広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
それぞれに個性的な経営者の言動は興味深い。時にはあまりに茫洋(ぼうよう)とし、問いをはぐらかされることもある。その人の体の中に入らんと本音は分からんという。とうてい無理な話だが、垣間、意外な一面を見せることがある。
今年で創業60周年を迎えた東亜地所の記念パーティーが8月3日、市内ホテルであった。創業者の西本辰男さんは牛田町(東区)の山持ちの末っ子に生まれる。地元の山を切り開いて宅地造成したのが始まり。その後、高度経済成長期のマイホームブームに乗り、頭角を現す。次々と大型団地を開発して広島の住宅業界を引っ張ってきた。取材に出向くとポーカーフェースながら興味津々の話題が次々に飛び出した。
優良な宅地開発事業と良好な居住環境の宅地供給に寄与したとし、1987年に建設大臣表彰、89年に藍綬褒章、98年に勲五等双光旭日章を受ける。東亜地所とグループで建築部門の東亜ハウスの両社代表取締役会長に在任中の志半ば、2006年8月17日亡くなる。78歳。葬儀で、幹部社員が在りし日のエピソードを交えながら、
「本当に凄(すご)かった。一喝されると身動きすることさえできなかった。それで、何で何にも言わんのか、と言われても頭の中は真っ白でした。何くそ、と頑張っていると、陰では親身になっていろいろと支えていただいた」
と遺影に語りかけた。西本さんは特有の経営観を語る一方、厳しい表情を一瞬和らげ細やかな気配りも見せた。
戦後の復興を経て世界を席巻した日本経済。世界の大手銀行上位10行のうち日本の銀行が過半数を占めるなど、わが世の春を謳歌(おうか)した。まして群集心理が働いたのか、こぞって不動産融資に躍起となりバブル経済を起こす。しかし土地高騰に危機感を抱いた政府の「不動産融資総量規制」などであえなくバブル崩壊。後に「失われた30年」とも言われる長い、長い不況のトンネルへ突入した。
広島の住宅業界も大波に洗われ、相次いで経営破綻が表面化。次第に郊外から都市部のマンションへと主戦場を移し、各社は営業戦略の見直しを迫られた。10年に3代目に就いた西本義弘社長は、
「かつてはマイホームに夢を託し、あこがれを抱いていた人が大勢いました。大型団地が郊外へ広がり、目白押しのありさまだった。それから数十年が過ぎた頃、郊外に住む高齢者の方が便利の良い所へ住み替える都心回帰が進み、加えて若者のマイホームに対する意欲も次第に薄くなってきたように感じる。ゆとりのある生活を楽しみ、決して無理をしたくないという考え方の表れなのでしょうか」
同社が開発した廿日市市の団地「宮園」2000区画は発売からほぼ5年で完売。続く東亜祇園ニュータウン「春日野」は今年3月、全2453区画を完売した。開発段階から20年の歳月が流れた。むろん宅造事業は景況や住宅事情などに左右されるが、住宅購入者の意識も時代とともに大きく変遷した。
国交省の18年度統計によると空き家は全国に849万戸。業界全体に新たな戦略が問われている。東亜グループは小規模な宅地開発、住宅の買い取り再販、分譲マンションの三つを柱に据え、営業展開する構え。2年前に始めた再販事業は創業来供給してきた約1万7000戸を中心に進める。60年を積み重ねた財産を生かさない手はない。
動態調査の結果によると、今年1月1日時点での日本人人口は前年から80万人以上減り、統計開始以降で最悪になった。全都道府県でマイナスとなるのも史上初という。
全体的なパイ縮小に加え、広島県は2年連続して県外への転出者が県内転入を上回る「転出超過」で全国ワースト1位。このままでは若者が減り、産業が衰退していく危機感が募る。県は地元経営者や人事担当者に呼び掛け、昨年から大学生へ仕事の特色や広島暮らしの魅力を伝える「業界研究講座」を始めた。
7月末までに広島女学院大学、広島工業大学、広島文教大学などで各回2〜3社が学校へ赴いたほか、夏以降には立命館大学など、県外の大学でもオンラインを活用して同様の活動を計画。県内外の約25校で実施する。
登壇する企業も熱が入る。人材確保につながる好機として若者の心をつかむ、独自の取り組みの紹介やプレゼンテーションに工夫を凝らす。6月に広島市立大学で講演したウェブサービスのフォノグラム(中区)は50人以上の学生を前に、企業サイトなどを活用したウェブマーケティングの需要が一層増えてくると業界展望を説明。個人の判断で在宅勤務と出社を選べる点や社員間のニックネーム制度、オフィス内に卓球台やバランスボールを置くなど、自由な社風も伝えた。
広島文化学園大学の坂キャンパスでは7月、アミューズメント事業などのプローバホールディングス(安佐南区)が人事担当者と同校OBの若手社員の2人で登壇。90人近くの学生を飽きさせぬよう、掛け合いで30分間、OB社員が仕事内容や就職活動時の体験談などを話した。
