広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2024年8月29日号
    そばに居て聴く

    理不尽な犯罪や事故に巻き込まれ、生死にかかわるような出来事に遭遇した被害者の心の傷は深い。いつまでもその記憶が生々しく蘇(よみがえ)り、そのときの苦痛を繰り返し体験するという。
     県公安委員会指定の(公社)広島被害者支援センター(山本一隆理事長)が今年、設立20周年を迎えた。命を脅かされる、けがをする、物を盗まれるなどの直接的な被害だけでなく、犯罪事件に遭ったことによる精神的なショックは大きく、事件後も過呼吸やめまい、動悸、食欲不振、不眠、悪夢などにさいなまれるという。山本理事長は、
    「被害者や家族に寄り添い、手を差し伸べる民間レベルの支援活動が近年、ようやく軌道に乗り始めた。助けてほしいという被害者の声は誰が聞いてくれるのか。心の奥底に耳を傾け、よりどころになれるようにと2004年2月に発足以来、支援活動の輪が年々広がってきた」
     センターが7月発刊した機関誌ニューズレター第40号に、昨年度の支援活動のあらましを載せている。県警の犯罪統計書によると刑法犯の認知件数は14年の2万1123件から23年は1万4188件にまで減っている。しかし同センターに寄せられた23年度の電話相談543件、面接相談37件、直接支援830件で計1410件に上り、10年前の791件に比べて急増。
     電話相談の内訳は暴行障害50件、性的被害66件、交通被害・事故37件、財産的被害26件などのほか、近年は特殊詐欺も横行しているという。被害者や家族への相談事業に加え、警察や裁判所への付き添いも行う。
     1974年の三菱重工ビル爆破事件を契機に「犯罪被害者等給付金支援法」が80年に制定された。犯罪が起きると加害者糾弾の声が大きくなりがちだが、被害者を置き去りにしてはならない。その後に被害者の精神的援助の必要性が指摘されるようになり、東京に犯罪被害者相談室が立ち上がった。広島では〝命の電話〟が機能していたが本格的な組織をつくろうと一般社団法人を設立。初代理事長に当時、中国新聞社副社長の山本さんが就いた。
    「いまは被害者の方から直接相談を受ける数十人の支援員をはじめ、事務局スタッフや理事らの力が重なり合っている。相談件数は年々増え、地道で粘り強い活動が次第に周知されてきた証だと思う」
     支援センターは県内有力企業・団体・個人の正会員と賛助会員で構成。昨年は121件の寄付を受けた。
     社会部の記者時代。被害者の自宅に押し掛ける強引なメディアスクラム(集団的過熱取材)が問題視されていた。そこに罪の意識、被害者への痛みを感じていたという。支援センターの活動に携わるようになり、被害者とその家族に寄せる思いは深い。
    「犯罪や事故などで命を脅かされた人、大切な家族を亡くした人は人生とどう向き合えばよいのか。心に傷を負った被害者の方にとって解決というゴールは見えない。ただ、そばに居て聴く。根気よく相談を受けるうちに何に困っているのか少しずつ心を開いてくれるようになり、具体的な支援へつながっていく」
     声にすることができるまでに相当長い年月を要する被害者も少なくないという。支援センターと共に20年を歩んできた山本さんに7月8日、警察協力章が授与された。11月26日に開く20周年式典に話題を添えそうだ。

  • 2024年8月22日号
    広島の伝統を伝える

    風土に育まれた、独自の文化や伝統は言葉の壁を越え、世界の人を引き付けてやまない。いま日本が人気という。円安を追い風に、やはり昨年5月に開かれたG7広島サミットも大きな呼び水になったのだろう。
     中区の仏壇通りで広島仏壇と漆器を製造販売する「高山清」4代目で、広島漆芸作家の高山尚也さん(43)は、日本の漆芸に触れてみたいと海外から人が訪れると言う。
     4月から体験ツアーを本格化。月2〜3組ほどだが、欧米中心に旅行会社向けメニューを用意する。漆を塗る製作現場を見て、伝統の奥深さを感じてもらう。高山さんは、
    「広島漆芸は、京都山科の砥の粉と広島の牡蠣(カキ)殻を砕いた胡粉をブレンドして漆塗りの下地に使う。独自の技法により京都の技術と広島仏壇の歴史をつなぎ合わせたいという願いを込めた」
     作り手の思いや技法など、伝統の真髄を伝えることがいかに大切か。海外から訪れた人は文化や伝統に関心が高く鋭い感性を持つ人が多い。
     そうした本物志向に応えるための体験メニューの工夫とともに美術専門の知識を持つガイドの存在が欠かせない。人材養成の仕組みも整えていきたいと話す。
     7カ国首脳らが手にした広島の伝統的工芸品が話題になった。瀬戸内海の多島美などをイメージした高山さんの酒器セットや漆器椀のほか、金城一国斎さんの蒔絵グラス、宮島御砂焼窯元の対巌堂三代山根興哉さんが折り鶴の灰を練り込んだランプ、宮島ロクロ細工菓子器などが多くの人を引き付けた。来年1月、広島港に寄る大型客船の乗客を対象にした体験ツアーも予定している。
     2023年の外国人延べ宿泊客は3年ぶりに増え、1億1434万人。うち広島県は129万人だった。電通は7月、世界15国・地域の7460人(20〜59歳)に実施した調査結果を発表。「観光で再訪したい国・地域」は日本が34.6%で突出し、2位以下を大きく引き離す。訪日旅行での期待は「多彩なグルメ」が28.6%で最も多く、次いで「他国と異なる独自の文化」が27.9%。地方観光では「言語への不安」が目立った。
     高山清は大正2年(1913年)に塗師屋で創業。塗師として寺院や仏壇から仕事を受ける。漆塗り技術は1619年、紀州藩主浅野長晟(ながあきら)の広島城入城に随従した職人から伝わった。その後、僧が持ち込んだ京都や大阪の仏壇仏具の製造技術と重なり広島仏壇が生まれる。大正末期には全国一の産地を形成するまでになった。
     しかし生活様式の変化などで仏壇需要はコンパクトな家具調にシフト。本社2階を仏壇展示場から広島漆器のギャラリーに刷新した。
    「必要とされる形や用途に変えて伝統を守る。日本ならではの伝統を尊びながら新しい発想で磨き、仏壇づくりの技を次代へつなげたい」
     県内の伝統的工芸品は経済産業大臣指定5、県指定9つを数えるが、担い手不足の悩みを抱える。江戸期の書院屋敷、茶寮を構成再現した上田流和風堂の16代家元の上田宗冏(そうけい)さんは、
    「浅野藩家老として上田家は茶の湯でもてなす数寄屋御成という習わしを長い歴史の中で育み伝えてきた。昨年の広島サミットを振り返えると、広島の底力を実感しました」
     不易流行。進取の気風が新しい文化を育み、伝統を守っていく源泉なのだろう。

