いた。移動しやすい仕組みをつくることで施設が誘致され、人が集まる。さらにMaaS(次世代モビリティサービス)を活用しながら施設との連携イベントなどを開き、乗客を増やす好循環を生むよう意識してきた」
     街づくりへ関わりを強め、14年から広島大学本部跡地の再開発に参画。マンションやスポーツクラブ、カーライフの情報発信拠点などが完成し、にぎわいを生んだ。15年に造成した大型住宅団地「西風新都グリーンフォートそらの」はバス路線再編などで住民が市内外へアクセスしやすい環境を整備。商業施設ジ・アウトレット広島を誘致して外出の需要を創出した。宮島口では20年に観光商業施設ettoを開業し、22年に路面電車の駅を建て替えた。点と点を線でつなぎ、各所へ訪れたくなる仕掛けとして、宮島線の沿線を紹介するプロジェクトなどにも取り組む。
    「前会長の大田哲哉がよく口にした〝広電スピリット〟がいまも脈打つ。被爆後3日目に運行を再開した、市民主役の公共交通を守り抜く広電スピリットを育み、未来へつないでいく使命がある」
     電車が走り続ける広島の情景にも新しい風が吹く。

  • 2024年6月6日号
    矢野さんお別れの会

    何をやってもうまくいかない人生だったー。昨夏に登壇した講演会の冒頭、自らの半生をそう振り返った。100円ショップ最大手の大創産業(東広島市)創業者の矢野博丈さんが2月12日に80歳で逝去。5月27日に市内ホテルであった「お別れの会」に政財界人ら約1500人が集まり、在りし日をしのんだ。
     1972年に矢野商店を創業し、昨年末時点で日本を含む世界26の国と地域に5350店を展開。一代で売上高5891億円(前2月期)規模に育て上げた。しかし、その人生は事業失敗や倒産、借金、夜逃げ、度重なる転職、火災に遭うなど苦難の連続だったという。
    「ある結婚式で、お坊さんの祝辞が印象に残った。艱難(艱難)辛苦。生きているといろいろなことが起きるが無駄は一つもない。これを乗り越えるのが人生。失敗に負けないようにとエールを送った。自らの人生を振り返ると、もはや運命の女神に憎まれているとさえ思っていた。確かに見方を変えると、またかまたかと苦労を重ねたことは運が良かったのかもしれない。それからはそう考えることにした。ありがとうございます、感謝、ついている。この言葉を何度も何度も繰り返した。そうすると本当に良いことが起こり出した。ありがとうは魔法の言葉。すぐに良いことをまねるのは、経営者にとって必要な資質だと思う」
     自己否定、危機感も並外れていた。順風にあって商いに徹頭徹尾厳しく、決して物事を甘く見るような言葉を発することがなかった。創業時に「安物買いの銭失い」などと幾度となくたたかれた。消費者の厳しい視線を肌で感じてきた経験がそうさせるのだろう。いつも社内外で経営の厳しさを語り続けた。まだ売上高が800億円台だった頃、2000年の産経新聞記事(要約)で、
    「今、調子がいいことを、将来も調子がいいと錯覚してしまうことが怖い。お客さんの商品に飽きるスピードは驚くほど速い。常に緊張感を持って、いいものを生み出し続けないと生き残れない」
     変化し続けるニーズ、期待に応え続けることが、経営継続と同義だった。大創の急成長を支えた源泉は、紛れもなく開発力にある。売価100円という上限がある中で仕入れ先との交渉を「格闘技」と言い放った。
     取り繕わない自然体も魅力だった。本社オフィスをあちこちと歩き回り、社員や仕入れ先などに声を掛けて回る。一方、怒る時は徹底的に怒った。社長の心掛けを問われたときに、
    「私は怒ります。強い会社はどこも社長は怒っている。一生懸命になったら怒ります。でも怒ると会社がギスギスするから、社員にダジャレを言ってごまかす。それでぱっと雰囲気が明るくなればいい。ダジャレは一種の緩和剤ですね」(1999年毎日新聞)
     2018年に次男の靖二さん(53)が社長のバトンを引き継いだ。大学を卒業し、イズミで16年間、食品バイヤーなどを経験。15年に大創産業に入る。
     お別れの会委員長として礼状に「世界の生活インフラとして社会の発展に貢献」すると抱負を述べる。社長就任後も新ブランド「スリーピー」を含めた国内外への出店ペースを加速。5月に東南アジア、中東圏への輸送を担う自社最大のグローバル物流拠点建設を発表した。チャレンジ精神は遺伝子なのだろう。

