広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
漢詩に「烈士暮年 壮心不已」(高い志を持つ人は晩年になってもその大志を為し遂げようとする)の一節がある。渋沢栄一は「六十、七十は働き盛り」と言う。
4月で75歳になった靴販売店を経営する住吉屋(中区胡町)社長の住田悦範さんは、17年前から1日1万歩を目標にウオーキングを続け、すでに地球2周以上歩いたというからすごい。
2月、JR西広島駅近くに新店「快足屋ウォーキング」をオープンした。
「ウオーキングを生活習慣にし、元気な人を増やしたいと出店を決意。靴を売るだけではなく、さまざまなイベントを催し、健康に関する情報を発信。体感・体験できる店がコンセプトだ。ウオーキングを核にした健康に関するコミュニティー拠点に育てたい」
ますます盛んである。歩きやすさを重視したコンフォートシューズとオーダーメイドの中敷きを扱う。既存の靴にサイズを合わせるだけではない。それぞれの足の状況を診断・計測し、靴の履き方、歩き方まで指導する。
それまでに中区と安佐南区で経営する靴販売2店を軌道に乗せており、あるいは新規出店に対して、少しちゅうちょする心が働いたのか、
「実は娘から猛反対されて、むしろ決心が固まった。還暦を迎える頃、歩く魅力を知り、それから人生が好転した経験がある。頑として信念を押し通した。93歳になる人生の先輩が毎週のように店に顔を出してくれる。その元気な姿を見るたび、もうではなくまだ75と痛感させられる。定年後、社会の役割を終えたと勘違いして、あっという間に老けていく人が多い。やりたいことをやり遂げる。心が元気なら何でもできるという自由な気持ちほど大切なものはない。幸せかどうか、全ては自分自身の心の在り方次第だと思う」
1904年に祖父が洋服のあつらえで創業し、4月で120周年を迎えた。先代の父が紳士既製服の販売を始め、自身が社長に就いた89年以降は紳士服チェーンとして急成長を果たす。しかし競合他社との競争激化、流通形態の変化などのあおりを受け、紳士服事業を次第に縮小。新たなビジネスを探す中で「靴」の面白さを発見し、販売業に乗り出した。2007年に紳士服店の一画に靴を並べて開業したが、やがて事業の柱へと成長を遂げ、21年に紳士服事業から完全撤退した。
「各地の靴販売店を見て回るうち、ピッタリ足にフィットした靴を見つけたときの感動が忘れられない。その靴は自分の足と一体化し、歩くことが楽しくなる。これまで紳士服などで相当数の店を開いては閉じた。いずれにしても商売は上手でないが、靴の選び方を極め、広めていきたいと思うようになった」
規模を追いかける経営は諦めたが、社会や人に貢献したいという思いはますます強くなっているという。ウオーキングは高齢者がやるものというイメージを払拭すべく、姿勢よく歩き、わずかでもおしゃれな服装を身に着けることを勧めている。
靴販売に乗り出した直後に始めた毎月のイベント「楽ちんウォーク」は計200回を超えた。飽きっぽいが、なぜかウオーキングと靴は日々新たな発見があると言う。はつらつとされているのだろう。
10年偉大なり、20年畏るべし、30年歴史なる、50年神のごとし。この言葉を教訓とし、精進を怠らない。
安全靴製造のノサックス(東広島市)が5月に創業100周年を迎える。記念式典を4月20日、南区のホテルグランヴィア広島で開いた。
年内には昔の社名「野口ゴム工業」を復活し、3代目の野口恒裕社長(76)から長男の隆志専務(47)へ事業承継を進めると発表。大きな節目の年に原点を振り返り、代々続く思いをつないでいく。
創業は大正13年(1924年)にさかのぼる。広島市南区段原日出町に「野口ゴム製造所」を設立。小さな靴工場を開いた。当時、広島は第一次世界大戦の兵たん拠点として栄えており、創業者の野口進さんは作業靴や軍靴を製造することで「軍都広島の発展」を支えてきた。
工場、建設現場などで働く人の足に合わせた靴を作る。その信念はぶれることなく、やがて経営を支える根幹となった。戦時下、供給物資が不足する中で「体を服に合わせろ、足を靴に合わせろ」と容赦なく、戦場の兵士は過酷な状況に置かれた。とても足に合わない靴を履く苦痛を経験させられた戦地から復員した長男の昌明さん(後に2代目)と共に働く人の足を守る靴の開発に心血を注いた。
「籠に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を紡ぐ人。われわれは良い草鞋を紡いでいく」
そう覚悟を決め、やがて大ヒット商品が生まれる。
戦後の混乱した経済から高度経済成長への足がかりとなった昭和30年代中頃、同社が考案した革付きビニール靴「キングクラウン」が飛ぶように売れた。日本国有鉄道をはじめ、全国のあらゆる現場で働く人の足元を守ってきた。
