広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

2022年10月13日号
新聞人の気骨

ひょっとしたら、の願いも砕け散った。マツダスタジアムの今季最終戦は晴天に恵まれたが、さっぱり打てない。試合後、佐々岡監督はファンにわびた。戦いに敗れた責任を負って辞任する。
 テレビや球場でカープ観戦にわくわくする。負けると不機嫌になる。少しは余裕を持って応援したいが、つい気がはやる。中国新聞のカープ欄も勝負どころでこけてしまう、ふがいない戦いに鬱憤(うっぷん)があるのか、次第に記事もきつくなった。心底カープを愛してやまない記者の熱い思いがあるのだろう。
 5月で創刊130周年の中国新聞社。同社OBの松田治三さんが思い立ち、佐々木博光さんが協力して動画「輪転機が語る〜16日の苦闘」(約17分)を制作した。経済部長などを歴任した佐々木さんは、
「被爆後どのようにして再起したのか、その歴史の一端を動画に残したいと思った。先輩や関係者らの証言によって燃えるような使命感で新聞発行に奮起し、凄(すさ)まじい苦境をしのいだ人たちの気迫が伝わってきた」
 同社百年史で、被爆の直前に「輪転機1台を疎開」させた経緯をつづる。
『最大の難関は輪転機であった。東京から専門技師を招くことができない状況だったため、やむなく本社社員三人の手で進められた。疎開先は五カ所のなかから市郊外温品村(現東区)の牧場地が選ばれ、基礎工事、輪転機解体、馬車運搬、現地据え付けが行われた。輪転機のほか活字、円板鋳造機、活字鋳造機も運ばれた。作業は八月二日に完了。原爆投下四日前だった』
 被爆で流川にあった本社は人員、施設に甚大な被害を受け、新聞発行不能に陥った。急きょ他紙に代行制作を依頼し、休刊したのは2日だけ。8月9日から復刊した。保有していた輪転機3台のうち、生き残った輪転機1台を軸にして、生き残った人たちが中国新聞を生き返らせようと心血を注いだ一カ月余り。
 温品村の工場から再建の一歩を踏み出した。
『工場長のもと、生き残った社員たちは手分けして電線をひき、輪転機を調整し、車を確保し巻き取り紙や活字、インク、原稿を運び、テントや工場に泊まり込みで作業する人の食事や寝具をかり集めた。その間にも「突然死」する人が少なくなかったと記録にある』
『暗室は防空壕(ごう)の横穴が使われた。製版は天日、紙型は水でぬらして竹でたたいた。乾燥は炭火だった。輪転機から決まった数の新聞が出てこないので、みんなで数えた。発送が終わると解版にとりかかった。鋳造機が用をなさなかったのである。解版が終わると文選にとりかかった』
 テント生活でとぐろを巻く毒ヘビ、ムカデにぎょっとしながら不屈の日々が続く。動画はこの記録をなぞるように当時記者だった山田さん、元専務の尾形さん、輪転機疎開先の川手牧場主の孫、牧場で遊んだ当時小学生だった数人にインタビュー。現地で撮影した風景も織り込む。ユーチューブにアップ。広島の歴史を語り継ぐ人や、さまざまな方面から意外な反響があったという。新聞人の気骨がいまも人の心を打つのだろう。
 その動画などの上映会が11月2日午後1時から西区民文化センターである。

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