広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
いつ終息するのか、誰も答えられない。今年に入り、あっという間に企業経営を取り巻く人、物、金のありようがいっぺんした。3月ごろから地元の金融機関に融資申し込みが殺到しているという。これまでは借り手を探すのにひと苦労だったが、一晩明けると融資案件を山ほど抱え、大わらわ。若手行員には初めての出来事だけにこれから先、取引先の関係をどう築くか、その転機にもなりそうだ。
工場の一時休止に踏み切ったマツダの取引先企業は、
「原則、県外からの来訪者はお断り。いまは新型コロナウイルスの感染者を出さないという対策に集中している。社員の雇用を守るため、やむなく派遣社員やアルバイトの契約を解除。目先の急場をしのぐほかないが、いつか注文が戻ってくるまで怠りなく準備を整えている」
あおりを受け、人材派遣会社では派遣先の開拓に汗を流す。つい先ごろまで多くの企業が人手不足できゅうきゅうとしていたのが、まるで嘘のようである。
広島経済の現況や見通しについて、ひろぎん経済研究所の水谷泰之理事長は、
「経済への懸念すべき事項やそのレベルは日々変化している。いまや世界の経済停滞が明らかになり、市場も大きく混乱。国内消費の減退も明らかで、多くの事業者の資金繰りに大きな支障が生じ、パート従業員などの生活基盤が揺らいでいる。
県内経済に大きな影響力を持つマツダが、国内工場の生産一時休止に踏み切った。その経過は、1月に中国が新型コロナウイルス感染で大変な状況になりサプライチェーンに問題が発生するため部品供給に懸念が生じ、2月になると社員の感染防止対策に追われる状況になった。
その頃国内ではインバウンド観光客の急減も加わり、国内消費の不振が現実味を帯びてきた。海外、特にアジア諸国への出張が事実上不可能になり、企業活動全般に大きな支障が及んだ。
3月になると全世界的な自動車の販売不振といった未曾有の要因が重なった。同社にとって工場の一時休止は苦渋に満ちた判断だったのではなかろうか。
現時点で世界経済にどれだけの影響があったのかさえも把握されていない。まして今後どのようなダメージを受けるのかを予測するのは困難。いつのときもそうだが、そのときに入手できる情報の限りで、ベストの意思決定をするしかない。これから先を見通すのは難しいが、これまでの経過や現状を冷静に見て合理的に判断することが大事ではないだろうか。やがては今回の事態の対応や危機管理意識などからテレワークの浸透やサプライチェーンの分散化などの、新たな経済発展につながる動きも出てくるに違いない。いまを踏ん張り、そのときに備えたい」(3月31日)
新春号の本欄で、2020年の注目ポイントの一番に東京五輪、そして米国大統領選挙、第5世代移動通信システムを挙げ、穏やかな成長が続くという同研究所の経済予測を載せた。まさかである。東京五輪は1年延期になり、米国大統領選挙も混迷を深めている。わが国、わが社だけでは成り立たないという現実にぶつかり、世界はどのように対応していくだろうか。
いよいよ第5世代移動通信システム(5G)商用化へ。その主要性能は超高速、超低遅延、多数同時接続という。例えば、自動運転の実用化、スマート工場、スマートシティーの実現に役立つと期待されている。総務省資料によると経済効果は46.8兆円。AIやIoT(もののインターネット)などでスマート化を進める大企業に比べてデジタル化に立ち遅れる中小企業にとっても、この大きな技術革新の波に無関心、無防備というわけにはいかない。
いま、広島県でデジタル技術を活用し現場の課題を解決するとともに、さらに新たな付加価値を生み出そうという取り組みが進められている。湯﨑英彦知事が提唱し、2018年度から実証プロジェクト「ひろしまサンドボックス」をスタート。砂山を作ってはならす砂場と同じように、業種・業態間の垣根を超え、県内外の企業や大学などが参画し、試行錯誤ができるプロジェクトとして中小製造業などが導入しやすい、さまざまな事業に挑戦している。
現在、コンソーシアムでデジタルソリューション(安佐南区)が代表者を務める生産管理の見える化や、アイグラン(中区)の保育現場の安全管理のスマート化、ピージーシステム(中区)の安全な船舶運航システムの構築など9つの事業が進行中。AIやIoTを既存の事業やものづくりの現場に、ピタリと具合よく導入するためのハードルは低くない。商工労働局イノベーション推進チームの金田典子担当課長は、
