広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2019年12月12日号
    融資の裏打ち

    新幹線がでっかい希望を運んできた。広島県内で唯一、新幹線車両に使われるアルミ部品を加工、納入する景山産業(南区、景山善美社長)は受注増に対応し、西区に新工場の用地約1800平方メートルと平屋の既存工場を購入した。同社の年商は約6億円で、買収額はほぼ同額の6億円弱。これを広島市信用組合が単独で資金需要に応えた。
     典型的な町工場にとって大きな額になり、さらにレーザー加工機全自動ラインの最新鋭設備導入などに投資額も膨らむ。大きな決断だった。同信組の山本明弘理事長は、
    「創業来60年近くをかけ、こつこつと信用、加工技術を重ね、今、大きなチャンスをつかみ取ろうとされている。ひたむきな経営陣の取り組みは何事にも代え難い。大いに成長性があると判断した」
     両経営者の呼吸がぴたり。これにはむろん、大きな裏打ちがあった。
     同社は1963年、創業者の景山昭二会長(92)が精密板金製造を創業。当時の国鉄(現JR)から取り付け金物の製造をやってみないかという誘いが発端だった。やがて信号保安設備関連の機器類も製造し、業容を伸ばす。そうして90年代半ばに大きな転機が訪れた。高速道路に設置するアルミ加工のシート式情報板を製作しないかと取引先の小糸工業(現コイト電工)から依頼があり、ためらうことなく手を上げた。創業者の次男、拓(ひろむ)専務(56)は「このときの経験がその後の大きな糧になった」と振り返る。
     まずは金型メーカーを探すことからスタート。西日本を走り回った。必死だった。発注者が求める厳格な品質、コスト、納期に加え、出来栄えの美しさなどの要求は厳しさを極めた。撤退しようかという思いもよぎったが、一層チャレンジ精神を鼓舞。火の玉になった。
    「ものづくりの魂、技術を徹底的に鍛えられた。試練を乗り超えたことが自信になり、現場で製品を手にしたときの感動があるから続けることができた。従業員みんなに喜びが広がり共感が生まれた」
     これが原動力になったのだろう。13年前に新幹線向けの受注が飛び込んできた。日立製作所笠戸事業所に納入する車体の内装部材、ドアや床周り、先頭のライト周辺などのアルミ部品の総数は1万種類に及ぶ。次々に最新鋭設備を導入したことも品質向上、生産性を飛躍的に高め、加工改善の提案やコスト削減などに競争力を磨いた。従業員採用にも特有の考え方がある。異分野で働いていた固定概念の少ない人の方が、素直に技術を身に付けてくれるという。
     今後、新型の新幹線が量産体制に入り、海外からの受注も見込まれている。台風で浸水した北陸新幹線車両を新たに造る方針もある。さらに同社のアルミ加工技術が評価されて医療器具関連ほか、予想外の分野からも引き合いが入る。来年6月の新工場稼働に備え、従業員を10人増員し総勢40人に引き上げる。数年後には売り上げ10億円を見込む。これまでに資金調達で苦労したときも同信組に支えてもらった記憶がある。しかしそれだけでは融資の裏打ちにはならない。融資する方と受ける方に、ぶれることなく地道に一本道を歩いてきたという、数字に表れない気脈が通じているのだろう。

