広島の経営者、注目のビジネスパーソンの「お気に入りのスポーツ」チームを紹介。
0歳〜就学前の約50人が通う、ひろしま自然保育認証園「さくらっ子森いく園」を南区段原南で運営しています。マツダスタジアムが近いので、コロナ前は3月に卒園間近の子どもたちを連れてオープン戦の観戦に行っていました。来年は復活させたいですね。
ここ数年は仕事の忙しさもあり足が遠のいていますが、2013年のクライマックスシリーズ初進出から16〜18年の3連覇の頃は月に1回以上のペースで応援に行っていました。CSでは甲子園まで遠征したこともありますし、16年の日本シリーズは敗退が決まった試合を現地観戦。悔しさから顔をタオルで押さえた瞬間を写真に撮られていたようで、翌日のネットニュースに載ったことがあります。その年はリーグ優勝した夜に流川で友人とはしゃぐ姿がテレビに映ったこともあり、印象深いシーズンです。当時はエルドレッド選手が好きで、大きな体でママチャリに乗る姿が忘れられません。
旧市民球場にも思い出があります。05年に交流戦が始まった頃はパ・リーグの球団にイケメンの選手が多く、カープよりそちらが主目的だった気がします。特にホークスで抑えを務めた馬原投手がお気に入りでした。
先日、球場跡地での「ひろしま盆ダンス」に行った際、南一誠さんが「それ行けカープ」を熱唱。その時の盛り上がりを見て、広島人のカープへの愛を改めて感じました。ここから逆転優勝して、街を元気にしてほしいです。
東広島で「やすらぎ会館」や「フォレストホール」などの葬儀場を運営しています。小学生の時にサッカー部に所属していたのがきっかけで、Jリーグが発足した高校生の頃からサンフレッチェ広島のファンです。
昨年12月に広島マツダ西条店であった「サンフレッチェ広島2022シーズンを語る会」に参加。会場にいた広マツの松田哲也会長と世間話をする中でこれからの葬儀のあり方について意気投合し、今年の7月25日に新しい葬儀の形の創造を目指して連携協定を結びました。ひょんなことから新しいご縁が広がり、サンフレッチェファンで本当に良かったと感じています。
私自身、20代後半から38歳まで家業に従事しながらセミプロのバイクレーサーとしても活動。年に10レースほど出場し、国際サーキットでのコースレコードを持っていたので、今となっては恥ずかしい話ですが、大好きなサンフレッチェの事務所に行って自分のスポンサーになってくれないかと打診したことがあります。当然断られましたが、当時はサンフレッチェカラーのバイクで全国を走れば、良い宣伝になるのではないかと本気で考えていました。
応援していたのは、ミッドフィルダーの森島司選手。先日移籍してしまいましたが、三重県鈴鹿市出身なので親近感を感じていました。毎年数試合は現地観戦しており、子どもが大きくなったら一緒に見に行きたいですね。新スタジアムには期待しかありません。
佐伯区五日市でオリジナルルアー、釣り具などの販売店を創業して27年になります。1月にカープバージョンのブラックバス用ルアー6種類を発売し、計300個が完売しました。昨年の広島三越でのイベントに松田元オーナーが来場され、ルアー製作を依頼されました。桐(きり)を削り3〜4カ月かけ製作。鯉型のCarpロゴ入りルアーはラメのカープレッドを使い、他にカープ坊や、スラィリーバージョンも作りました。ルアーのDVDに大瀬良大地投手夫人の真由さんに出演していただいた縁もあり、カープの菊池涼介選手が来店されたこともあります。
広陵高校時代から木製ルアーを製作し、仲間からよく釣れると評判が良く19歳で創業。自分でも「スポーツフィッシング」として、バス釣りを楽しみます。琵琶湖での60.5センチが自己記録ですが、地元では白竜湖、灰塚ダムでも行われ、弥栄ダムで店主催の大会を開いています。水面でルアーを泳がせる「トップウォーター」という釣り方にこだわり、バス用ルアーだけで500種類を製作・販売しています。
釣りも心技体が重要で、ポイントに投げたりルアーを動かす「技」に加え、1、2回釣れなくてもあきらめない「心」、コンディションを整える「体力」も必要です。アート作品のようなルアーで、自然条件を頭に入れ、魚の動きを追うのは楽しいですよ。遊漁船事業も行い、サワラ、タイなど海釣り用のルアーも製作しています。カープは好調です。優勝してほしいですね。