  • 2024年5月30日号
    50年神のごとし

    漢詩に「烈士暮年 壮心不已」(高い志を持つ人は晩年になってもその大志を為し遂げようとする)の一節がある。渋沢栄一は「六十、七十は働き盛り」と言う。
     4月で75歳になった靴販売店を経営する住吉屋(中区胡町)社長の住田悦範さんは、17年前から1日1万歩を目標にウオーキングを続け、すでに地球2周以上歩いたというからすごい。
     2月、JR西広島駅近くに新店「快足屋ウォーキング」をオープンした。
    「ウオーキングを生活習慣にし、元気な人を増やしたいと出店を決意。靴を売るだけではなく、さまざまなイベントを催し、健康に関する情報を発信。体感・体験できる店がコンセプトだ。ウオーキングを核にした健康に関するコミュニティー拠点に育てたい」
     ますます盛んである。歩きやすさを重視したコンフォートシューズとオーダーメイドの中敷きを扱う。既存の靴にサイズを合わせるだけではない。それぞれの足の状況を診断・計測し、靴の履き方、歩き方まで指導する。
     それまでに中区と安佐南区で経営する靴販売2店を軌道に乗せており、あるいは新規出店に対して、少しちゅうちょする心が働いたのか、
    「実は娘から猛反対されて、むしろ決心が固まった。還暦を迎える頃、歩く魅力を知り、それから人生が好転した経験がある。頑として信念を押し通した。93歳になる人生の先輩が毎週のように店に顔を出してくれる。その元気な姿を見るたび、もうではなくまだ75と痛感させられる。定年後、社会の役割を終えたと勘違いして、あっという間に老けていく人が多い。やりたいことをやり遂げる。心が元気なら何でもできるという自由な気持ちほど大切なものはない。幸せかどうか、全ては自分自身の心の在り方次第だと思う」
     1904年に祖父が洋服のあつらえで創業し、4月で120周年を迎えた。先代の父が紳士既製服の販売を始め、自身が社長に就いた89年以降は紳士服チェーンとして急成長を果たす。しかし競合他社との競争激化、流通形態の変化などのあおりを受け、紳士服事業を次第に縮小。新たなビジネスを探す中で「靴」の面白さを発見し、販売業に乗り出した。2007年に紳士服店の一画に靴を並べて開業したが、やがて事業の柱へと成長を遂げ、21年に紳士服事業から完全撤退した。
    「各地の靴販売店を見て回るうち、ピッタリ足にフィットした靴を見つけたときの感動が忘れられない。その靴は自分の足と一体化し、歩くことが楽しくなる。これまで紳士服などで相当数の店を開いては閉じた。いずれにしても商売は上手でないが、靴の選び方を極め、広めていきたいと思うようになった」
     規模を追いかける経営は諦めたが、社会や人に貢献したいという思いはますます強くなっているという。ウオーキングは高齢者がやるものというイメージを払拭すべく、姿勢よく歩き、わずかでもおしゃれな服装を身に着けることを勧めている。
     靴販売に乗り出した直後に始めた毎月のイベント「楽ちんウォーク」は計200回を超えた。飽きっぽいが、なぜかウオーキングと靴は日々新たな発見があると言う。はつらつとされているのだろう。
     10年偉大なり、20年畏るべし、30年歴史なる、50年神のごとし。この言葉を教訓とし、精進を怠らない。

