広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
なぜそこまでやるのかと思うが、流通業界の再編統合の動きは地方も巻き込み、容赦がない。他社を圧倒するためより強く、より大きな力を持って覇権を競う。生存本能そのものなのだろう。
スーパーのフジ(松山市)は9月1日、流通大手のイオン子会社で南区段原南に本社を置くマックスバリュ西日本(MV西)と2024年3月を目途に合併し、イオン子会社の新会社を設立すると発表した。フジはイオンの傘下に入り、活路を広げる。
中四国に132店を展開するフジの前2月期売上高は3153億円。同エリアに381店を擁するMV西は同5332億円。両社を足すと8500億円近くになる。イズミ(東区)の6797億円を抜き去り、商業施設やスーパー運営で一躍、地場トップに立つ。イズミはどんな手を打ってくるだろうか。中四国の覇権をめぐり、全面対決の様相を呈してきた。
ひと足速く、2018年4月にイズミはセブン&アイ・ホールディングスと業務提携した。これに応じるかのように同年10月、フジはイオンと資本業務提携すると発表。このときから両社の合併は既定路線だったのだろう。
もう一つ動きがあった。百貨店の天満屋(岡山市)は9月3日、広島緑井店をフジに譲渡し、来年6月30日をもって閉店すると発表。フジは隣接地で運営するフジグラン緑井と一体的に運営する構想を描き、取得後に全面改装する予定という。かつて天満屋は中区の八丁堀店、西区のアルパーク店と合わせて市内3店体制だったが、これで3店共に姿を消すことになり、広島県内では福山市の2店だけになる。近年は郊外へ大型商業施設が次々と進出し、一方で閉店と再開発を重ねて広島都市圏の商業地図はめまぐるしく変貌。底流にはとてつもなく大きな力が作用しているのではなかろうか。
流通業界の再編統合が加速する背景には人口減少、少子高齢化による家計消費の縮小に加え、経営効率を高めるデジタル化投資、カード特典による囲い込み、自社ブランド(PB)商品の開発や仕入れ交渉を有利に運ぶ必要にも迫られているという。
一方で異業種からの参入や業態間競争が一段と激化。百貨店、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、ディスカウントストア、ドラッグストア、家電量販店やホームセンターなどが縮小する市場を奪い合う。コロナ禍が促したのか、最近は広島でもスマホから注文する宅配サービスが次々に登場。生鮮品などを満載した移動販売車が住宅団地を巡回し、消費者の近くまでやってくる。新手の通販やインターネット購買なども業界を揺るがす。
県内はハローズ(福山市)やエブリイ(同)が出店攻勢をかけ、地元スーパーのフレスタ(西区)、万惣(佐伯区)、藤三(呉市)、スパーク(西区)、西條商事(東広島市)などがそれぞれ隙間を埋め、地域密着の独自路線で生き残りを懸ける。
安くて良いだけでは太刀打ちできない。便利とか、高くても買いたいと考える消費者の選択肢は格段に広がっており、この要求にどう応えていくのか。大手と地元資本、新旧勢力を交えて生き残り作戦がエスカレートしそうだ。
なかなか人が来ない。入ってもすぐ辞めてしまう。警備業のテイケイ西日本(中区東白島町)は長年抱えてきた課題をど真ん中に据え、同時並行して人材確保と営業・教育改革を断行。これが強力なエンジンになり、前5月期決算で過去最高の業績を上げた。
警備業法で定める雑踏警備はコロナ禍で大型イベントが軒並み中止になり、打撃を受けたものの、売上高は前期比約16%増の27億円超、経常利益は同1.5倍以上の1億7600万円を計上。4期連続の増収増益とした。
高速道路や夜間規制、鉄道などの収益性の高い特殊警備を強化する営業戦略へ転換を図り、その受注体制を整えるため、大胆に手を打った。海田英昭社長は、
「機械警備を主力とする全国大手とは異なり、当社は人材で成り立っている。しかし、これまでは定年後の60〜70代や若い単身男性が多く、離職率は高かった。どうすれば定着してくれるかと根っこから考えた。安定した収入がある、将来の生計が立つ、やりがいがある、みんなのための職場にする。明確な目的を掲げ、一連の待遇改善や福利厚生を拡充。次第に30〜50代世帯者の応募が増えてきた。モチベーションが高まり、業績を押し上げる好循環を生み出すようになってきた」
4年前から特殊警備を本格化し、人材の確保、育成に必要な投資を積極的に行った。人は石垣、人は城、人は堀。いかに堅牢な城を築こうと、人が去ると滅びる。信玄の言葉だが、現代の企業経営も人の心が離れると潰れる。
