広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2019年4月25日号
    二葉会のあゆみ

    被爆で、一瞬にして廃墟となった地から立ち上がり、今の広島へつながる道筋で、財界グループ「二葉会」が果たした役割は大きい。
     そのころの広島市役所は甚大な被害からの復旧、学校や住宅建設などに追われて財政が困窮。多くの人を受け入れる「公会堂」建設に割く予算の余裕などない。大きな会議や音楽会などは大阪から福岡へ飛び越え、広島を素通り。
    「わしらでやろうやないか」
     地元企業トップの発言をきっかけに、公会堂の建設資金に充てる寄付金集めが始まった。個々の企業の利害得失を離れ、広島を復興させようという、当時の経済人の気概が伝わってくる。広島の復興を目的に、1955年に二葉会が発足。特段の会則はない。対外へ名を伏し、寄付するだけ。この辺りは、3月20日に発刊された本「二葉会のあゆみ」(80ページ)に詳しい。著者の上原昭彦氏はローカル月刊誌、経済週刊誌の記者を通じて、50年近く広島の政治、経済、社会の動向をウォッチしながら蓄えてきた関連資料を元に、新たな取材を加えて上梓。巻頭に、設立時のメンバー(氏名50音順)と、その顔写真を載せる。
     伊藤信之・広島電鉄社長、島田兵蔵・中国電力社長、白井市郎・中国醸造社長、田中好一・山陽木材防腐(現ザイエンス)社長、橋本龍一・廣島銀行(現広島銀行)頭取、林利平・広島瓦斯(現広島ガス)社長、藤田定市・藤田組(現フジタ)社長、松田恒次・東洋工業(現マツダ)社長、森本亨・広島相互銀行(現もみじ銀行)社長、山本實一・中国新聞社社長、67年に新規加入した村田可朗・中国電気工事(現中電工)社長の11人。(以降、敬称略)
     さて、公会堂の件(要約)だが、52年10月に本放送を開始した中国放送初の正月番組「新春座談会−初夢を語る」で、田中好一は、
    「広島には、人が集まろうと思っても適当な会場がない。私の年来の夢は、広島に立派な公会堂とホテルと物産陳列館をつくることだ」
     浜井信三市長は、
    「私も公会堂はぜひ建てたいと思って、これまで国の補助金を要求してきたが、どうしても認めてくれなかった。さればといって、市費で建てることは当分見込みがないし、諦めているところだ」
     この放送を聞いていた松田恒次は田中に、
    「(市が直ちに建設できないのなら)わしらでやろうやないか。なくなった親父(創業者の重次郎氏)も広島に何か残したいと言うとったんや」
     公会堂をつくって市に寄付する。田中、松田の呼び掛けに応えたのが、当時の広島の有力企業10社、10人。5階建て7814平方メートル、1700人収容可能。ホテルを併設した公会堂は55年2月に総工費3億2245万円で完成した。その後、二葉会として結集する10社が、うち2億9000万円を寄付。
     のちに浜井市長は著書で、
    「戦後日本の経済状態から見て、地元財界にしても決して楽な捻出ではなかったはずである。それを、あえてこの挙に出た広島財界を、私は広島の誇りに思っている。この公会堂ができたために、市民の生活にどれほど潤いを与えたかと思うと、ただただ感謝に堪えない」
     と記している。−次号へ。