  • 2019年12月5日号
    「池田丸」進発

    マツダ、中国電力、広島銀行の3社はいつしか、広島財界の「御三家」と呼ばれるようになった。広島商工会議所の正副会頭人事でも御三家の出身者が目立つ。
     11月1日で広島銀行の池田晃治会長(66)が会頭に就任。副会頭に選任されたマツダの小飼雅道会長は工業振興、広島電鉄の椋田昌夫社長は商議所移転を協議する同所の特別委員会のメンバーほか、交通体系の整備やまちづくり推進、フレスタの宗兼邦生社長は小売業や観光振興、広島魚市場の佐々木猛社長は中小企業振興、再任された中電の重藤隆文取締役常務執行役員は中区の中央公園自由・芝生広場を予定地とするサッカースタジアム建設と、市営基町駐車場・駐輪場を候補地とする商議所ビルの建て替え・移転などを受け持つ。評判は上々、なかなか強力な布陣である。
     戦後からの歴代会頭20人のうちマツダから河村鄕四、山崎芳樹の2人。中電グループから鈴川貫一、村田可朗、中野重美、池内浩一の4人。広島銀行からは伊藤豊、山田克彦、橋口収、宇田誠、池田(現)の5人を合わせて11人に上る。(敬称略)
     やはり、そのときの企業業績やトップ人事、まちづくりの課題などによって正副会頭選びも少なからず影響を受けてきた。景気の不透明感などから負担の大きい会頭就任に御三家そろって難色を示し、なかなか会頭人事が決まらなかったときもあった。一方でカープの本拠地となる新球場建設の課題を抱え、2004年就任した宇田会頭の以降、正副会頭に御三家の出身者がそろうようになった。
     06年、中電のトップ人事で福田督副会頭が副社長から会長に就任し、中国経済連合会の会長に就いた。2つの経済団体の役職を兼務するのは困難として副会頭を辞任。同じく渡辺一秀副会頭もマツダの役員人事で会長を退いたことから副会頭を辞任。新球場建設に伴う寄付活動が念頭にあったのか、宇田会頭は、
    「中電とマツダ両社に後任の推薦をお願いしたところ、中電の福田昌則副社長(当時)、マツダ協力メーカーの広島アルミニウム工業の田島文治社長に引き受けていただいた」
     と、安堵の表情を見せた。
     以降、副会頭はマツダから山木勝治副社長、金井誠太副会長、稲本信秀専務、小飼会長(現)、中電から小畑博文常務、信末一之常務、渡辺伸夫副社長、重藤常務(現)、広島銀行から蔵田和樹常務、廣田亨専務と続く。肩書きは就任時。広島育ちだが、すでに県外や海外へ大きく翼を広げた企業と広島をつなぐパイプ役を商議所が果たしているかのようだ。広島ならではの特色か、流通業が集積する西区商工センター地区から伊藤学−尾山悦造−中野彦三郎−中村成朗−桜井親−細田信行−伊藤学人−佐々木尉文−木村祭氏−佐々木猛(現)と、地区内にある広島総合卸センター理事長や有力企業トップらが多く選ばれている。
     今、広島に課題は山積している。池田会頭は「スピード感をもって懸案のまちづくり推進や、商議所本来の使命である中小企業、小規模事業者に役立つよう全力でぶつかる」と決意を示す。広島経済同友会代表幹事を4年務めたほか、銀行業務を通じて地元経済に精通し、人脈も広い。元気を振りまいてほしい。

  • 2019年11月28日号
    老舗の底力

    世界に比べて日本は長寿企業が多いという。それでも創業100年を超える老舗企業の割合はたったの2%で、中国地方に2528社、広島県に860社ある(帝国データバンク2019年調査)。
     一方で、企業30年説が広く流布されているが、国税庁調査で企業生存率は5年後に15%、10年後に6.3%という厳しいデータがあり、30年後にはほとんどの企業が姿を消すという説を裏付ける。なぜ老舗企業が100年以上にわたり生存できたのか。そこに経営のヒントが隠されているのではなかろうか。
     印刷業界の老舗で、12月に創業100年を迎える中本本店(中区東白島町)の100年史「創業期」に、
    『創業者の中本勝三には借金ゼロを貫くという信念があった。そのためには品質は絶対に落とせない。一度品質を落としてしまうと信用を失う。何としても品質の良さを守り抜く高い技術力と、人々の思いを正しく伝えたいという誠実さが欠かせない』
     とある。4代目の中本俊之社長(57)は、
    「今も創業時のシンプルな考え方が底流に流れている。近年、印刷業界はITなどによる技術革新の大波にもまれているが、唯一、品質を守るという基本は不変。今日まで愚直なまでに信念を押し通してきた。今後も貫く覚悟です」
     その遺伝子のせいか、誠実そのものである。
     勝三さんは出身地尾道から広島に出て、中国新聞社に印刷工として勤める。ここで技術を習得し独立。1919年に上柳町(現・橋本町)に中本印刷所を創業した。38年から現社名。鉄道省の監督指定工場になるなど順調に業績を伸ばす。人望を集め、広島活版印刷工業組合理事長をはじめ、日本印刷文化協会県支部(後に広島県印刷産業統制組合)の初代支部長を務めるなど長年、業界を引っ張った。
     しかし、被爆で全工場を焼失。当時の中本本店と爆心地の距離は約550メートル。午前8時の始業時間に合わせて出社していた全社員の命を失う。勝三さんは奇跡的に命をつないでいた。近所に野菜を配っていたため、いつもより遅く通勤電車に乗り、車内でうっかりメガネを落とす。拾おうと腰をかがめた瞬間、原爆がさく裂し、車内の人たちは皆命を落としたという。
     そのとき勝三さんは52歳で、人生最大の苦難に直面。あきらめもよぎったが、やがて再建の意欲を取り戻し翌年11月には現在地に木造工場を建設。再び歩きだした。
     近年、技術革新で飛躍的に印刷技術は発展したが、技術革新によって市場も失った。元来、得意先であったそれぞれの事務所で容易にプリントアウト。簡単な印刷物の発注が激減した。中本社長が理事長を務める県印刷工業組合の組合員企業数は1997年の184社をピークに、現在は128社。多くの印刷会社が姿を消した。
     中本本店は、2014年に機密印刷サービス事業がものづくり革新事業に採択されたほか、ひろしま食べる通信の創刊、クリエイティブ部門ライツ・ラボを立ち上げるなどプロならではの技術力、提案力を武器に市場開拓に挑戦中。むろん簡単ではないが、老舗にはぶれない信念と、すさまじい生存本能があり、そして運も必要なのだろう。