県は、大学3年生を主なターゲットにオンラインイベント「就活スターティングガイダンス」を6月上旬の平日夜、5日連続で開いた。世界への挑戦や街づくり、IT・DXなど、日ごとに異なるテーマに沿って大創産業、中国新聞社、マツダ、広島銀行、イズミといった有名企業10社が県内外学生へ取り組み内容を説明。併せて夏休み期間に開くインターンシップ(就業体験)への参加を促した。
夏休みは「パッケージ型インターンシップ」と題し、学生は9コースの中から地域貢献やキャリア教育、理系向けの専門教育など興味関心のある就業体験プログラムに参加する。3社での実習に事前と事後の学習会をセットにした計5日間、本格的な就職活動を始める前の1・2年生を中心に受講。受け入れ企業は八天堂、ウッドワン、モルテンに加え、佐伯区で新工場の建設を進めるカルビー(東京)など。企業もねじり鉢巻きで真剣そのもの。
現代の「Z世代」の学生たちは残業時間の少なさや休日の多さ、在宅勤務やフレックス勤務といった柔軟な働き方ができるかどうかを重視する傾向が強いという。仕事への意欲が低く感じる、といった嘆きもよく聞くが、結婚や子育てへ真剣に向き合いたいという意識もあるのだろう。
学生からの質問は、男性を含めた育児休業や時短勤務の取得に関する内容も目立つ。若者の減少、流出をくい止めるために行政と企業が一体となり、彼らの価値観を理解した上で仕事の楽しさ、やりがいをどう伝えるかが一番の決め手。工夫が要りそうだ。
信長は人材登用の達人だったと伝わる。急ピッチで拡大した版図とともに急膨張した業務をこなすため、身分などに関わりなく家来の能力を素早く見抜き、抜擢する必要に迫られたのだろう。
急成長企業には人材不足が露呈し、破綻するケースが多く、人材登用は会社経営の要諦という。いつの時代も、指揮官の誰もが適材適所に腐心しているのだろう。国境を越えて経済、企業経営が新たな時代へと突入したためか、仕事の価値に応じて賃金を支払う「ジョブ型人事制度」を導入する企業が増えてきた。年功序列の経営では立ち向かえなくなった危機感からか、あるいは社内から高度な人材を調達することに見切りをつけたのか、近年、大手企業が相次いでジョブ型人事制度を採用しニュースになった。
山根木材グループ(南区出島)はジョブ型に移行して4カ月が経過した。職務内容と報酬体系を明確に定義し、ジョブディスクリプション(職務記述書)に基づいて報酬・評価・教育を行う仕組み。日本ではそんなに簡単ではないといった意見も多い中、優秀な人材を確保・定着させるため、準備期間に1年以上をかけ、慎重を期した。
管理、営業、設計など約200個全ての職務を定義。従来は存在しなかったマーケティングの職務も設けた。SNSの運用など、ウェブ系の仕事が増えており、その仕事の価値を評価した。
2023年4月に新卒採用した人材をいきなり新設の職務に登用。海外経験を持つ大学院の卒業生で25歳。マーケティングの知識と能力を備える。従来の人事制度は有能な人材から就職先として選ばれないといった難しさがあったが新制度で仕事の価値に見合う報酬を提示。それでも大企業より低いというが、希望の職務に魅力を感じたことが一番の動機になった。岡田宏隆専務は、
「旧ルールでは高度な能力のある人材をリクルートし、育てることも難しいといった課題があった。価値の高い仕事に見合う報酬を支払うのは論理的に当たり前。みんなが希望の職務に挑戦できる機会を広げたい」
職務記述書は『これをやりなさい』といった具体的な行動や数字のノルマではなく、会社が求めるビジョンやミッションに絡めて、従事する人に期待することを抽象的に定めている。
「移行後のアンケートで6割を超える社員から回答を得て200件超の指摘や意見があった。今後3年間は移行期間として職務の棚卸と質の向上を図り、定着させたい」
報酬は職務に応じて上限・下限を設定。自らのキャリア形成で必要と考える職務に自発的に応募できる「オープンポジション制度」も始め、新たなスキルの取得を奨励して上位の職務、もしくは異なる職種への挑戦を促していく。
「人事は採用、異動・配置、退職・再雇用など人の流れに対して教育、等級、評価、報酬といった施策を的確に行うことで経営理念やブランドアイデンティティを実現し、社員一人一人の輝きを生み出す仕事。さまざまな価値観や経験・能力の異なる人材が認め合い、新しい価値を生み出すことは個人、企業の成長にとって何よりも重要です。ジョブ型で社員の自己実現を図り、誰もが生き生きと働く場にしたい」
意識改革は簡単ではない。企業文化として根付くまで根気も試されそうだ。
