広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2019年8月1日号
    怪物の如く

    軍隊の進退について、
     −疾きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し
     2500年前の兵法書「孫子」の一節だが、今や米中経済摩擦をはじめ、やみくもに激化する世界的なビジネス戦争のただ中にある企業経営で動と静、陽と陰など、めりはりのある進退を説くビジネス指南書のようでもある。
     むろん本人は無意識なのだろうが、突如訪れて、雷のような声で話し、それからさっと引き上げる時のダッ、ダッと歩く姿は風圧さえ感じる。ここまで書くと、広島市信用組合の山本明弘理事長のことかと思い浮かべる方も多いだろう。多少は慣れてきたが、その個性的なでかい声にびっくりする。73歳にして満々の気迫や元気は、失礼ながら怪物の如くである。
     前置きが長くなったが、2年続けて広島市信用組合が日本一に立った。週刊誌「ダイヤモンド」7月6日号の特集「金融機関ランキング」によると、収益力・効率性、財務の健全性、地域密着度・融資積極性を総合評価した結果、同信組が全国146信組の頂点に。山本理事長は、
    「みなさまのおかげです。毎日毎日が預金集め、融資の本業一筋。ひたすら愚直に汗を流しております。マスコミなどで取り上げられたせいか、新卒採用の応募者が約300人と、ひと頃に比べて倍増。ここ10年、職員の待遇改善などに踏み込んで実施した。昨年採用した50人のうち、今日までに一人退職。定着率は高水準を維持し、さらに女性の役席は倍以上の79人に増え、女性職員198人の約40%を占める。おごりなどないが、日本一という職場に活気がみなぎっている」
     風の如く、速やかに働き方改革に取り組み、昨年1月、広島県働き方改革実践企業認定を受ける。かつて金融機関では長時間のサービス残業が当たり前だったが、2013年4月から「入店時間は8時10分以降」を厳守。さらに業務が集中する月末・月初めなどを除き、午後5時40分退社を徹底。集中し効率を高めるほかなく、業務改善につながっているという。
     抜本的に人事制度の見直しを行った経緯は、
     ▷役職定年=14年3月では部長58歳、副部長57歳、支店長・課長56歳、代理・係長55歳だった役職定年を廃止し、60歳まで役職維持。17年4月から65歳に定年延長したのにともない同年齢まで役職維持。その年の60歳誕生日の5月25日をもって定年退職する予定だった人事部の澤田実副部長は、直前の4月に実施された定年延長と役職維持により、人生設計を上方修正。「家族皆で歓声を上げました」と振り返る。
     ▷女性の登用=13年3月末の女性役席は代理5人、係長29人の計34人だったが、翌年に初の女性支店長登用で弾みがつき、現在は34店舗に女性の役席を配置し、その人数は79人に上る。
     19年3月期決算は16期連続増収を達成し、本業の収益を示すコア業務純益94億8500万円を計上。過去最高を更新した。好業績−職員の待遇改善−好業績の好循環を引き寄せた経緯、本業特化の威力などを次号で。

  • 2019年7月25日号
    危機感を持つ勇気

    「いつの間にか、おごりが潜んでいたように思う」
     国内トップの宝飾ブランド「4℃」を擁するエフ・ディ・シィ・プロダクツや、アパレル事業のアスティグループ(西区商工センター)の持ち株会社である4℃ホールディングス(東京)の木村祭氏会長は、
    「2016年度から4℃既存店売り上げは1年以上前年割れが続いていたが、今年に入り、ようやく水平飛行に乗せることができた。このたびの危機感をバネに、4℃ブランドの再構築を決断。革新に挑戦する創業精神の原点に立ち返り、9月から姉妹ブランドのカナル4℃のリブランディングをスタートさせる」
     永続的なブランドを目指しグループ全体の経営改革に踏み出す構えだ。
     4℃は低迷するジュエリー小売市場で、ターゲットとチャネルを見極めた販売戦略が見事に当たり、独り勝ちの様相を呈していた。4℃HDはリーマンショック後の09年から9期連続増益、18年2月期で純利益は6期連続で過去最高を更新。姉妹ブランドのカナル4℃や4℃ブライダルは出店すれば黒字になり、いつしかこのままやればいいという空気が充満。一方で、数年前から市場、消費者の反応などに、これまでになかった微妙な違和感が生じ、「このままで大丈夫か」という危機感も抱いたが、
    「好調な業績におごり、一番肝心な消費者の好みの変化や市場情報を見落としていたように思う。これを教訓とし、根本からブランド戦略の見直しに着手。外部から人材を招いたほか、本質的な商品開発や販売態勢などを刷新し、ようやくグループ全体に活気がよみがえってきた」
     見直しによっていくつか課題が浮上。4℃は顧客の50%を男性が占め、男性が女性に贈るギフト商品として定着。しかし実際に身に着けるのは女性。ギフト需要期のクリスマスの店頭では効率よく売りさばくことに振り回され、本来なら顧客の住所や名前などを伺って、一人一人への丁寧な接客を行う基本を怠っていたのではないか。大幅な予算を組んでいたにもかかわらず宣伝広告も手薄になっていた。結果として16年のクリスマス商戦は振るわず、17年2月期決算は5期連続増収から一転、減収になったが、コスト削減で過去最高益を計上。こうしたうわべの数字に惑わされ、経営全般に打つべき手が緩んでいたとほぞをかむ。
     4℃は25〜35歳のキャリア層がターゲットだが、カナル4℃は18〜25歳を対象に駅ビルやファッションビルで約50店を展開。年間50億円を売り上げるブランドに成長したものの、数年前から4℃と間違える消費者が増え、ブランドの境界線があいまいになっていた。こうした点検を行った結果、4℃ブランドを成長させるためのリブランディングに踏み切る絶好の契機になったのだろう。カナル4℃はファッションジュエリーのセレクトショップへの転換を推し進める。
     19年2月期連結売上高は3期連続減の471億円、経常利益は10%減の68億円。今期は各ブランドの個性や販売戦略を明確化し、4℃ブランドの再構築へ経営資源を投入する。売上高、利益共にプラスに転じる見通しだが、決して油断はない。