  • 2024年8月8日号
    立ち続ける経営

    凡事徹底。その精緻なものづくり技術が日本の道路やトンネルなどの社会インフラを足元から支え、揺るぎない地歩を築いた中小企業がある。
     道路舗装の下に敷く鉄筋をはじめ、トンネル用ロックボルト、ダムの埋設型枠などを製造する藤崎商会(中区江波南)は前2月期で売り上げ29億円を計上。2期連続で過去最高を更新した。2008年に創業者で父の喬(たかし)さんから2代目社長を継いだ藤崎和彦さん(58)は、その日から16年間で年商を2倍に増やした。
     まさに凡事徹底の日々。社員の改善案を吸い上げ、安芸高田市に構える工場でムリ・ムダ・ムラを徹底的に省いてきた。近年は特に自動化を推進。コスト削減分を次の投資に回し、さらに不良品率を下げる。安定した品質が受注拡大につながり、好循環を生んだという。経常利益は前年比30%増え、過去最高の1億7000万円。
    「社長になっても会社の改革など念頭になかった。しかしものづくりに関しては一切妥協しなかった。全員が当たり前のことを100%できるよう精魂を込めた。良い物を安定的に供給していると口コミで伝わり、あちこちから声を掛けていただける」
     数年前から全社員43人との間でワンオンワン面談を重ねており、立場の異なるそれぞれの考えに耳を傾ける。いま困っていることはないか、現場に問題点はないか、どうすればよいと思うか、聞くことはいつもシンプル。できることは即実行。提案結果を実感した社員は次の面談でも積極的に意見を出してくれる。
     広島新庄高校の野球部時代に日々鍛え上げられた体験を踏まえ、
    「企業も野球チームも同じ。皆が主体的に知恵を絞り、役割を全うする。繰り返し練習し、当たり前のことがちゃんとできるようになる。凡事徹底こそチームに最も大切だと確信している」
     14年に売り上げ15億円を超え、18年に初めて20億円を突破。以降は20億円台が続く。そもそもはダム・トンネル用資材を主力としていたが、次第に空港の滑走路やリニア新幹線の舗装資材などに生産品種を増やしてきた。納入先も次々と開拓するが、意外にも参入時の目標受注額を定めない方針という。
    「最初は小額の納品でよい。中小企業が最初から大風呂敷を広げると、営業や生産、財務のバランスのどこかにひずみが生じる。むしろ枝葉の広がりに価値がある」
     ネジ1本、ボルト1本に手を抜かない姿勢が評価されたのだろう。16年に開発した、鉄筋コンクリ舗装で斜交鉄筋網を敷く新工法「FKメッシュパネル工法」はゼネコンから信頼されて高速道などの舗装工事に採用されている。
     今期は、クレアライン4車線化工事が本格的に始まるほか、東海環状道全通に合わせた舗装工事の受注も見込む。30年度以降に完成予定の北海道新幹線延伸トンネル工事へ引き続き納品するなど好決算を見込むが、社内で売上目標は22億円と掲げる。
    「当社の売り上げのベースラインは20億円と見積もっている。目前の30億円突破といった数値を追うあまり、品質管理がおざなりになれば全て台無しになる。品質改善を重ねて折れない根幹をつくり、何があっても立ち続ける経営を目指す」
     1967年創業。応接室に「商(飽きない、諦めない、商い)」の書を飾る。