2016年のプロ野球日本シリーズ。25年ぶりに出場したカープはファイターズを相手にいきなり2連勝し、一気に頂点をつかむと思えたが、そこから4連敗。カープファンを黙らせた敵将、栗山英樹さんは3月にあったWBCで世界一の監督に輝く。7月13日に札幌市であった全国私立大学就職指導研究会のセミナーで「信じる力と伝える力」と題し、講演した。
「通常であれば開幕に向けた調整の時期に、選手が体と気持ちを最高の状態に仕上げるのは想像以上に難しい。疲労がたまればシーズンに影響するだけでなく、けがの可能性も高まる。過去にはそうした理由から選出を辞退した選手もいた。それでも日の丸のために全力で戦いたい、というスイッチを入れるのが仕事」
特に、所属球団と何十億円という額の契約を結ぶメジャーリーガーの招集には腐心。リスクを考えると、二つ返事で承諾してくれる選手はいない。そこで栗山さんはまず自身の思いを熱く、余すことなく伝え、そして返事をずっと待つことにした。
「普通の交渉では、例えば何カ月以内と期限を決める。もし返事がなければ連絡し、結論を尋ねるのが当たり前。しかしそれは、全てを出し切っていないような気がして失礼だと感じた。だからどんなに返事が気になっても、期限を過ぎようとも、こちらから連絡はしないと決意。それが私の思いを表すと信じた」
大活躍した大谷翔平をはじめ、鈴木誠也(後にけがで辞退)などの招集に成功。中でも最年長のダルビッシュ有の存在は大きかったという。
「他のメジャー選手は契約の関係上、大会の直前まで合宿に参加できなかった。初日から合流したダルビッシュも練習試合の出場は制限され、調整の面ではギリギリまで米国に残った方が好都合だったはず。それでも若い選手との橋渡し役を担うべく、リスクを承知で来てくれた。彼の心意気こそ侍の魂。チーム一丸となるきっかけだった」
ダルビッシュが先発した予選2試合目の韓国戦でアクシデントが起きた。試合前、カープから唯一選ばれていた栗林良吏が腰痛を発症。さらにゲームでは遊撃の絶対的レギュラー、源田壮亮(西武)が右手小指を骨折してしまう。その2人への対応は、全く異なるものだった。
「源田は代え難い存在。世界一のため西武に許可を取り、本人の意思や指の状態も確認した上で残すことに。一方で栗林。球団は残していいと言ったが、投げられる体ではない。しかし彼にも魂があり、そこに触れると情に流され、判断を誤ると思った。だから何も聞かず、広島へ帰るよう言った」
リーダーは誰しも情と結果のはざまで揺れる。しかしWBCでは何より結果を重視したと語る。決勝戦で大谷とダルビッシュが登板した経緯についても明かした。
「体力面では投げられるか微妙だった中で、2人とも自ら準備を始めていた。その姿勢が最高の結果につながったと思う。大谷が二刀流を始めた時も感じたが、人は困難なことに挑戦すると力が伸びる。選手の気持ちに火を付け、挑む環境を整えてあげることが指導者の役目」
信じる力と伝える力。勝負の世界の重圧に耐え、つかんだ信条なのだろう。ひょっとするとあるかも知れないと期待が高まる新井カープ。その二つの力こそカープを突き動かしているように映る。
いま、どのような人材が求められているのか。産業界で事業構造の変革が加速し、企業の採用活動にも大きな変化が起こっているという。北海道から沖縄まで235大学でつくる全国私立大学就職指導研究会(事務局=東京)は7月13日、北海道の札幌グランドホテルで「企業と大学との就職セミナー」を開いた。
道内中心にコンビニエンスチェーン「セイコーマート」を1200店近く展開するセコマの丸谷智保会長が「地域と共に歩むサステナブルな経営」と題し、講演した。(公財)日本生産性本部の顧客満足度調査によると、コンビニ部門で7年連続し全国トップ。道内の店舗数も全国最大手のセブンーイレブンを上回る。丸谷会長は、
「地域密着が事業の本質にあると思う。地元に支えていただくため道内産品を数多く使用。原材料の生産・調達〜加工〜物流〜販売といった過程をグループ企業内で管理するサプライチェーン経営で効率化を図り、過疎化が進む地域であっても、どうすれば出店できるのか考えた」
現在は道内179自治体のうち175市町村に出店し、離島も含めた人口カバー率は99.8%。2014年12月には人口わずか1200人の小さな村に新店をオープンした。コンビニ経営は最低3000人の商圏人口が必要とされる中、地域からの切実な嘆願が決断を促したという。
「村中心部にあった商店が閉じ、村長から直々、住民のためにどうしてもと頼まれた。土地は村が無償に近い価格で貸してくれた。物流は他店への配送ルートに組み込むが、店単体では赤字やむなし。グループ全体でカバーできればという想定だった。案の定、暫く赤字続きだったが、徐々に業績を伸ばし、いまは安定した経営を続けている。リピート客をつくったことが大きい。極論すると住民が朝昼晩と繰り返し来てくれると採算は取れる。地域興しのための出店だったが、道民の生活を支える地域残しの方が先だと知った。ニーズに沿い、少しでもいいから黒字を出し続けること。地域貢献といっても短命で終わってしまえば住民にとって大迷惑。継続できなければ意味がない」