  • 2019年7月18日号
    敷居高くも間口広く

    1619年に浅野長晟(ながあきら)が広島城に入城し、今年で400年。広島藩主浅野家は12代(1619〜1871年)にわたり、産業、文化、まちづくり、教育分野などに多大な影響をもたらしたが、その一つ、長晟に従って広島入りした武将茶人の上田宗箇を源流に、その日から広島の地に根差し、全国的にも珍しい武家茶道の流儀を伝えてきた足跡は、広島にとって大きな幸運だったように思う。
     浅野家の家老で、上田流初代家元の宗箇はどんな人物だったろうか。歴史小説「下天は夢か」や「夢のまた夢」などで知られる津本陽が、宗箇の生涯を描いた「風流武辺」のあとがきに、
    「宗箇の足跡をたどると、おおいに共感が湧いた。弱肉強食の言語に絶するばかりの生存闘争のなかを、子供のような矮躯をひっさげ生き抜いてきた、宗箇の心の痛みと諦念がうかがえるような出来事が鎖のようにつながっていた」
     信長、秀吉の家臣団に加わり、その後浅野藩に招かれて庭造りにも才を発揮した。伝来宗箇様御聞書に「ウツクシキ」という言葉がある。芸州藩儒者による宗箇翁伝に「勁質であり、雅文であるものを好む」とあり、ウツクシキは勁(つよ)さだけでも、雅(みやび)なだけでもない。武将としての視線をうかがわせる。家元制度により代々引き継がれてきた上田流の流儀はその時代を生きる人から人へ伝わり、遙か時代を越えて光芒を放ってきた。家元若宗匠の上田宗篁(そうこう)さんは、
    「茶道は敷居が高く、とっつきにくいイメージを持たれています。だからといって時代に迎合し、敷居を低くしてはならないと思うのです。敷居は高くも間口を広げ、伝統の魅力を伝えていく。敷居を跨いで訪れた方々へ、分け隔て無く精いっぱいのおもてなしに務めることが、流派を受け継いでいく者の使命だと考えています。数百年の歳月を費やし、営々とつくり上げられてきた文化も無くなるのは一瞬。上田宗箇流が奇跡的に原爆の被害を免れて、今があることに天命を感じています」  伝統文化とブランド
     伝統文化と企業のブランド戦略には一脈通じるものがあるように思える。マツダデザイン部門のリーダー、常務執行役員の前田育男さんの著書「デザインが日本を変える」の第3章「ブランド論」に、
     −マーケティングに携わる人たちはブランディングと呼ばれるイメージ戦略によってブランド価値を上げられると考えているようだが、私に言わせればそんな魔法の杖など存在しない。錬金術のようなやり方で誰もが憧れる理想の商標を手に入れることなど逆立ちしてもできはしない。ブランドにとって一番大事なもの−それはまず作品である。最高のブランドを作ろうと思ったら、まず最高の作品を作るしかない。作品自体がトップを張れるようなものであれば、おのずとブランド価値はついてくる−
     時代は異なるが、宗箇もまた、最高の流儀を極めようとしたのではなかろうか。浅野氏広島入城400年記念事業として7月21日、熊倉功夫氏の記念文化講演会「浅野幸長と古田織部・上田宗箇」がリーガロイヤルホテル広島である。歴史をのぞき、今を見詰める。将来へつながる渡り廊下になるように思う。