  • 2019年11月21日号
    木のまち復権へ

    廿日市市は古くから木のまち、木工のまちとして発展してきた。市域の約86%を森林が占める。東証1部上場企業で、連結売上高約630億円のウッドワンが本拠を構え、廿日市木材港・木材工業団地には製材業など木材関係企業が多く集積している。
     豊富な森林資源を活用した木工品やけん玉などの木製製品、宮島細工は県から地域産業資源の指定を受け、2016年から〝木のたびネットワーク〟の取り組みが本格化。思わず手で触れたくなる木肌、見ているだけで和む木工製品を集めた展示販売会「LIVING/CRAFT(リビングクラフト)暮らしをつくる職人たちの木工展」が10月から約1カ月間、同市地御前のインテリアショップloopであった。木工製品の職人らでつくる「はつかいち木工研究会」主催。各工房の腕利きが、新たなチャレンジに踏み出そうとしている。
     メンバーは、一枚板や無垢(むく)材のテーブルを手掛ける常藤家具きくらの鈴木徳俊さん、中国山地の木材で小物や注文家具を作る木工房三浦の三浦孝治さん、カントリー家具WOODY(ウッディ)の廣瀬啓行さん、1925年創業の益田畳店の益田健一郎さん、ろくろ技術を生かした木工玩具や階段手すり棒を製造する、しみず木工所の鍋谷一也さん、注文家具全般の岩井家具工房の岩井浩二さん、創業80年の倉本杓子工場の倉本充明さん、椅子やオブジェ製作の河野令二さん、一級建築士事務所Treeの博多努さんの9人。
     市や商工会議所が企画し、2017年に活動を始めた。商品開発の輪を広げようと、それぞれが試作する一方で、共同してマルシェ出店や成人式のノベルティ試作、地元の料亭やカーディーラー向けにヒノキ、ケヤキ、クリ、キハダ、トチノキなどの市産材を使った製品を納めたほか、骨壺の試作やデザイナーとコラボした〝現代こけし〟や〝絵付けびわ杓子(しゃくし)〟を手掛けた。会長を務める鈴木さんは、
    「木工の魅力を知ってもらうには、まず手に触れてもらうことが先決。木工展では売れ筋を再確認する必要を痛感した。試作段階だが市産材を活用し、市役所ホールに置く椅子を製作中。木材加工の技が伝わるデザインにし、強度などを検証していく予定」
     常藤家具はたんす、ベッドが作れば売れた時代を経て、ベッドメーカー向けにフレームを納めていたが、輸入品と価格競争する設備投資はリスクが大きく、「このまま続けても先行き危うい」と事業転換を決断。20年前にショールーム兼店舗を構えた。現在は無垢材の一点ものを求めて遠方から訪れる客も少なくないという。チャレンジ精神が新たな客層を生んだ。
     森林の育成〜生産・流通・加工・販売〜消費を促す目的を掲げ、木のたびネットワークは山林経営や素材生産、建材メーカー、家具製造、工務店が関わり合いながら新たな木材需要の創出を目論む。木工・クラフト関連事業者もネットワーク形成の一員に位置付ける。市の担当者は、
    「昔は地元の木を切り出して家を建て、数十年後の使用を想定して植林する森林資源の循環ができていた。しかし木材需要が減少傾向の中、このまま手をこまねいているわけにはいかない。ピンチをチャンスに、木のまちを復権する絶好のステップにしたい」