「生産労働人口の減少が進む中、ITの力やデジタル化によるイノベーションが欠かせない。しかし中小企業が単独でデジタル技術を導入するのは困難がつきまとうが、ただ一歩を踏み出す勇気が大切。最終年度に入り、9つの事業のそれぞれの課題が見えてきた。試行錯誤した結果のつまずきを失敗とするか、成果とするか。判断次第で次の課題が見えてくる。失敗を新たな知見と捉え、オープンに共有することに意義がある。異業種間の化学反応を期待するとともに、そこで得たナレッジを活用する。参画メンバー自らの力で継続し共創できるようサポートし、挑戦しやすい環境づくりも考えたい」
2月には、道路施設の維持管理等の課題解決へ行政提案型で募った、法面崩壊の予測など3テーマに8件を選定。AI技術などを駆使し、コンソーシアムで実証に挑む。また、デジタル技術などリソースを提供できる大手企業などがパートナーとなって後押しする実証プロジェクトは8テーマに41社が選定された。例えば、NTTドコモをパートナー企業に、新型コロナウイルス感染を防ぐため無観客とした、3月15日のカープ対ソフトバンクのオープン戦で5Gネットワークを介し、ライブ映像配信クラウドシステムによる臨場感あふれるリアルタイム動画視聴を実証。
さらに、実証プロジェクトと並行してコンペ方式のAI人材開発プラットフォーム「ひろしまQuest」をスタートさせ、AI人材の集積にも乗り出した。
これまでに鍛え上げてきた経営手腕に加え、時代を見抜く眼力と技術革新がそろえば鬼に金棒。一歩を踏み出した先に、大きなヒントが隠れているかもしれない。
おかげさまで、4月で創立70年。約1年の準備期間を経て、1951年5月20日付で発刊した創刊号「廣島経済情報」(53年から現名称)の開設あいさつで、編集方針について、
▷出版以外一切、商売をしない。集めた情報を出版以外に流用しない。
▷自分の都合次第で利害得失を売り込むことはない。
▷主観を押しつけることもない。物足りなさがあると思うが、事実を事実として伝えていく。
創業者の福間一郎の方針はその以降、先輩から後輩へ受け継いできた。95年4月15日号の通巻2000号の特集企画に、広島県の竹下虎之助前知事、中国新聞社の山本朗社長、広島高速交通の川原太郎社長、賀茂鶴の石井泰行社長らから寄せてもらった言葉を掲載。むろん、社交辞令もあろうが、
「(広島経済レポート)発行日が楽しみでした。どうしてだろうと改めて考えてみると記事を書く人、編集する人が積極的に自分の意思を表に出さず、淡々と書き、編集し、判断は読者の意思を尊重する方針を貫いていることが、安心し信頼して読める所以(ゆえん)だなと気付きました」(川原太郎)
創業来の編集方針を評価してくれており、一層の精進を肝に銘じた。
決して変節したわけではないが、最近、主に広島の中小企業を対象に、当社の取材、編集経験を生かして、専門家の力も借りながら人材採用支援事業を始めた。出版以外一切、商売をしない方針は守り切れなかったが、地域や企業に少しでも役立つことができればという創業精神はこれからもぶれることはない。
よく人、物、金、情報というが、これまでもこれからも企業にとって人材が一番。とりわけ中小は人材確保に苦戦し、大企業の後塵(こうじん)を拝してきた。しかし広島には優秀な中小企業が分厚く集積し、個性豊かなオンリーワン企業、魅力的な企業が数多く存在している。これを学生にどう伝えればよいのか。本誌のほか、2088社を収録した広島企業年鑑、42業界と主要企業がひと目でわかるひろしま業界地図の発行や、ウェブサイトひろしま企業図鑑の情報発信を通じて、少し気付くことがあった。編集企画で、学生が経営者に聞くインタビューコーナーは学生も経営者も真剣そのもの。学生が取材し記事を書く。この経験を就職活動に生かすことができないだろうか。どんな質問をすれば本質的なことや役立つ情報を引き出すことができるのか。どのように記事をまとめれば大切な事を伝えることができるのか。次第に学生の目つきが生き生きとしてきた。
一方で、企業のつくった求人案内やパンフレットは、ともすれば自社PRを優先していると思われることがある。事実を事実として伝える第三者の立場で、経営者の志や企業情報のポイントなどを捉えた記事や動画を制作。これらの媒体制作を通じて企業の求人機会を広げ、学生の就活や進路選択に役立ててもらう。じかに触れる情報交流を通じて双方に思い違いのない求職、求人のマッチングの仕組みを構築。偏った情報を流し学生を迷いの道へ進ませてはならない。これが一番に大事。少しずつ求職、求人の輪を広げていきたい。