  • 2019年7月11日号
    今に伝わる武家茶道

    広島の経済界と、桃山時代の武家茶道を伝える上田宗箇流との関わりは深い。西区古江東町に拠点を置く(公財)上田流和風堂の理事にマツダ、中国電力、広島銀行をはじめ広島を代表する企業トップらが名を連ねる。経済と文化。この関わりを解き明かす、一つのエピソードがある。戦後、上田流にとって一大事業となった「上田家上屋敷」の構成再現に経済界が率先し、寄付活動を展開。広島のかけがえのない伝統文化を支えていく機運が次第に高まり、次代へとつながる有形無形の貴重な価値、財産を地域ぐるみで守っていく起点になったのではなかろうか。
     およそ400年前の、広島城にあった武家屋敷の配置を描いた絵図面によれば、今の広島県庁やひろしま美術館がある辺りに、上田家上屋敷があった。しかし昭和初期には現在地へ移っていたため、被爆による直接的な被害を免れて多くの古文書や、宗箇自作の茶わん「さても」などの名品の数々が残ったのが、大きかった。
     絵図などを参考に、1979年から30年の歳月をかけかやぶき屋根の数寄屋「遠鐘」などを再建。そして2005年に着手し、08年に書院屋敷を構成再現。茶室、数寄屋建築研究の第一人者である京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生さんが建築設計・監修、庭園の設計・監修は作庭家の齋藤忠一さんが担当。
     現在の16代家元の上田宗冏(そうけい)さん(74)は当時、上田流の若宗匠として経済界以外では初めて、1984年に広島青年会議所の理事長に就任。こんな話をしてくれた。
    「不易流行という言葉があります。いかに時代が移り変わろうとも変えてはならないものがあるが、例え、伝統といえども時代、時代を取り入れていかなければやがて陳腐化し、取り残されてしまうという禅の教えです。私どもの茶道も不易流行の調和こそ大切だと思っています。広島の街は、原爆で多くの建物が失われました。しかし、できるだけ忠実に復元し、再現された建物は、歳月を経て、再び歴史的な価値をよみがえらせてくれるように思うのです」
     古都奈良の東大寺は、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失。再建で間口が3分の2に縮小されているが、1998年にユネスコの世界遺産に登録されている。
    「中村昌生さんとの出会いがあり、上屋敷の構成再現へ向かう過程で多くの示唆を頂いた。寄付集めに歩いていただいた宇田誠さん、多田公熙さんら経済界の多くの方々の協力を得て念願をかなえることができました。戦後の経済復興を経て、ようやく文化への関心が高まってきた頃とも重なり、まして人との出会いという運に恵まれたとの思いが強いです」
     と感謝を胸に刻む。
     被爆で一瞬にして街は瓦解(がかい)し、誰もが生きることで精いっぱい。茶の湯をたしなむ余裕はなく、上田流も危機にさらされたが、そこから立ち上がり、上田流の復興を成し遂げる道筋には計り知れない懸命な努力はむろん、目には見えない伝統の力があったように思う。それらが地域や経済界との強い絆となり、凛として武家茶道をたしなむことのできる空間を再び、今に創り出す原動力になったのではなかろうか。−次号へ

  • 2019年7月4日号
    隣の土地は倍出しても

    よほどの感慨と、さらなる意気込みがあったのだろう。6月21日、中区紙屋町の東館(旧本館)と西館(旧新館)に設けた4階の連絡通路で結ぶツインタワーのエディオン広島本店を開いた。久保允誉社長が内覧会のあいさつで、 「この地は私にとって本当に思い入れの深いエリアです」
     と切り出した。西館で生まれ、そこで幼い頃を過ごしたさまざまな思い出とともに、創業者の父・道正氏(故人)の言葉などを引用し、前身の「第一産業」が30坪で創業以来、順々に土地を買い増し広げていった経過について、
    「祖母が父に、『大きな夢を持つのだったら隣の土地を倍出しても買え』と言う。そして 450坪の一画にすることができた。父は私に、『ここと西館ができて3階か4階にブリッジがあるツインタワーができたらいいな』という風なことをよく言っていた。先日、おふくろが来て『ブリッジのところで昔を思い出しながら涙が出たよ』と話してくれました。先代ができなかったツインタワーを、このようにできたことを、非常にうれしく思っております」
     新しい店のコンセプトは体験、体感、そしてわくわく感とか楽しさを提供。商品を売るのではなく、その商品の価値、機能を売っていることを基本につくったという。 
     5年前にアメリカを視察。その頃、アマゾンなどのネット販売が全米を席巻し、小売業のリアル店舗が非常に厳しくなってきているというニュースにあふれていた。
    「今はウォルマートが世界一の小売り大手だが、その前はシアーズ。そのシアーズの店舗に行ってびっくりした。昔のイメージはなく、20%オフとか、40%オフとか、60%オフとか値段だけで、全然わくわく感や楽しさがない。こういう店舗だったらネットに負ける、ネットの品ぞろえ、価格には勝てない。シアーズは外からやられたのではなく、新しいことにチャレンジすることなく、中から厳しくなったのではないかと感じた」
     ちょうど2年前、広島の蔦屋家電をオープン。居心地がよく、「本」を磁石にして来店客数を上げていく店づくりにトライアルし、2年目になって2桁以上伸び、6月も20%の伸びを見せた。非常に手応えを感じているという。アメリカ視察で確証を得て、新しいことへ敢然と挑戦した結果なのだろう。
     さて、このツインタワーをどういう店舗にするのか。いろいろと悩んだが、やはり家電に立ち戻ったようだ。
    「家電で引っ張る、家電でわくわくして来店していただけるような、家電の原点をツインタワーで実現したいということで家電をベースに、新しい住まいの提案にもつながる店づくりを目指した。不易と流行ということがあるが、決して変わらない部分と、時流に乗って変わっていかないといけないものがある。その中で今、ドローンとか、eスポーツとか、そのような新しい時流に乗った商品、あるいは楽しみ方というか、アミューズメント性を持った構成にしている。ツインタワーの社員は非常に専門知識を持ったコンシェルジュ、そういう人を配置。『買って安心、ずっと満足』していただけるよう一生懸命やっていきます」
     新しい潮流には、危険もチャンスも潜むという。