  • 2024年8月1日号
    考えるヒロツク

    市場が縮小するつくだ煮業界だが、悲観している暇などない。〝こもち昆布〟で知られるヒロツク(西区商工センター)社長の竹本新(あらた)さんは10年前に30歳の若さで4代目に就任。当時17億円だった売上高は2024年3月期で23億円に伸長。1942年創業来、最高になった。一時はコロナ禍の影響を受けたが毎年、数千万円を地道に積み上げた。
     改善、挑戦の10年を振り返り、将来を語った。
    「食文化の大きな変化にはあらがえず、コメの消費減に連れて、つくだ煮を食べる機会が減っている。ここ数年で北海道や京都を代表する老舗が民事再生や廃業に追い込まれるなど環境は一段と厳しく、主力原料の昆布の不作や価格高騰にさらされている。従来のやり方では中小がつくだ煮製造だけに依存して生き残ることが難しくなっているが、その周辺に目を凝らすと成長の余地が見えてくる。長年の間にこつこつと培った食品製造のノウハウを生かし、チャレンジし続ければ売り上げは伸びる。わずかでも毎年成長を続ける年輪経営を目指す。いまもつくだ煮の可能性にワクワク、ドキドキしている」
     何とかなる。果敢なチャレンジ精神が旺盛なのだろう。
     社長に就任早々、社内向けに「食べ方提案コンテスト」を始めた。料理を際立たせる食材や調味料に代わって、つくだ煮を生かすことができないだろうか。社員自ら食べ方を考える機会にしている。これまで年2回計20回を重ねた。ラー油昆布の汁なし坦々麺、あさり生姜煮スンドゥブ、黒豆かぼちゃプリンなど600〜700種類のメニューが生まれた。優秀作品をレシピ本にまとめ、商談時や顧客に配布。食べる場面を広げて消費拡大のチャンスをうかがう。
     10年間で最も変わったのは「社員の改善意識」と胸を張った。毎月、製造改善の取り組みを共有する場を設け、数字での管理・分析を徹底させる。もともと製造ラインごとに競争原理を取り入れることで効率化を図っていたが、工場長には全体を俯瞰して効率的な仕事の配分に徹してもらう。残業はほぼゼロ。混ぜたり袋詰めにする作業は機械化するなど、合理化投資も惜しみなく実行した。
     新たな挑戦も始まった。7月から全国展開するディスカウント店「ドン・キホーテ」の全店舗で同社の5商品の販売がスタート。粘り強い営業が実った。8月からテレビショッピングにも初挑戦。あじかん(商工センター)がゴボウ茶をヒット商品に育てた手法にあやかろうと、足利直純社長にお願いして直接テレビ局を紹介してもらった。ノウハウを生かしやすい介護食の製造にも参画し、既に確かな手応えを得ているという。
    「大手との価格競争に勝ち目はなく、安売りはしないと決めた。価格は価値と同じと考え、少しでも高く買ってもらえる商品開発に力を注ぐ。社員が主体的に動いてくれて、理想としている、〝考えるヒロツク〟に近づきつつある。社長に就いた時は何をどう判断すればいいか分からず、それなりに失敗も経験。自分が最終責任を取ると覚悟している。もちろん悩みは山ほどあるが、どうせ悩むなら社員と楽しみながら、希望に向かって進めていきたい」
     尊敬する祖父の盛男さんは80歳を過ぎた晩年も会長として仕事に精を出し、背中で経営者の生きざまを示した。机上に答えはないとの教えに倣い、率先して取引先を巡り、現場に足を運ぶ。