  • 2019年4月18日号
    広島の発展につなげる

    広島の文化と流通を支えてきた大動脈の「西国街道」は、古代から中世まで京都と太宰府をつなぐ山陽道(約650キロ)として宿場町や一里塚などが整備されており、江戸時代は参勤交代をはじめ、万人が往来したという。
     中区の仏壇通り、本通商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)は、市が描く「広島駅周辺地区」と「紙屋町・八丁堀地区」をつなぐ「楕円形の新たなにぎわい構想」に呼応して西国街道を復興させることにより、市中心部の東西の核である両地区のにぎわいを都市全体に広げることを目的に、さまざまな活動を展開している。関連資料も集めており、城下町と街道について、
     −毛利輝元が建てた広島城中心に城下町になった広島。その城下町を東西に貫く「西国街道」は当時、城下町より北を通っていた。しかし毛利氏から城を引き継いだ福島正則は、広島城下を東西に貫通するように移設。街道沿いにあった屋敷も移動させ一帯を町民の居住区にした。この時のにぎわいが今の広島のにぎわいに息づく(要約)−。
     1619年に浅野氏が広島城に入城。協議会は、江戸期から今日までのひと、もの、伝統、技術などを掘り起こすとともに、西国街道らしい特産品の開発や、まちづくり提案などに取り組む。
     広島藩の財政を支えた産業を総称して「3白、7り」という。3白は、紙(大竹)、綿(広島)、塩(竹原)の3つが白いことに由来。7りは特産品のあさり、いかり(碇・尾道)、かざり(仏壇金具)、くさり(船舶の碇をつなぐ鎖)、のり、はり、やすりの7つ各「り」を指し、軽妙に10品をくくる。時代を経て拡大あるいは縮小しながらも今に受け継がれており、こうした産業や文化などが人から人へ伝わり、広島の礎を形成している一端をうかがわせる。
     西国街道の歴史を日本語と英語で併記した「文化の大動脈・西国街道マップ」(仏壇通り活性化委員会制作)は、広島城下絵屏風や、広島諸商仕入買物記、四國五郎作「猿猴橋新春」などそれぞれの資料を元に、広島の発展を支えてきた経過を解説。
     広島市郷土資料館の本田美和子学芸員、歴史研究家の佐々木卓也氏をアドバイザーに迎え、実際にまちを歩いて西国街道への理解を深め、課題や情報を共有することからスタート。子どもたちに自分たちが住んでいる郷土の歴史を学んでもらい、郷土愛を育みたいと、沿道の小学校中心に「出前授業」を実施。駅前大橋東詰めの歩道に西国街道をデザイン化した大型の案内板設置を予定するほか、まちなか西国街道グランドデザインを制作し、道路標識(色分けなど)での可視化を目指して市と協議を重ねている。西国街道をかたどったマンホールを街道沿いに配置すべく、市と広島市立大学芸術学部と連携してマンホールのデザインを制作中。9月を目途に「広島城入城行列」構想を描く。国が提唱する「夢街道ルネサンス」認定地区の指定を受けるなど、本年度もさまざまな計画が動きだす。
     こうした活動を契機に、広島に暮らす人が広島の歴史を知り、語り伝え、広島に誇りを持つことで、広島の発展につなげたいと目標を定める。

  • 2019年4月11日号
    「元和」から「令和」へ

    共同通信社の世論調査によると、新元号「令和」に好感が持てるという回答が73%。この影響からか、内閣支持率を大幅に押し上げたという。
     その一字「和」でつながる「元和(げんな)」の頃。将軍徳川秀忠は広島藩主福島正則を転封した後、和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)の広島42万6千石への転封を決めた。広島市の「浅野氏入城400年記念リーフレット」によると、秀忠はいつも寝所としている奥座敷に長晟を呼び、「広島は中国の要ともいうべき重要な地だけに、めったな者に与えるわけにはいかないが、その点お前ならば安心して任すことができる」と言ったという。
     そうして元和5年(1619年)8月8日(旧暦・9月17日)に浅野氏が広島城に入城した、その日から400年を迎える記念事業として、江戸時代の装束をまとった官民一体の約200人で「広島城入城行列(仮題)」を勇壮に展開する構想が浮上。9月ごろ開催を目途に、市民グループ中心に検討を進めている。
     江戸時代の広島城下を東西に貫く西国街道を舞台に、入城行列は、猿猴川の河畔にある柳橋公園を出発し、仏壇通り〜金座街商店街〜本通商店街〜元安橋〜平和公園に到着するまでの約1.7キロ(約40分)を予定。その後、舞台を広島城に移し、当時の浅野氏入城をできるだけ再現するというプランを描く。
     その沿道の商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)が関係方面と連携し、同イベントの企画を練る。2016年2月に準備会を発足以来、西国街道マップの制作、沿道にある小学校を中心に郷土の歴史を学ぶ「出前授業」開催や、新たな土産品づくり、まちづくり提案などに取り組んできた。専門家の案内で実際にまちなかを散策し、地域資源や人的資源の収集などのフィールドワーク・アイデアセッションを繰り返し、昨年3月に同協議会を設立した。
     入城行列の案には、下敷きがある。広島藩を代表する「通り御祭礼(とおりごさいれい)」を模し、経済界を中心に15年10月10日、華やかな時代絵巻を再現した広島神輿(みこし)行列「通り御祭礼」を復活。当時の衣装をそろえて大神輿を担ぎ、山車や長槍、鉄砲、弓隊などの行列を繰り広げ、大きなニュースになった。通り御祭礼は、広島城下町の地誌「知新集」に、
    「町々両側に拝見の男女家毎に充満し、近国遠在よりも承り伝えてこの御祭礼を拝み奉らでやむべきかわと、あらそいあつまるもの幾十万ということを知らず」
     官民一体となって行われる城下町全体の祭として、大いににぎわったようだ。
     今も、全国各地に時代、時代の行列を模した祭がある。山本会長は、
    「入城行列の案はこれから先、国内外から多くの人を呼び込む、秋の一大イベントに発展する可能性を秘めているように思う。令和元年とも重なり、浅野氏入城400年の節目は被爆以前の歴史をひもとく良い機会。各時代の文化や産業などが積み重なって今があり、それを未来へとつなげていく。歴史をのぞき、今を考え、将来の糧とする発想も大事ではないでしょうか」
     さらに西国街道にまつわる多彩な企画を実施していく構えだ。−次号へ。