  • 2019年6月27日号
    手を合わせる

    ますますスマホが手放せなくなりそうだ。面倒なことも指先で片付く。いつ、どこにいても買い物ができ、出先から自宅のリビングで誰がくつろいでいるのか確認できる。便利さの追求はとどまることがないが、どこか危うさも感じる。米中貿易摩擦の一因ともいわれる次世代の移動通信システム5Gは、どんな暮らしをもたらすだろうか。
     伝統的な仏壇の製造・販売に合理的な考え、技術革新を取り入れて成長。今年で創業154年の三村松(中区堀川町)は金仏壇の製造出荷本数で40年連続し、日本一を達成した。社主の三村邦雄さん(71)は、
    「当社に入った頃、江戸時代から続く経営の仕方などに危機感を感じた。それが発奮する動機になり、経営改革へ挑戦する原動力になったように思う。むしろ恵まれた環境下では先々への備えがおろそかになり、戦後から今日まで様変わりした人々の暮らし、ニーズの多様化などを読み、先手で布石を打つことができなかったのではなかろうか」
     入社して数年後、28歳で社長に。常に陣頭指揮を執りながら49年間、時代の流れを見据えてきた。いち早く伝統工芸の工業化を進め、国内では先陣を切り、家内制手工業と工場生産の両輪で仏壇づくりに革新をもたらす。
    「1970年代は、注文に生産が追い付かない状況を呈していた。何より自社工場が必要と考えた。広島の吉島工場を皮切りに、鹿児島、宮崎と生産拠点を配し、規模を拡大。そのスケールメリットが効果を発揮した。自社工場で職人を育てることができる上、新製品を創り出すスピードも速くなり、全国のさまざまなニーズに迅速に応えられる大きな転機になった」
     現在、月間1万本の仏壇を製造。近年、仏壇にもカジュアル化の傾向が強まっているという。漆塗りや金箔張りなど七匠の伝統工芸士の技が詰まった金仏壇ともなれば家が買えるほど。高級仏壇を望む層に応える一方、マンション世帯の増加に伴ってシンプルでモダンな仏壇もよく売れている。売れ筋は50〜100万円だが、三村松は1万円台から数千万円まで幅広い価格帯とデザインをそろえる。
    「仏様に手を合わせる。こうした習慣が脈々と伝わってきたのは、心の安定や安らぎへの願いが根底にあると思う。先祖に感謝し、子どもらに謙虚な心を育む貴重な時間ではなかろうか」
     店舗も工場も毎朝、社員そろって仏様に手を合わせ、それから始業する。三村さんは昨年7月、浄土真宗本願寺派全国門徒総代会会長に就任。幼い頃から食前食後にも手を合わす習慣の中で育った。創業は現在地で、初代の三村屋嘉助氏が仏壇販売を始めた。原爆で店も自宅も失うが、多くの職人の願いを支えに、仏壇製造を再開。
     5月1日付で社長に就任した長男の和雄さん(42)は、さらに経営革新を進める。10年前からⅠT化に取り組み、効率・効果的な生産や財務の管理体制を整備。全店にPОSシステムを導入し在庫適正化を図ったほか、営業や接客にタブレット端末を駆使。スマホがなければ業務が滞ってしまうほどだ。代を重ねて経営革新に挑み続け、一番大事な〝感謝の心〟を継承していく構えだ。