  • 2024年7月25日号
    中国新聞の挑戦

    昨年の新聞発行部数は2660万部。2008年の4650万部に比べて2000万部も減った(日本新聞協会)。15年間で実に43%を失う、大きな潮流の変化にぶつかっている。
     カープが勝った翌朝は早々と郵便受けに向かう。テレビ観戦でも、野球場で声援しても、中国新聞のスポーツ面を開きたくなる。負けても担当記者がうっぷんを晴らしてくれるだろうと目を通す。紙媒体の魅力は捨てがたい。ぱっと紙面を広げれば大方のニュースが飛び込んでくる。
     若者をはじめ、新聞離れがいわれて久しい。なぜ読まれなくなったのか。いまはネットを通じてただで情報が手に入り、SNSなどに大量の情報や動画があふれている。そうした影響なのか、地元マスコミを引っ張ってきた中国新聞が昨年10月、大台の50万部を割り込んだ。
     ドラゴンフライズが初優勝し、今春には念願だったサッカー専用スタジアムが開業。優勝をかけてカープの熱い戦いも続く。紙面は身近な動きや話題を伝える記事、ニュースも多い。なぜか。岡畠鉄也社長は、
    「信頼される報道を通じ、読者に支持されることが新聞の原点。ここが揺らぐことはない。果たしてどんな情報が求められているのか、読者の関心がどこにあるのか洞察し、読む人の疑問や不安に寄り添い、共感される取材活動から離れてはならない。いまやネット上にフェイクニュースが氾濫。信頼できる情報の価値はますます高まり、取材現場で鍛えた記者の力が見直される時がやってくる。次代に備え、何をなすべきか。情報を伝える新たな仕組みをつくり、グループの総力を挙げて立ち向かっていきたい」
     今春、数年前から仕込んできた二つのデジタルサービスを公開した。その一つ。スマホ向けのニュースアプリ「みみみ」は、新聞になじみの薄い20〜40代の若者を主力ターゲットに絞る。スクロール操作で気軽に主要ニュースを確認できるようにした。
     「イドバタ」と名付けたユーザーによる投稿機能を設け、新聞社だからこそできる新たな価値づくりを狙う。ユーザーが投稿した日々の素朴な疑問やニュースへの感想の輪の中へ記者が飛び込み、地域の話題をより深掘りする。そうして課題解決に共に知恵を絞り、地域へ向けた視線をそらさない。
     6年前から紙面で展開する企画「こちら編集局です」は地域の疑問や困りごとを読者から募り、それを糸口に取材活動を展開する。その報道がきっかけで行政サービスが改められるなど、地域と一体の姿勢を大切にする。昨夏の紙面改革ではより身近に紙面を感じてもらえるよう、広島都市圏に住む記者のつぶやきを柔らかくつづる「朝凪」をはじめ、記者の人柄も伝えるコラムを設けた。イベントで記事に登場した人と実際に交流できる「であえるニュース」も始めた。地域になくてはならない新聞はどうあるべきか、記者クラブの外へ一歩踏み出した。
     もう一つ。3月に稼働した新サービス「たるポ」は従来の「中国新聞ID」に代わり、一つのIDでグループが提供するさまざまなサービスを使える。地場企業・団体やスタートアップとデータ連携を進め、地域での経済活動のプラットフォームに育てる狙いだ。7月、登録者が17万人を超え上々の出足という。模索し続けるほかない。

  • 2024年7月18日号
    高齢期を楽しく暮らす

    元自民党幹事長の二階さん(85)は次回総選挙へ出馬しないと記者会見で表明。高齢のためかと問われて「年齢に制限があるのか、お前もその年が来る」とすごみ、ばかやろうとつぶやいた。その報道に少し驚いた。年齢にはどのような価値があり、どんな制約があるのだろうか。
     思うように動けない。すぐに忘れる。若い時にはできていたのにと憂えるより、いまあるものに感謝する。しかし感情は素直に受け入れてくれない。人生100年時代の終盤に向けてどう暮らすのか。7月8日、市内ホテルであった広島経営同友会(三村邦雄会長)の例会で、医療法人翠清会会長の梶川博さん(梶川病院名誉院長)が「高齢期を楽しく上手に暮らそう」と題し、講演した。
     1月に85歳を迎えた梶川さんは修道高校、京都大学医学部を卒業し聖路加国際病院でインターンを修了。脳神経外科専門に歩む。1980年に前身の梶川脳神経外科病院を開く。何と七夕の日、市内ゴルフ場で82のスコアをたたき出す快挙を成し遂げた。誠にお元気である。講演では「少年老いやすく学なり難し。老人忘れやすく学なり難し。なれど高齢者ほど安全志向で健康第一かつ無手勝流でいきましょう」と切り出す。頓着なく素直そのもの。
     日本で講演した学者は「2007年生まれの日本人の50%は100歳まで生きる」と予測。平均寿命のうち男性は約9年、女性は約12年の不健康な期間(厚労省調べ)がある。健康寿命延伸は国を挙げて取り組む喫緊の課題。その3大健康疎外要因としてフレイル(虚弱)、サルコペニア(加齢性筋肉減少症)、ロコモ(運動器症候群)を挙げる。
    「誰にも老いはやってくる。だが、まだできることがたくさんあると前向きに過ごすことで余生はがらりと変わる。年を取るほど知識と経験が積み重なり、自分自身の時間をより有意義に過ごせる。人に的確なアドバイスができる。人生を前向きに生きることができる薬はなく、医療はサポート役に過ぎない。高齢者本人の考え方そのものが高齢期を楽しく、豊かなものにするかどうかを決めるのです」
     物忘れ(認知症)を何とかして改善したいと思うのが人情だが、そのネガティブな面を強調するのではなく、長生きの同伴者、長生きのご褒美と考えてみてはと助言。よほどの境地に達しないとかなわない極意に思える。
    「昨日は82のスコアで回ることができた。一緒にコースを回ってくれる教え魔の知人がアドバイスしてくれる。打つ瞬間までボールをしっかりと見なさい。ちょっとそこはおかしい。かかとをしっかり地につける。などとアドバイスにかかり切り。早く打たんかとイライラされる方も多いと思うのだが人は人、自分は自分です」
     人のアドバイスを素直に聞く。反発などしない。自分のペースで上手に暮らしを楽しむ。そこに感謝の心もあるのだろう。ひたすら精進してきた人生に与えられた贈り物かもしれない。病院で診療していると「どうしてこの人はこんなに前向きに楽しく生き続けられるのだろう」と不思議に思う高齢者にしばしば出会うという。医師の立場を離れて自分もこの人のように暮らしたいと願う。不幸な出来事も全てありのまま受け止め、プラス思考で自分の人生を楽しむ姿勢を貫いていると感じさせる。いまを楽しむかどうか、全て自分次第。