  • 2019年11月14日号
    明るく面白く

    「悲観主義は気分により、楽観主義は意思による」(哲学者アランの幸福論より)。むろんうかうかなどはできないが、朗らかな方が健康にいいし、運も呼び込む。そう信じて逆境を砕き、わが人生を突き進んだ半生がつづられている。どこかユーモラスで、読み終えて爽やかだ。
     医療法人社団八千代会(安芸高田市)理事長の姜仁秀(かんいんす)さんが75歳を迎え、回顧録「波爛万笑(はらんばんしょう)」をまとめた。目に鮮やかなイエローの装丁にA5判37ページ。生い立ちから、西日本有数の医療〜介護施設を擁するまでの体験談を軸に本音も交え、幼少期の父の教え、けんか、進学できなかった差別、豪遊、1年4カ月の獄中生活、再起などの4章に、どうしても記しておきたかったのだろう、思わず吹き出す外伝「おもしろかったエピソード」も明かしている。
     戦中生まれ。戦後の物のない時代に幼少期を過ごした。
    「置かれた環境につらいと感じる暇もなく、生きていくために食べることで必死。だがみんなと何か楽しいこと、面白いことはないかと企てるのが元来、好きな性分。遊ぶための軍資金づくりに役割分担しながら山鳥やウナギを獲り料亭に売っていた。折角、この世に生を受けたからには夢を描き、明るく面白く人生を歩く気構えが大切ではないだろうか。いろんな方の回顧録を手にすることも多いが、私はありのままに恥もさらけ出すつもりで、したためた」
     成績は優秀。医師を志していたが、高校の担任から「君の成績なら医学部に合格すると思うが、韓国籍では卒業しても仕事はない」と諭される。卒業後、山口県下関市の信用組合に就職。トップの営業成績を残し、その後金融業で独立。存分に才覚を発揮し、徳山(現周南市)の夜の街を豪遊。周囲からあらぬ誤解を受けたこともあったという。
     そんな日々から心の奥底にあった病院経営へ向かうきっかけは、友人の母の通夜に参列したときに「(母が逝ってくれて)ホッとした」という一言だった。初めはわが耳を疑ったが、在宅介護の大変さを知り、「人の役に立つ」仕事と確信した。金融業に嫌気が差してもいた。銀行の支店長から打診されていた、廃業したホテルを買い取り、リフォームした老人病院は順調だったが、職員に仕事を任せ切りにしていたせいで、知らないところで法を犯し、1年4カ月の獄中生活。この逆境が奮起の原動力となった。
     1992年に開院した511床の八千代病院をはじめ、グループで介護付き有料老人ホームのメリィハウス西風新都、病院と高齢者住宅が上下階のメリィホスピタル・メリィデイズ、サービス付き高齢者住宅など計11施設、1869床(医療211、介護1658)を経営。行き詰まったとき、突破口となる信念があるか、自分を奮い立たせるよりどころがあるかないか。
    「私も生身の人間。追い込まれて極限の状況に苦しんだこともあったが、自分自身を助けるのは自分でしかない。誰でも能力があり、それはどんぐりの背比べ。大差はない。それに気付くかどうか。さらに挫折しても自分を信じて努力を怠らない。若い人に自分を信じる大切さを託したい」
     世の中や人の役に立つかどうか。ひるむことなく針路を示す姜さんの羅針盤だ。

  • 2019年11月7日号
    成長戦略を支える

    イズミが発行する正社員向け広報誌「ゆめCan NEWS」(季刊)の取り組みが徐々に成果を挙げている。男女共に働きやすい職場づくりの目的を掲げ、「意識改革」、「人事制度改革」、「教育」の3つのプロジェクトを推進する。広報、環境整備、教育の3チームで編成し、2014年9月から始めた。広報誌は山西泰明社長のインタビューや女性管理職による座談会、女性社員の声などを掲載し、一緒に働く仲間の思いも伝えながらプロジェクト推進の役割を担う。
     同社の正社員約2900人の男女比は6対4。パート、アルバイトは1万人を超え、女性中心の職場でもある。ゆめCanプロジェクトがスタートした時の女性管理職の割合は7%だったが、向こう20年間で20%に引き上げる数値目標を定める。それから5年たって管理職約670人のうち女性管理者は約70人(8月末)を数え、その割合は二桁を突破した。広報課長で、プロジェクトリーダーを務める飛子(とびす)晴美さんは、
    「女性の管理職を増やすと同時に、子育てなどのために辞めなくても済むような制度を設け、退職率を減らすことも主要なテーマです。環境整備チームは従業員アンケートなどで課題や問題点などを抽出し、どうすれば解決できるのか、具体的な対策を提案しています。育児をしながらキャリアを積んでいける環境や制度を整えていくことが大切だと思います。こうしたこまやかな取り組みが一人一人の意識改革につながり、やがて職場に新たな活力が生まれてきます。女性が働きやすくなれば、男性にとっても働きやすい職場になるのではないでしょうか」
     ワーキングマザー座談会や女性リーダー育成研修会なども主催してきた。配偶者の転勤や柔軟な働き方を選択して離職した人のリキャリア制度はこれまで40歳以下としていたが、主任以上は45歳以下、次長以上の管理職は50歳以下に引き上げられた。参観日や子どもの急な病気、介護のためなどの半日有休、割高な休日保育を利用する場合は1日4000円を上限に半額補助する制度もできた。
     16年8月には管理職者向けに「ワークライフバランスマネジメントハンドブック」を作成。妊娠報告を受ける際の受け答えをはじめ、産休〜育休間の不安感を取り除く配慮や声掛けとともに復職を促す面談時期など、管理職者によって対応に差異がないよう「両立支援プログラム」のスケジュールを組んでいる。今年7月に熊本のゆめタウン光の森に、社員やテナント従業員向けに企業主導型保育園を初めて開園した。安心して楽しく働ける便利な店づくりを目指して、今後も開園を検討する構えだ。
    「生活と仕事を調和させるワークライフバランスは企業の成長につながり、多様な人が活躍できる環境を整えることで、事業活動にも多様な視点を生かせると思います」
     一段と人手不足が厳しさを増す中、女性の活躍こそ企業の成長戦略を支える大きな力になってきた。妊娠報告を受けたときに「困ったな」ではなく、心から「おめでとう」と自然に言える職場環境を整え、途切れることのないキャリア形成が可能な職場づくりが求められている。