地元の金融機関に勤めていた縁で同社に請われ、2016年に社長に就く。社員一人一人と向き合った。真剣に耳を傾け、語りかけることから始めた。30代後半に大病。その時のつらい経験が寄り添う気持ちを醸成させた。これまでは人の採用や配属先も営業所任せだったが、社長面談を行って本社勤務か、営業部門か、現場向きか、適材適所を徹底。配属が決まったら共にがんばろうと握手。中国地方へ営業網を広げる中、全18拠点に出向いて労をねぎらう。研修やあらゆる場面でみんなから要望を聞く。できることは即決速攻、できないことは猶予をもらう。必ず誠意を尽くす。会社の業績などに無関心だった社員が次第に歩み寄ってくれるようになった。
これまでは中途採用が当たり前で年中募集、給与は勤務日数によって支給。これらを全て改めた。固定給とし、2年ほど前から総合職を導入。段階的に給与体系を整備し、年2回賞与、休業補償などのほか能力給の制度も設けた。新卒で国公立大生も入るようになり、20代女性も増え、離職率は大幅に改善した。
原田博男会長が1977年に創業。勤務先の警備会社が倒産したため、同僚と機械警備を始めた。2年後に工事現場の交通警備に乗り出し、創意工夫を重ねて業績を伸ばした。営業先も広がり、2008年のM&A以降、売り上げは20億円強で推移していた。
いまは交通警備が売り上げの8割だが、特殊警備がその半分を占めるまで伸長。今後は岡山、山口、鳥取県への進出を計画。24年5月期を目途にしていた売上高30億円を前倒しで達成する見込みだ。わが社に誇りがある。何よりも職場が元気と胸を張る。
マツダスタジアムの正式名は広島市民球場。公設民営だが、まさに市民のもの。これほど市民から愛されているスタジアムはほかにない。
観戦しながら周回できる幅広のコンコースは街中を歩くような開放感がある。天然芝がまぶしく、選手も近い。いまはコロナ禍で少々観客席は静かだが、あのリーグ3連覇の快挙は大方、ファンの大声援が成し遂げたのではないかと思う。混然一体のスタジアムはまさに「夢の器」である。
新球場を現在地で建て替えるのか、旧国鉄の貨物ヤード跡地に造るのか。ドーム球場なのか、オープン球場で天然芝にするのか。市民を巻き込み議論がふっとう。構想から建設までに困難なハードルを幾度も乗り越え、ようやく2007年11月26日に起工式を迎えた。市の担当者としておよそ7年、新球場建設に携わった日高洋さんは、
「新球場竣工の時よりも、着工することのうれしさが大きかったように思う。式典で初めて新球場の完成イメージCGを公表した。会場に流れるその動画を見ながら、私は鳥肌が立った。仕事で鳥肌が立ったのは初めて。着工までに3回もコンペを実施し、これでもか、これでもかと何度も挫折を味わっただけに、言い尽くせない喜びがあった」
カープ存続が危うい。危機感に端を発し、すぐさま市民も経済界も新球場建設を後押しした。経済界は目標を上回る17億円近くを集めた。大勢の人が建設に関わり、その一員に加わることができた日高さんにとって、とてつもない感動があったのだろう。
「広島駅周辺のまちづくりにも大きな波及効果があった。南口周辺は長らく進んでいなかったBブロックや新たにCブロックの再開発が促進されて商業施設などが建設され、北口周辺は事務所やホテルなどが立地し、周辺の都市機能は格段に充実、強化された」
そもそも都市計画の分野を志していた。九州大学工学部建築学科を卒業後、大手の建設会社を経て1987年に広島市役所入り。新球場建設部専門員、オリンピック招致検討第二担当課長、経済企画課菓子博覧会支援担当課長、都市機能調整部長などを歴任。2018年に建築の技術職では初めて経済観光局長に就いたが、父親が倒れたのを機に2地域居住しながら実家の農業を継続するため、定年まで一年を残し退職。
「これまで夢と五感を大事にしてきた。五感で感じると、多少反対されても絶対これでいけると、自分の中に信念を持てる。人生も、仕事も同じだと思う」
学生時代に米国と日本で自家用操縦士の資格を取得し日米の空を飛ぶ。一級建築士や狩猟免許も持つ。(社)地域価値共創センター理事、星槎道都大学建築学科客員教授、カープ地域貢献アドバイザー、広島ドラゴンフライズ新アリーナ準備室顧問、故郷の島根県邑南町顧問などを務める。
5月に広島総合卸センター顧問に就任した。MICE施設整備構想のある商工センター地区のまちづくりを担当する。伊藤学人理事長は、
「実家の農業を継続する責任は重いが、彼の才能を眠らせるのは惜しい。存分に力を発揮してもらいたい」