  • 2024年7月11日号
    すがすがしい香り

    国会の党首討論で政治資金規正法改正をめぐり、立憲民主党の泉代表は「抵抗勢力は自民党で本当にけしからん」と批判。岸田総理は「禁止、禁止、禁止と言うのは気持ちがいいかもしれないが、政治資金は民主主義を支える重要な要素だ。現実的に考える、責任ある姿勢が大事だ」と反論した。
     収支報告書に氏名、住所などを記載しなければならない、1回当たり政治資金パーティーでの支払額は20万円か、10万円か、5万円かと大もめにもめた。はた目にはなかなか見えてこないが数字の裏側に隠されている何か重要な問題があるのだろう。しかし胸の内にある政治信条や姿勢までを数字で規制することはできない。マスコミ報道から伝わってこないだけか、国をどうするのか、真剣に深く論議されただろうか。
     時事通信社(東京)が毎週2回発行する「税務経理」6月14日号に、公認会計士中国会相談役の石橋三千男さん(76)が「私の苦心」租税制度の棚卸しと題し、寄稿している。石橋さんは1967年に国税職員から社会へ飛び出し、カープ初優勝の日から公認会計士になった。寄稿文は複雑さ極まる税制度の簡素化を訴えている。中小企業にとって胸のつかえが少し下りるような、その一部を了承を得て抜粋すると、
     ▽6月から定額減税が急きょ1年限りで導入された。しかし仕組みも簡素ではなく、事務処理も複雑過ぎ、税理士にも企業の担当者にもブーイング。
     ▽消費税には昨年10月からインボイス(適格請求書)制度が導入された。原則10%の税率としながら食料品や新聞は8%としている。また原則課税と簡易課税の選択の基準年度は前々期の課税売上高になる。それでも消費税は国に対してのみ地方消費税も含めて申告・納税が行われるように若干簡素化されている。
     ▽法人税は、公正な会計慣行に基づいて課税所得を計算する。法人県民税や法人市民税は法人税額を課税標準とし各自治体に税率が定められている。例えば支店が100ある場合は、納税者は申告納税をそれぞれの県・市等に行う必要がある。また「企業版ふるさと納税制度」の計算は法人市民税が関係し、支店がたくさんある企業は大変複雑になっている。
     税法を単独で見れば整合性もあり、決して悪くはない。世の中が安定し、目配りが届けば届くほど多くの税制ができてしまい、これを積み上げると驚くほど重畳的に複雑になっている-と指摘する。
     石橋さんは、中国税理士会連絡協議会の場で、当時の民主党政権の財務大臣に「あまりにわが国の税制は複雑になっている。税法の棚卸しをされたことがありますか」と質問したところ、大臣は「一度もやったことがない。私個人とすれば、行うべきだと考えている」と答えた。
     最近のIT技術や情報システムを活用したDXへの取り組みが急速に進展。戦後積み上がった税制度の棚卸しを行い、根本的な見直しを国家として取り組んでいく絶好の時にあると期待を寄せる。
     若い頃に接したシャウプ税制は公平、中立、簡素の大原則のもと「新しい民主主義」の香り高く、非常に新鮮な記憶だった。もう一度あの時の晴れ晴れとした気持ちになりたいものですーと結ぶ。国をどうするのか、政界も大原則に立ち返り、すがすがしい香りを漂わせてもらいたい。

