幼い頃、近所のお好み焼き店でふうふう、ヘラで鉄板にある焼きたてを頬張った。大人になって食欲のないときも不思議とうまい。
戦前にあった「一銭洋食」が元になり、戦後間もない頃はみんなの空腹を満たした。県外で広島風と呼ばれているが、ずっと身近にあっただけに心外。昨年のG7広島サミットで振る舞われたお好み焼きが国内外へ発信され、英国のスナク首相(当時)は自ら鉄板の前に立ってお好み焼きを作った。寿司、天ぷら、ラーメンに続いて世界の街へ広がると、食事に困る日本人はいなくなりそうだ。
ケーツーエス(安佐南区)は米国ロサンゼルスに開いたお好み焼きの直営店が好調という。ロス中心部の日本人街リトルトーキョーにある日系ホテルの壁面に3月、でかでかとドジャースの大谷翔平選手の壁画が登場。その2軒隣りにある直営店も恩恵を受け客足が伸びたと話す。テキサス州ダラスでエリア出店に関するライセンス契約を結んでおり、数年内に5店程度の出店を目指している。
近年は広島を訪れた外国人観光客が鉄板を囲み、少し不器用にヘラを扱うシーンをよく見かける。お好み焼きを食べに広島に行くという人もいる。地域の自然環境、暮らしに育まれた「食の魅力」は観光客誘致にも大いに威力を発揮している。
西区商工センター7丁目のウッドエッグお好み焼館に事務局を置く(財)お好み焼アカデミーの資料に、
『戦後、焼け野原にあった鉄板とアメリカからの食料支援としての小麦粉(メリケン粉)が出会い、再び一銭洋食が作られ始めます』
新天地エリアは屋台でにぎわっていた。郊外では戦争で夫を亡くした女性が家の軒下を改造して鉄板を設け、お好み焼き店を営む。屋号に○○ちゃんといった名前が多いのは、戦地から帰った人が見つけやすい理由もあったと当時のエピソードを伝える。
全国に1万6000以上のお好み焼き店があり大阪、兵庫、広島の3府県で4割を占める。広島県内は1600店以上(アカデミー調査)。海外へ人気を広げ、世界の共通言語になるかもしれない。
老舗の「お好み焼みっちゃん総本店」を創業した井畝満夫(いせ・みつお)さんが7月25日亡くなった。91歳。1950年に父がお好み焼きの屋台を始めた。まだ10代後半だったが、病弱な父に代わり店を仕切るようになる。自身の愛称から店名を「みっちゃん」にした。いまは市内中心に東京(2店)へ出店し、計9店舗を展開するISE広島育ち(佐伯区)と、お好み焼アカデミーは9月4日午前11時からリーガロイヤルホテル広島でお別れの会を開いた。多くの人が集い、穏やかだった人柄をしのんだ。
その歩みに、こんな話がある。焼きそばの上にお好み焼きを乗せて焼くとうまい。たちまち評判になり、それがそば入りの丸い、いまの原形になった。初めは割り箸を使っていたが費用が嵩むため、鉄板の上でヘラを使って食べれば皿も割り箸も使わなくて済む。お好みソースも考えついた。人一倍に熱心だったからアイデアも次々に湧いたのだろう。広島特有のスタイルがあちこちに広まっていった。
鉄板と小麦粉、戦禍と女性の頑張り、お好みソースとヘラ、やがて世界へ出店するまでの歩みは戦後の広島の歴史とも重なり、先人の知恵とたくましさが支えてきた。