広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

2020年3月19日号
そのとき何をなしたか

杜甫の詩「人生七十古来稀なり」(70年生きる人は古くから稀である)に由来し、数え70歳(満69)で古希。
 弊社は1950年4月に創立以来、おかげさまで70周年を迎えた。約1年の準備を経て、翌年5月の本誌創刊から今週号で通巻3195号。古くから希などという感慨はないが、長年にわたり、ご愛読とご支援に支えられてきたことへの感謝の思いが深い。心より御礼を申し上げたい。
 当時の広島はどんな風景だったろうか。その年は6月に朝鮮戦争が勃発し、深刻な不況にあえいでいた広島経済も特需ブームに潤う。この辺りについて、広島地域社会研究センター発刊の「広島経済人の昭和史」に、
「歴史上はじめて本格的な技術革新をともなう産業合理化がすすめられた。このめざましいイノベーションが、もはや戦後ではないといわれた高度成長の幕あけとなって、実を結んでいった」
 被爆後、極度に荒廃、混乱していた広島経済にとって、くしくも朝鮮戦争よる米軍からの特需が、起死回生の大きな転機になった。貿易もいちじるしく進展。広島市の輸出実績は顕著な発展を示し、
「とくに昭和25(1950)年は前年の5.4倍にまで、いっきょに拡大」した。
 被爆直後の被害状況について広島県知事が国に宛てた報告によると、「全焼」は日発広島支店、中国配電、広島電鉄(電車90両焼失)、東洋製缶、旭兵器、広島瓦斯(工場共)、帝国人絹、倉敷工業、日銀支店、住友銀行支店、芸備銀行(のちの広島銀行)本店、帝銀支店、勧銀支店、中国新聞社、広島中央劇場映画館−とある。しかし、戦後の工業発展、地域復興をリードする大企業の工場は、全焼全壊地域のほぼ外側に立地していたため、被害は比較的軽微にとどまった。三菱重工業の広島機械製作所(南観音地先)や広島造船所(江波町地先)の両工場とも機械設備の損傷は皆無に近い状態だったという。東洋工業(現マツダ)の損害も軽微だった。その付属病院は一般に開放され、被爆者のための有効な救護所になった(広島新史・経済編より)
 こんな話もある。市民生活の安定に、電気の点灯が急がれた。「手のほどこしようのない破壊のなかで作業は営々にすすめられた。復旧にかり集められた従業員にも被爆者が多く、次々に亡くなった。それでも、8月末にはすでに市内の3〜4割に点灯するまでにこぎ着けた」という。
 市内電車の復旧も精力的に行われた。「無傷で残っていた電車はわずか3両。とにかく電車を走らせれば街に活気がでるだろうという一念で、作業を急がせた。9月末ごろにすでに広島駅から江波までの路線が開通していた」
 金融面の応急措置も急を要した。爆心地に近い銀行の多くはほとんど使用不能に陥っていた。「日銀広島支店の一階のみが、ようやく残されていた。そこを十二区分して各行の窓口にわりあて、9日から銀行業務が再開されるのである」(広島経済人の昭和史)
 そのとき何をなしたか。広島経済の源流をたどると荒廃の地から立ち上がり、復旧・復興に力を尽くした人々の姿が浮かぶ。危機にあってリーダーの指揮も、仕事に立ち向かう不屈の魂も失われていなかった証ではなかろうか。

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