広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
地元のビルメンテナンスや警備業を精力的に引っ張ってきた、ひろしま管財(中区大手町)2代目社長の川妻二郎さんが8月30日に96歳で亡くなり、10月11日に市内ホテルでお別れの会があった。
ビルメン業は戦後間もない頃に事業として立ち上がり、日本にもたらされたという。同社は1954年に川妻卓二さんが創業。二郎さんは72年に社長に就任し、自社だけではなく、ビルメン業界の発展を考え、尽力してきた。
県警備業協会の第4代会長や県ビルメン協同組合の初代理事長、県ビルメン協会の第6代会長、全国ビルメン協会副会長、建築物管理訓練センター中国支部長などを歴任。ビルメン業の登録制度、ビルクリーニング技師制度などに対応すべく奔走した。関係行政へ協力を仰ぐなど自社はむろん、業界で働く人たちの地位向上にまい進。今日の業界の礎を築く一端になった、そのひたむきな姿に感謝の思いを抱く人は多い。
ビルメンという、新たな概念を日本に落とし込むには、多くの壁があった。
90年代に院内感染問題を契機に病院清掃の在り方が問われるようになり、急激な医療環境の変化に合わせて新たに院内清掃業界を創出しようという動きが出てきた。だが病院清掃の理想と現実のギャップは大きく、困難を極める。そこで医療関連サービス制度の新設に向け、自ら委員として動いた。
まずは病院清掃管理研究会を編成。清掃テキストの作成や講師の育成、講習会の実施など、社会的な評価に耐えうる学術的な背景を持ったシステム・マニュアルの作成を目指した。当時の全国協会には病院清掃に関するテキストひとつなく、イロハのイから書き出すしかなかった。
研究会では、ビルメン業の本質に関わる考え方を全員で共有。環境衛生を徹底することで、病院やビルの利用者に快適で衛生的な環境を提供し続ける〝川妻イズム〟を伝え続けた。
やがてその思いが実り、第1回医療関連サービスマーク認定申請は476社に上り、受託責任者講習会の受講者は定員を大幅に上回る1615人が殺到した。
こうしたさまざまな功績により、2004年に旭日小綬章を受章。記念してまとめた「川妻二郎のひとりごと80話」に「1万メートルの上空から眺める」と題した一節がある。知の巨人とも呼ばれた立花隆が米国の宇宙飛行士一人一人にインタビュー。彼らのその後の人生を追跡した本「宇宙からの帰還」(’89年中央公論社)に、多くの示唆を受けたという。
「シラー飛行士は、宇宙から眺めたらどこにも国境は見つからなかったと述懐し、宇宙から地球を眺めると、ものの見方が変わるようです。私が何か難しい壁にぶつかったときには宇宙飛行士よりかなり低いのですが1万メートルの上空から眺めてみようということにしています。些事(さじ)にも惑わされず何らかの結論が比較的早く得られるからです」
眼前に迫ると大きな問題に思えても、地球規模では些細(ささい)なことに過ぎないと説く。
現社長の川妻利絵さんは
「故人は会社でも家庭でも、とても穏やかな印象だった」
と話す。今日まで重ねてきた信頼をベースにビルメン業の発展に力を注ぐほか、女性の社会進出や高齢化社会に役立つ事業を立ち上げた。「利他」の精神で業界に貢献した創業者の遺志を心に刻む。
買った人が感動する商品やサービスは売れる。販売戦略の基本だが、どうすれば感動させることができるか、そのコツこそ松下幸之助の言う「価値百万両」に違いない。
マツダは6月、長年マーケティングやブランド推進を統括した毛籠(もろ)勝弘専務が社長に昇格した。車ファンに直接、メッセージを発信する戦略を強めていく構えだ。
11月1日付でブランド体験推進本部を新設。車の運転を楽しみ、前向きに生きる姿を描く新ブランドメッセージ「心よ走れ。」を発表した。カーライフをイメージしてもらえるよう、会員サイトでオーナーの声を紹介。車やモータースポーツの楽しさを伝えるための新会社を設立する予定だ。本社を一般開放して交流する「オープンデイ」はコロナで中断したが、来年から同様の催しを再開する方針。
11月4、5日に岡山国際サーキットで特別協賛する「マツダファンフェスタ」が開かれた。前年より約1000人多い5406人が来場。ロードスターのパーティレースをはじめ、サーキット・トライアル、参加型燃費耐久レース「マツ耐」、RXー8のワンメイク走行会などに大歓声が上がり、大いに手応えを得たという。ラジコンカーやバーチャルレース体験などで子どもが楽しめる催しもそろえ、家族を巻き込んだ。
同フェスタは2012年に岡山で始まり、宮城、静岡へと拡大。マツ耐の参加車両は当初の8台から今回で79台に増え、2日に分けるほど盛況だった。毛籠社長は、
