広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
多くのオーナー経営者は、心血を注いできた会社を後継者へ託すタイミングに心を砕くという。大方は親から子へ代々重ねており、日ごろこんこんと経営の在り方を語り合ってトップ交代を決断。その後に発展するか衰退するか、もう託すほかない。
不動産関連全18社で構成する、みどりホールディングス(HD)の中核会社の第一ビルサービスは10月1日付で杉川聡社長(65)が会長に就任し、代わって坂根紳也取締役(49)が社長に就いた。長男の杉川綾取締役(40)が専務に昇格し、3代表制とした。HDは杉川聡社長と綾専務の2代表制を敷く。中核会社会長の杉川さんは、
「38年間社長を務め、ずいぶん長い期間だった。5年前から〝世代交代〟をテーマに中核会社を除く事業会社の社長に40〜50代の社員を登用し、経営者を育ててきた。世代交代で最後に残っていたのが、中核の事業会社で社長として残っていた私自身の退任だった。いままではほとんど一人で決めてきた。自分で情報を集め、自分で企画して事業を引っ張ってきた。これからは若手も参画する経営委員会を設置して、今後10年、20年の構想を練り、拡大発展に総力を結集したい」
第一ビルサービスは1963年に創業者で義父の岡島正行さんが設立。85年、先代の急逝で杉川さんが27歳で事業を承継した。当時の売上高は4億円。いまはグループ全体で205億円にまで成長。直近10年に売上高は4倍に跳ね上がった。
2012年に広島マリーナホップ(西区観音新町)の経営を引き継いだことが、その後に拡大路線を走る大きな転機となった。05年に中四国最大級のアウトレットモールを核とした商業施設が開業。しかし経営不振が続き、2度運営会社が交代したが、前運営会社から相談を受け、新分野へ乗り出す決意を固める。
「いま思えば、マリーナホップの経営を通じて多くのことを学び、グループ構築の礎となった。それまではビルオーナーの指示通り行う受動的な仕事が多かったが、施設運営は自ら全てのことを考えないといけない。坂根社長は今日まで10年、担当責任者として先頭で引っ張ってくれた。集客イベントの企画や物販も始め、さまざまな経験を重ねながらノウハウを習得。そうしたことが社員の自信につながった。マリーナホップは25年に閉鎖されるが当社に大きな実績として残り、今後のグループ経営に生かされると確信している」
10年後の目標を高々と掲げる。第一ビルサービス単独で売上高160億円、グループ全体で5倍の1000億円と定めた。
「地球環境が変わり、持続可能な社会を重視するSDGsに配慮した経営が求められている。当社はビル管理業を通じてさまざまなデータを蓄積しており、そうしたデータの活用は持続可能な街づくりに欠かせない。いままで以上に必要とされる産業になっていくと思う。不動産事業の周辺でM&Aを進め、ビルメンテナンス業を補完する事業をグループに入れることで相乗効果を発揮していく」
ビル管理で中四国トップクラスに成長。土木・建築、消防・防災機器、シロアリ駆除など不動産関連事業を中心にM&A。会社を超えて人的交流を促し、互いの刺激を企業成長につなげている。この間に「社長人材」を育てた経営観は見事と言うほかない。
何気ない母と子の会話からひらめいた。チャンスと捉え長年の家業だった家具販売を諦めて玩具販売へ転換する覚悟を決めた。これを契機に冒険王(安佐北区可部)は25歳以上の男性を主なターゲットにした、新しい形態の大型玩具店「ホビーゾーン」を大型商業施設内へ多店舗展開し、ぐんぐん業績を伸長。
31期の2023年5月期決算は13.8%増の売上高67億9929万円、3期連続で過去最高を更新した。今期は売上高76億円、経常利益5億円の増収増益を見込んでおり、全国業界で次第に頭角を表してきた。店舗の大型化戦略や売れ筋商品の絞り込みが成果を上げ現在、1都2府29県に66店舗を配す。
もともとは地元の可部に根差した家具店だった。家族連れの来店客がじっくりと品定めする間、退屈になる子どものために玩具を用意。さぁ帰ろうとしても、夢中になった玩具から手を離してくれないため、売ってほしいと懇願されることがしばしばだったという。堀岡宏至社長(40)の祖父で、創業者の孝之さんには人を喜ばす工夫があった。しかし家具業界はやがて斜陽になり、二代目を継いだ現会長の洋行さんは家具に見切りをつけ、売ってほしいとせがまれた玩具で勝負に出た。それから31年。22年に三代目に就いた宏至さんは、
「顧客の声に耳を澄ませる。創業精神はこの先も変わることのない商いのよりどころ。洋行会長は現場主義を徹底し日夜創意工夫に明け暮れた。人口減など環境変化に目を凝らし店づくり、品ぞろえ、組織づくりにまい進したい」
家業に打ち込む父、洋行さんはプライドを持てる職場づくりに努め、社員を家族のように愛していた。そうした姿が印象深く、やがて家業を継ぐ決意を促したのだろう。
大学を卒業後、電子カルテ業界2位の医療情報システム会社で16年間にわたり開発に携わる。仕事は充実していたが、開発プロジェクトの終了を機に「家業を継ぎたい」と父親に伝えた。洋行さんは会長に就くにあたり、尊敬する先輩の経営者から実践すべきアドバイスを受けた。