  • 2024年7月4日号
    瀬戸内さかなブランド

    7回洗えば鯛の味。その小イワシの漁が6月10日、解禁された。鮮度が命の刺身。広島ならではの夏の味覚を堪能できるシーズンになった。瀬戸内海は四季の魚が楽しめるが年々、漁獲量は減り、魚の顔ぶれも微妙に変わってきているという。
     2022年度から広島県は市場や飲食店と一体となって瀬戸内地魚のブランド化に取り組む中、昨春、瀬戸内海で獲れる魚介類を「瀬戸内さかな」とネーミング。シンボルマークもつくり、専用サイト「瀬戸内さかな日和」で魚種をはじめ漁法や流通経路、おいしく食べる知恵などを発信。消費拡大〜持続可能な沿岸漁業を目指す。事業に参画し、旬の瀬戸内さかなを使ったコース料理などを開発・提供してもらう料理店は昨年の17店から、今年度は30店を目標に機運を盛り上げていく。
     事業の要となる〝こだわり漁師〟の仕事。うまさと鮮度に挑むこだわりが、ブランド化の原点にある。6月24日、県が主催した漁師の顔が見える瀬戸内さかなの取り組みの発表会で、品質の良さで定評のある広島市漁協の岡野真悟さん(40)は、
    「釣った魚は下処理が決め手になる。処理次第でぐんと品質が上がる。ストレスを与えず血抜き、冷やし、出荷のタイミングを考え、最高の仕上げで調理する人へ届ける。ここに最善を尽している」
     十数年務めたホテルを退職後に独立。広島湾を中心に魚種ごとにポイントを押さえ、釣りやほこ突きなどさまざまな漁法を駆使する。
    「朝9時に港を出て夕方5時くらいに戻り、6〜7時に出荷。無理のない漁を心掛けている。魚を良い状態で維持することが最優先。喜んでもらえることが一番の励みだ」  
     どこで誰が漁獲し、おいしく食べるためにどんな配慮や工夫があるのか知りたい。県の飲食店モニターアンケートで消費促進のポイントが浮き上がってきた。
     発表会に続く調理技術研鑽会で、県日本調理技能士会の副理事長で日本料理魚池の池田将訓料理長は、岡野さんが丁寧に下処理したスズキをレモン風味爽やかな揚げ物に、鹿川漁協の野村幸太さん(39)のハモは、玉ねぎと合わせて梅肉あんかけに仕上げた。
     江田島市出身の野村さんは高校時代からシラス漁のアルバイトで漁に親しみ、卒業後は10年間のサラリーマン生活を送ったものの親戚に漁師が多く、サワラの流し網漁に携わる父親を見て育ち、いつかは漁師として一本立ちしたいと考えていた。ところが周囲は、「やめとけ、儲からん、家族にさえん思いをさせる」の一点張りだった。
    「私は漁師で身を立てる根拠のない自信があった。販路開拓で料理店へ飛び込み営業もやった。獲れば獲るほど値が下がる。燃料費など高騰の一方で魚の値は上がらない。だが旬の魚は本当にうまい。きちんと処理した魚を適正な値段で届けたい。漁師はもっと自信を持っていいと思う」
     漁業の担い手が減る中、二人は同じ志を持つ若手の育成につながることに期待する。
     発表会のデモンストレーションでは稲茶の下原一晃オーナーシェフが4種のつけだれでハモを味わう一品を仕上げた。私の好みとした上で、地元銘柄の熱かんに合わせると最高の味わいになると語る。ブランド化で地酒の消費も促すに違いない。県は地魚の魅力に触れる広島周遊モデルの企画や居酒屋などへ展開する構想も練っている。

  • 2024年6月27日号
    長寿企業の知恵

    長寿企業大国といわれる日本。創業100年を超える企業は3万7085社で、世界の業歴100年以上企業の約50%を占める(日経BPコンサルティング)。1000年を超える企業は11社に上る。
     なぜ日本に多いのか。代々継承されてきた経営のどこに秘けつがあるのか。長寿企業の知恵を次世代へ語り継ぐ「智慧の燈火プロジェクト」(田中雅也代表理事)は5月30日、広島で地方創生経営者フォーラムを開いた。
     広島を代表する長寿企業のサタケ(創業1896年)の木原和由(かずゆき)会長、ツネイシホールディングス(同1903年)の河野健二会長、大之木建設(同1920年)の大之木洋之介社長が登壇した。
     大之木社長は就任早々の2016年ごろを振り返り、
    「東京五輪に向け首都圏の建設需要は旺盛だった。東京にはいくらでも仕事があるという状況の中、もう一歩先を見据えて地元固めをしようと判断。大手建設会社はもちろん地元のゼネコンも首都圏に目が移るなど地元には競合他社がほとんどいない状態になった。まさに狙い通りだった。着実に成果を上げていた18年、西日本豪雨が発生。すぐに土木のメンバー中心に昼夜問わず24時間体制で復旧活動に当たってくれた。地域に生かされている企業として、地元第一の経営方針がぶれることはない」
     木原会長は1999年に三井銀行からサタケに入る。中興の祖である3代目の佐竹覚さんに学んだことが経営の原点になった。米国育ちでロジカルに物事を考え、決裁には理詰めの準備が欠かせなかったと話す。ダイナミックな発想と行動力で町工場からグローバル企業へ押し上げたが、手痛い失敗も経験。世界第2位の製粉機製造会社ロビンソン買収によって大変な負債を抱え込んだ。しかしオーナー経営だからこそ決断でき、事業発展へとつながった。一方で危機感も芽生えた。指示待ち社員が多く、どうやって打破すればよいのか。脱オーナー経営に向け、2021年に初の生え抜きトップとなる松本和久社長を起用した。
    「一人一人が主人公になれるような、オーケストラ経営に取り組む。善をなすには勇あれ。私の座右の銘で、良いと思ったことを行動に移せる組織を目指したい」
     河野会長は1977年に九州大学工学部を卒業し常石造船に入る。設計畑を歩む中、99年にフィリピンに赴任。不採算事業からの撤退と立て直しを図った。年間でわずか数隻ほどだった造船能力は、2010年には約20隻の船を建造できるほどに拡大。南北2キロに及ぶグループ最大の工場に成長した。現地に貢献せよ。3代目の神原眞人さんの信念だった。07年に病院を開業。翌年に学校を建設した。
    「フィリピン工場で働く従業員に困り事を尋ねると異口同音に病院が遠い事を挙げた。半信半疑だったろうが、本当に病院を開業すると驚き、信頼してくれた。ツネイシはこの町になくてはならない存在だと認識してもらえた。町の人口も5万から9万人へと増え、まさに船造りは街づくりだと捉えている」
     三者三様である。だが、それぞれが社会貢献を重視し、地元と共に歩む地域ファースト、社員ファーストの考え方が底流にある。儲かるとみたら、なりふり構わない収益重視の経営とは相容れない。いま日本式経営の優れたところを見直し、磨きを掛けていく時ではないだろうか。