  • 2024年5月23日号
    創業100年の教訓

    安全靴製造のノサックス(東広島市)が5月に創業100周年を迎える。記念式典を4月20日、南区のホテルグランヴィア広島で開いた。
     年内には昔の社名「野口ゴム工業」を復活し、3代目の野口恒裕社長(76)から長男の隆志専務(47)へ事業承継を進めると発表。大きな節目の年に原点を振り返り、代々続く思いをつないでいく。
     創業は大正13年(1924年)にさかのぼる。広島市南区段原日出町に「野口ゴム製造所」を設立。小さな靴工場を開いた。当時、広島は第一次世界大戦の兵たん拠点として栄えており、創業者の野口進さんは作業靴や軍靴を製造することで「軍都広島の発展」を支えてきた。
     工場、建設現場などで働く人の足に合わせた靴を作る。その信念はぶれることなく、やがて経営を支える根幹となった。戦時下、供給物資が不足する中で「体を服に合わせろ、足を靴に合わせろ」と容赦なく、戦場の兵士は過酷な状況に置かれた。とても足に合わない靴を履く苦痛を経験させられた戦地から復員した長男の昌明さん(後に2代目)と共に働く人の足を守る靴の開発に心血を注いた。
    「籠に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を紡ぐ人。われわれは良い草鞋を紡いでいく」
     そう覚悟を決め、やがて大ヒット商品が生まれる。
     戦後の混乱した経済から高度経済成長への足がかりとなった昭和30年代中頃、同社が考案した革付きビニール靴「キングクラウン」が飛ぶように売れた。日本国有鉄道をはじめ、全国のあらゆる現場で働く人の足元を守ってきた。
     自社の技術開発だけにとどまることなく、業界の発展にも奔走。同業他社と共に安全靴工業会の発足に参画し規格の制定、安全基準の向上に尽力してきた。1969年には全国で初めて日本ゴム工業会から表彰。西日本最大手の安全靴メーカーへと成長を遂げた。何ごとにも替えがたい創業からの足跡を胸に秘める恒裕社長は、
    「一見して非常識なアイデアにも果敢に取り組み、常識をひっくり返す製品を生み出してきた」
     けれん味がない。県内初の作業靴キングクラウンは現在も主力製品として活躍し続けている。道路舗装工事用安全靴のHSKシリーズや高所作業用の鳶シリーズは軽量化、履き心地の良さを追い求め、ニッチトップ製品となった。
     だが、決して順風満帆ではなかった。多角化を進め、順調に事業拡大を進めてきた昭和の後半。高度経済成長期の終焉(しゅうえん)を迎え、バブル経済がはじける。販売不振を乗り切るため組織改革を迫られた。2社に分けていた製造部門の野口ゴム工業と、営業部門の野口安全を統合。市の段原再開発事業を機に98年に本社工場を東広島市に移転させて再スタートを切った。
     景気の浮き沈みに備える。多くの教訓をもたらした。最近は枠内にとどまらない新製品開発へ挑む。カープとコラボレーションした安全靴や、ガーデニングという新たなマーケットにも進出した。
     2018年には欧州の安全基準認証を受けた安全靴を日本人の足に合わせて開発し、国内メーカーでいち早く販売を始めた。その後も米国基準を取得。21年に本部機能を中区紙屋町に移し、23年ぶりに創業の地へ戻ってきた。
     過去を踏まえて未来を描く「彰往察来(しょうおうさつらい)」の言葉を胸に、広島から世界への事業展開を目指す。

  • 2024年5月16日号
    情熱と使命感

    日本に居る限り地震を避けることはできないが、人の命と暮らしを守る防災、減災に万全を尽くす使命があると言い切る。劣化が進むコンクリート構造物の健全化と長寿命化に心血を注ぐSGエンジニアリング(西区草津東)の加川順一社長は、
    「コンクリートは高速道、ダム、橋、マンション、ビルなどに使われて日本の骨格を支えてきたが、長年の風雨にさらされるうち、表面だけではなく内部にひびが入り、もろくなっている。到底このまま放置することはできない。コンクリートを補強するIPH工法(内圧充填接合補強)を全国へ普及し、地震災害から命と暮らしを守る強固な街づくりに貢献したい」
     社会的責任を果たす使命を企業目的の中心に据える。広島大学や東京工業大学などで実証実験を重ね、同工法の効果を検証。2012年に特許取得。14年には全国を網羅する(社)IPH工法協会を設立し、理事長に就いた。ほぼ全国で施工できる体制を敷く。実証実験を繰り返すうち、新工法開発に注ぐ情熱と、社会貢献への使命感がいつしか化学反応を起こしたのだろう。
     4年前。平和記念公園内のレストハウス改修にIPH工法の採用が決まった。爆心地から170メートル地点で被爆し、地下室を除いて全焼したが、鉄筋コンクリート造だったことから原型をとどめた。歴史の語り部としてなるべく壊さず、後世へ残そうという判断が働いた。
     構造物の原型を保ち補修、補強を行う手順として、直径7ミリの穴を10センチ前後の深さで穿孔(せんこう)。高流動性の樹脂を内部空気と置換して注入し鉄筋とコンクリートを接合する。実証値0.01ミリに至る微細なひび割れまで拡散するという。注入後は加圧した状態で養生を行い、構造物の強度回復・長寿命化を実現する。被爆建造物では16年に施工した猿猴橋に次ぐ。
     愛媛県にある石鎚山の渓谷に架かる土木遺産「大宮橋」の補修・補強工事は四国の会員企業が中心となり、20年10月引き渡しを終えた。1927年竣工した鉄筋コンクリートアーチ橋の華麗な姿をよみがえらせ、(社)全日本建設技術協会の2020年度「道路部門」で全建賞に輝いた。
     尾道市の千光寺山中腹で築60年を経過した共同住宅は世界的な建築集団スタジオ・ムンバイによって宿泊できる複合施設へ生まれ変わった。部材の非破壊検査を行いIPH工法の有効性を確認。長崎市の通称軍艦島で8年前から供試体を経過観察し、日本コンクリート工学会の有識者と修復工法を検討している。
    「山は高くなるほど底辺が広がるが、誰が施工しても確実に効果のある工法を確立し広く普及させていくため、人材の確保と育成に力を入れる」
     出張などの先々で目にする構造物の状態が気になってしょうがない。大地震に襲われた台湾へも足を運び、被害状況を見てきた。能登半島地震の被災地から引き合いがあり、建築物の補修が可能か検討を始めた。いまは次女の大西奈々専務が現地視察に同行するなど脇から支える。
    「父は何度も失敗を重ねながら特許工法を確立した。母は財務・経理を担当しながら絶対に会社を潰さないという信念で支えてきた」
     家族の結束力と共に社員の実力も向上し、企業理念の共有化も進んできた。経済効率を求めるだけでなく、何よりも人の命を守るための経営を貫く覚悟だ。