「ファンやロードスターオーナーが各地で参加型の各種イベントを主催してくれ、ありがたい。こうしたマツダへの応援は魅力的な車の開発で応えるほかなく、身が引き締まる。〝移動体験の感動〟を生むことが至上命令。デジタルやバーチャルが普及する中、ファンフェスタのような場を提供することでリアルな体験のとりこにしていく」
近年はeスポーツの観戦者が年々増え、リアルレースと相互にファンを呼び込む構想を描く。昨年10月のeスポーツレース大会の成績上位者をリアルのレースに招待。ステアリングやアクセル操作など、ゲームで培った技巧を披露し、パーティレース3戦目で優勝する人もいたという。ファンフェスタ当日のレースでも走行した。
21年11月に「マツダ スピリット レーシング」を結成し国内屈指のレース「スーパー耐久(S耐)」に参戦。eスポーツやアマチュアからもS耐へ出場できる選手の育成をもくろむ。カーボンニュートラル燃料でロードスターなどを走らせ、開発にフィードバックする。チーム統括の前田育男エグゼクティブフェローは、
「スローガンは共に挑む。挑戦する人を応援し、モータースポーツを通じて車を好きになってもらう」
来年1月に4代目ロードスターの改良モデルを発売。齋藤茂樹主査は「過去最高の仕上がり」と胸を張る。ロータリーエンジンを発電機に使うプラグインハイブリッドにも話題が集まった。トークイベントに登壇した上藤和佳子主査はキャンプで調理器具に給電できるなど、暮らしに使いやすい点を強調した。
ユーザーのカーライフ充実を主眼とした情報発信に力を入れる。値上げにもかかわらず販売台数を伸ばし価値訴求の販売戦略が当たった。毛籠社長にとって初年度の中間決算は売上高、利益共に過去最高。好スタートを切った。
会社の規模は決して大きくないが地域に根差し、広島青年会議所(JC)の1992年度理事長のほか、2013〜16年度の広島経済同友会代表幹事など経済界の要職を数多く務めた森信建設社長の森信秀樹さん(70)の長男、秀一郎さん(39)が来年度の広島JC理事長に就く。
秀樹さんは、いまもさまざまな会議に参加し、物おじすることなく持論を述べる。時に耳が痛くなるような核心を突くが誰も嫌な顔はしない。自分の言葉で話す実直な人柄と地元を愛する心が自然と伝わるのだろう。
秀一郎さんは広島大学付属中・高を卒業後、東京農業大学と同大大学院で造園・景観を専攻。早稲田大学芸術学校で建築も学び、ゼネコンに入社。営業のほか、リノベーション事業の立ち上げを担当した。1年ほど都市銀行へ出向し、不動産有効活用などのコンサルを経験。秀樹さんが経済同友会の代表幹事に就いた年に28歳で同社へ入り、父の留守を預かった。17年から常務。16年にJC入会。専務理事や副理事長を歴任した。
今から約20年後の被爆100周年に50代を迎える現JCメンバーが地域経済のリーダーとなり、多方面で意見を発信できるよう、自由闊達な議論を重ねていく方針だ。一体どんな街を望むのか。広島のあるべき姿を描き、実現させたいと話す。
「父は生き残りを懸けて公共工事から民間工事に受注をシフトさせるとともに、人脈を大切にしてきた。もちろん経営戦略の一手だろうが、まちづくりに関わりたいという思いが強く感じられた。私が子どもの頃、しばしば家を空ける罪滅ぼしだったのか、土産を手にした父の姿やたまの家族旅行が記憶に残る。いま私も同じ境遇にどっぷりと漬かり、父と目線が似てきたことに気付く。子どもたちが広島で暮らし続けたいと思える社会の実現に向かって行動することがわれわれの使命。打ち込める環境をつくってくれた父に感謝している」
血液型はB型だが仕事はA型のようにきっちり、プライベートはB型とよく言われると明かす。JCの催しを特定の週に集めたムーヴメント・ウイークを初企画し、成功へ意欲満々。その辺りは親子そろって一本気である。
秀樹さんは、JCが人生を変えたと振り返る。友人の勧めでJCに入り、同世代で膝を突き合わせて広島の未来について語り、絆が生まれた。債務超過に陥り経営の悩みを相談した時、そのアドバイスに助けられたこともあったという。JC在籍中はメンバーに仕事の営業を直接しないよう心掛けたが、卒業後にその人脈が頼りになった。
仲人を買って出てくれた先輩に出した唯一の条件は「JC活動に理解のある女性」だった。三次JC創設者で三次商工会議所会頭を務めた巴産業の吉中恒夫社長(故)の次女、信子さんと27歳の時に結婚した。ちょうど1級建築士試験に合格し、所帯を持つ自信が湧いていた。まさにJC一家。自分の生き方を通す、わがままを支えてくれたと神妙である。
「私の理事長時代は世界会議の誘致活動で賛否が二分された。誠心誠意の説明を尽くして理解を得ることができた。札幌に敗れはしたが、その過程で多くの仲間ができた。親子で話すときは自分の経験や事例を伝えるだけにとどめ、本人の判断を見守っている」