杜甫の詩「人生七十古来稀なり」(70年生きる人は古くから稀である)に由来し、数え70歳(満69)で古希。
弊社は1950年4月に創立以来、おかげさまで70周年を迎えた。約1年の準備を経て、翌年5月の本誌創刊から今週号で通巻3195号。古くから希などという感慨はないが、長年にわたり、ご愛読とご支援に支えられてきたことへの感謝の思いが深い。心より御礼を申し上げたい。
当時の広島はどんな風景だったろうか。その年は6月に朝鮮戦争が勃発し、深刻な不況にあえいでいた広島経済も特需ブームに潤う。この辺りについて、広島地域社会研究センター発刊の「広島経済人の昭和史」に、
「歴史上はじめて本格的な技術革新をともなう産業合理化がすすめられた。このめざましいイノベーションが、もはや戦後ではないといわれた高度成長の幕あけとなって、実を結んでいった」
被爆後、極度に荒廃、混乱していた広島経済にとって、くしくも朝鮮戦争よる米軍からの特需が、起死回生の大きな転機になった。貿易もいちじるしく進展。広島市の輸出実績は顕著な発展を示し、
「とくに昭和25(1950)年は前年の5.4倍にまで、いっきょに拡大」した。
被爆直後の被害状況について広島県知事が国に宛てた報告によると、「全焼」は日発広島支店、中国配電、広島電鉄(電車90両焼失)、東洋製缶、旭兵器、広島瓦斯(工場共)、帝国人絹、倉敷工業、日銀支店、住友銀行支店、芸備銀行(のちの広島銀行)本店、帝銀支店、勧銀支店、中国新聞社、広島中央劇場映画館−とある。しかし、戦後の工業発展、地域復興をリードする大企業の工場は、全焼全壊地域のほぼ外側に立地していたため、被害は比較的軽微にとどまった。三菱重工業の広島機械製作所(南観音地先)や広島造船所(江波町地先)の両工場とも機械設備の損傷は皆無に近い状態だったという。東洋工業(現マツダ)の損害も軽微だった。その付属病院は一般に開放され、被爆者のための有効な救護所になった(広島新史・経済編より)
こんな話もある。市民生活の安定に、電気の点灯が急がれた。「手のほどこしようのない破壊のなかで作業は営々にすすめられた。復旧にかり集められた従業員にも被爆者が多く、次々に亡くなった。それでも、8月末にはすでに市内の3〜4割に点灯するまでにこぎ着けた」という。
市内電車の復旧も精力的に行われた。「無傷で残っていた電車はわずか3両。とにかく電車を走らせれば街に活気がでるだろうという一念で、作業を急がせた。9月末ごろにすでに広島駅から江波までの路線が開通していた」
金融面の応急措置も急を要した。爆心地に近い銀行の多くはほとんど使用不能に陥っていた。「日銀広島支店の一階のみが、ようやく残されていた。そこを十二区分して各行の窓口にわりあて、9日から銀行業務が再開されるのである」(広島経済人の昭和史)
そのとき何をなしたか。広島経済の源流をたどると荒廃の地から立ち上がり、復旧・復興に力を尽くした人々の姿が浮かぶ。危機にあってリーダーの指揮も、仕事に立ち向かう不屈の魂も失われていなかった証ではなかろうか。
人生のすべてを懸け、社業発展に力の限りを尽くしてきた。しかし振り返ると事業を継ぐ者がいないという難関が立ちはだかる。広島修道大学は2020年後期から全7学部の2〜4年生を対象に、新しい科目「広島の事業承継を学ぶ」を開講する。地元の経営者も授業に携わる予定。
このまま後継者難が解決しなければ、2025年ごろまでの10年間累計で最大約650万人の雇用と約22兆円のGDP(国内総生産)が失われるという経済産業省の試算がある。どういう訳か、広島県内企業は後継者不在率が高く、全国4位(帝国データバンク調べ)という。それにしてもなぜ学生のときに事業承継を学ぶのか。
6200名の学生を抱える同大は広島経済界の要請によって設置された経緯がある。地域出身の学生が多く、卒業後、地元企業に就職するケースも多い。さらに企業経営者の子弟が多いという事情もあるだろうが、むろんそれだけではない。三上貴教学長は、
「経営的な視点をもって中小零細企業が抱える課題を考えてみることにより就職活動はむろん、起業や創業、事業承継などの進路選択肢を広げ、さらに企業経営者から直接、さまざまな経営上の課題を解決するための知恵や戦略を学ぶ価値は大きい。そうして地域社会に貢献できるキャリアをどうやって形成していくのか。自らの人生設計を描くことにより、物事を深く考える契機としてもらいたい」
自立するとともに、自律できる人材を育む狙いがある。
新科目は、県内企業の廃業実態や事業承継・M&A(合併と買収)の事例、地域経済の活性化などをテーマにした講義に続き、地元経済界や同大卒の経営者から親族承継、親族外承継の事例などを13回にわたり学ぶ。