自社の技術開発だけにとどまることなく、業界の発展にも奔走。同業他社と共に安全靴工業会の発足に参画し規格の制定、安全基準の向上に尽力してきた。1969年には全国で初めて日本ゴム工業会から表彰。西日本最大手の安全靴メーカーへと成長を遂げた。何ごとにも替えがたい創業からの足跡を胸に秘める恒裕社長は、
「一見して非常識なアイデアにも果敢に取り組み、常識をひっくり返す製品を生み出してきた」
けれん味がない。県内初の作業靴キングクラウンは現在も主力製品として活躍し続けている。道路舗装工事用安全靴のHSKシリーズや高所作業用の鳶シリーズは軽量化、履き心地の良さを追い求め、ニッチトップ製品となった。
だが、決して順風満帆ではなかった。多角化を進め、順調に事業拡大を進めてきた昭和の後半。高度経済成長期の終焉(しゅうえん)を迎え、バブル経済がはじける。販売不振を乗り切るため組織改革を迫られた。2社に分けていた製造部門の野口ゴム工業と、営業部門の野口安全を統合。市の段原再開発事業を機に98年に本社工場を東広島市に移転させて再スタートを切った。
景気の浮き沈みに備える。多くの教訓をもたらした。最近は枠内にとどまらない新製品開発へ挑む。カープとコラボレーションした安全靴や、ガーデニングという新たなマーケットにも進出した。
2018年には欧州の安全基準認証を受けた安全靴を日本人の足に合わせて開発し、国内メーカーでいち早く販売を始めた。その後も米国基準を取得。21年に本部機能を中区紙屋町に移し、23年ぶりに創業の地へ戻ってきた。
過去を踏まえて未来を描く「彰往察来(しょうおうさつらい)」の言葉を胸に、広島から世界への事業展開を目指す。
日本に居る限り地震を避けることはできないが、人の命と暮らしを守る防災、減災に万全を尽くす使命があると言い切る。劣化が進むコンクリート構造物の健全化と長寿命化に心血を注ぐSGエンジニアリング(西区草津東)の加川順一社長は、
「コンクリートは高速道、ダム、橋、マンション、ビルなどに使われて日本の骨格を支えてきたが、長年の風雨にさらされるうち、表面だけではなく内部にひびが入り、もろくなっている。到底このまま放置することはできない。コンクリートを補強するIPH工法(内圧充填接合補強)を全国へ普及し、地震災害から命と暮らしを守る強固な街づくりに貢献したい」
社会的責任を果たす使命を企業目的の中心に据える。広島大学や東京工業大学などで実証実験を重ね、同工法の効果を検証。2012年に特許取得。14年には全国を網羅する(社)IPH工法協会を設立し、理事長に就いた。ほぼ全国で施工できる体制を敷く。実証実験を繰り返すうち、新工法開発に注ぐ情熱と、社会貢献への使命感がいつしか化学反応を起こしたのだろう。
4年前。平和記念公園内のレストハウス改修にIPH工法の採用が決まった。爆心地から170メートル地点で被爆し、地下室を除いて全焼したが、鉄筋コンクリート造だったことから原型をとどめた。歴史の語り部としてなるべく壊さず、後世へ残そうという判断が働いた。
構造物の原型を保ち補修、補強を行う手順として、直径7ミリの穴を10センチ前後の深さで穿孔(せんこう)。高流動性の樹脂を内部空気と置換して注入し鉄筋とコンクリートを接合する。実証値0.01ミリに至る微細なひび割れまで拡散するという。注入後は加圧した状態で養生を行い、構造物の強度回復・長寿命化を実現する。被爆建造物では16年に施工した猿猴橋に次ぐ。
愛媛県にある石鎚山の渓谷に架かる土木遺産「大宮橋」の補修・補強工事は四国の会員企業が中心となり、20年10月引き渡しを終えた。1927年竣工した鉄筋コンクリートアーチ橋の華麗な姿をよみがえらせ、(社)全日本建設技術協会の2020年度「道路部門」で全建賞に輝いた。
尾道市の千光寺山中腹で築60年を経過した共同住宅は世界的な建築集団スタジオ・ムンバイによって宿泊できる複合施設へ生まれ変わった。部材の非破壊検査を行いIPH工法の有効性を確認。長崎市の通称軍艦島で8年前から供試体を経過観察し、日本コンクリート工学会の有識者と修復工法を検討している。
「山は高くなるほど底辺が広がるが、誰が施工しても確実に効果のある工法を確立し広く普及させていくため、人材の確保と育成に力を入れる」
出張などの先々で目にする構造物の状態が気になってしょうがない。大地震に襲われた台湾へも足を運び、被害状況を見てきた。能登半島地震の被災地から引き合いがあり、建築物の補修が可能か検討を始めた。いまは次女の大西奈々専務が現地視察に同行するなど脇から支える。
「父は何度も失敗を重ねながら特許工法を確立した。母は財務・経理を担当しながら絶対に会社を潰さないという信念で支えてきた」