広島工業大学で数学を教える傍ら、2021年に企業の課題を分析して数学的発想で解決を目指す会社を立ち上げました。自転車ロードレースの地元プロチーム「ヴィクトワール広島」監督兼社長の中山卓士くんとは飲み友達で、創設時から応援しています。
7月8日に三原市佐木島であったホームレースで、初めて現地観戦。私も週1回ほどロードバイクに乗ることがありますが、プロのレースは時速45キロを超え、同じ乗り物とは思えないスピード感に圧倒されました。序盤から駆け引きが続き、中盤からは雨が降り出したことで多くの選手が落車するなど波乱のレースに。終盤になっても18人ほどの先頭集団の中で誰が優勝するか分からない混戦状態。最終的にヴィクトワールのキンテロ選手を含む3選手が横一線でゴールを駆け抜けました。実況や解説の人も分からないほどの差でしたが、ガッツポーズを掲げたのはキンテロ選手。念願のホーム初優勝に、チームカラーのオレンジ色を身につけたファンは大盛り上がりでした。
今年は実力のある外国人3選手や、エースの阿曽選手、ガッツのある久保田選手など強いメンバーがそろっています。結果を残すことで、全国大会でも強豪の崇徳高校の自転車競技部など、広島で自転車を楽しむ子どもたちが憧れるチームになってほしい。
2022年11月に中区袋町で当社を立ち上げ、人材派遣やコールセンター事業などを手掛けています。
京都で生まれ育ったため、子どもの頃は父親とよく甲子園球場へ行っていました。高校卒業後に運送、大手通信会社など職を転々とする中、15年に大阪本社の派遣会社に入り、広島へ配属されたのが鯉党となるきっかけ。テレビ各局が情報番組でカープを取り上げるほか、公私問わず会話のネタになる県民性に感化され、年に10回はマツダスタジアムへ足を運ぶように。プレーの躍動感を味わえるため、テレビより現地観戦が断然好み。スクワット応援で各選手にエールを届けています。
球場に行く前の楽しみは席選び。お気に入りはライトの外野で、パフォーマンス席やパーティーデッキも良かったですね。今では笑い話ですが、21年にレフト側テラスのチケットを手に入れた時のこと。部下を連れて胸を躍らせながらいざ座ってみると、視界の3分の1が黄色のファウルポールに覆われて一塁付近が全く見えないというハプニングが発生。座ってゆっくり観戦するはずが上半身をしょっちゅう動かす羽目になっていました。
実は広島で創業した決め手の一つがカープとなるほど、人生を大きく左右した存在です。粘り強いプレーで前半戦は2位で折り返し、優勝も夢ではなくなりました。まずはCS進出が決まったら即、コンビニへチケットを買いに行きます。
安佐南区長束で「水と空気以外の全ての物に印刷」をモットーに紙や布、木製品など幅広く手掛けています。
1968年に創業した祖父の前川一基が大のカープファンで、私が幼い頃はテレビ・ラジオ中継を流しながら夕飯を食べるのが当たり前。当時は中区千田町に会社があったことから、近所で選手を見かけることもありました。思い出深いエピソードは喫茶店でエースの外木場義郎投手からサインボールを頂いたものの、まだ小学校低学年だった私はその価値が分からずにボールを壁にぶつけて遊んでいたことです。
祖父はいつか私に会社を継がせることは決めていたようですが、他のことは自由にさせてもらいました。なので私は小学校から社会人まで野球ではなくサッカー一筋。以前には3年間ほど、近所の少年チームの監督を務めたこともあります。指導者として意識していたのは、子どもたちや親御さんとのコミュニケーション。なるべく目線を合わせ、対等に近い関係づくりを心掛けていました。社長業にも通じる部分は多く、社員の野球談義について行けるように最低限のカープ情報は収集しています。
対話という面では、新井監督は選手が力を発揮できるように配慮しているのがよく分かります。もっと就任効果で盛り上がるかと思いましたが、最近は球場の空席もあるようなので、コロナ前に企画しながらも雨で中止になった社員との観戦会のリベンジができればと思っています。