広島経済同友会や広島県中小企業家同友会などと包括的連携協定を結ぶ。経済団体の協力を得ながらこれまでに企業見学バスツアー(延べ43社・団体、250人参加)のほか、「業界セミナー」や「経営者と語る会」などを実施してきた。就職が目的となり大企業、安定志向に流れる傾向にあるが、参加した学生は、まったく縁のなかった経営者に接し、多角的な視点で洞察する能力や、自分の意思で将来を決めるという気概の大切さに気付かされたのではなかろうか。担当教員は、
「実際に企業で働く方と接し言葉を交わすうちに、学生たちの目つきが変わってきた。インターネットや企業説明会などでは知りえない、企業トップの思いや信念に触れることができる。本人次第だが、自分の人生に対する姿勢、将来を考える大きなヒントや羅針盤になると思う」
広島にはオンリーワンや個性的魅力を備えた中小企業が分厚く集積している。だが、どの企業も同じレール上を走り続けるわけにはいかない。伝統的製品と新しい価値を付加した新製品のマネジメントや社内ベンチャー、イノベーションを起こすことができる人材に対する産業界、企業の要請は一段と高まっている。中小企業の採用難が続く一方で、離職率も高い。入社後にこんなはずではなかったという思いが繰り返されることがないよう、いかに生きるか、社会へ出る前にじっくり考えるチャンスではなかろうか。
経済界になじみ客も多いだろう。ゴルフ用品店「ダイナマイト」を運営する広島ゴルフショップ(中区鉄砲町)が1月で創業50年を迎えた。業界をけん引してきた山田一夫代表は、
「ピーク時に地元資本の専門店は市内に55店あったが、全国チェーンの出店攻勢や市場の縮小もあり、残ったのは当社だけ。1970年に広島で開業以来、私を支えてくれた恩人は数え切れない」
兵庫県出身。高校を卒業し祖母の勧めで、国産アイアンを初めて造った神戸市の森田ゴルフに入社。もともと事務職だったが、ものづくりの世界にあこがれ、職人の道に飛び込んだ。当時、力道山や岸信介首相の製品も手掛けた。これから「ゴルフの時代が来る」と確信したという。
64年に営業職として新市場開拓の命を受け、広島に着任。それから6年後、政治家や経営者などから仕事への熱意や、スイングに合わせてクラブを選ぶフィッティングの腕を買われ、6坪の広島ゴルフショップを創業した。これまでに幾度の出退店を経て現在は吉島、マリーナホップ、東広島、福山で4店を経営。
「物を売るより、喜んでもらえる商売をしてきた。安い物を売るな、その人に合うものを売れと社員に言ってきた。買ってもらったあとも練習場に同行してスイングを教えたことも。そんな姿勢が評価されたのか口コミで広がった。何事も手入れが大事。畑に種をまき、芽が出るまで水をやり、大事に育てる。実家が農業だったせいもあるが、商売も同じだと思う。売り上げは後から着いてくる。安易に値引きしない姿勢がメーカーから評価され、こちらの無理に何度も応えてもらった」
何より顧客を引きつける魅力があったのだろう。激しい浮き沈みを乗り切ってきた。
だから人生は面白い
自称「日本初」を3つ築いたという。1つは町民ゴルフ大会の開催。運営する練習場「高陽ゴルフセンター」のある高陽町からゴルフを普及させようと「ゴルフの町」に位置付けて79年から毎年大会を開く。昨年で第41回を数えた。同年から始めたジュニア教室もその1つ。これまでに10人のプロゴルファーを輩出した。もう1つは左利きゴルファー向けレフティ大会の開催。店舗に専門コーナーを設けたことも。多くの人から愛されるゴルフ。その目的に向かって寝ても覚めても知恵を絞り、力を注いできた。
「今でこそゴルフ人口の減少に歯止めをかけるべく業界を挙げて取り組むが、当時ゴルファーを増やそうと考えていた人は少なかった。一部で競合大手の撤退も出始めるなど状況は厳しいが、悲観などしていない。必ず盛り上がる。今後もゴルフの楽しさを知っていただく活動をこつこつと続けていきます」
10月で81歳を迎える。これまでに大病を患ったことはなく、入院したこともない。「挑戦する」ことが何よりの健康の秘けつとか。今でも毎月2〜3回はコースを回り、引退したら365日ラウンドしたいと語る。
「クラブ造りから始まり、ゴルフの普及こそわが人生の仕事であり、夢そのもの。50年はひと区切りに過ぎない。これからが新しいスタートライン。だから人生は面白い」
日本人は自己PRが苦手とよく言われる。しかし黙っていてはその魅力に気付いてもらえない。世界に誇れる印象派の名画を多く所蔵するひろしま美術館が国内外へ、積極的な情報発信に乗り出した。