うれしかったのだろう。ふと表情がほころぶ。
広島の街が大きく変貌しようとする時、ことごとくチャンスをものにした。古いビルを壊し、更地に新しいビルが建つ。街の光景が一変する。
解体工事業で地元トップの桑原組(西区己斐本町)は半世紀以上にわたり、広島の主要ビル新築に伴う解体工事を施工。古くなった旧広島市民球場、広島朝日会館、広島アンデルセン、広島銀行本店、NHK広島放送センターや、NTTクレド、広島駅前などの再開発関連も手掛け、解体実績は累計1万棟を超える。
桑原明夫社長は、
「街づくりに終わりがないことを体感してきた。使命を終えた建物が解体される時、いくばくかの感慨はあるが、素晴らしい新ビル建設への期待が大きい。人も街も緩やかに循環する仕組みをつくる。その一端を担えるよう経営ビジョンを定めている」
先を見て構想を描く。固定概念を壊し、これはと思ったら果敢に挑戦してきた。圧倒的な施工実績を重ねて自然と身に付いた感覚なのだろう。いまは無印良品の家づくり、分譲・賃貸事業、空き家再生サービスなどへ事業領域を広げ、昨年9月設立した持ち株会社のテラスホールディングス(同住所)がグループ事業を統括。今年9月末に広島駅南口エリアの19階建て再開発オフィスビル・広島JPビルディング2階に新事業のフードホール「GRANDGATE(グランゲート) HIROSHIMA」をオープンした。都会的で開放的な新しい空間に多くの人が集まり、にぎわう。
飲食事業に踏み切った経緯について、
「旧広島東郵便局の解体工事を施工した縁があり、新しい広島JPビルで何かできないかと考えた。7年半前、ビジネスラウンジを同時に提案した経緯から企画を受けてもらった。コンセプトから内装工事まで総出で知恵を絞り、イメージ通りに仕上がった。みんなの士気が高まったのが大きい。これまで出会う機会のなかった食品関係の方々とつながりもできた。ラウンジ機能だけでなく、広島および瀬戸内の地域資源が交差、発信し、新しいカルチャーが生まれる場所、機能を発揮していきたい」
早速、グランゲートで10月下旬から1週間、市の「ザ・広島ブランド」認定商品約20社の一押しを限定販売。30日に開いた意見交換会の出会いの場を通じて認定商品ブランドの魅力アップを後押し。地域に根差す、街づくりの考え方を実践する。
リクルート勤務を経て、住友3M社のフィルム代理店として実績を上げ、2000年に親族の要請を受けて解体事業を継承。社内改革を決行する一方、独自のビジネスモデル「ワンストップ土地更地化」事業を起点に、新たな成長戦略を描く。毎朝、新聞5紙に目を通すという。
「柱となる建設業界は景気の波を受ける。ここを安定させる手はないか。古い建物の再生から快適な都市、住空間を創造し、みんなが集う場を生み出す。何のための経営なのか、根本に目を向けた。グランゲートは、さまざまなジャンルの人の出会いや対話から新しい発想、元気が飛び出す場所になればうれしい」
リノベーション分野のほか商業施設に向けた企画提案など立ち止まることがない。
ことづくりから始まるビジネスのループ。新事業には、なるほどと膝を打つものもあれば意外なものもある。社会課題の数だけ、次々と発想が湧き上がるのだろう。
安芸郡の矢野地区で大いに繁盛し、全国にその名を知られた「矢野かもじ」は、日本髪を結うための添え髪や入れ髪として大正時代末、全国生産の70%を占めた。戦後はかつらに使われて輸出も増えたが人毛に代わる化学繊維に押され、次第に衰退。大手の参入や安い海外品も入り、2019年には唯一の製造業者が撤退して県の伝統的工芸品、矢野かもじは途絶えた。
10月14日にあったNPO法人広島経済活性化推進倶楽部(通称KKC)の起業家と投資家、専門家をつなぐ第51回「プレゼン交流会」で、アデランス(東京)社長の津村佳宏さん(60)が「パラダイムシフトに対応する経営」と題し、講演した。広島県出身。同社は19カ国・地域にグループ67社を擁し、23年2月期決算で過去最高の売上高860億円を計上。
50代以上の耳にはなじみの〝パパ、アデランスにしてよかったね〟のCMで大ヒットした男性用オーダーメードのウィッグ専門店で、1968年に創業。毛髪関連の業界リーディングカンパニーとして事業領域を広げ、美容や健康分野などの新しい市場へチャレンジしている。だが、これまで決して順風満帆ではなかった。幾度も訪れた逆境をばねとし、活路を開いたエピソードが興味深い。
KKC理事長で山下江法律事務所会長の山下江さんは、
