それぞれに個性的な経営者の言動は興味深い。時にはあまりに茫洋(ぼうよう)とし、問いをはぐらかされることもある。その人の体の中に入らんと本音は分からんという。とうてい無理な話だが、垣間、意外な一面を見せることがある。
今年で創業60周年を迎えた東亜地所の記念パーティーが8月3日、市内ホテルであった。創業者の西本辰男さんは牛田町(東区)の山持ちの末っ子に生まれる。地元の山を切り開いて宅地造成したのが始まり。その後、高度経済成長期のマイホームブームに乗り、頭角を現す。次々と大型団地を開発して広島の住宅業界を引っ張ってきた。取材に出向くとポーカーフェースながら興味津々の話題が次々に飛び出した。
優良な宅地開発事業と良好な居住環境の宅地供給に寄与したとし、1987年に建設大臣表彰、89年に藍綬褒章、98年に勲五等双光旭日章を受ける。東亜地所とグループで建築部門の東亜ハウスの両社代表取締役会長に在任中の志半ば、2006年8月17日亡くなる。78歳。葬儀で、幹部社員が在りし日のエピソードを交えながら、
「本当に凄(すご)かった。一喝されると身動きすることさえできなかった。それで、何で何にも言わんのか、と言われても頭の中は真っ白でした。何くそ、と頑張っていると、陰では親身になっていろいろと支えていただいた」
と遺影に語りかけた。西本さんは特有の経営観を語る一方、厳しい表情を一瞬和らげ細やかな気配りも見せた。
戦後の復興を経て世界を席巻した日本経済。世界の大手銀行上位10行のうち日本の銀行が過半数を占めるなど、わが世の春を謳歌(おうか)した。まして群集心理が働いたのか、こぞって不動産融資に躍起となりバブル経済を起こす。しかし土地高騰に危機感を抱いた政府の「不動産融資総量規制」などであえなくバブル崩壊。後に「失われた30年」とも言われる長い、長い不況のトンネルへ突入した。
広島の住宅業界も大波に洗われ、相次いで経営破綻が表面化。次第に郊外から都市部のマンションへと主戦場を移し、各社は営業戦略の見直しを迫られた。10年に3代目に就いた西本義弘社長は、
「かつてはマイホームに夢を託し、あこがれを抱いていた人が大勢いました。大型団地が郊外へ広がり、目白押しのありさまだった。それから数十年が過ぎた頃、郊外に住む高齢者の方が便利の良い所へ住み替える都心回帰が進み、加えて若者のマイホームに対する意欲も次第に薄くなってきたように感じる。ゆとりのある生活を楽しみ、決して無理をしたくないという考え方の表れなのでしょうか」
同社が開発した廿日市市の団地「宮園」2000区画は発売からほぼ5年で完売。続く東亜祇園ニュータウン「春日野」は今年3月、全2453区画を完売した。開発段階から20年の歳月が流れた。むろん宅造事業は景況や住宅事情などに左右されるが、住宅購入者の意識も時代とともに大きく変遷した。
国交省の18年度統計によると空き家は全国に849万戸。業界全体に新たな戦略が問われている。東亜グループは小規模な宅地開発、住宅の買い取り再販、分譲マンションの三つを柱に据え、営業展開する構え。2年前に始めた再販事業は創業来供給してきた約1万7000戸を中心に進める。60年を積み重ねた財産を生かさない手はない。