家族の結束力と共に社員の実力も向上し、企業理念の共有化も進んできた。経済効率を求めるだけでなく、何よりも人の命を守るための経営を貫く覚悟だ。
突然けたたましくテレビ、スマホ、町内放送のアラームが鳴り響き、間髪入れずグラグラときた。4月17日深夜、愛媛・高知県で起きた地震は震度6弱。広島県内では震度3、4だったというが、かなり揺れた。日本列島は有史以来、絶え間なく地震が発生しており、まるで地震の上で暮らしているようだ。大きな地震がいつ、どこで発生するのか、不安が募る。
地震に強く、強固という理由から、さまざまな構造物に使われている鉄筋コンクリートが長年の風雨にさらされて劣化し、もろくなっているという。高度経済成長期を支えた高速道、トンネル、橋、ダムといった公共インフラや都市部のマンション、ビルなどの全てにコンクリートが使用されており、内部にできた微細なひび割れや空隙(くうげき)をどう補修・補強するのか、大きな問題になっている。
革新的な技術を開発し、コンクリート構造物の内部から健全にする特許工法「IPH工法」(内圧充填接合補強)を実用化したSGエンジニアリング(西区草津東)がいま、全国の自治体などから注目されている。かつて化学工業品や金属部品などの大手メーカーで接着剤の流通・商品開発に携わっていたが、広島に戻り1988年に同社を設立した加川順一社長(77)は、
「コンクリートは老朽化すると欠損や浮き、ひび割れから水が侵入し内部まで劣化。水は気化して外に出ようと移動して鉄筋にぶつかり、その辺りを空洞化させる。特に鉄筋周囲がもろくなっている可能性が高い。地震に遭って建物が壊れ、暮らしが壊れ、命が失われてからでは遅い。既存のコンクリート構造物を表面だけでなく、内部から回復させて再生し、延命させるにはどうすればよいのか。鉄筋とコンクリートを樹脂で一体化させる補修工法の実用化にのめり込んだ」
これまでは、ひび割れ部分に直接樹脂を押し込む注入工法で補修されていた。しかし空気が邪魔をして樹脂が表面に留まり内部まで届かない。ひび割れ内の空気を抜いて真空状態にする方法がないか、専門家と相談しながら10年近く、大学などと実証実験を重ねた。そうして空気と樹脂を置き換える「IPH工法」の完成にたどり着く。寝ても覚めても考え、夢で見たアイデアは素早く書き留める。関連論文は40以上。次第に問い合わせが入るようになり、歴史的建造物や文化財などの施工実績も増えてきた。
2012年に特許取得。専門用具で微細なひびへ樹脂を高密度充填し、接着から「接合」へ発展させた。表面補修後の注入で躯体部と補修部を一体化させて再剥落を防ぐ。鉄筋周りを高密度にして水や空気、ガスが触れないように密閉すれば錆びが出ないことがはっきりしている。施工中のコンクリート廃棄物を減らし、施工費や工期も抑えられる。14年に(社)IPH工法協会を設立。会員は北海道〜沖縄に160社に上り、工法の技能士約1300人体制で全国をカバーする態勢を整えた。
今期は過去最高の売上高8億6000万円を見込む。工事を直接請ければ規模は拡大するが、事業の目的は人の命を守り、地域や暮らしを守ることが最優先と言い切る。
「ヨーロッパでは建物を長く大切に使う文化がある。日本は古くなると壊し、災害に遭うたびに新しく建て替えてきた。資源は有限で、こうした考えはもはや通用しない」
次号へ続く。
物流や建設業などで時間外労働の上限規制がスタートする2024年度が始まった。どの業界も人ごとではない。急速に進む労働人口の減少や賃上げ要請に対応すべく、業務効率化が迫られる。
今秋に設立60周年を迎える板金加工の広島メタルワーク(中区)は3月、経産省「DXセレクション2024」優良事例に選定された。20年近く前から佐伯区湯来町の工場で取り組んできた生産性向上活動が評価された。デジタルトランスフォーメーションの略称DXが広まる、はるか前にデジタル化に挑んだ背景に、昔ながらの手作業を守るための覚悟があった。
創業は戦後の復興期。被爆で焼け野原になった街が建設ラッシュでにぎわう頃、創業者の前田彦三さんは日本に入ってきたばかりの新素材ステンレスの美しさに一目ぼれ。従来の鉄に比べ腐食しにくい特性を生かそうと、サッシなど建材作りを始めた。
未知の金属に懐疑的な声もあったが、とことん加工技術を磨いた。次第に引き合いが増え、高度成長期に建てられたビルの多くに採用。いまもリーガロイヤルホテル広島の玄関など、多くの場所に同社の手掛けた製品が残る。
しかしバブル崩壊後、一気に建築需要が落ち込んだ。会社は債務超過に陥り、銀行の融資も厳しくなった。1991年に父の会社に入った現社長の前田啓太郎さんは、