  • 2019年6月20日号
    タイムリーに手を打つ

    台帳が「いろはにほへと」で仕分けられていた時代。慶応大学を卒業後、近代化への覚悟を決めて三村松(中区堀川町)に入った社主の三村邦雄さん(71)は28歳で社長に就いた。江戸時代から受け継がれていた社内の慣習や当たり前に危機感を抱き、近代化にまい進。創業154周年を迎えた今年、金仏壇の製造出荷本数で40年連続日本一を達成した。三村松は全国各地のニーズの変化に柔軟に対応できる自社製造〜販売の一貫体制を敷く。
     入社後、22歳の若さで就業規則の作成に着手。さらに、既に用地を確保していた吉島工場の設計から建設まで手掛け、開業にこぎ着けた。
    「大学の卒論テーマは産業革命。エネルギー革命によって蒸気で機械が動かせるようになり、ものづくりの現場は大変革。その卒論が原点だったように思う。仏壇づくりは問屋制家内工業で成り立っていたが、これと自社工場生産との2本立てで高度成長の波に乗った」
     仏壇づくりは素人だったが当時、途切れることのない注文に追われ、納期待ちが慢性化。何としても直営工場が必要と考えていた。漆塗りや箔押しの職人が中山工場で仕上げを受け持っていたが、一人前になるには10年かかる。このままでは現状を打破できない。組合の紳士協定もあり、ベテラン職人の引っ張り合いはご法度。そこで工程を細分化し、自前の職人の養成と手仕事を効率化させた。
    「名人も最初から名人ではない。経験を重ね失敗もして技術は磨かれる。新人には段階的に技術を習得してもらった。自社工場だからこそ職人を育てることができた。問屋制生産では納期が長く工賃の高い大型の仏壇、中型は広島工場、小型は鹿児島工場と分担し、あふれる注文に応えた。生産効率が大幅にアップすると同時に生産規模も拡大。原材料の買い付けをはじめ、あらゆる場面でスケールメリットが有効に機能し始めた」
     高度成長が始まったタイミングに合わせ、量産体制が軌道に乗ったと振り返る。
     生産拠点は広島や九州、素材加工や部品製品を担う海外も含めると11工場に上る。直営10店舗を擁し、製造卸65%、直販35%の扱い。近年は神社仏閣の新調・修復、仏壇の修復受注も増えているという。広島宗教用具商工協同組合の理事長も務める三村さんは、伝統工芸技術の継承にも力を入れる。若手職人の腕を磨こうと全国伝統的工芸品仏壇仏具展に毎回出品し、多数の受賞歴を持つ。
     2016年9月には、仏壇通りの本社隣に「和の工芸館」を開設。マンション世帯が増える中、今の生活様式にマッチする伝統工芸〝モダン仏壇〟を提案する。ここにも若手の発想を生かす。モダンでシンプルだが、例えば、引き出しは組み継ぎ(釘・金具など使わない凸凹の接合法)で作るなど、伝統の基本と技はしっかりと押さえる。
    「最新設備の導入や機械化などのほか、店舗展開も早め早めに手を打ってきた。時代を読み、常にタイムリーに先行投資すること。これが先々で強い体力を養い、いざという時の備えになる」
     令和の時代を迎え、5月1日付で長男の和雄さん(42)が社長に就任した。〝和〟の新時代を託す。−次号へ。

