今年で創業160年の歴史を重ねる仏壇製造販売の三村松(中区堀川町)は、今日まで折り返しの節目になった80年前のその日、一瞬にして店も自宅も全てを失った。
当時、4代目の三村繁己さんは未曽有の逆境にあって自ら奮い立たせた。抱えていた職人らの願いも決意を促し、廃虚の街から再興へ向け踏み出す。広島は安芸門徒の地。被爆直後でさえ、あり合わせの材料でこしらえた木箱のような仏壇に向かい、手を合わせる人の姿があったと、いまに伝わる。
金仏壇を拝みたい。昭和30年代に入り、店に切実な声が多く届くようになった。経済復興とともに「つくれば売れる」といった時代を迎え、5代目で社主の邦雄さん(77)にとっても大きな転機になった。慶応大学経済学部で西洋経済史を学び、就職先は商社を希望していたが、当時64歳だった父繁己さんを支えようと広島に戻る。
仕入先に早く仕事をしてもらうため、腹巻に札束を忍ばせた。ある時は小切手を切り仕入先を開拓。絶えることなく注文は入るが、増産しようにも人がいない。そんな時、大学時代に訪ねた仕入れ先の鹿児島県川辺町(南九州市)からひょっこり彫刻師が訪ねてきた。「土地はあるか、人手はあるか」と問うと、「トウモロコシ畑がある、人手は何とでもなる」と言う。
夜行列車に飛び乗り、現地を確かめて新工場の適地と即断。28歳で社長に就くまでの間に、中区南吉島の広島工場建設のほか、鹿児島工場も操業し、急ピッチで生産体制を整えた。大学の卒論テーマは〝英国産業革命時の毛織物工業の工場生産移行〟だったが学問は時代変化を読み取る力となった。
「つくれば売れる。だが、大きな課題は職人の確保。独り立ちまで10年かかり、組合協定で職人の引き抜きはご法度。これまでの問屋制手工業では生産が間に合わない。それで作業工程を細分化・専業化し、一気通貫で生産する供給体制を整備した」
素人ばかり集めてスタートしたが、当初は納得できる品質にほど遠く、徹底して技術修練に時間をかけた。好機と直感すれば即実行。一方で苦汁をなめたことも一度や二度ではなかったと振り返る。
国内外に直営11工場を擁し、直営10店舗と全国卸を展開する。金仏壇製造出荷本数は46年連続日本一。職人の技に近代的な生産手法を融合させた。伝統の技術と文化を次代へとつなぐ架け橋になり経営の基盤とした。
近年は生活様式の変化などを受け、モダン仏壇の品ぞろえも充実させる。160周年を機に新シリーズ〝平和モダン〟を投入。漆塗りなど仏壇づくりならではの技が光る。
「戦後80年。人々の心にゆとりが育まれる環境にあるだろうか。時代が移るとも日々の生活で手を合わせたくなる仏壇をつくりたい。ものづくりの使命を肝に銘じている」
8月6日、邦雄さんの母ハナヨさんは当時、小学校の先生で、学童疎開の引率に選ばれた先生と二人生き残った。もし疎開していなかったら、いまはない。三村家には疎開で被爆を免れたお内仏(浄土真宗の仏壇)が家族の絆を深めてくれるという。
お内仏は金仏壇の一大産地をけん引した3代目松次郎さんがつくった。幼稚園に通う孫が「まんまんちゃん(南無阿弥陀仏)」と唱え、手を合わせてくれると目を細める。家も会社も街も歴史がある。