「どん底からのスタート。技術で活路を見いだそうと、食品工場や医療設備向けの機械加工へ進出したことが転機になった。ステンレスは数ある金属の中でも切削や曲げが特に難しく、扱いに長けた会社は少なかったため、西日本を中心に幅広い機械メーカーから受注が入った。大量生産品ではなく、オーダーメードの製品ばかり。つまり、大手が対応し切れない面倒な仕事を人の手で行っている。職人技と言えば聞こえは良いが、コストや管理などの面で非効率なことも数多い。これを改善しなければ、せっかく培った技術を後世につないでいけなくなると考えた」
社長に就いた2003年、志を共にする全国の製造業8社で生産管理システムの構築に着手。2年後に共同で立ち上げた会社で開発を加速し、08年に完成した初代システムの後、15年から2代目の「TED」を工場に導入した。
「かつては他社製システムを使っていたが細かい部品管理ができないため、社員が工場内を探し回るという本末転倒の事態が発生。使える端末の数も限られていた。TEDは中小製造業の現場の声を基に設計しており、デジタルに不慣れな社員も直感的に操作できるほか、全員がリアルタイムで図面や作業の進捗状況を共有可能。加工作業に集中できるようになり、生産性が大幅に改善した」
約5億円だった売上高は10年弱で約9億円に拡大。21年度には中小企業庁から全国300社の「はばたく中小企業・小規模事業者」に選ばれた。デジタル活用だけが目的ではなく、挑戦する風土づくりにもこだわりがある。
「父がステンレス、私がシステム開発へ挑んだ先に新しい発想が生まれ続ける組織としたい。工場入り口に立つキリン親子のオブジェや各建物をライオン棟、カメレオン棟などと名付けたのもその一環。一人一人が個性を発揮できる仕事場を目指す」
DXは、豊かな感性と果敢なチャレンジ精神を備えた人が主役と言い切る。
自社の強みを伸ばし、不足を補う。どうすればよいのか絶対と言える定石はない。トップは経営環境に応じて最善の手を見極め、決断する。それから先は衆知を結集し、最善を尽くすほかない。
自動車や航空機業界の機械設計を手掛けるアイワエンジニアリング(東区曙)代表取締役の森口康志さん(58)は3月29日、自動車や半導体業界向けに技術者と製造人員を派遣するキット(神奈川)に全株式を譲渡した。果たして経営はどう変貌するのか、考え抜いた決断だったろう。
キットは、グループ7社で2024年3月期の売上高230億円を見込み、数年後の上場を目指している。同社グループとして、アイワの生存戦略、企業力を強化する狙いだ。従業員36人はそのまま残る。森口さんは退任。代わってキット経営企画部の澁谷洋部長が代表取締役を兼務。原口秀典取締役社長は続投する。森口さんは、
「父が1987年に創業し、自動車ボディー組み立て設備などの3Dモデル構想作成や2D設計製図を受託。メーカーと直接取引しているが、特定の1社で売り上げの7割強を占め、リスクを分散させる必要があった。当社は設備設計を得意としている一方、キットグループは製品設計会社を抱えており、技術研さんにつながるほか、営業網を活用しながら取引先を広げられると考えた。経営を託し、ノウハウを取り入れることが将来のためになると判断した」
20代後半で東京に広島風お好み焼き店を開業し、店舗数や業態を広げてきた経験がある。父親が急逝し、19年からアイワの代表取締役を兼務。しかし機械設計は素人で、番頭格の原口さんを社長にして実務を全て任せた。自身は経営判断や財務労務の管理を担当。技術者集団という強みがあるが職人気質のせいか、当時は寡黙な雰囲気が職場にあった。東京と広島を行き来しながら、飲食店での成功体験を基に、明るい受け答えやあいさつ、元気、顧客目線の大切さを話し、働きやすい環境づくりから始めた。21年には4階建て本社屋を改装。置き菓子があり雑談しやすいスペースやミーティングルーム、フリーアドレス制などを取り入れた。
「父と膝を交え、経営観などを語り合った。人への思いやりと感謝。互いに通じ合う信念だった。社員の成長に連れて企業価値が上がり、今回のM&Aにも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか。経営を離れる寂しさはあるが、会社が成長していく未来を想像すれば、父もきっと喜んでくれると思う」
広島銀行曙支店の古川恭隆支店長は、
「事業発展や人材育成について相談を受け、業務提携など複数の方法を提案した。日本M&Aセンターの仲介で1月にトップ面談を開き、その後これほどスムーズに成約した例は珍しい。胸襟を開いて話し、リスペクトし合えたからでしょう。地方からの若年層流出が課題となる中、キラリと光る地元企業を応援し、雇用を生み続けるためのサポートに力を入れていく」
アイワ代表取締役に就いた澁谷さんは、
「グループ会社との間で面白い化学反応が起きると期待している。各社が独自性を磨きつつ、ものづくりの上流から下流までカバーできる派遣や請負業務を強化していく」