  • 2019年10月31日号
    聖火広島をゆく

    1964年の東京オリンピック聖火リレーが広島の街を走り抜け、これを地元のアマチュア映像作家グループ「広島エイト倶楽部」が撮影した貴重なカラー映像が残されている。平和公園前を走る聖火のカラー映像は全国にこれしかなく、近年、NHKをはじめ、キー局地上波、BSや地元局から映像提供の依頼が相次いでいるという。
     今年で結成60周年を迎えた同倶楽部は11月10日午後1時から、中区袋町の広島市まちづくり市民交流プラザで「市民のビデオまつり」を開く。上映作品は広島のあのとき、このときを映し、懐かしく感動がよみがえる逸品がそろう。あの東京オリンピックの「聖火広島をゆく」(64年)ほか、カープの「やったぜ日本一」(79年)、「手づくり花火に魅せられた男衆」(2011年)、「北ノ庄一座」(12年)、浅野氏入城400年記念事業として9月15日にあった、江戸時代の広島城下を東西に貫く西国街道を舞台に当時の装束で練り歩く時代行列〜入城行列ドキュメント「にぎわう夢の西国街道」の5本立て。共催は広島市文化財団。定員100人(先着順)。
     聖火リレーの映像(24分)は、井口→市役所→平和公園→十日市→祇園大橋の間を収録。当時の8ミリカメラはぜんまい式で40秒程度しか撮影できなかったため、2人1組で交互に撮影したという。それから56年の歳月を経て来年夏に東京で開催される平和の祭典オリンピックを契機に、平和公園を背景に聖火リレーを映したカラー映像が再び、クローズアップされているが、そのカメラマンらの郷土愛もまた、次々とたすきをつないできた。
     昔は8ミリフィルム、今は全員がハイビジョンビデオだが、「8」の付く倶楽部名をそのまま残したという。初代会長の松原博臣さん(故人)はJR横川駅近くにあった聖ケ丘内科医院の院長で、夫婦で医師。来院患者は奥さんの女医に任せ、松原院長はもっぱら往診を引き受けた。いつも聴診器と8ミリカメラを持ち歩き、合間をみてカメラをまわす日々。郷土愛が強く、焼け野原から復興する広島の街を撮り続け、映像文化の芽を育てた。同好の仲間が自然発生的に集まり、1958年に広島エイト倶楽部を結成。まだラジオの時代で、動く映像は珍しく、医師会館などで開いた上映会はいつも盛況だった。カープの合宿所が病院近くにあったせいか、球団医を務め、スイングなどを撮影して練習に寄与。こよなくカープを愛し、選手の診療は無料だったそうだ。次第に会員も増え、多いときは50人を擁した。現在は21人。
     団体として広島文化賞を受賞したほか、ヒロシマ国際アマチュア映画祭でも大賞を受けるなど、共同制作を含め、会員作品に数々の受賞歴がある。中国新聞社の元経済記者で、3代目会長(現在は4代目の田中隆正会長)を務めた佐々木博光さん(84)は、
    「60年続くアマチュア映像の会は全国に例がない。医師が創設したその遺志を大切に楽しく健康にやっている。動く映像の魅力は尽きない」
     11月14日午後1時から西区民文化センターで公開上映会を開く。佐々木さんが主人公の「生きます ボケません 100までは」など14本立て。ますます意気盛んである。