  • 2019年4月4日号
    若者をひきつける

    どういう理由か、2012年度から減り続けていた全国の自動車整備士数が、17年度から増加に転じた。(社)日本自動車整備振興会連合会の調べで18年度は0.6%増の33万8438人。2年続けて前年を上回った。
     慢性的な人手不足に危機感を抱いた業界団体などでつくる「自動車整備人材確保・育成推進協議会」と国土交通省が連携し、14年度から高校への訪問活動などをスタート。こうした地道な取り組みが、ようやく実ってきたのだろう。しかし、11年度に比べ約8800人少ない水準。決して手を緩めることなく、求人作戦を展開していく構えだ。
     近年は理系学生の進路の選択肢が増え、自在にこなすスマホアプリやゲームなどの影響からか、IT分野などに多くの人材が奪われているという。対策として、専用サイトで整備士のドキュメンタリー動画などを流す。何より若者の関心をひきつけることが先決。一方で、各地区で独自の取り組みも始まった。
     同協議会の広島地区事務局を務める(社)広島県自動車整備振興会は高校への訪問活動に加え、4月初旬に冊子「自動車整備士への道」を初めて制作し、県内の全高校へ配布する。村雲浩司専務理事は、
    「やりがいがあり、生き生きと働く現場の空気を伝えたいと思った。冊子は、先輩や若手、女性の整備士らのインタビュー記事を掲載。進路を選ぶときの参考になるよう、親しみが湧くよう工夫した。当会が単独で行っている、学校のホームルーム時間への訪問などにも冊子を活用する。また、毎年約9000人の家族連れなどが来場するイベント『GO!GO!Carにばる』では、自動車メカニックお仕事体験ツアーやジュニア整備士スタンプラリーなどを実施。子どもらに自動車への興味を持ってもらうことが、将来の人材確保につながると考えている」

  • 2019年3月28日号
    遠隔診断を世界へ

    マイナス28度にもなる極寒の1月。病理センター(中区八丁堀)代表で、ひろしま病理診断クリニック院長を務める井内康輝さん(70)はモンゴルの首都ウランバートルに降り立った。国際協力機構(JICA)の「草の根技術協力事業」に採択されたモンゴルへの医療支援事業を広島県から受託し、大気汚染が深刻なウランバートルで「呼吸器疾患の遠隔診断システム」の導入に取り組んでおり、今年で2年目になる。ICT(情報通信技術)を使ってモンゴルの専門医を3カ年計画で育成し、現地の医療機関などで活躍してもらう狙いだ。
     今年も5日間の日程で10月に放射線診断、11月に病理診断の各チームを構成する医師・技師を広島に招く。毎年、現地での事前講習と試験を実施。放射線科は100人から19人、病理は30人から13人を選んで受け入れる。それぞれ5人の日本の専門医が短期集中で病変を早期発見する診断技術を指導し、母国で広めてもらう。渡航や宿泊費ほか、昨年輸出した病理標本のスキャン装置などに約5000万円(3年)の資金が提供される。 
     同事業は技術習得だけではなく、モンゴル政府や国立病院、国立病理センター、労働安全センター、地元の病院などをネットワーク化し、井内さんが理事長を務めるNPO総合遠隔医療支援機構を通じて放射線と病理の診断に対する教育指導から実稼働後のバックアップ体制まで一貫して取り組む。
    「早期診断、早期治療をモンゴルで普及させていくことが一番の狙い。まずは患者のデータベースを作成。病変の放射線画像や病理標本画像をデジタル化してクラウド上にストレージ(記憶)し、必要な時にアクセスできる仕組みを構築。1月にスキャン装置の設置を終え、3月の最終週からコンサルテーション(専門医による診断の相談)をスタート。現地の医療機関に自力で診断する力を身につけてもらうとともに、関係機関で扱う患者情報を一元化する支援も進めていきたい」
     広島大学医学部の時代に内科医を志望したが、大学院博士課程で4年間学んだ後、担当教授の勧めで病理専門の道へ。32歳で3カ月、35歳から米ニューヨークのセント・バーナバス・メディカルセンターなどで1年、研修医として勤務。日本人が一人もいない中、多国籍の病理医と共に働きながら多くを学んだ。若い時の国際経験が視野を広め、後進国へ医療技術を伝えようという志につながったのだろう。これまでにイラン、ベトナム、カンボジアへ同様な支援を行ってきた。
    「モンゴルは石炭や銅、モリブデンなどの資源産出国で、現場で働く人の職業性塵肺症対策が急務。人口300万人の半数がウランバートルに住み、しかも5つの火力発電所が立地する上、大量の石綿が防寒に使われ、呼吸器疾患が多い。日本が経験済みの大気汚染対策も含め、さまざまな課題解決に対処できる人材教育こそ重要だと思う」
     病理医の不足する過疎地に住む人も等しく、高精度で迅速な診断を受けることができるようにと2012年3月にNPO法人を設立し、遠隔病理診断システムの普及に乗り出した。古希を迎え、その思いは世界をめぐり、わがライフワークにいそしむ。