ピースを埋めながら、よりしなやかな企業集団へ発展させていく構想を描く。
「わくわく大作戦」とネーミングされた部署横断プロジェクト。何かと堅い企業イメージが先行する中国電力グループの一員で、塗装や建築工事を手掛ける中電工業(南区出汐)が一転、イメージを突き破る大胆な作戦を打ち出し、周囲を驚かせている。
2021年から始めた。建築・塗装をイメージした「ビルダイン」と「ペイントン」の公式キャラクターを登場させたほか、塗装工事の協力会社組織「電栄会」各社の武将キャラクターが先陣を競う。就活生向けに、工事監督者をオーケストラの「指揮者」になぞらえたリクルートページや、全ページに現役社員が登場する若者向け雑誌のような採用パンフレットを作成し、一気に勝負に出た。
むろん働き方も改革。コアタイムのないスーパーフレックスタイム勤務制度ほか、現場写真データの管理などにITを駆使し、業務効率化を推し進める。21年6月に就任した石井浩一社長は、
「3カ月後全員へ作戦開始を宣言した。当初の18人から次第に輪を広げ、いまでは11チーム延べ130人弱がプロジェクトに関わる。成果もさることながら作戦を実行に移していく過程での社員の成長、そしてわくわく感から生まれる一体感こそ一番の目的だ。コミュニケーションが円滑になり、安全やコンプライアンスを守る意識も自然と高くなってくる。過去3年、新卒者で離職した人はいない」
90日で目標達成
全国で初めて、ドローンを使った鉄塔塗装資材の運搬に成功。昨年12月にはワクワクやクリエーティブをキーワードにオフィスのリノベーションを行うなど、矢継ぎ早にプロジェクトを実行した。勢いよくスタートしたが、次第に失速する事例は枚挙にいとまがないが、同社の作戦が次々成果を挙げるのはなぜか。
経営コンサルのニューチャーネットワークス(東京)の高橋透社長をアドバイザーに加え、プロジェクトのゴールを90日に設定する、BTP(ブレークスループロジェクト)という考え方を採用。3年の中期計画や年間計画などを90日という短期のゴールに置き換える。週、日単位の具体的なアクションが見えると全力投球しやすくなり目標を細かく区切ることで、その都度に成功体験を味わえる。さらに行動量と質が高まり、成功が加速する案配だ。
各チームの活動開始時は高橋社長を交え、キックオフミーティングを開く。リーダーはビジョンと目標を面白そうなストーリーに仕立てメンバーに伝え、全員が最終結果に責任を持てるようにする。必ず達成する状況をつくるためメンバーはみんなの前で宣言・約束し経営層への中間報告や90日後の最終報告日時を設定。毎日の達成状況を公表し、社内のさまざまな人からコメントをもらうことで、実行を習慣化している。
石井社長は、
「オフィスリノベーションではメンバーたちがこんなところで働きたいと思う空間を自ら設計。20以上のブースを設け、より創造的な働き方ができるオフィスが実現した。お客さまからも社員の笑顔や会話から、生き生きした空気が感じられると、うれしい言葉を頂く。みんなが新しい事に挑戦する楽しさ、一緒に困難を乗り越えるわくわく感を体感してくれていると思う」
社外とワクワク共有へ「DESHIO(デシオ)いいでしょプロジェクト」を始める計画だ。
全国的に伝統工芸士の後継者が先細る中、呉市川尻町に根付く経済産業大臣指定伝統的工芸品の川尻筆に2月、若手の二人の伝統工芸士が誕生するというニュースが舞い込んだ。これで川尻筆の技を継承する伝統工芸士は4人になり、将来へ新たな明かりをともした。
江戸後期から職人の技を伝える文進堂畑製筆所で修業してきた4代目の畑幸壯(こうそう)さん(36)は、全国でも最年少の伝統工芸士という。父親で3代目の義幸さんが長年の研究と工夫を重ね、現代の最高級羊毛筆を確立した筆作りのそばで育った。幼少期から良い原毛に見て触れ、そして良い仕事は特有の〝音〟で分かるという、その記憶は何事にも代え難いものだったろう。22歳で弟子入りし、若くして全ての技を習得するという異例の才を発揮した。
もう一人。湊毛筆製作所の湊宗道さん(41)は筆職人の祖父に憧れ、父親の達哉さんの背中を見て育ち、伝統工芸士の仲間入りを果たした。二人には父親が伝統工芸士という共通項があり、仕事場が遊び場という生活と筆作りを一つにして伝統工芸の技法を代々つないできた。
県内にある筆の産地は全国ブランドの熊野筆と、川尻筆の二つを合わせて全国生産量の8割を占める。分業体制を敷く熊野筆に対し、川尻筆は一人の職人が仕上げまで70を超える全工程に携わる。毛先が割れず墨含みの良い〝練り混ぜ〟という技法が特徴で、高級書筆を得意とする。
AIと筆