「個人創業者は事業拡大に伴う資金調達で大きな壁にぶつかり、行く手を阻まれることが多い。いまは世界を席巻しているグーグル、アップル、フェイスブックも同じ苦難を経験し、時代の寵児となったベンチャー企業はエンジェル(個人投資家)の支援を受け飛躍を遂げている。2001年にKKCを設立した頃、起業マインドはさほど活発ではなかったが、起業を支援する国の施策もあり、急速にベンチャー企業が増えてきた。しかし起業家と投資家をマッチングする場、機会はまだ十分に整備されていないように思う。今後も社会に役立つソーシャルビジネスを前提に、意志があっても資金が乏しく起業できない人や挑戦者を後押しする活動を続けていく。年内にはプレゼン交流会をきっかけに投資、支援が決まった先が上場する運びだ。交流会は学びの場になり、若い人も積極的に参画してほしい」
当日の交流会では、現役歯科医で合同会社なぎさ会代表の中沖泰三さんが誤嚥性肺炎予防の訓練用などに大人のおしゃぶり器具「キュアマウス」の市場拡大。広島大発ベンチャーで「広大鶏」を元に雛を飼育・販売するGallus JAPAN代表の竹之内惇さんがブランド地鶏の開発。県外から参加した筑後川ビジネスは民間初の地域創生専門放送室運営、リサスティーは業務用脱毛機レンタル事業をプレゼンテーション。
年3回の交流会を実施。これまでに起業を目指す206社がプレゼンに挑み、うち30社内外に総額1億数千万円の出資を実現した。
「お金は貯(た)めこんでいてもしようがない、世の中に巡り回ってこそ意味がある。リスクを承知の上で投資することも大事だと思う。起業する人は少々のことにひるまず、信念を持って全身全霊を傾ける覚悟が必要だ。たとえ挫折を経験することがあろうと志まで失ってはならない。いつか目利きに優れたエンジェルが現れる。お金は志の後からついてくる」
一歩踏み込む勇気なくして夢はかなわない。
マツダが世界で初めて量産化を実現したロータリーエンジン。1967年に待望のコスモを発売以来、世界へ飛躍すると誰もが胸を高鳴らせたが、冷水をぶっかけられる苦難が待ち構えていた。
高度経済成長に伴うマイカー時代が到来する中、唯一無二のロータリー技術を持つマツダが存在感を示し、揺るぎない個性を放った。次なる目標は米国向け輸出。一般的なエンジンでは到底かなえることができない高い走行性能が自動車大国でも十分通用すると自信を持っていた。
しかし輸出計画を練っていた矢先、現地で公害問題が深刻化したのを受け、70年に「マスキー法」が成立。排ガスの燃え残り成分である炭化水素の排出量を5年後から厳しく制限する法律で、ロータリーエンジンには極めて不利な規制とされた。一時は米国で走ることは困難という声が上がったものの、炭化水素に空気を加えて再燃焼させる技術を開発。73年にマスキー法の基準をクリアし、環境面での課題を克服したことで世界への道が開けると思われた。
ところが同年末に第一次オイルショックが起き、原油価格が高騰。それまでは重要視されることの少なかった燃費性能が問われるようになり、燃費に弱点を抱えるロータリーエンジンの評価は急落。廃止論が出るほどの窮地に追い込まれながら、当時の松田耕平社長は社員へ宣言した。
「ここでロータリーの火を消してしまえば、ファンへの信義を欠くことになる。今から5年の間に燃費を40%改善する。技術で失ったものは、技術で取り戻すのみ」
フェニックスと呼ばれた計画で課題を打開するきっかけは、これまでの研究の積み重ねだった。マスキー法へ対応すべく考案した、炭化水素が再燃焼する仕組みを応用。発生した熱を再利用する手法を編み出したことなどで、当初目標を大きく上回る50%以上の燃費改善を実現する。生まれ変わったエンジンは78年発売の「サバンナRXー7」に搭載され大ヒット。マツダ再浮上の立役者となった。
80年代からモータースポーツ参戦を本格化。91年のル・マン24時間耐久レースでは4ローター、700馬力のエンジンを乗せたレーシングカー787Bが日本車初の総合優勝に輝く。同年は希代の名車と呼ばれた「アンフィニRXー7」を投入し、ロータリー黄金期が到来する。
だが、程なくバブル経済が崩壊。長い不景のトンネルに突入し、スポーツカー人気が低迷した。RXー7は2002年、後継のRXー8も12年に生産を終了。ロータリー搭載車は世界の市場から姿を消した。その後は補修などの用途で製造を続けながら復活の道を探ることになった。
11月に発売する「MXー30ロータリーEVモデル」は軽量かつコンパクトな構造を生かし、直接的な駆動力ではなく、プラグインハイブリッド車の航続距離を伸ばすための発電機を担う。将来は水素など新しい燃料との好相性を生かす方法が検討されており、環境対応の面でも期待が膨らむ。小島岳二(たけじ)専務は、
「復活を待ち望んでいたという声を多く頂く一方、中国や欧州などで電気自動車の普及が急速に進む中、なぜ内燃機関のロータリーにこだわるのかという意見もある。しかしこのエンジンは飽くなき挑戦を続けてきた当社の歴史の象徴。先人たちの魂を次世代に示すため、これからも絶やすことなく造り続ける」