初の試みとして、美術ファンがよく手にする全国誌や旅行ガイドに美術館の魅力などを掲載した。情報発信だけではなく、内容充実にも力を注ぐ。同館コレクションの中からよりすぐりの作品で構成した独自企画展「マイティネット創立45周年記念 印象派のいろは展」(3月22日まで)は、西洋絵画の伝統や〝印象派ってなに?〟などの疑問に答える、分かりやすい鑑賞のキーワードやポイントを展示作品に沿って示す。美術は敷居が高くて今ひとつ、という人にも興味を呼び起こすよう展示に工夫。西洋と日本の美術感覚の違いを室内のしつらえから具体的に触れることで印象派を読み解くなど、これまでになかった所蔵作品の新しい見せ方に挑戦しており、来館者の評判は上々という。
1978年に開館。近年の年間来館者数は16〜20万人で推移。そのうち県内から訪れる人が約8割を占める。やはり人気を呼ぶ特別展の企画次第で来館者数が左右される傾向が強い。しかし地道な不断の努力がなければすべて色あせる。鑑賞の合間にひと息できる椅子を設置したほか、作品の写真撮影可、Wi‐Fi導入などの細やかな環境整備に取り組んできた。
海外では、世界最大旅行サイトのトリップアドバイザーで昨年10月に発表された「旅行好きが選ぶランキング」美術館部門で第4位に躍進。また、優れた施設に贈られる〝エクセレント認証〟も世界トップレベルの評点で、5年連続で認定された。なかなかの成果を挙げている。烏田泰史広報部長は、
「特別展はむろん、美術館の存在をいつ、どの方法でアピールするのか、ターゲットを明確に捉え、効果的な広報活動を強化していく」
2018年には体験型修学旅行の誘致事業で成果を挙げる広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会に美術館のチラシを持ち込む一方、旅行者の受け入れ地域で独自の観光プログラムを開発する「着地型観光」にも注目。広島平和記念資料館には年間173万人(16年度)が訪れる。同資料館から原爆ドーム〜広島城〜縮景園へつながる道筋にある、ひろしま美術館と連携したプログラムによってさらに人を呼び込むことができる。中央公園内に描く市の文化ゾーン構想や、24年開業を目指すサッカースタジアムも控える。池田晃治館長は、
「焦土と化した広島で〝愛とやすらぎのために〟をテーマに収集された作品群は、印象派を中心に19〜20世紀の西洋美術の流れをたどれ、近代日本洋画、日本画を含め素晴らしいコレクションと自負している。まず、地元の方に楽しんでいただき、さらに広島を訪れる動機、目的が当館の美術鑑賞となるよう、今後も国内外へ情報発信します」
旅行先で立ち寄った美術館で、目当ての作品に出会った感動は深い。そもそも旅と絵はよく似合う。そして広島に住む人が日常生活から抜け出し、休日などの街中散歩で気軽に美術鑑賞できる価値は大きい。心を洗う機会になればなおさらである。
西日本最大規模の流通拠点を誇る広島総合卸センターや広島市中央卸売市場などが立地し、大勢の人が働く西区の西部流通団地。同地区と広島西飛行場跡地を候補地に見本市や国際会議を開く「MICE(マイス)」施設整備の構想を描く広島商工会議所の提言を受け、市は本年度事業で卸センターや建て替え計画が進む中央市場、町内会などでつくる「商工センター地区活性化検討会MICE部会」を設置するとともに、施設の整備可能な規模・機能などの調査をコンサルタントに委託。具体化へ向け、一歩踏み出した。
一方で県は1月中旬、西飛行場跡地を建設候補地としたMICE施設の計画を断念すると発表した。東京や大阪などの大都市との競争に勝つのは厳しく、採算性などのリスクを抱え、あえて行政や民間が数百億円に上る巨額投資に踏み切るのは困難−として決断した。そもそも両地区にまたがる大規模な構想そのものに無理があったのか、あるいは全体規模を縮小して商工センター地区に絞り込まれたことにより、実現性が高まったと見るべきか。市の調査結果を待つほかないが、「都市間競争に打ち勝つ方策を練り、他都市に比べて立ち後れているMICE関連施設をいち早く整備。広島のポテンシャルを引き出してもらいたい」という地元の声を受け、どのような判断が示されるだろうか。将来へ、国際平和文化都市広島の発展を左右する大事な局面に差し掛かっているように思える。