地域の特産を生かして町を盛り上げようと、川尻毛筆事業協同組合(坪川竜大理事長=坪川毛筆刷毛製作所社長)は昨年10月、川尻筆を地域団体商標に登録。これを起爆剤とし、書筆以外でも商標を活用する商品開発を検討している。組合の前理事長で、川尻に筆作りをもたらしたと伝わる上野八重吉の5代目で、やまき筆菊壽(きくじゅ)堂を経営する上野龍正さんは、
「昨春は弘法大師生誕1250年を記念し、野呂山の山頂にある筆塚で初めて筆供養を開いた。今年も山開きに合わせ4月21日に開く。筆はいま日常生活の中で過去のものになりつつあるが、AIが世界を席巻するいまこそ、日本語の機微、素晴らしさを繊細に表してくれる筆の実力を見直し、筆で文字を書く体験を広めていきたい。読み書き、そろばんを基本としてきた日本人の知恵は、産業の発展や文化の多様性を根底で支えてきたと思う。創造性を養う上でも五感を動員する読み書きが有効ではないか。筆産地の熊野や川尻の小学校などで筆作り体験学習を地道に続けている。子どもたちも地域の文化と伝統を知ることで誇りや自信が育まれ、成長へつながると確信している」
筆作りを取り巻く環境は次第に厳しさを増す。中国製の攻勢に加え、良質な天然毛の確保は年々難しく、職人の高齢化と後継者難が深刻化している。しかし、ここでへこたれる訳にはいかない。成果を挙げるまでに長い時間はかかるが、いまが読み書き教育の出番ではなかろうか。
湊毛筆製作所代表者の湊達哉さんは、
「技は見て、盗んで、覚えて初めて自分のものになる。やり方は教わることができるが自分で工夫し、考え、繰り返し鍛錬するほか道はない」
芸術、学問、スポーツなどの全てに共通する基本なのだろう。近道はない。
27歳の時、リフォーム会社の社長が夜逃げを図り、残された社員は自分一人。血相を変えた代金未払い先の職人に囲まれ、逃げ道はない。とっさに、私が独立して仕事を回すと繕ったものの、誰も相手にしてくれない。だが、必死な姿を信じてくれたのか、たった一人の塗装職人が応じてくれる。切羽詰まって、どう振る舞うのか、その後の人生を大きく分けるターニングポイントになった。
その日から約30年。住宅リフォーム業界で地場トップに成長を遂げたマエダハウジング(中区八丁堀)の前田政登己社長(58)は、
「誠意を除くと何の取り柄もない。退路を断って懸命に働くほかなかった。会社を絶対に潰してはならないと心に誓った」
1993年に個人創業。自分に厳しい営業ノルマを課した。手製のチラシを何百軒、数千軒にわたり配り歩く。徐々に軌道に乗り95年に法人化。初めて人を採用し経験者2人が加わったが、次々と会社の売上金を横領された。さすがに心が折れ、人間不信になりかけたと明かす。しかし子どもの頃、ぜんそくで苦しむ背中をさすって励ましてくれた母の言葉が浮かんだ。どんなにつらくても、昨日より今日はきっとよくなる。
「しっかりと管理できなかった私に落ち度がある。経営理念を伝えられていなかった。窮地に立つと真っ先に顧客の顔が脳裏をよぎる。信用して仕事をくれた人を裏切ることはできない。何のために経営しているのか。リフォームを終えて、いかにも晴れやかな発注者の表情を見るために力を尽くす。人の喜びを自分の喜びとする価値観を共有できる仲間を増やしていきたいと痛切に願った」
新卒や未経験者中心に採用を進め、一人一人に考え方を伝えた。信頼し任せると業務改善の工夫や新しい発想が生まれる。生産性向上につながり、働き方・働きがい改革やリスキリングなどに取り組む素地ができた。
協力企業の会でも積極的に勉強会を行う。2023年12月期売上高は約10年前から2倍の21億円に増え、関連領域の不動産、施工の2社合わせ29億円を計上した。
いつもスッと背筋を伸ばし相手の話をおだやかな表情で聞く。181センチの長身だが、威圧感は受けない。
「1件のリフォームから始まり不動産や相続相談、子どもが結婚したときには新築などと、人生の折々に声を掛けていただく。その信頼を糧に仕事の幅が広がってきたように思う。経営環境は時代の潮流に大きく影響されるが、決して変えてはならないものがある。地域密着に徹し、予想さえできなかった変化にも柔軟に対応することができるコングロマリット(複合企業体)経営を目指している」
工場内装やオフィスの営繕に強い会社の買収でノウハウを磨いたほか、リフォーム時に発生する不用品処分などの需要を見込んで貴金属・ブランド品買い取り店の経営を引き継いだ。昨年は新築戸建てブランドを譲受。住まいと暮らしのワンストップサービスを掲げ、M&Aを展開。人口減に伴う人手不足の加速を見越し、人材派遣業にも乗り出した。
グループ6社の前期売上高は42億6800万円。従業員165人。2030年に向けて高々と旗印を掲げ「グループ10社で300人、売上高100億円」「地域で輝く100年企業」の夢を描く。