日高さんの夢と重なり、まちづくり構想が実現する日を待ちたい。
どこかの国にならい、見事に日本らしくこなす。米国由来の野球は日本最大のスポーツビジネスに発展した。ベースボールと野球の違いを指摘する声もあるが、何ら問題はない。マツダスタジアムでのカープ観戦は楽しい。いち早く事態が収束し、真っ赤に染まった満員のスタンドから、どこか弱々しげなカープに活を入れなければならない。
日本初の本格的なボールパーク、マツダスタジアムはカープも変貌させた。2009年春、旧国鉄の貨物ヤード跡地に完成し、旧市民球場から現在地へ移転。観客動員数が急増した。15年から5年連続で200万人を突破し、旧球場時代に100万人内外だったことに比べて圧倒的に応援風景が一変。長らくBクラスに低迷していたカープは見違えるほど強くなり、16年からセ・リーグ3連覇の偉業を成し遂げた。夢のようである。
臨場感にあふれる別世界のようなマツダスタジアムが完成するまでに幾度か波乱もあった。市役所時代にスタジアム建設に長期間携わり、代々続く実家の農業を継続するため、3月末で退職した前経済観光局長で、(社)地域価値共創センターの理事を務める日高洋さん(59)は、
「03年の民間事業とん挫後、プロ野球界再編論議に端を発して地域が立ち上がった。04年に県、市や商工会議所、カープなどで新球場建設促進会議を設け、本格的な議論が始まった。既に球団は本場の米国を視察し、いまのボールパークにつながる意見を持っていた。06年に設計・施工コンペを行った結果、条件付き最優秀案を選んだがその条件が満たされていないと判断し、当選案にしなかった。都合3度のコンペを行ったエネルギーは一体どこから出たのかといまも不思議に思う」
04年にオリックスと近鉄が合併し、1リーグ制10球団とする球界再編が取り沙汰されていた。当時の市民球場は築後約50年と古く、観客席は横・前後の幅が狭く劣悪な観戦環境だった。選手のロッカールームも狭いなどと不評。市民やファンはむろん、行政や周辺の商業施設、商店街、経済界も「真っ先にカープがなくなるのではないか」と危機感を募らせていた。
球団は米国へ社員を何度も派遣し、あるべき姿として三つの方向を打ち出す。地域の活性化につながる球場、天然芝のオープン球場、野球に興味のある人もない人も世代を超えて気軽に交流できる広場のような球場。まさにボールパークそのもの、米国で主流になりつつあった。
日高さんは実際に見てみなければ、よい球場を造ることができないと考え、自費で大リーグの球場を視察した。驚きがいっぱいだった。観客は多世代。観戦だけでなく食事や遊具などで楽しんでいる。ゆるやかな勾配のスタンドからもグラウンドがよく見えることを確認し、座席の前後幅や横幅も念入りに測った。
スタジアムを周回できるコンコースは球団の意見を反映し、本通商店街とほぼ同じ幅にした。観客席は砂かぶり席やパーティーフロア、パフォーマンスシートなど約30種類もある。スタジアムの向きは東北東にし、観客席の多い内野席で直射日光を受けないよう配慮。そのほかファン、選手ファーストの考えがふんだんにある。−次号で。
見えないものを見抜き、何より楽しい売り場にする。
関東以西に玩具店「ホビーゾーン」を展開する冒険王(安佐北区可部)の前5月期は売上高56億8679万円、経常利益4億358万円と大幅に伸ばし、共に過去最高を更新した。テナント出店する商業施設で休業や時短営業が続き、厳しい営業環境にさらされたが、これまでの小型店を統廃合し、大型化した出店戦略が当たった。店舗効率や生産性が格段に向上し、全65店が全て黒字という。
来年9月で30周年。20代以上の男性を主力ターゲットにミニ四駆、カード、ガンダムプラモデル、フィギュアなどを扱う。堀岡洋行社長は、
「これまでに何度も浮き沈みを経験した。既に出回っている情報やデータに頼るのではなく、徹底して現場のリアルに向き合う。本当に求められているものは何か。これをつかむことがいかに大事か、痛いほど身にしみた」
もともと父親が経営していた家具店で家族連れが品選びの間、子供たちにおとなしく遊んでもらおうと玩具を用意したのが始まり。そのうち販売するようになり、玩具事業部を担当。しかし父親の引退を機に独立し1992年、冒険王を設立した。順調に多店舗展開していたが、大手のトイザらス進出で売り上げは大幅にダウン。そこで品ぞろえを絞り競合他社がまねのできない強みを発揮するコアコンピタンス経営に転換。家族や奥さんとショッピングセンターに同行すると大人の男性の居場所がないことに気付いた。2001年の松江サティ内を皮切りに、新業態ホビーゾーンを商業施設へ出店する戦法に切り替える。