北海道は課題の先進地域と表現し、高齢化や食品ロスの問題についても語った。
「1カ月のうち最も売り上げる日は年金支給の15日。高齢者の生活はそれほど社会保障へ依存している。われわれは付加価値を高めるのではなく、売値と品質をそのままに原価を下げる削減価値の考え方が必要。例えば低脂肪乳の製造時に出る脂をバターや生クリームに、メロンの規格外品をソフトクリームに加工。本来なら捨てるものを売って得た利益をコスト低減につなげている」
今後は海外展開やネット販売にも乗り出す。グローバル人材を重要視するが、基盤はローカル市場にあるという。逆転の発想というより、むしろビジネスの本質を突いた考え方が根本に流れる。
ポプラ(安佐北区)は5月に就任した岡田礼信社長が指揮を執り、高齢者向け冷凍食品の製造販売分野に本格参入する。セコマと同様、社会課題と正面から向き合う事業に挑むほか、地場産品とのコラボ商品の拡販に力を入れており、地域と一体となった取り組みが進む。
続いてWBCで世界一に導いた栗山英樹監督が「信じる力と伝える力」と題し、講演した。次号で。
木地、狭間、宮殿、須弥壇、錺金具、漆塗・金箔押し、蒔絵。金仏壇づくりになくてはならない七匠の技だ。仏壇・仏具製造販売の三村松(中区堀川町)は昨秋、浄土真宗本願寺派広島別院の親鸞聖人厨子を修復し進納(献納)を無事終えた。総代を務める社主の三村邦雄さん(75)は、
「被爆50回忌の修復以降、厨子はそのまま時を経て、すすで黒ずんでいたが、漆を塗り替え、金箔を貼り替え、新たな輝きを取り戻していただいた。広島は安芸門徒の地。焦土と化した被爆直後でさえ、あり合わせの材料で木箱のような仏壇をこしらえて拝む人の姿があったと伝え聞く」
戦後間もない昭和30年代、「金仏壇を拝みたい」という切実な声が多く寄せられていたという。経済復興とともに仏壇需要が高まり、三村松は家内工業から生産体制の近代化を図った。仏壇づくりを細分化。分業制で安定した品質と納期、仕様変更も迅速な対応を可能とした。遠隔管理で製造できる仕組みをつくり、開発から一気通貫で生産に入ることができる。直営10店舗と全国卸の営業体制を敷く。国内外直営11工場のうち、中区南吉島の広島工場は最高級仏壇や金仏壇の修復を手掛ける。広島別院の厨子もここで生まれ変わった。
今春、金仏壇製造出荷本数で44年連続日本一に輝く。三村さんは全国1万強の寺院を擁する浄土真宗本願寺派の全国門徒総代会会長の3期目を務める。
「お寺は日本人の心のふるさとではないでしょうか。仏教が海を越えて伝わり、戦乱の世にあって心の安寧を願う人々のよすがとなった。仏樣に手を合わせ、生かされていることへの感謝が心にゆとりを生み、指針となり、前を向く力になっていると思う」
毎朝、仏に手を合わせて仕事を始める。折に触れてお経を唱和する。心を一つに業務に臨む習慣が三村松の日本一を支えているのだろう。
少子高齢化が進み、生活スタイルも様変わり。コンパクトでシンプルな仏壇や修復需要が全国的に増え、柔軟に対応している。いかに筋肉質の経営体質をつくり、多様化するニーズに応え続けられるかが、伝統技術を守り抜く鍵になるという。仏壇づくりで培った技は古来伝わる寺や神社修復、納骨堂の新築などにも生かされている。
今年で158周年。いまの生産体制へと発展させた、世の動きを見抜く鋭い感性が生かされている。三村さんは街歩きするときも変化に目を向け、その背後に何があるのか旬な情報収集を怠らない。しかし伝統に立脚した信条がぶれることはない。
「いかに技術革新が進もうと現場、現実、現物に向き合うことが大切だと思う。ものづくりに携わる者にとって現場で初めて気付くことがある。オンラインで遠隔画像を見ることはできるが、現場のちょっとした気付きが大きな改善につながることが多い。三つの現から乖離(かいり)したら机上の空論になる。伝統の力と和を尊ぶ日本人の心を継承していくためにも、現実を見失ってはならない。社会から求められる存在意義のある会社になるよう一層精進します」
今年は浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の生誕850年。三村さんは、800年を超える教えが息づく親鸞の言葉「遠慶宿縁(おんきょうしゅくえん)」(出典・教行信証)を胸に刻む。以前からの全ての縁(宿縁)に感謝し、縁をつないでいこうという心の支え、商いの励みともいう。