父親の体調不良を知り、病院向けテレビレンタルの先駆けだった家業を継ぐと決心。商社勤務から転じて1994年に帰広し、事業経営の世界へ踏み込んだ。
保育サービス事業を全国展開するアイグランホールディングス(西区庚午中)の重道泰造会長兼社長(59)は当時29歳で、家業は従業員5人、年商5000万円だった。その後は奔流のごとく一瀉(いっしゃ)千里に事業を拡大し、2023年12月期決算で売上高213億円を計上。幾度かの危機を乗り切り、ちょうど30年で大台突破を果たした。
01年に新規参入した保育サービスは北海道から沖縄まで病院内を主力に全国約500園を受託運営する。今期は児童発達支援事業、フィットネスジム運営などのグループ経営を加速し、売上高222億円を見込む。
商社時代に海外を飛び回った経験をヒントに始めたスーツケースレンタル事業が順調に伸長していた矢先、米国同時多発テロが起き、注文はゼロ。雇用を守らなければと新規事業を模索する中、激務にさらされる医師や看護師を支える「院内保育」の雑誌記事に目が留まる。子どもの頃、夜遅くまで働く親が家にいなく、寂しい思いをした記憶も保育という分野へ意識を向かわせた。やがて「子どもを預ける保育園がなく働けない」という待機児童の問題が表面化。事業所内保育園の全国展開に乗り出した。
0〜5歳の未就学児約1万2000人を預かり、20〜70代の保育士約5000人が働く。子どもの命と向き合う保育士が安心して働き続けられるよう細やかな配慮を怠らない。病気やケガで長期に離脱しても所得の喪失分を最長、定年まで補償するGLTD保険に加入。保険適用を受け、安心して療養しながら早期復帰を目指す人もいるという。
サラリーマンより事業経営に向いていると確信があったのではなかろうか。相手の立場に立って考えることができる。人の役に立つ。そうした経営者の資質に加え、ケインズのいうアニマル・スピリッツをもって挫折さえも飛躍の原動力とした。
いま待機児童は減少傾向に転じ、従来ペースで保育施設を新設する必要がなくなりつつある。一方で、財政の制約や保育ニーズの多様化などを受け、自治体が推進する公設民営化の受け皿として、これまでの実績を糧に全国へ働きかけていく構えだ。
人と人が真剣に向き合う職場だけに、人間関係のずれから保育士が辞めていくケースを幾度となく経験。数年前からは全ての園で昼礼タイムに「ありがとう」の言葉を掛け合う習慣を根付かせた。
「働く者同士それぞれが良いとこ探しをして、お互いに褒め、感謝し合う。そういう関係が日頃から当たり前にある職場となるよう、みんなの心を通わせることから始めたいと思った。安心感と自信、誇りが生まれてこそ気持ちよく働けるのではないだろうか。子どもが家に帰り、ありがとうとまねる。親から驚かれ、感謝されることが増えた」
21年春から全国展開する児童発達支援事業も本格化してきた。FC運営する24時間フィットネスジムは福利厚生の一環で受託園の集積地を対象に15年から出店開始以来、30店に増え、平均会員数1000人以上と加盟店中トップを走る。グループ年商1000億円を目標に描く。
選んだ道は成功するまでやり抜く。肝も据わっている。
常識をひっくり返すと、時にとんでもないチャンスが訪れる。三島食品(中区)は風味のいい赤シソを使う主力商品「ゆかり」がヒット。10年ほど前から醸成してきた〝脇役戦略〟を一段と加速し、3期続けて過去最高売り上げを更新。今期も増収を目指す。
ふりかけでは後発メーカーながら創業者の三島哲男さんの口癖でもあった「良い商品を良い売り方」に徹し、全国ブランドへと成長した。温かいご飯にふりかける役割だけでなく、調味料としての出番に着目。肉や魚をはじめ取引先のさまざまな食材や商品に寄り添う〝脇役〟と名付けた販売戦略を展開している。
米の消費量は下降線をたどるが、ゆかりの売り上げは上昇。量販店や大手食品メーカーで扱う、いわば〝主役〟の販売を押し上げ、結果的に脇役も潤う好循環が生まれているという。末貞操社長は、
「十数年前に店頭で関連商品を一緒に陳列するクロスMDを展開したところ肝心のゆかりは目標を下回ったが、タコは8倍、長芋は10倍売れたという。ゆかりを売ろうとしたから落胆したかもしれないが考え方を変えれば大成功。例えば、タンパク質の摂取が望ましい高齢者に、ゆかりの風味を添えると食事が進むようになる。赤シソの力が役に立つ。ここに着眼すると可能性は大きく広がってくる」
ゆかり味のパン粉をまぶした半生チキンカツをイズミで1年以上販売し「これはいける」と手応えを得た。脇役戦略を実現する「メイン食材販売支援プログラム」を1年前に始動し、社長直属の専任として営業本部広域マネージャーの吉本英治さんを抜てき。ゆかりのパッケージに見立てたコスチュームをまとい、提案の相乗効果を導き出す空気を演出する。〝赤しそ生活〟が目を引くのぼりのほか、ゆかりの紫に染めた販促一式を無料で貸し出す。ユニークで何だかおもしろそう、俺も私もやってみたいと思わせる企業風土が戦略を引っ張った。