  • 2019年3月21日号
    大学の真価

    大学経営が転換期を迎えている。2018年度の大学・短大進学率(全国)が過去最高の57.9%だった半面、現役進学者の人数自体は前年度比7163人減の58万1958人となり、4年ぶりにマイナスに転じた。18歳人口が減り続ける中、多くの大学が生き残りを懸けた対策を急ぐ。
     広島経済大学は13年度から入試・カリキュラムの抜本改革に乗り出した。入試の合格点を引き上げ、基準に達しない学生は定員に満たなくても不合格にした。同年度の入学者数を直前の12年度から約120人減らす荒療治だったが、効果はてきめん。その後志願者数は上昇カーブに転じ、19年度入試は4年連続増の3915人。ただし、安易に入学者を増やさないという基本方針はそのまま貫く。石田恒夫理事長は、
    「優秀で意欲ある学生が一層集まるようになった。以前は〝滑り止めで受ける大学〟という不本意な評価をされることもあったが、軽い気持ちで臨んだ受験生が軒並み不合格になり、高校の先生方もびっくりされたと思う。徐々に当校を見る目が変わり、18年度は大学ランキングの一つ『高校からの評価』で県内私立大学のトップに。私どもの本気度が伝わったのだと思う」
     学生数が収入に直結し、どの大学も定員確保を目標に定める。同大の18年5月現在の定員充足率は85.9%にとどまり、入試改革によって約15%の収入を切り捨てたことになる。痛みを伴う改革を断行した胆力はすごい。しばらく台所事情は苦しいだろうが、目先の利を追わず、これから先を見据えたブランド価値の向上を狙う。
     併せてカリキュラム改革などを徹底。教職員一丸で「学生と向き合い育てる」方針を明確にした。次第に企業からの評価も高まり、18年3月末卒業者の就職率は前年比1.3ポイント増の99.2%だった。地元の有力企業や金融機関へも多く輩出する。
    「長年にわたり、斬新な発想やチャレンジ精神を備え、仲間と協働してゼロから何かを成し遂げられる人材の育成プログラムに力を入れてきた。学生が自主的に企画した、年間約20件のプロジェクトに補助している。こうした活動を促すため、16年12月に約48億円を投じ、学生のアクティブ・ラーニング専用施設『明徳館』を完成した。10階建て延べ約1万1600平方メートルと国内最大級。オープンな造りで授業の空き時間などに学生が集い、互いに刺激を受け、コミュニケーションに役立つ効果が生まれていると思う」
     4月には従来の経済学部に経営学部とメディアビジネス学部を加え、3学部5学科の社会科学系総合大学に発展改組する。
    「高校生から見ても興味のある学部を選びやすくなる。時代とともにスピーディーな変革を遂げたい。開学から50年以上がたち、卒業生は累計3万6000人を超える。卒業生が地元企業の経営者になり活躍する姿を多く目にするようになった。同窓会活動も盛ん。これからも社会や企業に求められる人材を送り続けることが、われわれの大きな使命と考えています」
     大学の真価とは何か。大学経営の転換期にひるむことなく、抜本改革を断行した取り組みが、将来、どんな実を結ぶだろうか。