どこに立って街の景色を眺めるのか。高い所か、低い所か、同じ街なのに、がらりと景色を変える。価値基準によって歴史の受け止め方も異なり、いままで見えなかったものが姿を現すことがある。歴史を通して広島の街をのぞくと、いままで知らなかった事実が浮かび上がってくる。
流通大手イズミの創業者、故・山西義政さんの個人コレクションを所蔵する泉美術館(西区商工センター)で特別展「広島の記憶」が開かれている。軍都として多くの人や物資を呼び込んだ戦前期から原爆投下と敗戦を経て、1952年の平和条約発効による主権回復までをフォーカス。どのように広島の街が変貌したのか、当時を捉えた写真、資料、新聞記事、ジャーナリストのルポなどからたどる。
当たり前にあった人々の平穏な暮らし。軍都へと突き進んだ経緯。原子爆弾で一瞬に廃墟と化した街。世界を震撼させた事実の多くは、プレスコード(GHQによる言論統制)で覆われた。特別展を企画したNPO広島写真保存活用の会代表でクリックファーム社長の松浦康高さんは、語る人が少なくなってきた広島の記憶をどのように伝えていけばよいのか、模索する。
「多くの人があまりにも知らなさすぎるように思う。軍需産業の盛んな街だから標的にされたのか、原爆の威力を試すために格好の地形を選んだのか。被爆した街、市民にとって理不尽な歴史を風化させてはならない。被爆後12年がたった広島の実態を目の当たりにした写真家の土門拳は知らされなさすぎたと吐露。その言葉が広島の記憶を集め、伝える動機になった。歴史をひもとき脳裏に刻み、感謝の念と共に後世へ引き継いでいく。広島の記憶展が少しでも役に立つことができればと願っている」
松浦さんはイズミに23年間勤務。中区新天地に61年に開店したスーパーいずみ1号店を業態変更し、85年開業した若者向けファッションビル「ウィズワンダーランド」立ち上げに携わった。98年には西日本最大規模のゆめタウン高松の立ち上げに関わり、長崎の夢彩都オープンを見届けた後、好きな写真で独立した。もともとはカメラマン志望。現在はゆめタウン3店舗のデジタルサイネージや広報の写真を請け負う。
46年、山西さんが広島駅前で始めた露店を起点に連結売上高7000億円(旧会計)規模に発展したイズミの50年史制作に関わったことも遠因になった。
「歴史に向き合って初めて自分の立ち位置に気付き、物事を見極めることができるようになると思う。いまはネットで素早く情報を手に入れることができる。果たして何が必要な情報なのか、自分の頭で考え、判断できる立ち位置を構える。そうしないと情報に振り回されるだけの時を過ごすことになる。歴史を知ってわが街、わが人生をより愛することができるようになるのではないでしょうか」
イズミ50年史は戦後の広島の歴史とも重なる。年史につづられた行間から誇りも芽生えてきたという。
「革新、挑戦、スピードの三つの旗印を高々と掲げ、西日本一の流通業へ発展を遂げた軌跡は先輩から後輩へと受け継がれてきた知恵と努力の連続だったように思う」
情報技術の便利さに依存することなく、丁寧に歴史のページをめくる探求心、根気が求められているように思う。特別展は8月27日まで。
G7広島サミット初日にグランドプリンスホテル広島で会議を終え、各国首脳は観光型高速クルーザーで宮島へ。船上のテレビカメラは夕日に染まる美しい瀬戸内海の風景を映し出し、世界を魅了したのではないだろうか。
翌日の会議で、海洋汚染対策や生物多様性の保全などがテーマになり、具体的に取り組むための連携強化が確認された。中でも海洋プラスチックごみ問題は危機的な状況に陥り、解決が急がれている。2019年のG20大阪サミットは50年までにプラごみによる海の追加汚染をゼロにする「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」を採択した。
これを踏まえ、広島県の湯崎英彦知事は廃棄プラスチックの新規流出ゼロを目指す「グリーンSEA瀬戸内ひろしま宣言」(GSHIP(ジーシップ))を表明した。40年までにペットボトル、プラボトル、食品包装・レジ袋の主要3品目を、50年までに全てのプラスチックの流失をゼロとする方針を打ち出した。21年6月から県内企業や団体を巻き込み、プラスチックの使用量削減、プラごみの流出防止、情報発信などに取り組んでいる。これに賛同する会員は110社・団体(市町含む)に上る。
G7サミットも意識を醸成する場になった。試飲食ブースで包装商社のシンギ(中区)が開発したバガスモールド(サトウキビ由来の生分解性素材)製のお好み焼き容器やエフピコのエコトレーなどを提供した。清掃団体を登録し会員に参加を呼び掛ける仕組みも加速する。サミットの会場となった元宇品の海岸と宮島の包ヶ浦では開催前の清掃活動に380人が参加した。事務局を務める県環境保全課の増田晶次主査は、