二代目の三島豊会長は「会社に関係することなら勤務中でも自由にやっていい」という〝B面活動〟を提案。その精神を末貞社長が引き継ぐ。
「当社では変化を起こす人を〝変人〟、奇跡を起こす人を〝奇人〟と呼ぶ。アイデアを湧き立たせ、語り合い、周りも巻き込んで智の連鎖が起こる職場が理想だと思う。何事も本人のやる気次第。脇役戦略は、まず取引先の意欲を引き出し、息の合ったタッグを組んでこそ成果が出る」
2月に幕張メッセであったスーパーマーケット・トレードショーで支援プログラムを初披露し、反響があったという。原料素材の赤シソは20年以上、独自に品質改良などの研究を重ね、一方で「商品は売るな、食生活習慣を売れ」と大号令を掛ける。綿密に計算した縦糸に、楽しんで働く横糸をうまく織り成し、好業績の原動力とした。
「人は往々にして言うこととやることが違うことがある。有機がいいからと価格が高くゆがんだ野菜を常に買い求めるだろうか。消費行動は正論ではなく実論に則している。見間違えてはならない。B面活動で楽しみ、面白がって仕事に取り組む。思いがけないユニークな発想は、生き生きとした心から生まれてくるのではないでしょうか」
ゆかり3姉妹にひろし、かつお、鮭ひろしと続き、1月にしげきが加わった。SNSで認知度を高め、ひろしは原料となる広島菜の生産を引き上げているという。
人口減と少子高齢化に歯止めがかからない。厚生労働省が発表した人口動態統計の速報値によると、2023年生まれは75万8631人で過去最少を更新。国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口では70年に8700万人となり、20年の1億2615人に比較して3割減。50年の生産年齢人口は21年に比べて2175万人減る。
高度成長期を支えた人口ピラミッドが逆転。あらゆる分野で人手が足らなくなり、従来の雇用形態が根底から崩れる。企業は今後、持続的な発展をどう確保していけばよいのか、かつて経験したことのない難問にぶつかる。
西日本海外業務支援(協)(通称=西海協、安佐南区伴南)は02年に設立以来、累計で7000人以上の技能実習生・特定技能外国人を受け入れてきた。全国の38都府県で90職種のうち35職種(47作業)に実績があり、組合員数は1月現在で155社。在籍者は2000人を超え、西日本で最多規模へ成長を遂げている。首都圏や全国展開への足掛かりをつかむため、22年に東京事務所を開設。今年1月にはベトナム・ホーチミン市に「アセアン事務所」を開いた。池田純爾理事長は、
「現在、最も多く受け入れているベトナムの送り出し機関と組み、一定水準の人材を掘り起こしていく。現地の大学や高専との提携も視野に入れており質の高い、安定した教育を行った上で送り出す体制を構築していきたい」
在留資格を持ち国内で就労する外国人数は昨年10月時点で初の200万人を突破した(うち技能実習生41万人超)。40年には3倍強の674万人と予測されている。
日本で習得した技能を母国で生かすことを目的に、1993年に創設された外国人技能実習制度が実態とそぐわなくなってきたことから発展的に解消し、外国人の人権保護やキャリアアップ、安全安心に暮らせる共生社会に重点を置く制度整備の方針が昨年11月に打ち出された。日本人だけで企業活動を続けることが難しくなってきたという認識が背景にある。
西海協は、母国と異なる日本の生活様式や日本語の習得を重視しており、N1〜4合格者数は昨年12月現在で2912人を数える。安佐南区の研修施設でゴミ分別や自転車講習、防災教育など体験型指導を徹底。習慣や文化の違いから起こるささいな行き違いを未然に防ぐだけでなく、制度の見直しを見据えながらキャリアアップやキャリアパスを通じて〝自立できる外国人材〟を輩出するための体制整備を急ぐ。
「小さなほころびが大きな分断につながる。誰しも言葉が通じないことで起こる悲劇には遭いたくない。国籍の異なる人々が仲良く暮らす共生社会をつくることが最も大事。国内で就労する外国人はますます増えていく。これまで重ねてきた実績と培ったノウハウを生かし、いま新しい日本をつくる気概が必要と思う。新しい制度を契機とし、多くの国、人から選ばれる日本の受け入れ態勢を整えていくために力を尽くしたい」
外国人材の確保をめぐって国内外で競争が激しくなると予想される。安心して働き続けられる包括的サービスの提供とともに、やりがいのある人生設計を自由に描くことができる生き方を後押しする。自立こそ誰もが願う本来の姿ではないだろうか。国籍を超えて助け合う、心が通う社会を失ってはならない。