  • 2024年6月20日号
    カニカマ50周年

    インスタントラーメン、レトルトカレーに並び、戦後日本の「食品三大発明」と言われるカニカマ(カニ風味かまぼこ)は幾多の苦節を乗り越えてきた歴史がある。
     世界で主流となった棒状タイプの元祖と言われる大崎水産(西区草津港)の「フィッシュスチック」が3月で発売50周年を迎えた。大崎桂介社長は、
    「国内にとどまらず累計40カ国以上に輸出し、世界中の食卓に上っている。高い品質を維持し日本発の水産食品を世界中へ届けていきたい」
     良質な魚が水揚げされる草津で1928年に創業。漁業の傍らで板かまぼこ製造に乗り出し、近隣にも同業者が数多く軒を連ねた。戦後の傷跡が残る50年、二代目の勝一さんは板かまぼこをきっぱりと見切り、別の風味を付けたり別原料と組み合わせたりする珍味かまぼこに軸足を移した。第1弾のマツタケ風味「浜の松茸」はいまも販売が続くロングラン商品になった。 
    「もはや証明のしようはないが、浜の松茸は世界初の風味かまぼこだったと思う。いまは普通だが、当時は業界関係者から邪道とののしられたと聞く。新しいものを作れば売れる時代だったが、そうした中でも勝一は新しいことに挑む不屈の魂と進取の気概にあふれていたのだろう」 
     カニカマの誕生は思いがけないものだった。いつものように工場を見回っているとき「かに胡瓜」の製造機の前で足を止めた。かに胡瓜も開発した珍味かまぼこの一つで、本物のカニ肉を詰めたキュウリを、ノズルから出した魚肉で巻いて造る。ノズルから押し出されて残っていた魚肉にカニの汁が混ざり、それを食べるとカニにそっくりの味がした。挑戦の始まりだった。
     当初は手作りで連日深夜まで作業が及んだ。人による不ぞろいも課題だった。だが何としても完成させるという意気込みはすごく、近隣の町工場と組み、自ら製造機械の開発に乗り出す。20台以上を造っては潰し、現在につながる機械を完成させた。以降は量産化と市場拡大が重なり、停滞気味だったかまぼこ業界でまさに異彩を放った。
     水産大手を含め多くの業者が同分野に参入しているが、いまも存在感を放つ「品質の大崎」の誇りが原点にある。大崎社長は、
    「高級板かまぼこに使われるなど特に品質が良い、洋上生産すり身にこだわっている。漁獲後港に戻らず魚が新鮮なうちにすり身に加工。嫌な魚臭も発生せず、カニカマに加工してもしなやかな弾力を保つ。市場に出回る安価なものは弾力が弱く味も薄い。これがカニカマの常識になっていることに危機感がある。もちろん当社製品は原価が高く、経営は試行錯誤の連続だが、今後も品質へのこだわりを大切に引き継ぎ、安価な原料に変えるつもりはない」
     棒状カニカマの発明・普及、日本発の「世界食」の海外開拓、シート状カニカマの独自技術開発で、2013年に日本食糧新聞社の「食品産業功労賞」を受けた。業界への多大な貢献が評価された。
    「いまは輸出の割合が高く、国内の流通は多くない。広島で作るカニカマを地元の人に食べてもらえるよう、改めて販路開拓を進めている」
     勝一さんは1985年に財団法人を設立し、食文化向上を目指す研究開発に助成。いまも県食品工業協会や県食品工業技術センターへの寄付、研究機器の寄贈を続ける。感謝の思いがあるのだろう。

