広島の経済界と、桃山時代の武家茶道を伝える上田宗箇流との関わりは深い。西区古江東町に拠点を置く(公財)上田流和風堂の理事にマツダ、中国電力、広島銀行をはじめ広島を代表する企業トップらが名を連ねる。経済と文化。この関わりを解き明かす、一つのエピソードがある。戦後、上田流にとって一大事業となった「上田家上屋敷」の構成再現に経済界が率先し、寄付活動を展開。広島のかけがえのない伝統文化を支えていく機運が次第に高まり、次代へとつながる有形無形の貴重な価値、財産を地域ぐるみで守っていく起点になったのではなかろうか。
およそ400年前の、広島城にあった武家屋敷の配置を描いた絵図面によれば、今の広島県庁やひろしま美術館がある辺りに、上田家上屋敷があった。しかし昭和初期には現在地へ移っていたため、被爆による直接的な被害を免れて多くの古文書や、宗箇自作の茶わん「さても」などの名品の数々が残ったのが、大きかった。
絵図などを参考に、1979年から30年の歳月をかけかやぶき屋根の数寄屋「遠鐘」などを再建。そして2005年に着手し、08年に書院屋敷を構成再現。茶室、数寄屋建築研究の第一人者である京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生さんが建築設計・監修、庭園の設計・監修は作庭家の齋藤忠一さんが担当。
現在の16代家元の上田宗冏(そうけい)さん(74)は当時、上田流の若宗匠として経済界以外では初めて、1984年に広島青年会議所の理事長に就任。こんな話をしてくれた。
「不易流行という言葉があります。いかに時代が移り変わろうとも変えてはならないものがあるが、例え、伝統といえども時代、時代を取り入れていかなければやがて陳腐化し、取り残されてしまうという禅の教えです。私どもの茶道も不易流行の調和こそ大切だと思っています。広島の街は、原爆で多くの建物が失われました。しかし、できるだけ忠実に復元し、再現された建物は、歳月を経て、再び歴史的な価値をよみがえらせてくれるように思うのです」
古都奈良の東大寺は、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失。再建で間口が3分の2に縮小されているが、1998年にユネスコの世界遺産に登録されている。
「中村昌生さんとの出会いがあり、上屋敷の構成再現へ向かう過程で多くの示唆を頂いた。寄付集めに歩いていただいた宇田誠さん、多田公熙さんら経済界の多くの方々の協力を得て念願をかなえることができました。戦後の経済復興を経て、ようやく文化への関心が高まってきた頃とも重なり、まして人との出会いという運に恵まれたとの思いが強いです」
と感謝を胸に刻む。
被爆で一瞬にして街は瓦解(がかい)し、誰もが生きることで精いっぱい。茶の湯をたしなむ余裕はなく、上田流も危機にさらされたが、そこから立ち上がり、上田流の復興を成し遂げる道筋には計り知れない懸命な努力はむろん、目には見えない伝統の力があったように思う。それらが地域や経済界との強い絆となり、凛として武家茶道をたしなむことのできる空間を再び、今に創り出す原動力になったのではなかろうか。−次号へ