  • 2024年5月9日号
    寝ても覚めても

    突然けたたましくテレビ、スマホ、町内放送のアラームが鳴り響き、間髪入れずグラグラときた。4月17日深夜、愛媛・高知県で起きた地震は震度6弱。広島県内では震度3、4だったというが、かなり揺れた。日本列島は有史以来、絶え間なく地震が発生しており、まるで地震の上で暮らしているようだ。大きな地震がいつ、どこで発生するのか、不安が募る。
     地震に強く、強固という理由から、さまざまな構造物に使われている鉄筋コンクリートが長年の風雨にさらされて劣化し、もろくなっているという。高度経済成長期を支えた高速道、トンネル、橋、ダムといった公共インフラや都市部のマンション、ビルなどの全てにコンクリートが使用されており、内部にできた微細なひび割れや空隙(くうげき)をどう補修・補強するのか、大きな問題になっている。
     革新的な技術を開発し、コンクリート構造物の内部から健全にする特許工法「IPH工法」(内圧充填接合補強)を実用化したSGエンジニアリング(西区草津東)がいま、全国の自治体などから注目されている。かつて化学工業品や金属部品などの大手メーカーで接着剤の流通・商品開発に携わっていたが、広島に戻り1988年に同社を設立した加川順一社長(77)は、
    「コンクリートは老朽化すると欠損や浮き、ひび割れから水が侵入し内部まで劣化。水は気化して外に出ようと移動して鉄筋にぶつかり、その辺りを空洞化させる。特に鉄筋周囲がもろくなっている可能性が高い。地震に遭って建物が壊れ、暮らしが壊れ、命が失われてからでは遅い。既存のコンクリート構造物を表面だけでなく、内部から回復させて再生し、延命させるにはどうすればよいのか。鉄筋とコンクリートを樹脂で一体化させる補修工法の実用化にのめり込んだ」
     これまでは、ひび割れ部分に直接樹脂を押し込む注入工法で補修されていた。しかし空気が邪魔をして樹脂が表面に留まり内部まで届かない。ひび割れ内の空気を抜いて真空状態にする方法がないか、専門家と相談しながら10年近く、大学などと実証実験を重ねた。そうして空気と樹脂を置き換える「IPH工法」の完成にたどり着く。寝ても覚めても考え、夢で見たアイデアは素早く書き留める。関連論文は40以上。次第に問い合わせが入るようになり、歴史的建造物や文化財などの施工実績も増えてきた。
     2012年に特許取得。専門用具で微細なひびへ樹脂を高密度充填し、接着から「接合」へ発展させた。表面補修後の注入で躯体部と補修部を一体化させて再剥落を防ぐ。鉄筋周りを高密度にして水や空気、ガスが触れないように密閉すれば錆びが出ないことがはっきりしている。施工中のコンクリート廃棄物を減らし、施工費や工期も抑えられる。14年に(社)IPH工法協会を設立。会員は北海道〜沖縄に160社に上り、工法の技能士約1300人体制で全国をカバーする態勢を整えた。
     今期は過去最高の売上高8億6000万円を見込む。工事を直接請ければ規模は拡大するが、事業の目的は人の命を守り、地域や暮らしを守ることが最優先と言い切る。
    「ヨーロッパでは建物を長く大切に使う文化がある。日本は古くなると壊し、災害に遭うたびに新しく建て替えてきた。資源は有限で、こうした考えはもはや通用しない」
     次号へ続く。