「カキ養殖事業者にプラ資材の流出防止を求めたこともあり、県内海岸の漂着物量は18年度の72.4トンから21年度には47.9トンにまで減った。実は海洋ごみの7〜8割が陸上から流れ込み、全漂着物のうち生活由来プラごみが27%を占める。普段から使っているプラ製品の回収・再利用や代替素材への移行が急務。リデュース(減量)、リユース(再利用)、リサイクル(再資源化)、リニューアブル(再生可能)の施策を強化し、個別に取り組んでいた企業や団体を結び付け、連携を促すのがGSHIPの役目。相乗効果や新たな仕掛けを生みたい」
22年度までの連携プロジェクトとして、全国清涼飲料連合会は飲料容器以外を入れづらい設計のリサイクルボックスを広島市内中心に設置し、異物率を42%から25%に減らした。イズミはリサイクル会社などと協力し、カキ養殖用パイプを一部再利用した買い物かごをゆめモール西条で導入。商業施設レクトはプラ気泡緩衝材の回収・再利用に取り組む。カルビーなどはごみ箱の利用データ分析を基に回収頻度を最適化する仕組みを運用し、周囲の散乱がほぼ無くなったという。秋山日登美課長は、
「広島の宝である瀬戸内海の環境保全を目指し、先頭に立って県民や事業者と連携しながら推進していく」
外国人観光客も目立つようになった。JR西日本と瀬戸内海汽船はG7各国首脳が乗船した観光型高速クルーザーの特別シートをアピール。サイクリング人気も見越し、しまなみ海道周辺の定期航路時刻表の閲覧やEチケット購入のサイトもできた。観光と海洋汚染対策は切り離すことができない大命題。県民総出の力が求められている。
平和は、強制できるものではない。それは理解することでしか到達することができないものだアインシュタインは広島へ原爆投下のニュースに深い衝撃を受けたという。
体験から学び、歴史に触れて何を考え、どう思ったか。心を揺さぶる言葉がある。ひろしま平和記念資料館を訪れた各国首脳、著名人、ノーベル賞受賞者、世界の人々が残した「平和メッセージ」の記念碑をつくり、復興した広島の街を望む場所に設置して世界、後世へ伝えていく計画が進められている。
5月に開かれたG7広島サミットで初めて、各国の首脳がそろって原爆資料館を視察し、それぞれ芳名録にメッセージを記帳した。広島市とロータリークラブ(RC)が協力して、そのメッセージを日本語と英語で記念碑に刻み、広島を訪問したときの様子を捉えた写真も添え、南区の比治山公園に置く予定という。
碑は市内各所にある高さ145㌢、幅71㌢の原爆被災説明板と同じ形を想定。比治山公園「平和の丘」基本計画に基づき、近く完成する新たな展望施設などを候補地に、11月ごろを目途に10基近くを据えることにしている。 広島、山口県の72RCでつくる「国際ロータリー第2710地区」(井内康輝ガバナー)が企画した。碑の制作費を募り、完成後に市へ寄贈。市は碑の基礎工事を担う。これからメッセージ選考作業に入り、最終的に市が決める。
外務省によると、G7首脳が記帳した内容は、
岸田総理大臣 歴史に残るG7サミットの機会に議長として各国首脳と共に「核兵器のない世界」をめざすためにここに集う。
マクロン仏大統領 感情と共感の念をもって広島で犠牲となった方々を追悼する責務に貢献し、平和のために行動することだけが、私たちに課せられた使命です。
バイデン米大統領 この資料館で語られる物語が、平和な未来を築くことへの私たち全員の義務を思い出させてくれますように。世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう。信念を貫きましょう!
トルドー加首相 多数の犠牲になった命、被爆者の声にならない悲嘆、広島と長崎の人々の計り知れない苦悩に、カナダは厳粛なる弔慰と敬意を表します。貴方の体験は我々の心に永遠に刻まれることでしょう。
ショルツ独首相 この場所は、想像を絶する苦しみを思い起こさせる。私たちは今日ここでパートナーたちとともに、この上なく強い決意で平和と自由を守っていくとの約束を新たにする。核の戦争は決して再び繰り返されてはならない。
メローニ伊首相 本日、少し立ち止まり祈りを捧げましょう。本日、闇が凌駕するものは何もないということを覚えておきましょう。本日、過去を思い起こして希望に満ちた未来を共に描きましょう。
スナク英首相 シェイクスピアは「悲しみを言葉に出せ」と説いている。しかし、原爆の閃光に照らされ、言葉は通じない。広島と長崎の人々の恐怖と苦しみは、どんな言葉を用いても言い表すことができない。しかし、私たちが心と魂を込めて言えることは、繰り返さないということだ。
欧州理事会議長、欧州委員会委員長を合わせて9人。執筆者や翻訳者の同意が必要で時間を要することも想定されるが、碑は永く残る。