マツダは1967年に世界で唯一、量産化に成功したロータリーエンジンを11年ぶりに復活させる。プラグインハイブリッド車の発電機として使う、初の搭載車を11月に発売予定。小島岳二(たけじ)専務が「マツダのアイデンティティーであり歴史そのもの」と断言する、ロータリーエンジンの足跡をたどると不屈の技術者魂が浮かび上がる。
おむすび型のローターが回転するシンプルな構造、小型で軽量、高出力と静粛性を兼ね備える一方で、耐久性などの課題が山積する「夢の技術」には、モータリゼーション前夜の日本だけでなく、世界の自動車メーカー各社がこぞって挑戦した。しかし、トヨタやフォードといった企業でもさじを投げるほど、開発は困難を極める。そんな中、三輪トラック製造から乗用車市場に参入してわずか10年弱の東洋工業(現マツダ)が、不可能とされた技術をなぜ実現できたのか。
会社存続に関わる危機が背景にあった。年に池田勇人内閣が掲げた「所得倍増計画」などを受けて高度成長に突入した日本では、多くの企業が急速に規模を拡大。これに対し通産省は、企業をより管理しやすく合理的な体制をつくるため「特定産業振興臨時措置法(特振法)」の検討を始める。その肝の一つとなっていたのが、メーカーが乱立する自動車産業の再編だったという。ロータリーエンジン研究部長を経て社長、会長を務めた山本健一さん(2017年没)は、会長退任後のインタビューで、
「国は貿易自由化に備えて日本メーカーの国際競争力を高めようと、三つのグループに集約しようとしていた。法案が成立すれば後発の当社が淘汰されるのは間違いない。競合他社にない特徴を持ち、単独の企業として生き残るために、ロータリーエンジンの実用化は至上命令だった」
63年に山本さんを含む47人の若い技術者が集められ、社運を懸けたプロジェクトが始まった。最大の課題はローターが高速で回転する際、外側のハウジングという部品を傷付けること。洗濯板のようなギザギザの傷は「悪魔の爪痕」と呼ばれ、技術者たちを深く悩ませた。ローターの角に取り付けるアペックスシールに問題があるはずと、あらゆる材質のシールを試作。挙げ句には牛や馬の骨まで試したが、活路は見いだせない。そこで素材ではなく構造に問題があると考え、中に空洞のある形を試作したところ、傷が付かないことを発見。実用化への光が差し、翌年には強度に優れたカーボン複合材のシールが完成する。さらに3年後、初の量産車「コスモスポーツ」の発売にこぎ着け、世界を驚かせた。
「実は、研究部長を命じられた時は大ショック。その頃はまだ、この技術に懸ける会社の思いを知らず、問題ばかりのエンジンを押し付けられたと思っていた。しかし、業界を取り巻く再編の動きを知って以降、寝ても覚めても頭はロータリーのことばかり。コスモ発売前には台のパイロット車を全国の販売店に送って入念な品質テストを行うなど、こだわり抜いた」
その後も搭載車を次々に投入。特振法が廃案となったことも手伝い、一気に総合自動車メーカーへの階段を駆け上る。順風満帆と思われたが、70年代に入りまたも苦難の道を歩むことになる。それをいかに乗り越え、令和まで唯一無二の技術をつないできたのか。次号で。
多くのオーナー経営者は、心血を注いできた会社を後継者へ託すタイミングに心を砕くという。大方は親から子へ代々重ねており、日ごろこんこんと経営の在り方を語り合ってトップ交代を決断。その後に発展するか衰退するか、もう託すほかない。
不動産関連全18社で構成する、みどりホールディングス(HD)の中核会社の第一ビルサービスは10月1日付で杉川聡社長(65)が会長に就任し、代わって坂根紳也取締役(49)が社長に就いた。長男の杉川綾取締役(40)が専務に昇格し、3代表制とした。HDは杉川聡社長と綾専務の2代表制を敷く。中核会社会長の杉川さんは、
「38年間社長を務め、ずいぶん長い期間だった。5年前から〝世代交代〟をテーマに中核会社を除く事業会社の社長に40〜50代の社員を登用し、経営者を育ててきた。世代交代で最後に残っていたのが、中核の事業会社で社長として残っていた私自身の退任だった。いままではほとんど一人で決めてきた。自分で情報を集め、自分で企画して事業を引っ張ってきた。これからは若手も参画する経営委員会を設置して、今後10年、20年の構想を練り、拡大発展に総力を結集したい」
第一ビルサービスは1963年に創業者で義父の岡島正行さんが設立。85年、先代の急逝で杉川さんが27歳で事業を承継した。当時の売上高は4億円。いまはグループ全体で205億円にまで成長。直近10年に売上高は4倍に跳ね上がった。