「玩具業界は、少子化や家電量販店などの利益を求めない玩具の販売手法で苦戦を強いられている。一時は隆盛だった節句人形も衰退。鍵を掛けず近所に出掛けても平気な時代だったにもかかわらず、国内初の警備会社を立ち上げ、業界をけん引した企業の考え方がヒントになった。将来を見据えて本当に求められているニーズに頭をめぐらす。市場の変化を見極め、見落とされているニーズを見抜かなければならない。どの商いもここが勝負だと思う」
一時、ネット販売にも乗り出した。しかし価格競争に魅力はなく撤退。巣ごもりで好調なジグソーパズルなど独りでも、家族や仲間とでも楽しめる商品をそろえる。プラモデルをつくる時間が増え、道具の一つ、1万円のハサミが売れるという。店舗では1時間ごとの売り上げをチェックし、マーケットの変化に機敏に対応する一方、変えてはならない玩具店の存在価値に磨きをかける。
「玩具店には何より楽しさがなくてはならない。来て見て触って楽しんでもらい、顧客同士のコミュニティが醸成された店は強い。100人100色の来店客に満足してもらう接客を心掛けている。かじ取りを間違えたら倒産。その責任は全てトップにある」
今期は群馬や愛知、千葉、埼玉のイオンモールへ新規4店、増床5店、退店3店を計画。店舗売り上げを1億円に引き上げ、売上高63億円を目指す。来年6月には最大規模の店をイオンモール水戸内原店に予定。関東攻勢に備えた準備を進め、全国制覇を視野に置く。
無観客だったが、東京オリンピックのテレビ中継で、アスリートの懸命な姿に心を動かされた人も多かったのではないか。続いて東京パラリンピックが8月24日開幕し、9月5日まで開かれる。大会の期間中、世界をつなぐ空港の存在が改めて浮き彫りになった。新型コロナ禍で閑散としていた国際空港はひととき息を吹き返したが、地方の空港は依然として厳しい。
7月に完全民営化した広島空港。2050年度で年間旅客数586万人の数値目標を掲げる。コロナ禍前の18年度に比べて約2倍。国際線は同7倍の236万人を見込んでいる。小型機やLCC(格安航空)を主体に、アジア各地域の路線誘致とデイリー化を段階的に進め、最終的に現在の2.5倍の国内・国際30路線をもくろむ。
民営化のポイントは大きく三つ。これまで別々に運営されていた滑走路などの「航空系事業」(国)と空港ビルなどの「非航空系事業」(民間委託)を民間が一体的に経営し、全体を見通した収益改善策が可能になったほか、国が特別会計で収入を管理していた全国ほぼ一律の着陸料の自由化によって路線誘致を促進。商業エリアの集客拡大で増えた施設収入を着陸料の引き下げに充てることができる。
民営化に当たり、三井不動産や東急、マツダ、中国電力、広島銀行、広島電鉄など16社が出資し、昨年11月に広島国際空港を設立。出資者の広島マツダ取締役で新会社の施設営業部参与を兼務する槌谷省悟さんは、
「おりづるタワー立ち上げから携わったノウハウを広島のために活用したい。改めて広島空港のブランド力、地域からの期待の大きさを実感している。搭乗者だけなく、空港での体験や買い物を目的に来てもらえるよう、ブラッシュアップしていく」
7〜8月にエイチ・アイ・エスと竹原市立賀茂川中学校との共同企画で空港体験の日帰りバスツアーを実施。観光事業者と連携して中四国の周遊需要の創出を目指し、地域一丸でエリアプロモーションに取り組む。施設内で物産展などのイベントを定期的に開くほか、多彩な期間限定店を受け入れる。一押し商品を並べ、来場者を飽きさせない工夫も凝らす。7月には2階商業エリアに3店舗とイートインスペースを新設した。今後もビル改修や免税店の拡張などを計画する。
運営参画を決断した松田哲也会長兼CEOは、
「大企業と一緒に大きな事業を手掛けてみたかった。当社の店舗運営の経験や知識の提供はむろん、各分野のプロフェッショナルから多くを学ぶ機会になる。滑走路とビルを一体運営できるからこそ創意工夫しやすく、搭乗までの待ち時間をくつろぎ、楽しむことのできる施設を目指す。当社はおりづるタワーから平和のメッセージを発信してきた。大きな舞台に臨み、わくわくしている」
広島国際空港は30年間の運営権を国から185億円で買い取り、ビル改修などに5年間で約200億円を投じる。6月には総額約326億円の協調融資が決定。コロナによる運休で20年度の旅客数は1993年の開港から最低の約73万人。上昇気流をつかみ、広島の元気につなげてもらいたい。
