広島の文化と流通を支えてきた大動脈の「西国街道」は、古代から中世まで京都と太宰府をつなぐ山陽道(約650キロ)として宿場町や一里塚などが整備されており、江戸時代は参勤交代をはじめ、万人が往来したという。
中区の仏壇通り、本通商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)は、市が描く「広島駅周辺地区」と「紙屋町・八丁堀地区」をつなぐ「楕円形の新たなにぎわい構想」に呼応して西国街道を復興させることにより、市中心部の東西の核である両地区のにぎわいを都市全体に広げることを目的に、さまざまな活動を展開している。関連資料も集めており、城下町と街道について、
−毛利輝元が建てた広島城中心に城下町になった広島。その城下町を東西に貫く「西国街道」は当時、城下町より北を通っていた。しかし毛利氏から城を引き継いだ福島正則は、広島城下を東西に貫通するように移設。街道沿いにあった屋敷も移動させ一帯を町民の居住区にした。この時のにぎわいが今の広島のにぎわいに息づく(要約)−。
1619年に浅野氏が広島城に入城。協議会は、江戸期から今日までのひと、もの、伝統、技術などを掘り起こすとともに、西国街道らしい特産品の開発や、まちづくり提案などに取り組む。
広島藩の財政を支えた産業を総称して「3白、7り」という。3白は、紙(大竹)、綿(広島)、塩(竹原)の3つが白いことに由来。7りは特産品のあさり、いかり(碇・尾道)、かざり(仏壇金具)、くさり(船舶の碇をつなぐ鎖)、のり、はり、やすりの7つ各「り」を指し、軽妙に10品をくくる。時代を経て拡大あるいは縮小しながらも今に受け継がれており、こうした産業や文化などが人から人へ伝わり、広島の礎を形成している一端をうかがわせる。
西国街道の歴史を日本語と英語で併記した「文化の大動脈・西国街道マップ」(仏壇通り活性化委員会制作)は、広島城下絵屏風や、広島諸商仕入買物記、四國五郎作「猿猴橋新春」などそれぞれの資料を元に、広島の発展を支えてきた経過を解説。
広島市郷土資料館の本田美和子学芸員、歴史研究家の佐々木卓也氏をアドバイザーに迎え、実際にまちを歩いて西国街道への理解を深め、課題や情報を共有することからスタート。子どもたちに自分たちが住んでいる郷土の歴史を学んでもらい、郷土愛を育みたいと、沿道の小学校中心に「出前授業」を実施。駅前大橋東詰めの歩道に西国街道をデザイン化した大型の案内板設置を予定するほか、まちなか西国街道グランドデザインを制作し、道路標識(色分けなど)での可視化を目指して市と協議を重ねている。西国街道をかたどったマンホールを街道沿いに配置すべく、市と広島市立大学芸術学部と連携してマンホールのデザインを制作中。9月を目途に「広島城入城行列」構想を描く。国が提唱する「夢街道ルネサンス」認定地区の指定を受けるなど、本年度もさまざまな計画が動きだす。
こうした活動を契機に、広島に暮らす人が広島の歴史を知り、語り伝え、広島に誇りを持つことで、広島の発展につなげたいと目標を定める。