  • 2019年3月14日号
    明日の百万俵

    米百俵。北越戦争に敗れた長岡藩は財政が窮乏し、藩士はその日の食さえも困窮。これを見かねた三根山藩から百俵の米が届く。しかし藩の大参事だった小林虎三郎は米を藩士に分け与えず、売却して学校設立の費用にした。藩士らは押しかけて抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の1万、百万俵になる」と諭したという。
     工場設備メンテナンスを主力とするメンテックワールド(東広島市)は、2008年のリーマンショック後の不況の波をかぶり、売り上げが前年比6割に落ち込む。しかし小松節子社長はためらうことなく「雇用を守る」と決断。仕事を分け合うワークシェアリングでしのぐ一方、「何でもする課」を設けた。うつ病などの障害を抱える従業員らが花を育てる、ネジを巻く、清掃をする・・・など、さまざまな仕事をこなし、これがリハビリ効果を果たしたのか、病を治して通常業務に復帰したケースもあったという。
     もう一つの決断があった。これまで慢性的な人手不足に悩まされてきた経験が脳裏にあったのか、人と仕事のあり方を根本から見直すきっかけになり、多様な人材を生かす「ダイバーシティ」経営を推し進めた。国籍や男女、年齢、学歴、障害の有無や新卒、中途の差なく、素直で意欲のある人材の確保と育成に取り組んだ結果、仕事が減ったのに、人が増える事態になったが、これがその後のイノベーション、新事業や海外展開に役立つ布石になった。
     大手を定年退職した専門技術者や、経営破綻した先の離職者を受け入れ、最高齢者は74歳。彼らの持つ技術や技能が刺激になり、職場が活気づく。外国人も積極的に雇用。いつの間にか在籍する外国人の国籍は10カ国近くに及ぶ。主力受注先の自動車関連の海外工場などに沿ってメキシコやアセアン諸国へ進出した時期とも重なり、国籍を超えた従業員間のコミュニケーション能力、グローバル人材の養成などに効果を発揮した。
     むろん、人間力や技能を磨く研修にも注力。ビジネス基本コースとマネジメントコースに各15人編成で一泊2日の研修を繰り返し実施。学ぶ楽しさ、向上する喜びで生き生きとした姿を目の当たりにし、さらにダイバーシティ経営を通じ、より教育の大切さを痛感したという。
     子育て中の女性が働きやすい職場をつくるため、待機児童の問題をどうやって解消すればよいのか。答えはストレート。同社が設置運営事業者になり東広島市西条町寺家に企業主導型保育園「インターナショナル キッズ コミュニティ」(愛称IKC(イック))を4月1日開園する。4カ国語以上の語学教育などで国際性豊かな子どもを育む方針だ。軌道に乗れば、西日本で展開したいと意欲をにじます。
     4月に「エデュケーション事業部」を立ち上げ、教育関連の新領域に挑む構え。まさに不況のピンチが発想の転換になり、事業を支える根本は人材、人材を育むのは教育という中心軸を構築。アセアン諸国に出張すると、貧しい子どもらが目につく。いずれはそうしたところへ保育園を開設したいと夢を描く。こうした一連の取り組みが明日の百万俵になれば、その決断が果たした価値は大きい。

  • 2019年3月7日号
    みんなの生活を守る

    後継者難を理由に、1832年創業の宮田油業(中区猫屋町)が1月に自社株を売却し、大成石油(南区段原日出)グループ入り。先代の宮田一雄社長はのれんを大事にする人だったという。婿養子で、老舗の経営を継いだ気負いもあったのか、高度経済成長期の波に乗り拡大路線を走る。その後、販売手数料が3分の1に圧縮されるなど激変した業界環境のあおりを受け、赤字基調に転落。経営再建のため、出光興産を退職した下野洋介さんを役員に迎えた。
     25年前、苦渋の決断で社員の3分の1をリストラ。ここから全社一丸で再建へ立ち向かう奮闘が始まった。徹底したキャッシュフロー重視の経営が実り、2019年7月期決算は32期連続の黒字を見込む。当面、現社員体制で8給油所を維持。現在、経営顧問の下野さんは、
    「何としても、社員のがんばりと愛社精神をむげにしたくなかった。極めて順調な業績を維持しており、その誇りを胸に刻み、大成グループ一員として新たなステージで力を発揮してほしい」
     と気遣う。今回のM&Aを報告した席で意気消沈した社員の姿を目にし、店長クラスから「無念です」の声が漏れ聞こえた。共に奮闘してきた仲間だけに、胸が痛んだ。
     石油業界は元売り再編が続き、外資系は日本市場から撤退。4月には出光と昭和シェルの経営統合を控え、これでJXTGグループとの2大勢力となる。少子高齢化、省エネ車の普及、若者の車離れなどで、ピーク時の1994年に6万強あった全国の給油所数は半減し、広島県も同様に減り続け700カ所台に。燃料油の販売手数料に頼る経営は成り立たなくなってきた。後継者難で地場経営が減り、元売り系列の子会社が運営するケースが増える中、今回のような地場企業同士のM&Aは珍しい。
     生き残りを懸け、宮田油業が09年に打ち出した戦法は安さこそ最大のサービスと商圏最安値をうたい、セミセルフ式のローコスト運営を推し進めた。給油とタイヤ販売を主にカーケア関連を強化。コーティングや車検にも力を入れ、収益を生む仕組みの確立を急いだ。一方で、決算期ごとに成果を挙げた社員を対象に年1回の海外研修を20年以上続け、モチベーションの向上や福利厚生も充実させてきた。M&Aの懸念は社員の処遇。この一点だったが、今は安心して働く社員の表情は明るく、ようやく胸のわだかまりがほどけたという。
     同社の18年7月期売上高は35億円。大成石油は県内と岡山に計12給油所、13販売店を擁し、同5月期で78億円を計上。両社を合わせたグループ年商は100億円を突破し、県内の同業で大野石油店や広川エナスに次ぐ企業規模に。宮田、大成共にカーケア志向の事業方針を打ち出し、M&Aによるシナジー効果が期待される。下野さんは、
    「のれんを守るためにはリスクを恐れず先手を打つことが大事。何よりもキャッシュを稼ぐ経営にこだわった。これが財務を健全化し、価値ある会社として前向きなM&Aにつながったと思う」
     自主路線が崩れ、無念だったろうが、奮い立った日々と誇りが消え去ることはない。さらにみんなの職場、生活が守られた価値は大きい。