日本酒の国内出荷量は1973年の170万キロリットル強をピークに、昨年はその4分の1まで落ち込んでいる。かつて100近くあった県内の銘柄は47に半減。実際に醸造する蔵は30ちょっとという。コロナ禍で宴会や会食などの自粛ムードが広がり、酒類を提供する飲食店の休業、営業時間短縮が相次ぐ。酒屋さんは憤り、悲鳴を上げる。
だが、いまがチャンスという。広島市内で酒販店を経営する酒商山田(南区宇品海岸)の山田淳仁社長はピンチを逆手に取り、新たな海外販路の開拓に乗り出したほか、就業規則を抜本的に見直して働きがいのある職場づくりを進めるなど、思い切った経営改革に乗り出した。中国地域ニュービジネス協議会が7月20日に開いた第1回「各界のリーダーを囲む会」のメインスピーカーに登場。興味深い話をしてくれた。
直営酒販店が4店舗のほか、酒類卸の免許も取得。全国の蔵元を直接訪ねて逸品の銘柄を選りすぐり、開発を促し、これを全国の酒販店に卸す商品シリーズ「コンセプトワーカーズ・セレクション」(CWS)を2016年に立ち上げた。現在は国内のデザイナー19人と提携し、醸造元は24蔵が参画。同CWS商品を全国の酒販店へ供給する。〝日本の酒の伝道師〟というミッションを自らに課し、国内から海外へ翼を広げようとしている。
米国の事業パートナーと共に7月下旬から約2週間をかけ、酒質に定評のある国内の9蔵元を順々に訪ねた。事業パートナーが米国内での日本酒の啓発活動と販路拡大を担当。酒商山田は蔵元の推薦と輸出商品の開発を受け持つ。
世界に広まるワインやウイスキーなどは産地名がブランドになり、それぞれが特有の個性を醸す。蔵元を訪ねて日本酒の造られた背景や産地の風景、歴史、気候、水質、その土地柄なども銘柄に折り込み、海外へブランド価値を売り込む狙いがあるのだろう。大きな希望があるから、へこたれることがない。
年商は10億円規模。三代目の実父が病に倒れ、1989年に実家の酒販店に戻り、経営を継いだ。当時の年商は約1億5000万円。借入金の返済金利に追われる、厳しい状況だった。出店規制に守られていた酒販業界は、大店立地法の施行による大型店の出現や2006年の酒類販売免許完全自由化などによって大打撃を受け、街角にあった酒屋さんが次々と姿を消していった。
売り上げの主力だったビールとたばこの扱いをやめて日本酒に特化。小さな蔵のうまい酒に着目し、身をそぎ落とすような競争と一線を画す経営に軸足を移した。こうした一歩一歩の取り組みから商いの確信を得たのだろう。
「こだわりのある飲食店と飲み手を創り、小さな蔵の需要を創り、日本の酒文化の魅力を国内外へ発信する。立ち止まるわけにはいかない。希望を見いだし、柔軟な発想、社会的な課題の解決、そして新しい価値を創造することで共に前進していきたい」
国内市場は先細るが、清酒の輸出額は10年以上、右肩上がり。昨年は過去最高を記録した。近く、小さな蔵のうまい酒が海を渡る。並行して新感覚の店舗開発と新しい卸売事業展開の構想も練る。
独裁すれども独断せず。民主主義の危険を知れ。社長の権限委譲は会社をつぶす。
むろん政治体制の話ではない。7月12日にあった中国地域ニュービシネス協議会の経営者セミナーで「社長の姿勢」と題し、データホライゾン(西区)社長の内海良夫さんが講師を務めた。オンライン参加も含め、社長や幹部ら約70人が耳を傾け、メモを取る。社長の仕事とは何か。この一点に絞り、自らの体験を踏まえながら話した。
内海さんは1981年に創業し、2008年に東証マザーズ上場を果たす。昨年はDeNAと資本提携。国の大事業とも言える健康増進や医療費適正化をけん引するデータヘルス(PDCAによる効果的な保健事業)を中心に、医療関連情報サービスの開発などを手掛ける。
創業から15年は黒字と赤字を繰り返し、見かねて辞めていく社員もいた。よくも生き延びることができたと思うほどの〝ボロ会社〟だった。その頃にまさに運命を左右する、経営コンサルタントの一倉定氏(故人)との出会いがあった。考え方を学び、実践し以降、増収増益を続けた。一倉氏は空理空論を嫌い、現場実践主義を徹底。社長を叱りつけることもしばしばだったという。
「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも社長の責任。世の中は常に変わるという前提でものを考えよ。事業経営の成否は99%社長で決まる。外部環境のせいにするな、全ては経営者の責任である」
など、有名な語録の枚挙にいとまがない。
内海さんは、