  • 2024年4月25日号
    DXで手作業を守る

    物流や建設業などで時間外労働の上限規制がスタートする2024年度が始まった。どの業界も人ごとではない。急速に進む労働人口の減少や賃上げ要請に対応すべく、業務効率化が迫られる。
     今秋に設立60周年を迎える板金加工の広島メタルワーク(中区)は3月、経産省「DXセレクション2024」優良事例に選定された。20年近く前から佐伯区湯来町の工場で取り組んできた生産性向上活動が評価された。デジタルトランスフォーメーションの略称DXが広まる、はるか前にデジタル化に挑んだ背景に、昔ながらの手作業を守るための覚悟があった。
     創業は戦後の復興期。被爆で焼け野原になった街が建設ラッシュでにぎわう頃、創業者の前田彦三さんは日本に入ってきたばかりの新素材ステンレスの美しさに一目ぼれ。従来の鉄に比べ腐食しにくい特性を生かそうと、サッシなど建材作りを始めた。
     未知の金属に懐疑的な声もあったが、とことん加工技術を磨いた。次第に引き合いが増え、高度成長期に建てられたビルの多くに採用。いまもリーガロイヤルホテル広島の玄関など、多くの場所に同社の手掛けた製品が残る。
     しかしバブル崩壊後、一気に建築需要が落ち込んだ。会社は債務超過に陥り、銀行の融資も厳しくなった。1991年に父の会社に入った現社長の前田啓太郎さんは、
    「どん底からのスタート。技術で活路を見いだそうと、食品工場や医療設備向けの機械加工へ進出したことが転機になった。ステンレスは数ある金属の中でも切削や曲げが特に難しく、扱いに長けた会社は少なかったため、西日本を中心に幅広い機械メーカーから受注が入った。大量生産品ではなく、オーダーメードの製品ばかり。つまり、大手が対応し切れない面倒な仕事を人の手で行っている。職人技と言えば聞こえは良いが、コストや管理などの面で非効率なことも数多い。これを改善しなければ、せっかく培った技術を後世につないでいけなくなると考えた」
     社長に就いた2003年、志を共にする全国の製造業8社で生産管理システムの構築に着手。2年後に共同で立ち上げた会社で開発を加速し、08年に完成した初代システムの後、15年から2代目の「TED」を工場に導入した。
    「かつては他社製システムを使っていたが細かい部品管理ができないため、社員が工場内を探し回るという本末転倒の事態が発生。使える端末の数も限られていた。TEDは中小製造業の現場の声を基に設計しており、デジタルに不慣れな社員も直感的に操作できるほか、全員がリアルタイムで図面や作業の進捗状況を共有可能。加工作業に集中できるようになり、生産性が大幅に改善した」
     約5億円だった売上高は10年弱で約9億円に拡大。21年度には中小企業庁から全国300社の「はばたく中小企業・小規模事業者」に選ばれた。デジタル活用だけが目的ではなく、挑戦する風土づくりにもこだわりがある。
    「父がステンレス、私がシステム開発へ挑んだ先に新しい発想が生まれ続ける組織としたい。工場入り口に立つキリン親子のオブジェや各建物をライオン棟、カメレオン棟などと名付けたのもその一環。一人一人が個性を発揮できる仕事場を目指す」
     DXは、豊かな感性と果敢なチャレンジ精神を備えた人が主役と言い切る。