  • 2019年10月24日号
    志を引き継ぐ

    その歴史には、志のある多くの人が関わっていた。いまでは西日本最大規模の流通拠点を誇る広島総合卸センターや広島中央卸売市場などが立地し、大勢の人が働く西部流通団地。ご存じの通り、もとは海だった。
     卸センター初代理事長を務めた伊藤学さん(故人)の回顧録「我が人生、我が事業」の中で、広島の復興を引っ張った初代の公選広島市長、浜井信三市長が伊藤さんの家を訪れた時の話を述べている。
     −二人で高須の裏の山頂に登った。そこから井口と草津の沖の方を指して、
    「あの向こうの津久根島を含めて埋め立てしたい。いま、榎町や十日市方面にある中小企業は、道路ぎりぎりまで使って社屋を建てている。荷物の荷さばきは全部道路でやるので大変危険な状態にある。そうした中小企業は広い場所に集団移転させたらどうかと思う。いろいろ研究してみたが、飛行場もつくりたいし、大学も統合移転する必要がある。そうしたことで土地がいくらでもいる」
     これが西部開発構想の始まりだった。もう70年前の話だが、当時の広島が抱えていた課題や街の光景、その時代の空気さえ伝わってくる。
     さて、それから埋め立て工事が完成するまでに数々の紆余(うよ)曲折があり、長い歳月を要したが、広大な造成地に次々社屋が建ち並んだ。一方で、伊藤さんはJR新井口駅やアルパーク、広島サンプラザなどの誘致活動に奔走し、時には周囲もたじろぐほどの気迫をみせた。市で戦後最大級のプロジェクトだった西部開発事業は、その完成後も伊藤さんにとって「我が人生」の主題となった。当時、市の幹部は「業界をまとめ、組合を引っ張った伊藤さんの尽力なくして西部開発事業は成し得なかった」と語っている。
     時を経て、不思議な巡り合わせか、伊藤さんの長男で、3代目の卸センター理事長を務める学人さんは、サンプラザなどの老朽化した団地内の主要施設、機能も含めて全面建て替えするメッセコンベンション施設などの誘致活動に奔走。これに呼応するかのように広島商工会議所が先に動き、西区の広島西飛行場跡地や商工センター地区を候補地に、見本市や国際会議を開く「MICE(マイス)」施設整備の構想を県、市へ提言。県と市は調査費を予算化し、本格的な検討を始めた。
     広島中央卸売市場建て替えが進展し、西飛行場跡地と連携したMICE施設の整備が実現すれば、大勢の人でにぎわい、一帯の景観は一変することになる。伊藤理事長は、
    「国内外から訪れる人々を受け入れる宿泊、飲食施設は市中心部と補完し合うことになり、両エリアを巡回する交通アクセス、公共交通機関の導入が欠かせない。施設整備だけにとどまることなく、国内外から大規模な見本市、国際会議などを誘致ないしは主催する組織の拡充も関係方面にお願いしています」
     すでに街区サイン設置を市に要望し、団地全体の景観整備事業などを推進。できることから順に、MICEの受け入れ準備を進めている。
     浜井市長の志は時を超えて今に、将来へ波紋を広げ、さらに伊藤さん親子が歩んだ道は時代も、経験の質も異なるが、その志はしっかりと受け継がれているようだ。

  • 2019年10月17日号
    追い風吹く

    まるで西部流通団地の施設老朽化にタイミングを計ったように、大規模な見本市や国際会議などを誘致、開催する「MICE(マイス)」施設整備の構想が持ち上がり、本格的な検討が始まった。
     市にとって戦後、最大級のプロジェクトだった。1958年に「大広島計画」の基本構想の一つに位置付け、66年から庚午、草津、井口地区の地先水面埋め立てに着手。総事業費1000億円を投入し、16年を費やして約328ヘクタールの流通団地を造成した。完成から37年。同団地を候補地とするMICE施設整備の検討を契機として、市幹部2人や(協)広島総合卸センターなどの企業団体トップ、アドバイザーの学識者2人、オブザーバーの県や広島商工会議所、地元の井口明神学区社会福祉協議会が参加する検討会「MICE部会」が10月1日、初会合を開いた。
     座長に、卸センターの伊藤学人理事長が選ばれた。ほかに企業関係者は商工センター企業連携協議会の中村成朗会長、広島市中央市場連合会の佐々木猛会長、広島食品工業団地(協)の中村哲朗理事長、(協)広島総合卸センターの岡本俊雄副理事長、広島印刷団地(協)の喜瀬清理事長、広島輸送ターミナル(協)の樋口和之理事長、広島市西部トラックターミナル連絡協議会の佐々木哲也会長らでつくる「広島商工センター地域経済サミット」の8人。
     そもそもは組合設立40周年を迎えた卸センターが2016年にまとめた「新しい施設の整備」構想が発端になった。商業施設アルパークの南側に隣接する広島市中小企業会館・総合展示館〜広島サンプラザのエリアを対象に、老朽化が進行する両施設・機能を再配置して新たに会議場や展示場などに全面建て替えする提言をまとめた。さらに大きく構想を練り直し、17年に「商工センター地区まちづくり提案」をつくり、メッセコンベンション施設の誘致・整備を柱とする提言を県や市へ提出した。
     厳しさを増す卸売りの環境ほか、団地内の主要施設や組合員の社屋が更新期を迎え、団地全体を再整備して将来ビジョンを描く必要に迫られていたことが提言の背景にあった。伊藤理事長は、
    「アンケート調査で黒字経営が80%以上あるなど、幸い当組合は堅調な企業が多いが、決して油断はできない。古くなった施設、機能をリニューアルして将来へ希望の持てる環境整備、より元気な団地、より元気な組合員を旗印に、いま組合でできる限りの力を尽くしたい」
     追い風も吹いてきた。広島商工会議所が昨年12月、西区の広島西飛行場跡地と商工センター地区を候補地に、見本市や国際会議などを開く「MICEのあり方」提言を県、市に出した。これを受けて県、市がそれぞれ調査費を予算化。市は施設の整備可能な規模・機能などに関する調査をコンサルタントに委託した。並行して市と商工センターの地元企業などで設置したMICE部会は、本年度内にあと2回開く予定。大勢の人をさばく交通アクセスをどう整えるのか、西飛行場跡地との一体的整備と絡め、アルパークや広島中央卸売市場建て替えを含めた地区全体のまちづくりに、どのような道筋が示されるだろうか。−次号へ。