「社長の役割は経済に関する危険を伴う意思決定をし、その結果全てに責任を取る。社員に任せるのは決定ではなく実施。正しいワンマン経営は社長自らの経営理念に基づく会社の未来像を持ち、その未来像を実現するための目標と方針を、自らの意思と責任において決定し、これを経営計画書に明文化する。経営計画書を社員によくよく説明し、協力を求める。経営計画書の最も重要な施策は自ら取り組み、他は任せる」
関心と行動の焦点を未来に合わせ、市場と顧客の要求の変化に対応して絶えず革新を行い、高収益型事業を創り出すことこそ、社長の仕事であると言い切る。考えに考え、体験と重ね合わせて到達した境地なのだろう。
環境整備にも及んだ。
「規律、清潔、整頓、安全、衛生の5つの環境整備こそ人々の心に革命をもたらす。全ての活動の原点である。決められたことを守る規律、いらないものは捨てる清潔、物の置き方と置き場所を決める整頓の3つをやれば、安全と安心は自然にできる。社長自ら巡回し、チェック。抜き打ちは厳禁」
など、まさに現場実践主義である。
「会社の真の支配者はお客さまである。優れた会社は顧客の要求に基づいて目標設定する。凡庸な会社はわが社の実情に合わせて目標設定する。変転する市場と顧客の要求を見極めて、これに合わせてわが社をつくり変える。社長はお客さまのところへ行く。アナグマ社長は会社をつぶす」
考えに考え、企業の運命を決定し、その責任の全てを引き受ける。社長ならではのやりがいもあるのだろう。
道理と共に行動する者は必ず栄える。大河ドラマの主人公で、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一が著書「論語と算盤」(1916年刊行)でこう述べる。道徳と経済の調和を図り、言動に裏表があってはならない。元来、人が持っているやる気を引き出し、成長を促す。そうして経済を発展させる。生涯、この考えを貫いたという。
合理主義だけで企業は成り立たない。人情に流されるようでは経営が崩れる。どう調和させるか。どこに道理があるのか。リーダーは正解のない問いに決断を下し、右か左か、進路を決める。その行き先に結果が待っているが、ここでも度量が試される。今も昔もこれから先も、企業経営者は肩にのしかかる重圧から逃れる術はない。一層やりがいもある。
広島市信用組合の山本明弘理事長(75)は、
「預金を集めて融資する。当信組の生きる道です。ひたすら本業に専念し、本業以外に手を出さない、いわば、捨てる経営に徹してきた。顧客本位の営業を徹底し、全役職員が取引先にお金を使っていただくという認識を持てば、顧客は必ず振り向いてくれる。応援してくれる。融資をやらなければ昇進できないという当信組の風土もできた。足で稼ぐ現場主義を最も大切にしている。足を使った仕事は非効率と指摘する声もあるが、現場に行かないと決して知ることのできない貴重な情報が山ほどある。工場の活気、働く人の姿、経営者の熱意、成長性や技術力などの定性的な部分を評価した上で、融資の可否を判断している。足しげく出入りしていれば、取引先の事情が分かるようになる。他の金融機関にとっての非効率は、当信組にとって融資のスピードを速め、渉外の動きを活発にする効果的な効率につながっている。融資を決定する場合の判断は財務内容が全てではない。そうしたリスクを取った上で、融資先が成長し、活躍している姿を見たときに、一番のやりがいを感じる。それで地元経済がより元気になると、これ以上の喜びはない」
この考えは一朝一夕でつくられたものではない。
「私が新人の頃に外回りで経験した挫折から得た教訓として、お金は貸すのではなく、使っていただくということを身に染みて感じた。以降、上司や本部の役員と衝突しても何より取引先にとって、当組合にとってプラスかマイナスか、この一点で押し通してきた。上司から稟議書を投げ返されたことも一度や二度ではない。上司の反感を買いながらも、この考えと行動のおかげで取引先が私を応援してくれた。その実績が反感を凌駕(りょうが)してくれた。私に出世や給与を上げてもらいたいという打算があれば、上司と衝突しない。歴代の理事長には理解を頂いていたと思う。融資はスピードが命。小口の融資だからこそ、いかに困っておられるのかを察し、できる限り速やかに対応したい」
2005年理事長に就任以来、融資のスピードで商機をつかむため、毎朝5時台には出勤し、全職員が出勤する前に全ての決裁書類を終える。そして毎朝、6時台に役員会を開く。ちょっとやそっとではまねができない。その言動に裏表がなく、強力なリーダーシップで引っ張る。