  • 2019年2月28日号
    老舗の決断

    1832年創業の老舗で、石油製品販売の宮田油業(中区猫屋町)は、1月16日付で宮田典治社長らの保有していた自社株を売却し、同業の大成石油(南区段原日出)グループに入った。
     同社は、2019年7月期決算で32期連続黒字(経常利益)を見込むなど、キャッシュフロー経営を重視した健全な財務内容を堅持。懸命に頑張っていたが、ここ数年は後継者不足などを理由に、M&Aの相手先を探していたという。当面は、現従業員体制で8給油所の運営を続ける。
     25年前、95人を擁した従業員数を60人に減らした。口銭(販売手数料)が3分の1に圧縮。やむにやまれず、リストラを実施した苦い経験がある。しかし、これが経営を復興させる出発点にもなった。
     猫屋町の本社には、黒光りする五つ玉のそろばんと、時代を物語る木製看板が残る。その看板を背負い、創業家の長女に婿入りした宮田一雄氏は、高度経済成長期の波に乗り拡大路線を走る。ピークには市近郊に13給油所を展開していたが、一方で赤字も膨らんでいた。出光興産の社員で当時、宮田油業を担当していた下野洋介さんは自ら再建計画をまとめ、経営立て直しに同社へ乗り込んだ。
    「計画を実行すべく勇んでいたが3、4カ月で計画書を破り捨て、新たな内容で作り直した。立ち位置が変われば視点も変わる。元売り視点の再建計画は役に立たないことがはっきりした」
     その後、出光を退職し、同社取締役−専務として経営を引っ張ることに。下野さんは出光時代に創業者の出光佐三から学んだ、特有の経営哲学を胸にたたき込む。若手を集めた恒例の食事会の席で佐三から直接聞いた話は、その後の糧、指針になった。
    「当時の出光にタイムレコーダーはなく、たった2ページの社是があるだけ。自らの良心に自問自答しながら自らが判断し、自らが実行する。人に教えられたことは自分のものにならない。誰しも性善と性悪が半々にある。性悪が表に出ないように互いが注意することが肝要という佐三語録。全ては人が中心。人間尊重の考え方に貫かれており、良心を鍛えることが最優先された」
     こうした企業風土で、特約店の経営改善のため、若手担当者の判断で、大幅な値引きが事後承認されたこともあるという。猛烈に働くことが当たり前。元旦以外、家で寝た日はないという猛者も珍しくはなかった。
     時代が移り、企業規模が大きくなればなるほど就業規則は分厚くなり、規定やマニュアルは精密になる。しかし、そうした社内ルールなどに頼り、一体なぜなのか、どうすればよいだろうか・・・などと考えることをしなくなった人も多いのではなかろうか。良心を鍛えることがなおざりになってはいないだろうか。
     下野さんは燃料油に依存した経営から脱却すべく、さまざまな手を打った。
    「早めの予測、早めの対策、早めの実行こそ肝要。そのためにはリスクを恐れず、まずトライする。トライ&エラーを繰り返しながらも、早めに手を打てばエラーを補うことができ、さらに次の備えに生かすことができる」
     考えに考え抜いてきた自分自身の体験に裏打ちされているのだろう。−次号に続く。