2012年に広島マリーナホップ(西区観音新町)の経営を引き継いだことが、その後に拡大路線を走る大きな転機となった。05年に中四国最大級のアウトレットモールを核とした商業施設が開業。しかし経営不振が続き、2度運営会社が交代したが、前運営会社から相談を受け、新分野へ乗り出す決意を固める。
「いま思えば、マリーナホップの経営を通じて多くのことを学び、グループ構築の礎となった。それまではビルオーナーの指示通り行う受動的な仕事が多かったが、施設運営は自ら全てのことを考えないといけない。坂根社長は今日まで10年、担当責任者として先頭で引っ張ってくれた。集客イベントの企画や物販も始め、さまざまな経験を重ねながらノウハウを習得。そうしたことが社員の自信につながった。マリーナホップは25年に閉鎖されるが当社に大きな実績として残り、今後のグループ経営に生かされると確信している」
10年後の目標を高々と掲げる。第一ビルサービス単独で売上高160億円、グループ全体で5倍の1000億円と定めた。
「地球環境が変わり、持続可能な社会を重視するSDGsに配慮した経営が求められている。当社はビル管理業を通じてさまざまなデータを蓄積しており、そうしたデータの活用は持続可能な街づくりに欠かせない。いままで以上に必要とされる産業になっていくと思う。不動産事業の周辺でM&Aを進め、ビルメンテナンス業を補完する事業をグループに入れることで相乗効果を発揮していく」
ビル管理で中四国トップクラスに成長。土木・建築、消防・防災機器、シロアリ駆除など不動産関連事業を中心にM&A。会社を超えて人的交流を促し、互いの刺激を企業成長につなげている。この間に「社長人材」を育てた経営観は見事と言うほかない。
何気ない母と子の会話からひらめいた。チャンスと捉え長年の家業だった家具販売を諦めて玩具販売へ転換する覚悟を決めた。これを契機に冒険王(安佐北区可部)は25歳以上の男性を主なターゲットにした、新しい形態の大型玩具店「ホビーゾーン」を大型商業施設内へ多店舗展開し、ぐんぐん業績を伸長。
31期の2023年5月期決算は13.8%増の売上高67億9929万円、3期連続で過去最高を更新した。今期は売上高76億円、経常利益5億円の増収増益を見込んでおり、全国業界で次第に頭角を表してきた。店舗の大型化戦略や売れ筋商品の絞り込みが成果を上げ現在、1都2府29県に66店舗を配す。
もともとは地元の可部に根差した家具店だった。家族連れの来店客がじっくりと品定めする間、退屈になる子どものために玩具を用意。さぁ帰ろうとしても、夢中になった玩具から手を離してくれないため、売ってほしいと懇願されることがしばしばだったという。堀岡宏至社長(40)の祖父で、創業者の孝之さんには人を喜ばす工夫があった。しかし家具業界はやがて斜陽になり、二代目を継いだ現会長の洋行さんは家具に見切りをつけ、売ってほしいとせがまれた玩具で勝負に出た。それから31年。22年に三代目に就いた宏至さんは、
「顧客の声に耳を澄ませる。創業精神はこの先も変わることのない商いのよりどころ。洋行会長は現場主義を徹底し日夜創意工夫に明け暮れた。人口減など環境変化に目を凝らし店づくり、品ぞろえ、組織づくりにまい進したい」
家業に打ち込む父、洋行さんはプライドを持てる職場づくりに努め、社員を家族のように愛していた。そうした姿が印象深く、やがて家業を継ぐ決意を促したのだろう。
大学を卒業後、電子カルテ業界2位の医療情報システム会社で16年間にわたり開発に携わる。仕事は充実していたが、開発プロジェクトの終了を機に「家業を継ぎたい」と父親に伝えた。洋行さんは会長に就くにあたり、尊敬する先輩の経営者から実践すべきアドバイスを受けた。
「社長の言うことは全て肯定すること。会長の仕事は応援団に徹すること。勝つように応援する。相談を持ちかけられた時は話を聞くだけ。答えは社長が自分で見つける。それが間違っていると気付けば自分で修正すればいい。苦難を乗り越えて初めて本物の答えが身に付く」
家具店をやめると伝えた地元の有力者から「親不孝者」と叱られた。くさびとなって記憶に打ち込まれているという。地域へ貢献する心が大事と諭された。
国内の玩具市場は新たに大人をターゲットに拡大し、22年度は9529億円と過去最高を更新。冒険王も上昇気流に乗せるが、決して平たんな道ではなかった。〝捨てる〟経営も決行。新規172店に退店76。専門化を進め、高付加価値商品を扱う店づくりに大きくかじを切った。地域1番店の大型商業施設内を中心に、売上高100億円が現実味を帯びてきた中、主力商品を絞りパズル・ゲーム、ミニチュア、プラモデルを〝三本の矢〟とし、欲しい商品がそろうホビーゾーンならではの販売戦略を打ち出す。
最強のテナントを目論んでおり、大型商業施設から来店客の動員につながるホビーゾーンの出店要請が相次ぐが、油断などない。目標は業界日本一と定めている。