  • 2024年4月18日号
    経営を託す

    自社の強みを伸ばし、不足を補う。どうすればよいのか絶対と言える定石はない。トップは経営環境に応じて最善の手を見極め、決断する。それから先は衆知を結集し、最善を尽くすほかない。
     自動車や航空機業界の機械設計を手掛けるアイワエンジニアリング(東区曙)代表取締役の森口康志さん(58)は3月29日、自動車や半導体業界向けに技術者と製造人員を派遣するキット(神奈川)に全株式を譲渡した。果たして経営はどう変貌するのか、考え抜いた決断だったろう。
     キットは、グループ7社で2024年3月期の売上高230億円を見込み、数年後の上場を目指している。同社グループとして、アイワの生存戦略、企業力を強化する狙いだ。従業員36人はそのまま残る。森口さんは退任。代わってキット経営企画部の澁谷洋部長が代表取締役を兼務。原口秀典取締役社長は続投する。森口さんは、
    「父が1987年に創業し、自動車ボディー組み立て設備などの3Dモデル構想作成や2D設計製図を受託。メーカーと直接取引しているが、特定の1社で売り上げの7割強を占め、リスクを分散させる必要があった。当社は設備設計を得意としている一方、キットグループは製品設計会社を抱えており、技術研さんにつながるほか、営業網を活用しながら取引先を広げられると考えた。経営を託し、ノウハウを取り入れることが将来のためになると判断した」
     20代後半で東京に広島風お好み焼き店を開業し、店舗数や業態を広げてきた経験がある。父親が急逝し、19年からアイワの代表取締役を兼務。しかし機械設計は素人で、番頭格の原口さんを社長にして実務を全て任せた。自身は経営判断や財務労務の管理を担当。技術者集団という強みがあるが職人気質のせいか、当時は寡黙な雰囲気が職場にあった。東京と広島を行き来しながら、飲食店での成功体験を基に、明るい受け答えやあいさつ、元気、顧客目線の大切さを話し、働きやすい環境づくりから始めた。21年には4階建て本社屋を改装。置き菓子があり雑談しやすいスペースやミーティングルーム、フリーアドレス制などを取り入れた。
    「父と膝を交え、経営観などを語り合った。人への思いやりと感謝。互いに通じ合う信念だった。社員の成長に連れて企業価値が上がり、今回のM&Aにも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。経営を離れる寂しさはあるが、会社が成長していく未来を想像すれば、父もきっと喜んでくれると思う」
     広島銀行曙支店の古川恭隆支店長は、
    「事業発展や人材育成について相談を受け、業務提携など複数の方法を提案した。日本M&Aセンターの仲介で1月にトップ面談を開き、その後これほどスムーズに成約した例は珍しい。胸襟を開いて話し、リスペクトし合えたからでしょう。地方からの若年層流出が課題となる中、キラリと光る地元企業を応援し、雇用を生み続けるためのサポートに力を入れていく」
     アイワ代表取締役に就いた澁谷さんは、
    「グループ会社との間で面白い化学反応が起きると期待している。各社が独自性を磨きつつ、ものづくりの上流から下流までカバーできる派遣や請負業務を強化していく」
     ピースを埋めながら、よりしなやかな企業集団へ発展させていく構想を描く。