  • 2019年6月13日号
    まさか、まさか

    セ・リーグ首位で交流戦に突入。今季は滑り出しでまさか、8連勝からの快進撃にまさか。やきもきしたが、ようやく落ち着いてきた。もう忘れているかもしれないが、ここまで10年間のカープの足跡こそ、まさか、まさかである。2009年、マツダスタジアムに本拠地を移し、新球場効果で観客動員数は187万人に急増。その後4年間は平均で160万人を切り、少し停滞したが、14年に190万人へ急回復した後は、
     15年=211万人
     16年=215万人
     17年=217万人
     18年=223万人
     連日スタジアムは真っ赤に染まり、なかなかチケットが手に入らない。
     一方で、チーム成績はスタジアムに移転後も相変わらずBクラスに低迷。だが、13年に3位でクライマックスシリーズに進出し、これが起爆剤になった。15年には大リーグから黒田博樹投手、阪神から新井貴浩選手が復帰。ファンは沸騰し、選手も躍動。まさかの3連覇である。
     球団経営も一気に好転。カープ女子をはじめ、全国規模で新しいファンを獲得し、入場料収入はむろん、グッズ収入、スポンサー収入などもコイの滝登り。そもそも新スタジアム建設に始まり、観客動員数の増加、選手の活躍、チームが強くなれば、さらにファンは沸く。まさに好循環をつかんだ球団経営の選球眼、機動力、制球力がさえる。しかし飽きっぽい広島気質。これから先、まさかにならぬよう願いたい。
     広島カープが成功した要因は何か。サンフレッチェ広島の山本拓也社長が「ⅠCHⅠGAN(いちがん)力 強いクラブチームのマネジメント」と題し、5月28日にあった広島経営同友会(三村邦雄会長)の第723回月例会で講演した。
     主題はチームの構造改革。17年12月に社長に就いた際、久保允誉会長から「強い組織づくり」を託された。当時のありさまについて、
    「フロントはプロではなくファン、自分の好きな仕事をしている。他人、他部署と連動しない、その批判は評論家レベル。サッカー界しか見ていない、知らない。全体的にマイペースでゆっくり。いろんなことを諦め始めている」
     手厳しい。社長就任後の初出勤日のスピーチで、
    「昨年の15位という成績は監督、コーチ、選手がもたらしたと思っている人がいるなら、今すぐその考えを撤回してほしい。チームの成績はフロントがもたらす。これからはフロントがチームを勝たせよう。現場(選手)と一体になって仕事をしよう」
     素早く手を打った。ジョブローテーションの実施、顧客戦略部の創設、各部署から選出したバーチャルチーム立ち上げ、社長との定期的な一対一の対話、練習グラウンドでのフロントミーティング開催など。その結果、上昇志向が増し意欲が向上。目的が明確になり笑顔が増えた。仕事中は上下関係なし。勝敗に対する責任感が増したなど、フロントと現場の「一丸力」が発揮されるようになったという。ようやくサッカースタジアム計画も動き始めた。新スタジアムを契機に好循環をつかんだカープ研究に余念がなく、強いチーム、ファンづくりに全精力を注ぐ。カープとのダブル優勝なら最高だ。

  • 2019年6月6日号
    田村さんお別れの会

    3月26日亡くなった広島信用金庫元理事長の田村鋭治さんの「お別れの会」が5月24日、リーガロイヤルホテル広島であった。広島経済同友会代表幹事、広島シンガポール協会会長、広島市スポーツ協会会長などの要職を務め、2000年に黄綬褒章、05年に旭日小綬賞を受章。本誌にもたびたび登場していただいた。鯉城高校野球部エースとして1948年秋の広島大会で優勝したものの、学区再編でチームが分散し、甲子園選抜大会への出場はならなかった。取材の折も、野球になぞらえた話がよく飛び出した。
     理事長に就任した2カ月後のインタビュー(1993年11月13日号・要約)で、
    「65カ店を4つのブロックに分け、延べ8日間をかけて一組8人ずつ支店長に集まってもらい昼食会をやりました。かつて池田総理がなさったカレー談義を思い出し、食事はいつもカレー。これからは何事も本、支店が一体になってやっていこうと私の考え方を披露し、理解してもらうことに努めました」
    「今年のペナントレースを制したパの西武・森監督とセのヤクルト・野村監督それぞれの人物評が新聞に紹介されていたのを切り取り、コピーを各支店長に渡した。優勝監督には必ず見落としてはならぬ、指導者としての苦労や痛みがあったはず。文中からこれを読み取り支店経営の参考にしてほしい」
     バブル期の金融機関に、
    「資金コストも半ば無視してみんながホームランの魅力に取り付かれたわけですが、今じゃコストを考えない経営はあり得ません。これからはバットを短く持ってミート中心に進塁打を心掛けてほしい。ミート打法で確実にヒットが打てるようになったらその延長線上で長打やホームランが出ることもある。とにかく全員野球ができる球団(金融機関)に仕立てたいと思う」
     宮島信金との合併で、
    「営業区域がダブっている上に、互いに遠慮し合っている今の関係はどうも不自然。早く一緒になった方が好ましいんじゃないですか、と意見が出ていた。あうんの呼吸といいましょうかね、どちらともなくというのが正直な話です。強いていえば私の方から合併という言葉を使ったかも知れません」(98年3月7日号)
     広島経済同友会の代表幹事に就任して、
    「地域の経済団体活動に具体的に関わるのは初めてのことなので、イロハから勉強し直し、新しい視点でこれからの広島経済を考え、政策の提言活動に寄与していきたい」(97年5月10日号)
     広島信金の新人事制度導入について、
    「よく野球を引き合いに出すんです。バッターボックスにいったん立ったら、必ずバットを振って来い。バッターは振らなきゃ絶対に結果は出んのだから。空振り三振はいいが、見送り三振はどんなに評価してもゼロはゼロ。全員にこの気持ちがないと金融ビッグバンは乗り切れません」(2000年2月19日号)
     政令市の体育協会で最初の公益財団法人認定を受け、
    「移行手続きに1年かかり、職員には大変な作業をしてもらいました。公益法人化は社会に対するイメージアップになり、スポーツによる地域貢献を今後も進めていきたい」 (11年4月28日号)