  • 2024年6月13日号
    市民主役の公共交通

    来春、JR広島駅に路面電車が乗り入れる新しいビルが完成し、広島の玄関口の姿が大きく変貌する。1階のバスターミナルと併せて乗り換えなどの利便性が高まり、さまざまなものが結びつく。
     一大プロジェクトに力を尽くした広島電鉄の椋田昌夫社長(77)は6月下旬の株主総会後の取締役会で代表権のある会長に就任し、代わって仮井康裕専務(64)が昇格するトップ人事を発表。コロナ禍がなければもっと早くに交代を考えたと言うが、やり遂げた実感もあったのだろう。
     プロジェクト実現までに紆余曲折があった。今から11年前。広島駅に乗り入れるルートをめぐり、車の流れを妨げない「地下方式」を独断専行しようとした前社長が臨時取締役会で解任され、社内外を驚かせた。理想の街づくりへ不退転の決意がぶつかった結果だが、当時専務だった椋田さんが社長に就き、乗り換える距離や時間の短さに優れた「高架方式」を進めていく。
     社長に就くやいなや、次々と利便性向上策を打ち出す。バリアフリー車両導入や乗車扉からも降りられる仕組みの採用に加え、他の事業者と協力してバスのエリア均一運賃などを推進。未来を描くレールを敷き、ひたすら走った。
    「高齢化や人口減少が加速する中、これまで通りのやり方を続ければ将来はなく、さまざまな分野の変革が急務だった。昔から変わらぬ路線を同じように走らせるだけではどんどんと乗客が減っていくのは当たり前。われわれ自身が〝公共〟という言葉に甘えていなかったか、厳しく自問した。新しい取り組みと同時に建物が老朽化していたホテル事業からの撤退など整理を進めた。外部からワンマンと見られたことがあるかもしれないが、社内でたくさん議論を重ねた上で、私が全て結果責任を持つと伝えてきた」
     12年に呉市交通局のバス事業を継承したときの経験が経営のヒントになった。高齢者からバスは乗降地が分かりづらい、車内転倒や事故が怖いといったイメージを持たれており、徹底的に改善。安心して外出できるようになったと感謝され、利用者数が増加に転じた。
    「電車やバスに乗って外出したくなる機会を生み出すべきだと気付いた。移動しやすい仕組みをつくることで施設が誘致され、人が集まる。さらにMaaS(次世代モビリティサービス)を活用しながら施設との連携イベントなどを開き、乗客を増やす好循環を生むよう意識してきた」
     街づくりへ関わりを強め、14年から広島大学本部跡地の再開発に参画。マンションやスポーツクラブ、カーライフの情報発信拠点などが完成し、にぎわいを生んだ。15年に造成した大型住宅団地「西風新都グリーンフォートそらの」はバス路線再編などで住民が市内外へアクセスしやすい環境を整備。商業施設ジ・アウトレット広島を誘致して外出の需要を創出した。宮島口では20年に観光商業施設ettoを開業し、22年に路面電車の駅を建て替えた。点と点を線でつなぎ、各所へ訪れたくなる仕掛けとして、宮島線の沿線を紹介するプロジェクトなどにも取り組む。
    「前会長の大田哲哉がよく口にした〝広電スピリット〟がいまも脈打つ。被爆後3日目に運行を再開した、市民主役の公共交通を守り抜く広電スピリットを育み、未来へつないでいく使命がある」
     電車が走り続ける広島の情景にも新しい風が吹く。

  • 2024年6月6日号
    矢野さんお別れの会

    何をやってもうまくいかない人生だったー。昨夏に登壇した講演会の冒頭、自らの半生をそう振り返った。100円ショップ最大手の大創産業(東広島市)創業者の矢野博丈さんが2月12日に80歳で逝去。5月27日に市内ホテルであった「お別れの会」に政財界人ら約1500人が集まり、在りし日をしのんだ。
     1972年に矢野商店を創業し、昨年末時点で日本を含む世界26の国と地域に5350店を展開。一代で売上高5891億円(前2月期)規模に育て上げた。しかし、その人生は事業失敗や倒産、借金、夜逃げ、度重なる転職、火災に遭うなど苦難の連続だったという。
    「ある結婚式で、お坊さんの祝辞が印象に残った。艱難(艱難)辛苦。生きているといろいろなことが起きるが無駄は一つもない。これを乗り越えるのが人生。失敗に負けないようにとエールを送った。自らの人生を振り返ると、もはや運命の女神に憎まれているとさえ思っていた。確かに見方を変えると、またかまたかと苦労を重ねたことは運が良かったのかもしれない。それからはそう考えることにした。ありがとうございます、感謝、ついている。この言葉を何度も何度も繰り返した。そうすると本当に良いことが起こり出した。ありがとうは魔法の言葉。すぐに良いことをまねるのは、経営者にとって必要な資質だと思う」
     自己否定、危機感も並外れていた。順風にあって商いに徹頭徹尾厳しく、決して物事を甘く見るような言葉を発することがなかった。創業時に「安物買いの銭失い」などと幾度となくたたかれた。消費者の厳しい視線を肌で感じてきた経験がそうさせるのだろう。いつも社内外で経営の厳しさを語り続けた。まだ売上高が800億円台だった頃、2000年の産経新聞記事(要約)で、
    「今、調子がいいことを、将来も調子がいいと錯覚してしまうことが怖い。お客さんの商品に飽きるスピードは驚くほど速い。常に緊張感を持って、いいものを生み出し続けないと生き残れない」
     変化し続けるニーズ、期待に応え続けることが、経営継続と同義だった。大創の急成長を支えた源泉は、紛れもなく開発力にある。売価100円という上限がある中で仕入れ先との交渉を「格闘技」と言い放った。
     取り繕わない自然体も魅力だった。本社オフィスをあちこちと歩き回り、社員や仕入れ先などに声を掛けて回る。一方、怒る時は徹底的に怒った。社長の心掛けを問われたときに、
    「私は怒ります。強い会社はどこも社長は怒っている。一生懸命になったら怒ります。でも怒ると会社がギスギスするから、社員にダジャレを言ってごまかす。それでぱっと雰囲気が明るくなればいい。ダジャレは一種の緩和剤ですね」(1999年毎日新聞)
     2018年に次男の靖二さん(53)が社長のバトンを引き継いだ。大学を卒業し、イズミで16年間、食品バイヤーなどを経験。15年に大創産業に入る。
     お別れの会委員長として礼状に「世界の生活インフラとして社会の発展に貢献」すると抱負を述べる。社長就任後も新ブランド「スリーピー」を含めた国内外への出店ペースを加速。5月に東南アジア、中東圏への輸送を担う自社最大のグローバル物流拠点建設を発表した。チャレンジ精神は遺伝子なのだろう。