  • 2024年4月11日号
    わくわく大作戦

    「わくわく大作戦」とネーミングされた部署横断プロジェクト。何かと堅い企業イメージが先行する中国電力グループの一員で、塗装や建築工事を手掛ける中電工業(南区出汐)が一転、イメージを突き破る大胆な作戦を打ち出し、周囲を驚かせている。
     2021年から始めた。建築・塗装をイメージした「ビルダイン」と「ペイントン」の公式キャラクターを登場させたほか、塗装工事の協力会社組織「電栄会」各社の武将キャラクターが先陣を競う。就活生向けに、工事監督者をオーケストラの「指揮者」になぞらえたリクルートページや、全ページに現役社員が登場する若者向け雑誌のような採用パンフレットを作成し、一気に勝負に出た。
     むろん働き方も改革。コアタイムのないスーパーフレックスタイム勤務制度ほか、現場写真データの管理などにITを駆使し、業務効率化を推し進める。21年6月に就任した石井浩一社長は、
    「3カ月後全員へ作戦開始を宣言した。当初の18人から次第に輪を広げ、いまでは11チーム延べ130人弱がプロジェクトに関わる。成果もさることながら作戦を実行に移していく過程での社員の成長、そしてわくわく感から生まれる一体感こそ一番の目的だ。コミュニケーションが円滑になり、安全やコンプライアンスを守る意識も自然と高くなってくる。過去3年、新卒者で離職した人はいない」
     90日で目標達成
     全国で初めて、ドローンを使った鉄塔塗装資材の運搬に成功。昨年12月にはワクワクやクリエーティブをキーワードにオフィスのリノベーションを行うなど、矢継ぎ早にプロジェクトを実行した。勢いよくスタートしたが、次第に失速する事例は枚挙にいとまがないが、同社の作戦が次々成果を挙げるのはなぜか。
     経営コンサルのニューチャーネットワークス(東京)の高橋透社長をアドバイザーに加え、プロジェクトのゴールを90日に設定する、BTP(ブレークスループロジェクト)という考え方を採用。3年の中期計画や年間計画などを90日という短期のゴールに置き換える。週、日単位の具体的なアクションが見えると全力投球しやすくなり目標を細かく区切ることで、その都度に成功体験を味わえる。さらに行動量と質が高まり、成功が加速する案配だ。
     各チームの活動開始時は高橋社長を交え、キックオフミーティングを開く。リーダーはビジョンと目標を面白そうなストーリーに仕立てメンバーに伝え、全員が最終結果に責任を持てるようにする。必ず達成する状況をつくるためメンバーはみんなの前で宣言・約束し経営層への中間報告や90日後の最終報告日時を設定。毎日の達成状況を公表し、社内のさまざまな人からコメントをもらうことで、実行を習慣化している。
     石井社長は、
    「オフィスリノベーションではメンバーたちがこんなところで働きたいと思う空間を自ら設計。20以上のブースを設け、より創造的な働き方ができるオフィスが実現した。お客さまからも社員の笑顔や会話から、生き生きした空気が感じられると、うれしい言葉を頂く。みんなが新しい事に挑戦する楽しさ、一緒に困難を乗り越えるわくわく感を体感してくれていると思う」
     社外とワクワク共有へ「DESHIO(デシオ)いいでしょプロジェクト」を始める計画だ。

  • 2024年4月4日号
    二人の伝統工芸士

    全国的に伝統工芸士の後継者が先細る中、呉市川尻町に根付く経済産業大臣指定伝統的工芸品の川尻筆に2月、若手の二人の伝統工芸士が誕生するというニュースが舞い込んだ。これで川尻筆の技を継承する伝統工芸士は4人になり、将来へ新たな明かりをともした。
     江戸後期から職人の技を伝える文進堂畑製筆所で修業してきた4代目の畑幸壯(こうそう)さん(36)は、全国でも最年少の伝統工芸士という。父親で3代目の義幸さんが長年の研究と工夫を重ね、現代の最高級羊毛筆を確立した筆作りのそばで育った。幼少期から良い原毛に見て触れ、そして良い仕事は特有の〝音〟で分かるという、その記憶は何事にも代え難いものだったろう。22歳で弟子入りし、若くして全ての技を習得するという異例の才を発揮した。
     もう一人。湊毛筆製作所の湊宗道さん(41)は筆職人の祖父に憧れ、父親の達哉さんの背中を見て育ち、伝統工芸士の仲間入りを果たした。二人には父親が伝統工芸士という共通項があり、仕事場が遊び場という生活と筆作りを一つにして伝統工芸の技法を代々つないできた。
     県内にある筆の産地は全国ブランドの熊野筆と、川尻筆の二つを合わせて全国生産量の8割を占める。分業体制を敷く熊野筆に対し、川尻筆は一人の職人が仕上げまで70を超える全工程に携わる。毛先が割れず墨含みの良い〝練り混ぜ〟という技法が特徴で、高級書筆を得意とする。
     AIと筆
     地域の特産を生かして町を盛り上げようと、川尻毛筆事業協同組合(坪川竜大理事長=坪川毛筆刷毛製作所社長)は昨年10月、川尻筆を地域団体商標に登録。これを起爆剤とし、書筆以外でも商標を活用する商品開発を検討している。組合の前理事長で、川尻に筆作りをもたらしたと伝わる上野八重吉の5代目で、やまき筆菊壽(きくじゅ)堂を経営する上野龍正さんは、
    「昨春は弘法大師生誕1250年を記念し、野呂山の山頂にある筆塚で初めて筆供養を開いた。今年も山開きに合わせ4月21日に開く。筆はいま日常生活の中で過去のものになりつつあるが、AIが世界を席巻するいまこそ、日本語の機微、素晴らしさを繊細に表してくれる筆の実力を見直し、筆で文字を書く体験を広めていきたい。読み書き、そろばんを基本としてきた日本人の知恵は、産業の発展や文化の多様性を根底で支えてきたと思う。創造性を養う上でも五感を動員する読み書きが有効ではないか。筆産地の熊野や川尻の小学校などで筆作り体験学習を地道に続けている。子どもたちも地域の文化と伝統を知ることで誇りや自信が育まれ、成長へつながると確信している」
     筆作りを取り巻く環境は次第に厳しさを増す。中国製の攻勢に加え、良質な天然毛の確保は年々難しく、職人の高齢化と後継者難が深刻化している。しかし、ここでへこたれる訳にはいかない。成果を挙げるまでに長い時間はかかるが、いまが読み書き教育の出番ではなかろうか。
     湊毛筆製作所代表者の湊達哉さんは、
    「技は見て、盗んで、覚えて初めて自分のものになる。やり方は教わることができるが自分で工夫し、考え、繰り返し鍛錬するほか道はない」
     芸術、学問、スポーツなどの全てに共通する基本なのだろう。近道はない。