常識を覆されると大抵うろたえるが、チャンスをつかむ者も現れる。米国のオープンAI社が昨年11月公開した「チャットGPT」の功罪を巡り、たちまち世界中で議論ふっとう。何がどうしたのかと思うが、すらすらと文章をつくる。うかうかすると仕事を失うかもしれないが、一方で煩雑な作業から解放されて職場を変革するともいわれている。文章に携わる人にとってリスクか、それとも格段と便利になり、新しい世界が開けてくるだろうか。
地球が危ない。車の動力源をめぐり、化石燃料でCO2を振りまく内燃機関(エンジン)を廃止して電気、燃料電池、水素などで動かす車の開発競争が熾烈を極め、100年に一度の変革期という。
ガソリンスタンド業界にも大波が押し寄せる。ピーク時には全国で6万カ所を超えたが、次々閉鎖し、いまは3万カ所を割り込む。少子化、車離れ、省エネ車普及などで市場が様変わり。2035年には新車でガソリン車を購入できなくなる。今年10月で創業70年の綜合エナジー(安芸郡府中町茂陰)は2023年2月期で初めて、売上高100億円を突破した。3期連続増収を果たし、16年の54億円に比べて倍増。燃料価格高騰も一因だが、セブンイレブンと一体運営する災害対応複合店を展開し、まさに異種を組み合わせたハイブリッド経営で上昇カーブを描く。
市内と近郊エリアの全9店が年中無休で24時間営業体制を敷く。うち5店が給油とコンビニの複合店で洗車も24時間利用できる。これが奏功した。澤井昇三会長は、
「コンビニや洗車を利用するついでに給油してもらう来店動機を生み、その流れができた。動力源がどう変わっていこうともコンビニや洗車のニーズはある。どんな時にコイン洗車場を利用したいと思うのか。自宅で洗うより気兼ねなく、時間も気にしなくて済む。真夏の熱帯夜も洗車で有効に過ごせる。小さなことも顧客の立場になって必要と判断すれば実践する」
手頃な価格帯の機械洗車メニューをそろえ、使い勝手がいい。拭き上げ用タオルやエアチャージャー、マット洗い機は無料で使える。小さなニーズを満たしているサービスを提供できていることが、何より大きいという。
地域に欠かせない〝インフラステーション〟の目標を掲げる。災害時にも、安全で安定した生活の確保に少しでも貢献できるよう、システムや装備を整えた災害対応型SSへの転換を進める。1号店の新大州橋SSは通常時に売電するが、停電時は非常電源に切り替え、雨水と地下水で補い合う地下貯水槽でトイレや散水などに再利用。上水は5㌧容量の屋上タンクにためて使う。直営の全9SSは自家発電設備を置く住民拠点SSとし、府中町や坂町、東広島市と防災協定を締結する。八本松SSと沼田SSの電気は全て再生エネルギーで賄うエネルギー自立型の環境防災対応型とした。
「良いものをつくっても単純に売れる時代ではない。通販で台頭したアマゾンのビジネスモデルは、要るものを要るだけ要る時に手に入れることができる。人と飽きない関係を築き、心に寄り添うことが商いの原点だと思う」
インフラ拠点として必要なデータも蓄積しつつある。世の中の価値観が劇的に変化するパラダイムシフトに目を凝らし、耳を澄ませ、新たなチャンスと向き合う。
上田流和風堂(西区)の書院屋敷前庭に敷き詰められた砂利に置く7㍍15本の青竹の花筏。雨上がり、艶やかな青竹に8種の牡ボ タ丹ン を植えて5月19日、岸田総理夫人と各国首脳の配偶者を出迎えた。
当日までシークレットだったというG7広島サミットパートナーズプログラムの一環で総理夫人主催により、昼食会と茶会が上田流和風堂で開かれた。富貴の花言葉がある牡丹の美しさは、凜とした茶道所作の美しさとも重なり、日本文化の魅力を際立たせたのではないだろうか
分刻みのスケジュール。G7公式行事として厳戒態勢でのもてなしに臨み、入念な準備を進めた。国内で唯一、江戸期の書院屋敷、茶寮を廊橋でつなぐ構成を再現した和風堂は過去に国内外から多く賓客を迎え、広島の迎賓館の趣をみせる。上田宗箇流16代家元の上田宗冏(そうけい)さん(78)は、
「大切な人を迎えるときの、流祖宗箇の逸話が残されている。咲き誇る63株ほどの牡丹を切って一株だけ、18㍍の竹を数本横にした中に添え内露地に置いたという。戦いのさなかにあって動じることなく茶杓を削り、あるいは多くの城の作庭も手掛けたクリエーター宗箇らしいもてなし方に思える。さっそく新潟から取り寄せた牡丹は生き生きとして筏に乗っていた」
和風堂に訪れる前、平和公園で献花、原爆資料館見学などで重い歴史に向かい合ってきたばかり。戦いと文化。広島の貴重な思い出として多くの人に語ってもらいたい。
和風堂の書院屋敷は被爆を免れた。広島城内にあった頃の上屋敷絵図を基に30年近くをかけ、2008年に書院屋敷と茶寮和風堂を復元。屋敷はもともと江戸時代、将軍の〝御成〟を迎え、茶の湯を伴う接待が叶う場だった。