三次市三和町で日本酒「美和桜」を造っており、6月で創業100年を迎えました。当社のお酒は優勝記念や大野豊投手の引退パーティーなどで鏡開きに使われたこともあります。父がカープファンで、私が幼少の頃には広島市内にある選手行きつけの理髪店に通っていたと聞いています。水谷実雄選手と仲良くなり、会社に遊びに来てくれたこともありました。
一番記憶に残っている試合は、赤松真人選手がスーパーキャッチを見せた横浜戦。義父や子どもたちと親子3代で外野席から観戦しており、目の前であのシーンを目撃しました。翌日の朝刊の写真に、立ち上がって叫んでいる私の姿が載っており、知人からうらやましがられました。
2017年のリーグ優勝を決めた試合も思い出深い。流川の居酒屋で見ており、いよいよ優勝しそうだという時に店の大将が黒田博樹投手の引退記念ユニホームを貸してくれて、大勢のファンと感動を共有できました。そのままあげると言われて最初はさすがに断ったのですが、実は巨人ファンだということでありがたく頂きました。今でもその時のユニホームを着て球場に足を運んでいます。
好きな選手は3連覇の前から田中広輔選手。好調時にはリードオフマンとしてチームを引っ張り、一時の不調を乗り越えた今季は、ここぞというところで結果を出してくれる姿が頼もしい。新井貴浩監督と共にチームを優勝に導いてほしいです。
長年、地域の子どもの各種スポーツ大会「マエダハウジングカップ」を開いています。2014年の第1回少年野球大会には元カープ選手の前田智徳さんが保護者として、お忍びで来場。私が始球式の用意をしていると、少年野球協議会の当時の会長が「前田さんバッターボックスに立ってよ」とキラーパス。前田さんは少し困りながらも応えてくださり、その優しさに感謝しています。ただ、こんなに偉い人に球を当ててはいけないと、気が気でない。とにかく慎重に投球。何とか捕手のミットへ真っすぐ届き、安心しました。自らに厳しく野球道を追求する彼は多くの人に尊敬されており、私もカープ観戦時にはレプリカユニホームの背番号1を背負います。今季のカープはリーグ優勝を狙える位置にいる。この勢いで頑張ってほしい。
コロナ禍で中断もありますが、ソフトボール、サッカー、バスケットボール、けん玉の大会も開催。私は幼少の頃にぜんそくでしたが、体調が良くなって始めたソフトボールで毎日練習に励み、小学6年の大会で優勝。まばゆい光景や達成感は今も鮮明に覚えており、今の子どもにも機会を提供したいと考えています。こうした取り組みや社員育成などが評価され、6月に「日本創生のための将来世代応援知事同盟」から「優秀将来世代応援企業賞」を受賞。光栄です。
今年10回目を迎える少年野球大会は、念願であるマツダスタジアムでの決勝戦を実現させたい。
安佐南区に本社を構え、店舗清掃や警備などを手掛けている。まずは球団最多の通算213勝のレジェンド、北別府さんのご冥福をお祈りします。まさに「精密機械」の異名にふさわしい見事な投手でした。
彼の後に続く3人のレジェンドとして、個人的に前田智徳、黒田博樹、新井貴浩さんを挙げたい。まずは前田。イチローが憧れ、落合博満さんが認めるなど、彼の天才的な打撃センスを表すエピソードは数多いが、なんと言っても2000年代前後の低迷期をカープ一筋で支えてくれた大打者。選手晩年、彼が代打で登場すると大歓声が起こるのは、私たちファンの誇りだったから。彼がいたからこそファンを辞めなかったという人は私だけではないでしょう。黒田はメジャー挑戦を先送りし、短い選手生活の貴重な1年をカープファンのためにささげた。そして海の向こうの実績をひっさげカープに復帰し、優勝へと導いてくれた。本当に泣かせる男です。
新井現監督は底抜けに明るい人間性で、ファンを楽しませてくれる。カープ復帰の際、当時の私設応援団連盟会長がラジオで涙ながらに「彼を暖かく迎えてほしい」とファンに呼び掛けたことがいまだに忘れられない。それくらい人の心をつかむ男だと思う。
そういった意味で、新井カープに彼以上のスターはいない。各選手にはファンに語り継がれる未来のレジェンドを目指し、後半戦も〝がむしゃら〟に戦ってもらいたい。