  • 2024年3月28日号
    窮地で会社起こす

    27歳の時、リフォーム会社の社長が夜逃げを図り、残された社員は自分一人。血相を変えた代金未払い先の職人に囲まれ、逃げ道はない。とっさに、私が独立して仕事を回すと繕ったものの、誰も相手にしてくれない。だが、必死な姿を信じてくれたのか、たった一人の塗装職人が応じてくれる。切羽詰まって、どう振る舞うのか、その後の人生を大きく分けるターニングポイントになった。
     その日から約30年。住宅リフォーム業界で地場トップに成長を遂げたマエダハウジング(中区八丁堀)の前田政登己社長(58)は、
    「誠意を除くと何の取り柄もない。退路を断って懸命に働くほかなかった。会社を絶対に潰してはならないと心に誓った」
     1993年に個人創業。自分に厳しい営業ノルマを課した。手製のチラシを何百軒、数千軒にわたり配り歩く。徐々に軌道に乗り95年に法人化。初めて人を採用し経験者2人が加わったが、次々と会社の売上金を横領された。さすがに心が折れ、人間不信になりかけたと明かす。しかし子どもの頃、ぜんそくで苦しむ背中をさすって励ましてくれた母の言葉が浮かんだ。どんなにつらくても、昨日より今日はきっとよくなる。
    「しっかりと管理できなかった私に落ち度がある。経営理念を伝えられていなかった。窮地に立つと真っ先に顧客の顔が脳裏をよぎる。信用して仕事をくれた人を裏切ることはできない。何のために経営しているのか。リフォームを終えて、いかにも晴れやかな発注者の表情を見るために力を尽くす。人の喜びを自分の喜びとする価値観を共有できる仲間を増やしていきたいと痛切に願った」
     新卒や未経験者中心に採用を進め、一人一人に考え方を伝えた。信頼し任せると業務改善の工夫や新しい発想が生まれる。生産性向上につながり、働き方・働きがい改革やリスキリングなどに取り組む素地ができた。
     協力企業の会でも積極的に勉強会を行う。2023年12月期売上高は約10年前から2倍の21億円に増え、関連領域の不動産、施工の2社合わせ29億円を計上した。
     いつもスッと背筋を伸ばし相手の話をおだやかな表情で聞く。181センチの長身だが、威圧感は受けない。
    「1件のリフォームから始まり不動産や相続相談、子どもが結婚したときには新築などと、人生の折々に声を掛けていただく。その信頼を糧に仕事の幅が広がってきたように思う。経営環境は時代の潮流に大きく影響されるが、決して変えてはならないものがある。地域密着に徹し、予想さえできなかった変化にも柔軟に対応することができるコングロマリット(複合企業体)経営を目指している」
     工場内装やオフィスの営繕に強い会社の買収でノウハウを磨いたほか、リフォーム時に発生する不用品処分などの需要を見込んで貴金属・ブランド品買い取り店の経営を引き継いだ。昨年は新築戸建てブランドを譲受。住まいと暮らしのワンストップサービスを掲げ、M&Aを展開。人口減に伴う人手不足の加速を見越し、人材派遣業にも乗り出した。
     グループ6社の前期売上高は42億6800万円。従業員165人。2030年に向けて高々と旗印を掲げ「グループ10社で300人、売上高100億円」「地域で輝く100年企業」の夢を描く。