  • 2019年10月10日号
    スポーツの力

    精悍な男どもが激突し、ボールを追っかけ回す。アジアで初めて、日本で開幕したラグビーW杯。日本の快進撃に列島が沸き、にわかラグビーファンが増えたという。感動があり、一喜一憂しているうちに共感も生まれる。底知れぬスポーツの力なのだろう。
     カープやサンフレッチェなどのプロ球団がある広島はむろんのこと、中国5県のプロチームや関係団体、企業が賛同する「ちゅうごく5県プロスポーツネットワーク」の活動が広がり、次第に成果を挙げている。通称はスポコラファイブ。国が2016年に打ち出した日本再興戦略でスポーツを成長産業に位置付けており、25年までに15兆円の市場規模を構想。中国経済産業局が17年度から取り組むプロジェクトとして、スポコラが発足した。独立系プロスポーツ団体間や企業との連携を通じて新しい商品やサービスの開発、情報発信、人材育成などをもくろむ。
     7月にヴィクトワール広島主催で自転車ロードレース大会「広島クリテリウム」にバスケットボールの広島ドラゴンフライズや女子サッカーのアンジュヴィオレ広島、フットサルの広島エフ・ドゥのメンバーも参戦し盛り上がった。RCCアナウンサーで、プロジェクトの連携・情報発信のコーディネーターを務める坂上俊次さんは、
    「カープやサンフレッチェはともかく、どこでどんな試合があるのか、よく分からないという声も多い。競技種目が違うからと互いに無関心のままではもったいない。プロチームの稼ぐ力を育み、さらにスポーツの価値を高め、都市力に磨きをかける。そうした取り組みが大切と思う。互いに刺激し合えば、活気も生まれる。広島はカープの存在でスポーツを観戦する文化、応援する土壌がある。これを利用しない手はない」
     チケットや関連グッズの販売促進などプロチームの経営基盤が強化され、街がにぎわい、産業振興につながればこの上ない。サンフレッチェは11月4日〜12月7日の期間限定で〝サンフレコイン〟の実証実験を地下街シャレオで行う。スマホのアプリを見せて買い物をするとコインがたまり、観戦チケット交換やスタジアムで特別体験もできる。さらに観戦すると店舗で優待が受けられる。観客動員と店側の集客を相互に増やしていく狙いだ。
     スポーツを取り巻く環境も随分と変わってきた。マツダスタジアムを盛り上げる女子力も半端ではない。スポーツを介在させることでビジネスの視界が広がり、新たな発想も生まれる。スポコラはここ2年間で、SNSなどによる情報発信や学生目線のコンテンツ制作、コラボ商品の試作ほか、顧客データ分析を使った集客の実証、新スタジアム構想の具体化などの活動に取り組んできた。
    「関連ビジネス創出を目指し、スポーツで地域を元気にする。これがスポコラの本来の目的」(中国経産局)
     旧球場では4月にあった都市型スポーツの世界大会FISEが多くのファンでにぎわった。中区の中央公園広場へ早ければ24年にも3万人収容のサッカースタジアムが開業する。同広場は都市再生緊急整備地域にも指定されており、都市再生を強力に推進する役割が求められている。