  • 2019年5月30日号
    勝負の一手

    マツダは2019年3月期連結決算で、世界販売が前年比4.2%減の156万1000台、当期純利益は43.4%減の634億円と苦戦。中国の通商摩擦・景気減速や為替、材料コストなどの外部要因が圧迫したという。
     どう巻き返すか。デザインや走行性能、静粛性などの基本要素を磨いた、新世代商品の第1弾「マツダ3」を投入し、セダンとハッチバックで年間35万台の世界販売を目指す。1月に北米、3月に欧州、4月にオーストラリアで発売に踏み切り、5月24日から国内販売を始めた。今後は中国などでの販売を控える。アクセラの後継車種で、車名にマツダを冠し「新時代を切り開く」期待を込めた。別府耕太開発主査は、
    「マツダ3が該当するセダンなどのセグメントは、SUV(スポーツタイプ多目的車)にシェアを奪われてきた。経済的な余裕があればプレミアムカーか、SUVを買う。こうした声を聞くこともある。だからこそ、妥協で選ばれるのではなく、誰もが羨望する車を目指した」
     走り、静粛性、環境性能、質感など、同社の先進技術を注ぎ込む。パワートレーンはガソリン、ディーゼルエンジンに加え、10月に世界初の圧縮着火技術エンジンの搭載モデルを発売する。補助モーターを使うマイルドハイブリッドも備える。人間が歩き、走るときと同じように運転時の体のバランスを保つ新構造「スカイアクティブ ビークル アーキテクチャー」や、超高張力鋼板の骨格部材を初採用。ボディパネルとマットの間にスペースを設けた二重壁構造も初めてで、遮音性能を高めた。
    「開発の企画段階からターゲット層の生活の中で1台の車の存在感をどこで発揮できるか探るため、デザイナーやプランナーを連れて世界中の顧客に会いに行った。みんなで同じ瞬間、価値を共有できたことは大きかった」
     デザインにもこだわる。土田康剛チーフデザイナーは、
    「日本伝統の美意識〝引き算の美学〟を追求し、セダンは何ら装飾しなくても美しいプロポーションを意識した。ハッチバックは従来の常識にとらわれず、ショルダー(リアタイア上部付近の段差)を廃止。このセグメントでは過去に例がない、一つの塊のようなデザインにした」
     200万円代後半までの価格設定だったアクセラと比べて、圧縮着火技術エンジンの搭載モデルだと100万円近く高くなるが、国内営業本部の齊藤圭介主幹は、
    「エントリーモデルの価格はあまり上げず、パワートレーンのバリエーションを増やすことでセダン購入層から高級志向層まで取り込む。SUV人気が続く中でも主力車種の一つとして確立させたい」
     1台当たりの売り上げと購入後の残存価値の向上に取り組む中、これまで低・中価格帯とされてきた同セグメントを、自ら高価格帯までの広い市場へと変革させる狙い。
     大きな期待を掛ける新世代商品の第1弾をあえて、縮小傾向にあるセグメントにぶつけたのはなぜか。マツダの販売台数の半数近くはSUVが占める。25年3月期の180万台達成へ、よほどの読み、決意があるのだろう。この勝負手が世界に通じれば、一気に道がひらける。

  • 2019年5月23日号
    チャンスをつかむ

    産地限定の国産ニンジンを使い、自然な甘みと酸味で爽やかな味わいの「マイ・フローラ」。野村乳業が開発に成功した「植物乳酸菌飲料」だ。2月から本格化させた販売を後押しするように、第27回中国地域ニュービジネス大賞(中国経済産業局長賞)に、同社の「プロバイオティクス発酵飲料の国内事業化と海外展開」が受賞した。
     腸内フローラのバランスを改善する、プロバイオティクス発酵飲料は、特定の乳酸菌やビフィズス菌を爆発的に増殖させる発酵技術(特許)によって開発に成功し、2013年に発売。国内展開する植物乳酸菌飲料のほか、既に米国、韓国、中国の食品メーカーに微生物増殖剤を原材料素材として販売している。従来の〝乳業〟と一線を画す市場に挑むが、ここに至るまで厳しい道のりがあった。
     酪農で1897年に創業。野村光男社長の祖父、郁造氏が現在地の安芸郡府中町で牧場を始めたが、周辺の宅地化で乳業を県山間部へ。しかし牛乳の価格競争が激化。1970年代以降、経営の軸足をヨーグルトなど乳加工製品に移す。社長の甥で、開発責任者の野村和弘さんは、
    「健康志向のブームに乗り、乳加工製品はつくれば売れる時代がしばらく続いた。生産ラインや冷蔵庫も新設し、増産。売る心配はなかったが、バブル崩壊でデフレスパイラルに陥り、価格競争から逃れることができなくなった。小売店の棚替えに合わせて新商品を売り出す繰り返し。開発〜生産に疲弊し、次第に売り上げも減少。個性的な製品を持たない、価格でしか訴求できない苦しさがその後の教訓になり、他社製品との差別化をどうすればよいのか、次代への踏み台になった」
     試行錯誤を重ねる中、広島県の食品工業技術センターが事務局を務める、産学官の食品機能開発研究会に参加。2004年に転機のチャンスとなる出会いが訪れた。広島大学大学院(薬学分野)の杉山政則名誉教授が見いだした植物乳酸菌の機能に懸け、06年に植物乳酸菌のヨーグルト開発に成功。差別化へ光が差したものの、当時、機能性食品という言葉が普及していなかったためか、期待ほどの成果を挙げることができなかった。そのうち特売品のイメージが払拭できなかった牛乳は07年、次いで東日本大震災直前の11年2月、ヨーグルト製造から完全撤退。売り上げは激減した。経営は苦しく、このままでは危ない。その危機感と葛藤しながら、製品化したのが植物乳酸菌飲料だった。開発段階で一切の妥協を許さない杉山教授に引っ張られ、差別化に確信の持てる新製品開発にこぎ着けた。
     数年計画で事業を見直し、次第に技術が評価されるように。08年に文部科学大臣表彰科学技術賞と中小企業優秀新技術新製品賞などを受賞。自社ブランドに先立ち、大手通販会社に採用されて年々売り上げを伸ばしている。業績は上向きに転じたが、かつての教訓を踏まえ、経営方針とブランディングを根底から見直す作業を進めた。
    「自信を持って商品説明できることが心強い。次の製品へつなげ、息長く愛されるブランドに育てたい」
     機能性表示食品の取得を目指し、年内にも臨床試験に入る予定という。