  • 2019年2月21日号
    駅弁企業の誇り

    駅弁。旅情とも重なり、それぞれの人にそれぞれの思い出があるのではなかろうか。一方で、その市場は急速に縮小し、廃業、撤退する駅弁業者が後を絶たないという。
     1901年創業の老舗、広島駅弁当(東区矢賀)の中島和雄社長は、
    「駅弁には、特産品や郷土料理などの食文化がいっぱい詰まっている。簡単に途絶えさせてはならない」
     と思いを込める。かつては鉄道の発達とともに駅弁業者が増え、全国組合の加盟業者は最盛期には400社に上った。しかし鉄道の高速化や中・外食産業の隆盛などにより、現在は4分の1以下の約90社にまで減少。創業100年を超える老舗も少なくないが、売れ行きが鈍り、経営者の高齢化などから次々と廃業に追い込まれた。
     このまま手をこまねいているわけにはいかない。地域に根差す駅弁の伝統を守ろうと、事業者のレシピやのれんの継承に乗り出した。同社は2015年に初めて小郡駅弁当(山口県)のレシピを継承し、現在は本社工場で製造した弁当を小郡駅で販売する。18年には福岡市の老舗「博多寿軒」ののれんを継ぎ、新会社「博多寿改良軒」を設立。盛り付けなどは刷新したが、パッケージは長年親しまれた当時のデザインを生かした。
     同社は学校、病院向け給食や、配食サービスに事業を広げ、グループ化を促進。「食を通じた社会課題の解決と地域社会への貢献」を旗印に、ビジネスを展開する。近年は広島大学病院などと共同で高齢者の栄養状態に応じたメニューの開発など、ヘルスケア事業に参入。健康に市民が生活することで社会保障費の削減にも寄与できるという。祖業の駅弁当事業は約15億円にとどまるが、企業や病院などへ配食するフードサービス事業などがけん引し、18年の売上高はグループで約96億円と堅調だ。
    「新事業で社会に貢献することはもちろん、事業を広げ、経営体制を強化することが、次世代に駅弁の伝統を残すことにつながる」
     全国初という取り組みにも挑む。グループの広島アグリフードサービス(佐伯区)は、設備投資から運営まで全て民設民営の学校給食センターを手掛ける。現在は佐伯区五日市地区の18の小中学校に約9000食を提供し、食材の4割を地域産で調達。19年春には広島駅弁当から移管した配食事業を本格化し、公営施設では認められなかった給食事業外の時間を有効活用する計画だ。
     子どもたちの食の安全を守り、毎日安定した給食を提供するには徹底した衛生管理と効率的な作業の両立が欠かせない。最新鋭の設備に加え、長年培った駅弁製造のノウハウを生かした。例えば、色分けした床を見れば熱処理が行われるかが一目で分かる。フロアの中央に大釜を設置することで2人の作業員が効率的に混ぜ込むことができ、食材をより味わい深く仕上げる。保護者を交えた新メニューの試食会も開き、独自献立の開発にも余念がない。
    「おかずはもちろんですが、ほくほくに炊いた白米を味わってほしい。弁当も給食も、ご飯がおいしくなくちゃ、はじまらない」(事業統括者)
     老舗の駅弁当企業の誇りが垣間見える。

  • 2019年2月14日号
    ロードスター30周年

    マツダが1989年2月に発表した小型・軽量のスポーツカー、初代ロードスターから3度のモデルチェンジを経て、30周年を迎えた。世界中に100万台以上を販売し、根強い人気がある。
     90年代に入り、マツダはフォード傘下で波瀾(はらん)万丈の経営をたどる。7年間に4人のフォード出身者が社長に就任。この間、フォードの徹底した「経営革新」と、マツダの誇りをかけた「技術革新」が重なり、その後の、経営復活の原動力となった。ロードスター開発段階で、当時の山本健一社長が「この車は文化の香りがする」と支持し、量産化へ踏み切るきっかけになったという。経営をめぐる大波にもまれながら、車づくりの魂を注ぎ込まれ、走り続けるロードスターは、その都度、マツダ社員を大いに鼓舞したのではなかろうか。
     最良のライトウエイトスポーツカーを目指し開発された初代は8年間で世界約43万台を販売。予想を大きく上回り、社内外を驚かせた。他メーカーがライトウエイトスポーツカー製造から撤退していく中、2016年に累計生産100万台を達成した。初代から商品企画やプログラム推進に携わる山口宗則・商品本部プロジェクトマネージャーは、
    「流鏑馬(やぶさめ)のような人馬一体の感覚を追求してきた。シリーズの設計コンセプトを明確にし、オープンツーシターで軽量なボディをはじめ、前後の重量配分50対50、ヨー慣性モーメントの低減などを徹底。この枠組みの中で、歴代のペアシャシーを比べると、エンジンの位置やホイールサイズなどを次第に適正化し、技術の進化を遂げている。初代のカタログで『だれもが、しあわせになる。』というメッセージを発信。この原点に立ち返り、ユーザー期待を超える車づくりに挑戦したい」
     市場規模は他のジャンルに比べてはるかに小さい。車を小さく造り、さらに軽く造ることはもっと難しいという。なぜ、ロードスターを世に出し続けられたのか。
     独特の混流生産が支えてきた。初代から4代目まで宇品第一工場の一貫ラインでコンピューター制御され、車形の異なる複数車種を同時にラインに流す。一つの工場で他の車種も製造できる体制をいち早く敷いた。
    「小型車の部品を他の車種と共通化せず、新規設計するのは当社ぐらい。ブランドアイコンとして、ロードスターはもはや〝お客さまのもの〟になっていると実感している。造り続ける使命がある」
     ライトウエイトスポーツカーの魅力を広めようと、ロードスター(MX‐5)を使う世界大会「グローバルMX‐5カップ 」の協賛など、レースやモーターショーをサポート。ファンイベントも世界各地で多く開かれる。2月7〜18日のシカゴオートショーでは30年前の展示内容をオマージュし、赤、白、青の車体と、オレンジ色の周年記念車を披露。ホイールやシート、ダンパーなどに特別仕様を施し、朝焼けのような特別色は「レーシングオレンジ」と名付けた。初代から続く走りの躍動感やワクワク感を込め、脈々とマツダイズムで貫く。