「浅野藩家老として上田家は茶の湯でもてなす数寄屋御成という習わしを長い歴史の中で育み伝えてきた。雨の日も御成門から屋敷に入れば廊橋(長廊下)を渡り、雨に濡れることなく茶室に向かえる。どなたであろうとも粛々と最高のおもてなしを尽くす。いまも昔もかわることのない、茶道の伝統と心得ています。滞りなく無事に終えることができた広島サミットを振り返えると、広島の底力を実感しました。毛利、福島、浅野と藩主が移り近代を経て、被爆による焼け野原から百万人都市へと復興を遂げた広島の歴史に目を向け、学ぶことが何より大切だと思います。それを未来へつなげ、豊かな文化の香る、深い奥行きを備えた都市へみんなで育んでいく。その一端を担うことができるよう、日々精進を重ねたい」
17代目を継ぐ若宗匠の宗そうこう篁さん(43)は、「何よりも、おいしいお茶を飲んでいただく。この気持ちを伝えようとすれば、自ずと美しい所作になるのではないでしょうか」
ズームのライブ配信によるウェブセミナーや動画、イタリア料理店での茶会など活動は広範囲に及ぶ。クリエーターの心意気を受け継いでいるのだろう。不易流行。変えてはならないものを守り、併せて新しい感性を注いでいく決意をにじます。
観光資料によると、訪日外国人観光客に人気の体験メニューは温泉、歌舞伎、殺陣、着付け、折り紙などと共に書道、華道、茶道の三つの「道」がベストテン入り。世界が日本文化に関心を寄せるいま、観光のときだけでなく、海を越えて世界の国々に茶道が息づく可能性を広げている。
被爆地で初めて開かれたG7サミット。戦争当事国ウクライナのゼレンスキー大統領も参加し、国内外から注目を浴びた。世界にどんな影響をもたらすだろうか、今後の動きを見守りたい。
地元経済界が主催し、5月18日〜6月11日に「Pride of Hiroshima展」を旧市民球場跡地ひろしまゲートパーク大屋根ひろばで開いている。広島の戦後復興から現在、未来への展望を広く知ってもらおうと企画した。マツダ、イズミ、エディオンなど26社が当時の製品やパネルを設置。マツダは戦後生産した三輪トラックを置く。説明文に、
『終戦直後の混乱の中、ある者は復旧ままならない鉄道を乗り継ぎタイヤを求めて九州へ出向き、ある者は燃料タンクを譲り受けて鉄板を切り出した。希望が実を結び、1945年12月に10台の三輪トラックを生産した。戦後わずか4カ月後のことであった』
同社100周年史に戦後の印象深いエピソードを記す。
『本社敷地内の付属医院は負傷者であふれ、生き残った社員は悲嘆と虚脱を振り払い、負傷者の介抱にあたった。倉庫の医薬品はすべて提供し、食堂や寄宿舎を開放。比治山が壁となり壊滅を免れた同社社屋を間借りしたいと、県庁や地元企業から相次いで要望があり、自社の操業再開にも目途が立たない状況であったが、社長の松田重次郎は二つ返事で受け入れた。決して広くはない社屋に官民入り交じって人々がひしめき合う。困ったときの助け合い。人の心のごく自然な振る舞いだった。焼け野原になった町を見つめる重次郎にとって、この奇跡だけが希望の光だった。この出来事を境に、東洋工業(現マツダ)と郷土広島とのきずなは、揺るぎないものになっていった』(要約)
みんなが力を合わせて復興の原動力を生み、資材輸送などを下支えしながら経済再生につなげた。海外向け三輪トラックのパンフレットに「a pride of Hiroshima」と自信を示し、その鮮やかな文字が目を引く。丸本明社長は、
「復興を担った人たちの生きざま、企業の姿は今の私たちへの叱咤激励に聞こえる。戦後間もなく地元の主要企業が二葉会を立ち上げ、カープ設立に出資。市民がたる募金で支えた市民球場跡地でこうした展示を行う意義は大きい。伝え続けたい」
オタフクソースが再現した戦後の屋台、食糧需要に応えたサタケの精米機なども展示。広島商工会議所会頭の池田晃治実行委員長は、
「絶望から明日に向かい、一丸となって成し遂げた姿は誇らしい。ウクライナの人道支援を目的に、来場者からツイッターで感想や平和のメッセージを投稿してもらうたびに実行委員会から日本赤十字社に100円を寄付。双方向性の波及を期待している」
松井一実市長は、
「展示内容は英語併記で外国人にも伝わりやすい。インバウンド増加が予想される中、イベント終了後も広島駅やバスセンターなどに設置してもらえないか、検討したい。過去を知り生かせる場所や動機付けの機会を街の至る所につくることが、市役所の使命だと思う。サミット各国首脳に慰霊碑に刻まれた言葉を説明した。被爆した方々は自分たちのような経験を誰にもさせてはならないという強い思いがあり、個人を超えた人類愛に及ぶ。争いの悪循環を断ち切らなければならない」