2月4日にあったMICE部会では2020年度も部会を継続し、事業促進の役割を担うファシリテーターとして活躍する田坂逸朗氏を部会の進行役に起用。田坂氏は福岡市のまちづくりに関するプロデュースなどに実績がある。20年度中には商工センター地区まちづくり素案を提言することにしており、これを機にMICEという駒を進めることができるのか、鍵を握る1年になりそうだ。
身の丈より上に挑戦
1月31日をもって卸センター近くの商業施設アルパーク東棟の天満屋アルパーク店が約30年の歴史に幕を閉じた。華やかな光を消し、ひっそりとたたずむ。団地進出企業が移転、操業して間もない1978年ごろ、団地内利便施設としてスーパーを誘致するプランが浮上。これを西部団地組合連合会と商工会議所が市へ要望し、その後JR新井口駅の開業や、草津沼田道路の開通などの環境変化を理由に、商業街区整備計画としてアルパーク東・西棟の建設につながった経緯がある。
百貨店経営はさらに厳しい環境にさらされており、天満屋アルパーク店の撤退はそうした事情が背景にあるが、地域にとって、ぽっかりと穴が空いた印象を拭えない。両棟を一括買収した大和ハウス工業(大阪市)は、東棟をリニューアルして商業施設の営業を継続する意向という。
これからも繁栄と衰退を繰り返すだろうが、団地施設の老朽化にタイミングを計ったようなMICE施設整備の構想がこの機を逃し、大幅にずれ込むことになれば「もはや広島に出番はない」と烙印(らくいん)を押される懸念はないだろか。身の丈より少々上のまちづくりに挑戦する前傾姿勢をとってもらいたいと願う。
中国5県のプロスポーツクラブや企業、関係団体などが地域や競技の枠を越え、ビジネス連携を図るプラットフォーム「ちゅうごく5県プロスポーツネットワーク(通称スポコラファイブ)」の取り組みが注目されている。
中国経済産業局が2017年に立ち上げた全国初のプロジェクトで、新しいビジネス創出などにつながる仕組みづくりを目指す。その一環として1月30日、企業約50社を含め関係者約100人が集まり、「スポコラファイブ中国地域スポーツ関連ビジネス成果報告会」があった。
当日、スポーツの成長産業化と基盤形成に向け「スポーツ新連携パートナーシップ制度」を創設。企業が広告などによってプロスポーツクラブの運営を支え、その広告効果などに期待する従来型のスポンサーシップとは異なり、新設のパートナーシップ制度はスポーツという経営資源(リソース)を活用し、地域や社会の課題などを解決する新たな関係構築を目指す。
第1号で野村乳業(府中町)と自転車ロードレースのヴィクトワール広島が合意書を交わした。広島大学と共同開発した植物乳酸菌発酵エキスを選手に摂取してもらい、競技への影響などを分析し効果を検証。商品開発や販売拡大に役立てる。野村和弘専務は、
「パートナーシップ制度を通じて、これまで接点のなかったプロチームの協力を受けることになり、研究開発の輪も広がる。自社だけでは限界のある事業展開に、新たな道筋を見いだせるチャンスを頂いた。植物発酵乳酸菌エキスの摂取によって選手のパフォーマンスがどう高まるのか、大いに期待している」
スマホを利用してコインを貯めると観戦チケット交換や店舗の優待などが受けられる〝サンフレッチェコイン〟事業を昨年11月4日〜12月7日、紙屋町シャレオで実証した結果、狙い通り観戦客と店側の集客が図れたという。スポーツとの連携でビジネスの視界が広がり、新たな発想に弾みがついているようだ。
国は日本再興戦略でスポーツを成長産業に位置付け、2025年までに15兆円の市場規模を構想に描く。これを受け、プロジェクトに取り組む中国経産局の担当者は、
「スポコラは県域を越え、新たな切り口で横断的にスポーツとビジネスの連携を展開する仕組みで、地域に新しい価値と元気をもたらす可能性を秘めている。スポーツの魅力と機能を掘り起こしながらパートナーシップ制度を後押ししたい。これまでにないビジネスが生まれる可能性も十分に期待できる。いま2号、3号を仕掛けている」
その日は広島市や県、商工会議所の3者トップ会議が開かれ、中区の中央公園広場へ3万人収容のサッカースタジアム基本計画の素案をまとめた。都市再生緊急整備指定地域という立地を生かし、24年開業を目指す。さらにサンフレコインの機能強化、発展にも期待がかけられる。
広島には多くのプロスポーツがあり、ファンを楽しませる。一方で、総務省の19年の人口移動統計報告によると広島県の「転出超過」は8018人に上り、全国最多。スポーツの力で地域や企業が大いに元気になり、新たに人を呼び込むことになれば、その相乗効果は計り知れない。