西区南観音に本社を置き、廃棄物の収集・運搬を行っている。小学生から大学までサッカー一筋。弟がユース所属だったこともあり、ずっとサンフレのファンだ。2019年ごろ、サンフレを応援するJC経験者有志の集まりに参加して以来、会社としても応援している。
サッカーをしていたからこそ、部活の仲間や先生、経営者仲間など数え切れない出会いに恵まれた。それらが今の自分を形作ったと考えると、サンフレやレジーナの応援を通じてサッカーに恩返しをしたいと思う。私が入っていたクラブは人気が高く、最初は抽選に外れて入れなかった。働き盛りで忙しかった父が競技経験もないのにコーチを引き受け、入会を認められた経緯がある。このスポーツを始めさせてくれた父にも本当に感謝している。
サンフレは約半数がユース出身で荒木、満田ら生え抜き選手を応援したくなる。広島でボールを追い続ける日々に青春を捧げた者として、サンフレもユースもレジーナも過去にプレーした選手もみんな家族のような感覚で親近感を覚える。中でも自分の高校時代と背番号が同じ11番の満田に注目。天皇杯でPKを決められなかった時もルヴァン杯で優勝した時も泣いていた熱い男。今はけがで離脱中だが、日本サッカーを引っ張ってくれる存在だと思う。新スタジアムではピッチ近くでプレーが見られるようになり楽しみ。リーグ1位になり、ゆくゆくはACLでも優勝してほしい。
サンフレッチェ広島がなぜ通算3回も優勝できたのか。これがずっと気になっていました。浦和のような資金力はなく、スタジアムや練習場などの環境も決して恵まれているとは思いません。イラストレーターという仕事柄、選手やチームに近い方たちと話をする機会がたびたびあり、ことあるごとに質問を投げかけていました。
現在、栃木SCに所属する洋次郎(髙萩)とはサンフレ時代に親交が深く、彼と食事をしているときに話してくれた回答が一番腑に落ちた気がします。それは「サンフレは優勝を知っている」というものでした。前身の東洋工業サッカー部の頃の優勝、そしてJリーグ開幕2年目に優勝目前に迫るなど、選手はもちろん、フロントや球団スタッフまでが、根っこの深いところでチームは優勝できるものだと認識しているという話でした。これはスポーツに限らず、ビジネスを含めたさまざま世界にも通じる深い話だなと感じましたね。
東日本大震災後、洋次郎やナカジ(中島浩司)が立ち上げた東北人魂広島プロジェクトに参画させてもらったのが懐かしい。仕事ではチームの公式LINEスタンプや、女子チーム・レジーナのスローガンなどを当社でデザインさせてもらいました。 現在はスタジアムが遠くてなかなか足を運べていませんが、新スタジアムは街中に移ってくるので行きやすくなる。来シーズンはぜひ応援に行きたいと考えています。
2014〜18年にドラゴンフライズの選手としてプレーした後、3人制プロバスケ球団「スリストム広島」を設立しました。
ドラゴンフライズは今年、24チーム中の上位8チームによるチャンピオンシップに初めて進出。残念ながら準々決勝で1勝2敗となり敗退しましたが、相手は史上最高の9割近い勝率を誇る千葉ジェッツ。そんなチームから初の大舞台で1勝したことは、非常に価値があると思っています。
東京五輪で女子チームが銀メダルを取るなど、日本バスケのレベルや注目度は着実に向上しています。ドラゴンフライズもスポンサーに恵まれるようになり、日本代表や他の強豪クラブの経験を持つ選手が集まるように。また昨年には専用の練習拠点も完成。私の時代は公営の体育館や大学の施設を借りていたので、練習するにも一苦労でした。こうした変化がチーム成績に表れたのでしょう。来季はミリング監督の続投も決まり、選手の入れ替えも最小限と聞いています。チームの方針を貫き、さらに高いステージを目指してほしい。
併せて3人制バスケの普及にも注力。1試合10分と短時間かつ展開が速いので小さなお子さまが飽きずに見られますし、自分でプレーする際にもボールに触れるチャンスが多く、より楽しんでもらえます。7月30日にはひろしまゲートパークで全国から12チームを集めた大会を予定。熱い声援をいただければうれしいです。