大谷翔平は宇宙人なのか。テレビ中継でアナウンサーが「オオタニサーン!」と絶叫し、凄(すご)い勢いでまくし立てている。ポンポンと飛び出す大きなホームランに興奮しているのだろう。野球少年そのままの明るさがあり、どんな猛者もかなわない。カープの憂さも晴らしてくれる。
厳しい金融界にあって、凄いと言うほかない。来年5月で創立70周年を迎える広島市信用組合は2021年3月期決算で、金融機関の収益力を示すコア業務純益が過去最高になり、101億円を計上。19期連続増益を達成し、今期も記録更新が確実という。
10年前に比べて貸出金残高は倍の約6478億円。預金残高は倍以上の約7446億円。日本格付研究所(JCR)は5月11日時点で、同信用組合の信用格付を「A(ポジティブ)」へ格上げ。全国の信用金庫254、信用組合145にあって堂々の3位。JCRはこう評している。
「資金量約7000億円。経営トップの強力なリーダーシップのもと、経営資源を預貸業務へ効率的に集中させ、スピーディーに融資可否の判断を行えることが強みになっている。こういった当信組のビジネスモデルに対する評価や収益力の高さなどが格付を支えている。コロナ禍が長期化した場合には、ミドルリスク先を主要な貸出先とする当信組の与信費用にも相応の影響を与える可能性がある。もっとも、コア業務純益は堅調に推移しており、厳しい環境下でも与信費用はコア業務純益で十分に吸収可能な範囲内に収まるとみている。これまで格付を制約していたコア資本比率は着実に改善してきている。今後も持続的に改善していく公算が大きい」
新店開設や店舗リニューアルを契機に顧客開拓を強化したこと。足元では新型コロナの感染拡大の影響を受けた事業者への資金繰り支援を積極化したことなどが寄与し、貸出金残高は比較的速いペースで増加。保有株式や債券にかかるリスク量は資本対比でみて限定的など、まさに「本業特化」を推し進めてきた経営方針を評価。同信組にとってこれから先の確信になったのではなかろうか。
役職員の待遇改善も急ピッチで進めた。全国の金融機関に先駆け、5年前に定年を60歳から65歳に延長し、併せて役職も維持。初任給は段階的に引き上げ、例えば4年生大学卒で21万7000円。金融機関で群を抜く。応募者が増え、優秀な人材が増え、業績が伸び、待遇改善という好循環の軌跡を描く。
派閥をつくるような人は役員に不適格です。即座に役員を辞めてもらいます。徹頭徹尾に取引先目線、職員目線のシンプル経営を貫く山本明弘理事長の持論だ。
1968年に入組。35歳で三篠支店長に抜擢(ばってき)された後、中広、出島、可部、商工センターの支店長を経験し、本店の営業部長、審査部長から常務理事、専務理事、副理事長を経て、2005年に理事長に就く。出世街道を駆け上ったその履歴の裏側で挫折感を味わったことや、融資案件をめぐり上司と衝突したこともしばしばあったが、「取引先のため、市信用のため」と一歩も譲らなかった。「継続」を経営信条とする山本理事長の現場主義、本業特化の真の狙いなど、次号で。
マットレス、ベッドフレームの製造販売を主力に、リビングソファや寝装品などを扱うドリームベッド(西区己斐本町)が6月23日、東京証券取引所第2部に新規上場を果たした。県内で上場した企業は52社、広島市内では25社になった。
まさに夢がかなった。2017年2月24日亡くなった前社長の渡辺博之氏の遺志を受け継ぎ、創業70周年の節目に当たる2020年を目途に上場を目指していた。国内のベッドメーカーではフランスベッド、パラマウントベッドに次いで、3社目になる。小出克己社長は、
「1950年の創業以来、品質に対する統一した考え方が根付いており、われわれが造る製品に対する自信と誇りが根底にある。たゆむことなく研究、開発を重ね、製造現場では改善、改革に懸命に取り組んできた。マットレスはコイル(鋼線)の太さ、形、配列で寝心地が決まる。当社は線径の異なるコイルを1台の機械で作り、任意に配列する技術の特許を持つ。一人一人の寝心地に対応できる素晴らしい技術だと自負している」
これからも優れた品質の製品を造り続けるという創業来の方針がぶれることはないと言い切る。
戦後間もなく、寡婦や戦災孤児の救済へ創業者の渡邊禮市夫妻が私財を投げ打ち、現在の中区基町で授産場を経営した後、米駐留軍の払い下げ物品を受け、ベッドの修理販売を手掛けるようになった。1957年に禮市氏が広島ベッド商会を立ち上げ、その年の夏、製造部門を切り離し、ドリームベッドを現在地に設立した。60年代後半には安芸高田市にマットレスなどを製造する八千代工場を完成。現在のベッドメーカーとしての礎を築いた。製造部門と販売部門を分離したほか、部門別に子会社を相次いで設立。しかし不況下で経営効率化を優先し、2002、03年にかけて、11社あったグループ会社を合併・統合。現在のドリームベッド1社に集約した。小出社長は03年に広島銀行から出向し、同行退職後、渡辺博之社長の逝去にともない専務から現職に就いた。