その時々にやるべきことをやり遂げる。東京大学法学部を卒業後、通産官僚、実業家などを経て2007年に広島県知事選に出馬し初当選。現在3期目の湯崎英彦知事の信念である。広島テレビの番組を本にした「Dearボス〜トップの秘密のぞき見バラエティ〜」(南々社発行)のイントロで、この言葉について湯崎知事が一文を寄せている。そして本に登場する11社のトップに共通して創業期や転機などの時々に「やり遂げた」という逸話が、興味深い。一部を紹介したい。
現在、「すし辰」などの回転寿司8店舗のほか、焼き肉店2店舗、和食店「鄙(ひな)の料亭地御前(じごぜん)」や、母体となった鮮魚店を県内で展開する鮮コーポレーションの西田昌史代表取締役。庄原市で古くから営む家業の鮮魚店に入り24、25歳の頃。小さな店を守り、田舎の商店街で生きていく、これが自分の人生かと思うと、たまらない寂しさと絶望感を感じた。しかし転機が訪れた。27歳の時。地元にできたショッピングセンターに出した店を任される。初めは散々だったが、知人の助けやアイデアを生かした売り方で驚くほど繁盛。商売の面白さを知り、全てが変わったという。
31歳。挫折を味わった。ファミリーレストランをつくろうと思いつき、建設に着手。しかし肝心の人がいない、レストラン運営の知識もない。突然耳が聞こえなくなったり涙が出たり。中止を決断。2000万円の借金を負った。この時、自分に経営の知識が何もないことを痛感し、勉強しなければと思った。うまく切り抜けようと悪あがきをしないこと。苦しいときこそ明るく振り舞うこと。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という格言が、それ以降の人生の道標(しるべ)になった。
それからも失敗はあった。ただ成長するにしたがってスタッフも成長し、会社の体力もついてくるから失敗しても何とか切り抜けることができてきたというのが実感です。
日本一の木材会社で、2500人の従業員を擁する中国木材の堀川智子社長。戸建て住宅用構造材の国内シェア30%以上を占め、3期連続で1000億円以上を売り上げる。2代目で父親の保幸会長が基盤をつくり、2015年に3代目に就く。父はすごい倹約家で、5人きょうだいの長女である私もよく似ています。使い捨てが嫌いなタイプなんです。メーカーとして1円1円コストダウンして利益を積み上げないといけないというのが今も父の口癖。どうやってムダをなくすかというのが常に頭にありますね。
一方で、業界の常識を破る大胆な投資を次々に断行してきた。物流コストの削減に直結する「一港積み一港降ろし」を実現するため、21億円で工場に専用ふ頭を建設。業界でいち早く乾燥材を商品化。製材の過程で排出される樹皮やオガ粉を燃料に使う「バイオマス発電事業」に乗り出し、森林経営も手掛ける。原材料→製材→乾燥→加工→流通までの一貫体制を全国14カ所の拠点で行い、全国へ製品を供給する。まさに大胆で細心。その時々で革新を重ね、業界をリードする腕力がすごい。
苦境の時はむろん、その時訪れたチャンスをいかにしてつかむか。やるべきことをやり遂げたから知恵も生まれ、運も味方したのだろう。
幾多の修羅場を乗り越えてきた経験が経営者に自信と勇気を与え、揺るぎない経営観となったのだろう。
広島の企業経営者らを取り上げた2冊の本が相前後して発刊された。「ひろしまのすごい社長たち」(南々社発行)は、個性豊かな14人のトップが登場する。こんなことを語っている。要約。
エスエスジャパンの佐々木世紀男(せきお)代表取締役。日々を疎かにしない。ごまかさない。誠心誠意、仕事をする。ただそれだけ。小さなかすり傷から事故による大破まで、同じ傷は一つもない。事故車を扱う板金、塗装は1台1台が全て異なる作業。それができるところにステータスがある。当然、高い技術が必要で、自分自身が試される仕事だ。開業以来37年、事故車修理のクレームは1件もない。
他人と同じ仕事をしとったら、値段で天秤にかけられて自分の能力と関係ないところで競わんといけなくなる。だから、誰もようせんことをやろう、と決めた。それができる板金の妙技に惚れ込み、技術を武器に無理難題に挑み、特許や意匠登録も取得。戦略的に事業化してきた。
オオアサ電子の長田克司代表取締役。一人のヒーローはいらない。それぞれが得意分野を生かし役割を果たすことで会社は成長する。窮地に陥って苦しんだときこそ、今ある仕事を究める。そこを掘り下げていけば必ずチャンスは生まれてくるものです。
面白そうだ。とにかくやってみよう。鈴虫の鳴き声のように、どこから聞こえてくるか分からないけど音が聞こえてくる。そんなスピーカーを作ろうというのが共通のコンセプト。音を拡散させる独自の仕組みを開発しました。