起死回生のヒット商品が飛び出したのは約15年前。八天堂(三原市宮浦)は、どん底の時期も経験し、挑戦と挫折を繰り返した先に、すっと覚悟が定まった。何が何でもやってやろうという気概が湧き上がり、一つの商品、クリームパンに賭けた。その選択と集中が後に、飛躍的な発展をもたらす。
いまは八天堂店舗として国内に19店、海外への展開も加速しており、前5月期決算で売上高41億5541万円、経常利益1億345万円を計上。2013年、広島臨空産業団地に新設した拠点工場はフル操業を続ける。10年後に節目の100周年。森光孝雅代表(59)は、
「本業を離れるな。だが、本業だけにしがみ付くと陳腐化する。この教訓を肝に銘じ、日々、食のイノベーションを通した人づくりにまい進している」
家業90年の歩みをひもとくと山あり谷あり。そこからつかんだ教えなのだろう。
1933年、世界的な大恐慌のあおりを受け、生活が厳しくなる中、初代の森光香さんが「人々を元気付けたい」と和菓子店を創業。二代目の義文さんが洋菓子も扱い、次第に品数を増やしていった。現代表で三代目の孝雅さんは焼き立てパン店の多店舗展開で勢いに乗ったものの倒産寸前に。量販店などへの卸売りに転換し、V字回復を果たすが競合が激化。その頃100種類以上もあったパンを絞り込み、一つの商品に集中する選択に社運を賭ける決断をした。あるものとあるもの。スタンダードなものを掛け合わせて新しいものができる。いままでにない、特有のくちどけにこだわり1年半、2008年にまったく新しい、冷やして食べる「くりーむパン」の開発にこぎ着けた。
空輸で送った東京郊外の商店街で火がつく。話題が話題を呼び、瞬く間に五反田、品川駅などに販路を広げる。このまま地元にいると成長はないという危機感も後押し。世界を目指す夢も描く。
「事業には在り方とやり方があると思う。お題目に過ぎなかった経営理念さえも、どん底を味わって初めて本当の考え方に気付かされた。何が一番大切なのか。07年に信条『八天堂は社員のために、お品はお客様のために、利益は未来のために』、経営理念『良い品 良い人 良い会社つくり』を定めた。在り方がしっかりと確立し、やがてやり方・手段の〝食のイノベーションを通した人づくりの会社〟へと生まれ変わった」
孝雅代表は、関東大震災をくぐり抜けて江戸時代から続く、幾人かの老舗の経営者に会う機会があった。
「総じて人、もの、お金を大切にされている。何が何でも乗り越えてやろうという気概は平時に人を大事にし、育てているかという源があり、初めて生まれてくるものではなかろうか。創業100年を見据え理念経営、高付加価値経営、有事の経営の三大方針を今期に掲げ、推進する」
理念経営は変えてはいけない在り方、高付加価値経営はやり方、有事の経営は心構えと話す。この10年を成長期と据え、食のイノベーションを通し「商品開発」「新業態開発」のトップブランドへ挑戦する意欲をにじませる。
臨空産業団地には工場から始まり、体験型カフェ、地産品売店(運営DMO)のほか、保育園などを整える八天堂ビレッジへと発展。従来とは一線を画す新ブランドの立ち上げも計画している。
野村乳業(安芸郡府中町)は8月4日、広島空港に近い三原市の県営広島臨空産業団地内の八天堂ビレッジの隣に新工場「マイ・フローラ プラント」を操業した。臨空産業団地はにぎわいを生む事業展開を進出条件とし、2013年に製造拠点となる主力工場を設けた八天堂は3年後にカフェやショップ、パン作り体験などができる施設をオープン。大人も子供も楽しめる現在のビレッジへと発展させている。
隣り合わせになった縁から新しい商品が生まれた。図らずも食つながりの両社が軒を並べて意気投合し、とんとん拍子。八天堂が得意のカスタードクリーム、野村乳業が爽やかな酸味のマイ・フローラを持ち寄り、工夫してマッチングした「おなかを育てる とろける くりーむパン」は野村乳業の新工場に併設するカフェ限定販売だが、人気という。
両社の看板商品は、試行錯誤を重ねた結果として〝選択と集中〟で飛躍を遂げる経営のターニングポイントになり、いまがあるという。
1897年、本社を置く現在地で創業した野村乳業は牧場を営み、地元で親しまれる牛乳やヨーグルトなど乳製品を市場に送り出してきた。1970年代以降はヨーグルトなど乳加工製品を軸に売れる時代が続くが、量販店などの乳製品売り場はやがて大手乳業メーカーが大量生産、価格競争でしのぎを削る戦場と化した。これに対応し同社は棚替えに合わせて新商品を売り出す繰り返し。開発〜生産に疲弊する苦しい時期へ突入した。野村和弘社長は、