  • 2019年2月7日号
    デミオで参戦

    2月14日の聖バレンタインデー。オイルショック後の1970年代、不況にあえぐ小売業界が仕掛け、女性から男性にチョコレートを贈る日本特有の習慣が定着。その後はチョコレートだけでなく、さまざまな男性向け商品にまで広がり、消費を刺激している。火付け役はしめたものだろう。物が売れにくい時代に突入した今こそ、〝コト〟を仕掛けた需要掘り起こしのアイデアが、決め手という。
     地元ディーラーの広島マツダは車ファン拡大へ、モータースポーツを切り口に新たな挑戦を仕掛ける。2017年結成のチーム「HM RACERS」が、今年からスーパー耐久レース1500cc以下のクラスに参戦。同じクラスのロードスターではなく、あえて多くの人に身近な小型車デミオを起用。レースは市販の部品が多く使われ、一般の人も仕様をまねしやすい。プロの走りを見て、同じ車が欲しくなる効果を狙う。松田哲也会長兼CEOは、
    「デミオは販売台数が多く、裾野が広い。マツダ車で走る魅力をより多くの人に伝えられる。レーサーの能力はもちろん、整備やピット作業を含めたチームの総力が勝敗を決める。整備スタッフを多く抱えるマツダ車トップディーラーの腕の見せどころだ」
     モータースポーツ振興の社会貢献を掲げる一方、新車販売効果に加え、他チームへパーツを供給する新しいビジネスの方策を検討するなど、抜け目はない。
     スーパー耐久は3月23、24日に三重県の鈴鹿サーキットで開幕。中国地方では11月9、10日に最終第6戦が岡山国際サーキットである。22歳の若さでエースレーサーを務める吉田綜一郎さんは、
    「小型車でも十分戦えるマツダ車特有の人馬一体の性能に驚く。チームと共に世界へ羽ばたける一年にしたい」
     18年の移籍前、輝かしい戦歴を持つ。オーナーズカップのシリーズチャンピオンを獲得し、スーパー耐久で優勝を経験。師匠の佐々木孝太さん(46)はスーパー耐久の最高峰クラス優勝など多くの実績がある。松田会長は、
    「17年に初めてマツダのMX‐5(ロードスター)を使う同一仕様車の世界大会の国内シリーズ『グローバルMX‐5カップ ジャパン』に参戦した。マツダ車への深い知識があり、簡単に勝てるだろうと高をくくっていたが、総合5位に沈んだ。18年は吉田選手の獲得など会社を挙げて体制を整え、第5戦で初優勝。総合2位にランクインした。予算の都合でチーム結成から2年でやめる予定だったが、熱戦を見ていると予定などどうでもよくなるほど、思いが大きくなった。いろいろな人を巻き込み、情報発信したい。チームが拠点を置く輸入車販売店『ロータス広島』でのパブリックビューイングは大いに盛り上がった。今年度のレースクイーン募集も始めた」
     スーパー耐久に舞台を移すことにより、スタッフの整備技術向上も図る。1レースが最大24時間と長く、ピット作業など含めスタッフは総勢10人以上。市販に近いカスタマイズで販売店にフィードバックしやすい。情熱的な戦いは人の心を打つ。業界で整備スタッフが不足する中、チーム一丸の勇姿に憧れ、子どもらが整備士を志す呼び水になれば、コトの効果は大きい。