  • 2019年5月16日号
    劇場船が出航

    瀬戸内海エリアの7県を拠点に活動するアイドルグループ「STU48」専用の劇場船「STU48号」が完成し、4月16日に広島港で初公演した。「瀬戸内 海の道」構想を進めてきた広島県の湯崎英彦知事は、クルーズやサイクリングに加え、新たな観光資源の船出に期待を寄せる。
    「劇場船は広島港を母港としており、宇品地区のにぎわい創出を後押ししてくれる。県は港湾計画の一環で商業施設の誘致や緑地整備、クルーズ寄港の促進などに取り組んできた。交流、にぎわい、憩いなどをテーマに掲げるが、STU48の活動には全ての要素が詰まっている。築港130周年の節目に迎えた船出は港の歴史に残るほど大きな出来事。象徴的な存在として活動してほしい」
     湯崎知事が会長を務めていた瀬戸内ブランド推進連合を前身とする「せとうち観光推進機構」と「せとうちDMO」の活動を引き合いに、
    「数年前から観光プロモーションで世界へ打って出ている。認知度が一層高まり、ニューヨークタイムズの〝今年行くべき地〟で瀬戸内が日本で唯一選出され、7位にランクインした。船上公演で魅力が再発見され、ますますにぎやかになると思う」
     劇場船の就役式には湯崎知事、広島市の岡村清治副市長、国土交通省の藤田耕三国土交通審議官、せとうち観光推進機構の佐々木隆之会長、広島商工会議所の深山英樹会頭や広島経済同友会の池田晃治前代表幹事らが出席。県内外から訪れるファンの交通・宿泊・飲食といった経済効果を歓迎する。
     STU48は2017年3月に結成。これまで専用の劇場を持たず、AKB48ほか姉妹グループの専用劇場や瀬戸内海エリアのイベント会場を中心に公演していた。船は全長77.8メートルで、300人収容。メンバーがステージに立つ際に揺れを若干感じることがあるというが、波の動きも船上ならではの魅力だろう。全客席への救命胴衣の配備などで安全面も考慮。白地に海を連想する青いラインを入れたシンプルな外観で、客席のブラインド付きの窓からは瀬戸内の風景が広がる。同グループは、海や船の魅力を知ってもらう国の「C to Sea プロジェクト」の大使を務める。日本初の劇場船工事で国交省の技術協力を受けた。船舶国籍証書を交付した中国運輸局の土肥豊局長は、
    「地域を盛り上げ、多くの人が海に興味を持つよう、大使と劇場船の大活躍を願っている」
     船には地元企業も多く関わる。ウッドワン(廿日市市)は客席下段に波をイメージするデザインウォールをあしらった。船内の飲食コーナーでは、ベーカリーのアロフト(中区)が製造するホットドッグ「せとうちドッグ(音戸ちりめんなど4種)」、田中食品(西区)のカツオみりん焼きふりかけ〝アイスのトモ〟をトッピングした「せとうちアイス」などを販売する。
     アイドルグループと劇場船の活躍が、広島にどれだけの経済効果を及ぼすだろうか。舞台、仕掛けは上々だが、県民、市民の応援こそ決め手。まずは乗ってみよう。