あじかん創業者の足利政春さんが語った言葉の端々に、何とも言えぬ迫力があった。穏やかだが、日々精魂を傾けてきた体験の裏付けがあり、引き込まれる。途上で「いったん会社を閉じなくてはいけない」事態さえ危ぶまれたこともあったという。その岐路に立ち、何が明と暗を分けたのだろうか。
創業者が語る「あじかんの原点と経営思想」に、次の一節がある。
「母が私を膝の上に抱きながら『癇癪(かんしゃく)は癇癪玉という宝なんよ。宝物はめったに人に見せるもんではないですからね』などと言い聞かせられ、知らず知らずに私の血肉となり、生き方や経営観の底流になっています」
逸話がある。競合する同業者があることないことを言いふらして歩いたときも、自分自身に言い聞かせたのが「癇癪玉」の教えである。
「相手を誹謗(ひぼう)するような会社は、世の中で認めてもらえるはずがない。同じように誹謗して歩く会社になったら、相手の同じ位置に成り下がってしまうからやめとこう」
後に語れば簡単なようだが感情こそやっかいで、火の玉のような「やりがい」を引き出すこともあれば、怒りに負けて身を滅ぼす危険も待ち構えている。勘所だろう。
京都の吉田喜で修業し、玉子焼きの技術だけでなく商いのイロハも教わり、人を見る目も養ってもらったという。
「(吉田社長は)若い者を愛情とゲンコツで鍛え、一人前の職人に育て上げてくれた。修業中にはどれほど涙を流したかわかりません。しかし笑って過ごした楽しい思い出はほとんど記憶に残らないのに対し、涙するような苦しかった出来事は年々美化されて、あのときは大変だったなあと楽しく語ることで今あることを感謝できます。人間が生きられるのもそれゆえで、もし苦しい思い出が苦しいまま残っていたとしたら、とても生き続けていることなどできないでしょう。今は楽しく語れる苦労をいくつ持っているか。その数が歩んできた人生の勲章だと私は思っています」
経営のコツここなりと気づいた価値は百万両。松下幸之助の言葉である。
「この言葉に初めて接してからというもの、松下さんの著書を読み漁(あさ)りました。著書に−経営のコツとはどういうところにあるのか、どうすればつかめるのかということになりますが、これがまさにいわくいいがたし、教えるに教えられないものだと思います。経営学は学べるが、生きた経営のコツは教えてもらって分かったというものではない。いわば一種の悟りとも言えるのではないかと思います−と書いてあります」
日夜試案の末、眠りに就こうとした瞬間、パッとひらめくものがあった。あじかんを支えてくださる方々の喜びがコツではないか。自分の実践の中で気づいた「商いのコツ」です、とくくる。
3代目の足利恵一社長は、
「倫理と利益の両立が人を豊かにしていく。利益だけを追い求めても駄目。倫理だけでは経済が成り立たない。渋沢栄一の言葉です。資本主義の草創期にそう指摘している。学ぶとはいかに知らざるを知るか。ここから一歩を始め、生涯続けていきます」
誰も教えられない。わが手でつかむほかないのだろう。