バルコムの山坂哲郎代表取締役。人を育てることほど難しいことはありません。若い子たちは楽をしたがる。そうした変化を受け止めながら社員に愛を持って接することが大切。社員とは家族のようなもの。人に愛を持ち続けることは経営者にとって最も大切な感性、資質だと思う。
青果物卸売販売の古昌の古本由美代表取締役。元々、商売なんて大嫌い。企業社会は男社会、男に負けてはならないと猛勉強をしました。意地だけで頑張っていたのかもしれません。強硬に自分の意見を主張し、社員に急激な変化を求めました。決意もないままに事業を継承したものの、世の中は大きく変化しており何とかしなくてはならないとあせりました。女であることが仕事の上で邪魔な気がして虚勢を張っていたのかもしれません。
起こることはすべて必然。そこには必ず原因がある。不都合なことが生じても、それを人のせいにしてはいけません。むしろ自分の方にあることも心得ておくべき。自分自身、これまで人との出会いはラッキーの連続でした。
各社の理念、社員からのメッセージも載せる。経営危機や社員の反発、病苦などの苦境に立ち向かい、渾身(こんしん)の力でくぐり抜けた経験から吐露された言葉は、ずしりと重い。
もうひとつ。広島テレビの番組「Dearボス〜トップの秘密のぞき見バラエティ〜」が本(南々社発行)になった。放送内容に追加取材して構成。日本一の木材会社、中国木材の堀川智子社長ら12人が登場する。−次号へ。
文華堂(中区国泰寺町)の伊東由美子社長は2018年6月、三男の剛副社長と共に伊東家の戸籍謄本に記載されている熊本、長崎、佐賀3市と香川県丸亀市を訪ね、現地の図書館などで古地図や文献をひもといた。明治30年(1897年)に長崎で創業と伝わる家業の歴史をたどり、今後の事業継承に道筋をつけるという大きな目的があった。伊東家に嫁ぎ、7代目の伊東社長は、
「現地で確かめる創業の歩みは非常に興味深く、面白いものでした。実際に資料を調べると長崎ではなく、今から150年以上前にさかのぼり熊本県高橋町で伊東寅之助が内与力として細川藩の奉行所で蔵書印や藩設置機関印、検閲印などを製作。廃藩置県後、明治20年に長崎に出るまで、当地で印版の仕事に当たっていたことが推定できました」
新鮮な驚きだった。創業は明治新政府が発足した1868年であることが判明。近代社会へ向かう黎明(れいめい)期、長男で2代目の寅三郎と共に技術と信用で印版の存在価値を高め、家業を営んだようだ。長崎へ移転後は、終戦まで韓国大邱で福岡や佐賀県の仕事も受けるなど手広く展開。今も大邱と釜山に文華堂の看板で事業が引き継がれているという。
「家族と共にその地を訪れ、何度も現地の文華堂を行き来した先代、先々代の足跡がありました。4代目秀次を師、恩人とあがめ『私たちの原点がこの硯(すずり)にある』と祭壇に供えられてあった。当社が大事にしてきた理念〝企業は人なり〟を改めて確認することができた。歴代経営者の事業にかける思いもかみしめた」
本格的な雇用に乗り出した1987年、1年をかけ全員参加で経営理念を策定した。
「小さな会社にはなかなか優れた人材が来てくれない。あの手この手を打ったものの人手確保で一番、苦労した」
経営のあり方を根本から見直し、今は全社員も参画して経営計画書を作成している。この十数年、定年や結婚以外による退職者はいない。
文華堂は今年1月から創業50年以上のオーナー企業を主対象に、創業家と事業変遷の歴史を時代の主要な出来事と合わせて巻物にまとめる「創業家系図」の制作サービスを本格化した。主に次期後継者に引き継ぐタイミングで提案する。2年前に戸籍謄本や過去帳、古地図などを頼りに完成にこぎ着けた自社家系図がヒントになった。時代のうねりや変革を乗り越えた歴代トップの信条や人柄などを掘り起こし、創業の精神を検証できたという。
「最初は生きていくため。時代背景もあるが結局、良し悪しは別にして自分が信じた方向に動いていくのが人だと思います。松下幸之助は松下理念を継承する人をトップ候補としていたという。地域の雇用を守り、必要とされる、風土づくりの一端も担う老舗企業の灯を途絶えさせてはならない。求心力となる創業の魂を社員皆で理解、共有し、事業に落とし込んでこそ永続的な発展につながるのではないでしょうか」
技術革新などでパラダイムシフトが進み、後継者不足などを背景にM&Aが増加。時代の変化を読み取り、改革の手を緩めてはならないが、併せて人と人がつながる〝縁繋(えんけい)支援事業〟を掲げ、時を越えた縁繋で未来を創る構えだ。