「一般的に同族経営には優れた点も多くあるが、ガバナンスが機能しなくなった時に、社内外から意見が入りにくく、受け入れにくくなるという危険もある。経営の風通しをよくするというのが、どの企業にとっても大事なことではなかろうか。当社では経営の柱でもある、『いいものを作ろう』というものづくりの精神が大事に守られてきたことで、品質やブランドの評価は高い。上場で得た資金は八千代の新工場建設に投入し、徹底的にものづくりの力を磨く。さらにブランド力を向上させ、ウェブ、SNSやテレビ広告などによって認知度を高める。全国3カ所のショールームにご来場いただき商品に触れてもらう、知ってもらうことで、必ず評価してもらえると確信している」
20年3月期売上高は2期連続で大台の100億円を突破した。21年3月期はコロナ禍の影響を受け、商業施設向けの売り上げが減少。89億円で減収に転じた。しかし、今期はおおむね順調という。
「ものづくりに慢心があってはならない。創業の精神を大切にし、先輩から後輩へ繰り返し伝えていかなければならない」
艶やかで華やか。しっとり手になじむ椀(わん)や鉢をはじめ、上から見るとしずくの形が印象的な、酒を注ぐ片口(かたくち)やちょこ。中区堀川町の仏壇通りにある仏壇店「高山清」2階ギャラリーに、4代目高山尚也さん(40)が精魂込めて仕上げた漆器約300点が並ぶ。
もともと仏壇を展示していたが、5月に廣島漆器のギャラリーに刷新した。どこで買えるのかという声に応じ、踏み切った。尚也さんは2年前から百貨店や外部のギャラリーで漆器の個展を開くようになり、伝統工芸の展覧会などで数々の賞も獲得。店の4階に設けた工房で制作に励む。
「伝統を守ることは何より大事。加えて現代生活に合うデザインなどの工夫も大切だと思う。使う人のアイデアで自由に使っていただける漆器を目指した。普通の日を特別にしてくれる、漆器の楽しみや魅力を堪能してもらいたい」
1619年、紀州藩主浅野長晟(ながあきら)が広島城へ入城した際、随従した職人によって漆(うるし)塗り技術が伝わった。その後、僧が持ち込んだ京都や大阪の仏壇仏具の製造技術と重なり、広島仏壇が製造されるようになった。瀬戸内海から大阪や京都へ出荷し、大正末期には全国一の産地に。熊野筆に次ぎ1978年、国の伝統的工芸品に指定された。高山清は大正2年(1913年)に塗師屋で創業。2年後に110周年を迎える。仏壇仏具の製造販売だけでなく塗師として寺院や神社の仕事も受ける。
京都の仏教系大学に在学中に、ある工房を見学。やってみるか。親方の誘いに乗り、漆塗りを始めた。次第にのめり込み、住み込みの徒弟制度で半年間、親方の容赦のない駄目だしを受けながら、ひたすら塗り続けた。
「刷毛(はけ)で塗ったとは思えない漆の肌合いに驚いた。職人の道を目指す原点になり、刷毛を扱う圧や引っ張りなど、その手仕事の見事さに魅了された。半年ほどで〝これか〟とコツが飲み込め、3年目でようやく認めてもらえたのか、一人仕事を任された時の感動は忘れられない。いまや徒弟制度は通用しないだろうが、今の自分の基盤を築いたかけがえのない6年間だった」
寺から依頼されて椀を修繕したことが漆器を手掛けるきっかけになった。手にして使う漆器の心地良さに、われながら感動したという。
県内の伝統的工芸品は経済産業大臣指定が5つ、県指定は9つあったが、後継者不在で2つが取り消される。どの産地も後継者難や販路開拓が共通の課題。伝統の粋や技がいくら素晴らしく目を見張るものでも、それだけでは通用しない。市場を読む高感度のアンテナ、商品として流通させる知恵や工夫が求められており、現実から目をそむけることはできない。漆塗りや箔(はく)押しなど七匠の技が結集する広島仏壇。その技を現代にどう生かすのか、将来を切り開くヒントになりそうだ。
しずくのような、優美な片口は木地ではなく、乾漆(漆下地に布を張り重ね型抜きした素地)によって、そのフォルムを可能にした。
「漆器は修繕が利く。日々使い続け、表面が痛めば職人が直し、また使い続ける。いわば自然循環の文化。丁寧に仕上げられた逸品は、使うことで一層愛着が湧く」
生活に根差し、ものを大切にする心根も育むと言う。