  • 2019年10月3日号
    人に会う勇気

    テレビ観戦していると、元カープ選手でプロ野球解説者の前田智徳さんが「そりゃあプロは厳しい、非常に厳しいですよ」と独り言のようにぽつり。決して妥協を許さなかったといわれる現役時代の経験から出た言葉だろうが、心技体への重圧が非常なものだったことをうかがわせた。
     ファンにとって、特にチャンスで見逃し三振ほどがっかりさせられるものはない。バットを振る勇気もないのかと憤慨する。ビールを片手に観戦する方はのんきだが、選手にとって恐怖や不安にものおじせず立ち向かう気力こそ、一流への分水嶺(れい)なのだろう。
     工業炉メーカーの三建産業(安佐南区)に、「勇気の12講」がある。創業者の万代淑郎さん(故人)はいつも穏やかで、気さくに取材に応じていただいた。その頃、同社の社内報に一年間、勇気とはいかなるものか、を主題にメッセージを連載されており、その一部を要約すると、
    「人に会う勇気」人と人の間には、当然のことながら年齢や教養、社会的地位などのポテンシャルがある。ポテンシャルの高い人と会うのは大なり小なり勇気がいる。しかし会えば、会うほど差が縮まることは確かで、実に不思議なものだ。気心が知れるというのか、二人の間に共感というようなものが生まれてくる。
     孤独もいいものだけれど、実は、この共感というものが人の心を豊かにし、生活の支えになるものだと思う。もっと打算的というか、現実的に考えてみると、ポテンシャルの高い人に会うことは知識を得たり、教えられたり、ヒントを与えられたり、つまり自分を利することがいかに多いことか。
     もっと人に会う勇気を出してもらいたいのは、社内外を問わず、できるだけポテンシャルの高い人に接してもらいたい。もう一つは、会いたくない人に、積極的に会う勇気を出してもらいたいことだ。クレームで叱られることがわかっている人や、売掛回収がもつれにもつれて会う人には勇気がいる。何はさておいてもまず会うことだ。
    「断る勇気」断り切れなかったという場合を考えてみると二つあるように思う。情にほだされているという場合、もう一つは、欲と二人連れの場合だろう。もともと欲しいとか、もうかるからという心の傾斜があるから、理性では断らねばならぬ条件下でも、ついつい断れない。そのために金銭的に恐ろしい目に遭うこともしばしば。特に判を一つ押すということを断り切れなくて破産倒産の憂き目ということは、何としても最初の第一歩で勇気不足といわれても仕方がない。欲に幻惑されず、情に流されず、勇気と理性が必要だ。片意地と思われるほどの強さで断らねばならぬ場合だってある。
     以降の講を並べると、習慣をつくる勇気と破る勇気、先にいやなことを片付ける勇気、新しいことをやろうとする勇気、挫折感に立ち向かう勇気、進んで発言する勇気、可能性に挑む勇気、妥協をしない勇気、開拓する勇気、決断する勇気、ものおじせずに立ち向かう勇気−の12講。
     勇気の言葉は平易だが、いざ実践するとなるとそう簡単ではない。さ細なこともおろそかにすることがなく、周囲に気配りをみせた万代さんの生き方そのものに思える。

  • 2019年9月26日号
    不便がチャンスになった

    今や東京と広島の間は新幹線や航空機でつながり、時間的距離は飛躍的に短くなったが、1949年に創業した三建産業(安佐南区)が耐火レンガなどを販売していた頃、東京は遠く、商取引などに不便があった。レンガを納入していた大手造船所の鍛造工場担当者から「レンガばかり売っとらんと、炉をやれよ」と思いがけないアドバイスを受ける。東京の大手工業炉メーカーは技術力があっても、今すぐ来てくれというわけにはいかない。そこで三建産業に目を付け、広島に根付く工業炉メーカーを育てようという深慮遠謀があったのだろう。炉の知識、技術などはさっぱりだったが、「何でも、誰でも最初は十分なことはできんけど、習うより慣れろだ」とハッパをかける。
     同社にとって、まさに不便さがビジネスチャンスになった。炉の補修作業などをやりながら、現場に耳を傾けながら、だんだんと炉に接近していった。万代峻会長は、
    「大手の工業炉メーカーは先進国の米国メーカーから技術供与を受け、速やかに技術を手にすることができたが、わが社は何もない、ゼロからこつこつと始めた。今にしてそれがよかったと思う。火の玉となり、勇気と知恵だけで立ち向かっていった先輩らの歴史がある。広島にマツダ、三菱重工、日本製鋼所などを中核とするものづくり産業が集積していたことに加え、東京から遠く離れていたことが、わが社の創業、成長期で大いにチャンスをもたらした」
     同社が誇りとする「勇気と知恵」は、長年の歳月にこんこんと育まれたのだろう。
     2019年3月期決算は売り上げ約93億円、経常利益約5億円。従業員約160人。グループ売り上げは約136億円。今期は148億円を見込む。いち早く海外展開し、技術供与や提携によって米国、欧州に進出してきたが、1997年、初めて自ら投資し、中国に合弁会社「瀋陽東大三建工業炉製造有限公司」を設立。20周年の2017年に過去最高の受注と利益を達成し、自動車アルミ鋳造分野の工業炉では中国国内トップシェアという。その後インドネシア、タイへ現地会社を展開し、全売り上げの半分を自動車関連で占める。万代会長は、
    「自動車産業は参入企業も多く、いつ足元をすくわれるかわからない。過去の成功に甘んじることなく、自己否定しながら、チャレンジすることが必要だ。そのチャレンジもプロダクトアウトではなく、顧客に寄り添ったマーケットインでなければならない」
     東京電力と共同で、アルミ溶解炉のさらなる省エネ化と二酸化炭素排出量の大幅削減を目指すオール電化型浸漬(しんし)溶解炉「S−MIC」の開発に取り組み、世界的にも前例のない、化石燃料を使わない電気浸漬ヒーターからの直接伝導伝熱方式の画期的な方法を完成した。10年に初号機を日立産機システムに納入した矢先、東日本大震災が発生し、東京電力との共同プロジェクトがストップ。しかし環境対策が重視される昨今、将来的に溶解炉の全てが電気になると予想されており、S−MICの改良を進めている。創業来、先輩から後輩へ受け継がれてきたチャレンジ精神、ものづくりの魂が脈打つ、その原点となった同社「勇気の12講」などについて、次号で。