「価格でしか競争できない苦しさは、その後のわが社の生きる道を探る上で大きな教訓となった。どうやって差別化すればよいのか。個性的な魅力を備えた商品開発を追い求め、寝ても覚めても考える日々が続いた」
意を決し、県の食品工業技術センターが受け皿になった産学官の食品機能開発研究会に飛び込む。2004年、転機となる出会いが訪れた。広島大学大学院(薬学分野)の杉山政則名誉教授が見いだした植物乳酸菌に着眼。牛乳は07年、11年にはヨーグルト製造から完全撤退。売り上げは激減した。危機感と葛藤しながら製品化したのが植物乳酸菌飲料だった。
一般的にヨーグルトの生産は動物性乳酸菌の働きによるが06年、特定の乳酸菌やビフィズス菌を爆発的に増殖させる発酵技術(特許)によって植物乳酸菌による開発に成功。13年にマイ・フローラ発売にこぎ着ける。ブランディングも見直して腸内環境を改善する〝腸活〟(プロバイオティクス)を打ち出す。
「植物乳酸菌の機能を生かす飲料製品に社運を賭けた。当社の存在価値を見極める大きな決断だった。何よりも乳業から派生した発酵という技術が当社の命。発売来、腸活を実感するリピーターも確実に増えており、健康を実感してもらえる〝乳業〟であり続けようと決意している」
思い続けたことが実現し、今年7月から機能性表示食品をパッケージに表示した。既に米国、韓国、中国の食品メーカーには原材料素材として微生物増殖剤を販売している。工場に新設したR&Dセンターはこうした海外も含めた共同研究や開発も進める構え。創業126年来、多くの苦難を乗り越えながら新たなスタートラインに立つ。今年創業90周年を迎えた八天堂の選択と集中の戦略を次号で。
ロシア・ウクライナ戦争で東西の溝が深まり、グローバルサウスも各国の思惑の中で綱を引き合う。日中関係は原発処理水の放出を機に日本製品の不買運動が起きた。国際経済は一段と混迷の様相を強めており、マツダはどんな戦略を描いているのか、最重点とする米国市場の現状と将来展望を聞いた。
顕著な変化が現れている。2018年度から販売台数構成比で米国が中国を再び上回り最多の27%を占める。米国法人のCEO時代(16年から5年)に手腕を振るった毛籠(もろ)勝弘専務が6月に社長昇格。米展開を加速する。マツダノースアメリカンオペレーションズの梅下隆一副社長は、
「都市部を中心にマツダ車が強い、または強くなるポテンシャルのある39地域に力を入れていく。プレミアムブランドに肩を並べられる店づくりの決意を示し、これに共感してくれなかった264店に退出していただいた。一方で賛同してくれた174店が新規に加わる。全545店のうち既に半数の272店が次世代店舗への移行を完了し、着手済みや予定を含めると369店に及ぶ。しっかりと運営してくれている地方の小規模店にはもともと無理な改装を依頼していない。販売台数ベースで全米の約9割を次世代店舗が担う計算だ。トップブランドの領域に近づいてきたと自負しており、今後もマツダの理念を伝えていく」
人気の高いSUVを相次ぎ投入し、今年4月に発売した大型SUVのCX-90に続き、来春には同70を発売する予定だ。魅力的な車両と店舗を打ち出し、これまで販売店が値引きに充てることの多かった販売奨励金を抑制することで〝稼ぐ力〟を高めた。結果として、22年の米国市場の車両平均取引価格は18年に比べ約7000ドル増え、3万3700ドルに伸長。
「販売奨励金の抑制は業界の中で上位にある。新車購入者は数年後に手放す際に高値で売却しやすくなり、ブランド価値が上がっている。長年の課題だったマツダ車の再購入率は着々、業界平均に近づいてきた。高価格帯のCX-90の手応えがよく、当面は平均取引価格が上昇すると予想している。最大年産15万台のアラバマ工場稼働や新型車の投入など、成長加速へのピースがそろった。第3〜第4四半期でフル生産に近い状態へ持っていく」
本年度の販売は前年度比22%増の36万7000台、25年度に45万台を掲げ、同社が参入する車種分類で現在のシェア4.9%から6%への拡大をにらむ。マイナス要因に働く政策金利の引き上げなどの動きも予断を許さない。北米で組み立てた車などを条件に、EV(電気自動車)税優遇も始まった。22年のEV販売台数(全メーカー)は前年比6割増の81万台で、全体の約6%に。しかしマツダはこの流れと一線を画し、カリフォルニア州限定で試験販売していたMX-30のEVモデルの扱いを終える。
「ロードマップに基づき、27年ごろにEV専用の新型車を予定するが、必ずしもEVでトップランナーになろうとは思っていない。一部の州を除き、まだ米国政府の見立てほど市場が活発化していないと思う。まずは来年発売するプラグインハイブリッドの反響に期待したい」
充電インフラ整備や環境規制の実態は各国さまざま。補助モーター含め、多様な電動化技術を使い分ける独自の戦略を描く。