「社長の言うことは全て肯定すること。会長の仕事は応援団に徹すること。勝つように応援する。相談を持ちかけられた時は話を聞くだけ。答えは社長が自分で見つける。それが間違っていると気付けば自分で修正すればいい。苦難を乗り越えて初めて本物の答えが身に付く」
家具店をやめると伝えた地元の有力者から「親不孝者」と叱られた。くさびとなって記憶に打ち込まれているという。地域へ貢献する心が大事と諭された。
国内の玩具市場は新たに大人をターゲットに拡大し、22年度は9529億円と過去最高を更新。冒険王も上昇気流に乗せるが、決して平たんな道ではなかった。〝捨てる〟経営も決行。新規172店に退店76。専門化を進め、高付加価値商品を扱う店づくりに大きくかじを切った。地域1番店の大型商業施設内を中心に、売上高100億円が現実味を帯びてきた中、主力商品を絞りパズル・ゲーム、ミニチュア、プラモデルを〝三本の矢〟とし、欲しい商品がそろうホビーゾーンならではの販売戦略を打ち出す。
最強のテナントを目論んでおり、大型商業施設から来店客の動員につながるホビーゾーンの出店要請が相次ぐが、油断などない。目標は業界日本一と定めている。
起死回生のヒット商品が飛び出したのは約15年前。八天堂(三原市宮浦)は、どん底の時期も経験し、挑戦と挫折を繰り返した先に、すっと覚悟が定まった。何が何でもやってやろうという気概が湧き上がり、一つの商品、クリームパンに賭けた。その選択と集中が後に、飛躍的な発展をもたらす。
いまは八天堂店舗として国内に19店、海外への展開も加速しており、前5月期決算で売上高41億5541万円、経常利益1億345万円を計上。2013年、広島臨空産業団地に新設した拠点工場はフル操業を続ける。10年後に節目の100周年。森光孝雅代表(59)は、
「本業を離れるな。だが、本業だけにしがみ付くと陳腐化する。この教訓を肝に銘じ、日々、食のイノベーションを通した人づくりにまい進している」
家業90年の歩みをひもとくと山あり谷あり。そこからつかんだ教えなのだろう。
1933年、世界的な大恐慌のあおりを受け、生活が厳しくなる中、初代の森光香さんが「人々を元気付けたい」と和菓子店を創業。二代目の義文さんが洋菓子も扱い、次第に品数を増やしていった。現代表で三代目の孝雅さんは焼き立てパン店の多店舗展開で勢いに乗ったものの倒産寸前に。量販店などへの卸売りに転換し、V字回復を果たすが競合が激化。その頃100種類以上もあったパンを絞り込み、一つの商品に集中する選択に社運を賭ける決断をした。あるものとあるもの。スタンダードなものを掛け合わせて新しいものができる。いままでにない、特有のくちどけにこだわり1年半、2008年にまったく新しい、冷やして食べる「くりーむパン」の開発にこぎ着けた。
空輸で送った東京郊外の商店街で火がつく。話題が話題を呼び、瞬く間に五反田、品川駅などに販路を広げる。このまま地元にいると成長はないという危機感も後押し。世界を目指す夢も描く。
「事業には在り方とやり方があると思う。お題目に過ぎなかった経営理念さえも、どん底を味わって初めて本当の考え方に気付かされた。何が一番大切なのか。07年に信条『八天堂は社員のために、お品はお客様のために、利益は未来のために』、経営理念『良い品 良い人 良い会社つくり』を定めた。在り方がしっかりと確立し、やがてやり方・手段の〝食のイノベーションを通した人づくりの会社〟へと生まれ変わった」
孝雅代表は、関東大震災をくぐり抜けて江戸時代から続く、幾人かの老舗の経営者に会う機会があった。
「総じて人、もの、お金を大切にされている。何が何でも乗り越えてやろうという気概は平時に人を大事にし、育てているかという源があり、初めて生まれてくるものではなかろうか。創業100年を見据え理念経営、高付加価値経営、有事の経営の三大方針を今期に掲げ、推進する」
理念経営は変えてはいけない在り方、高付加価値経営はやり方、有事の経営は心構えと話す。この10年を成長期と据え、食のイノベーションを通し「商品開発」「新業態開発」のトップブランドへ挑戦する意欲をにじませる。
臨空産業団地には工場から始まり、体験型カフェ、地産品売店(運営DMO)のほか、保育園などを整える八天堂ビレッジへと発展。従来とは一線を画す新ブランドの立ち上げも計画している。
野村乳業(安芸郡府中町)は8月4日、広島空港に近い三原市の県営広島臨空産業団地内の八天堂ビレッジの隣に新工場「マイ・フローラ プラント」を操業した。臨空産業団地はにぎわいを生む事業展開を進出条件とし、2013年に製造拠点となる主力工場を設けた八天堂は3年後にカフェやショップ、パン作り体験などができる施設をオープン。大人も子供も楽しめる現在のビレッジへと発展させている。
隣り合わせになった縁から新しい商品が生まれた。図らずも食つながりの両社が軒を並べて意気投合し、とんとん拍子。八天堂が得意のカスタードクリーム、野村乳業が爽やかな酸味のマイ・フローラを持ち寄り、工夫してマッチングした「おなかを育てる とろける くりーむパン」は野村乳業の新工場に併設するカフェ限定販売だが、人気という。
両社の看板商品は、試行錯誤を重ねた結果として〝選択と集中〟で飛躍を遂げる経営のターニングポイントになり、いまがあるという。
1897年、本社を置く現在地で創業した野村乳業は牧場を営み、地元で親しまれる牛乳やヨーグルトなど乳製品を市場に送り出してきた。1970年代以降はヨーグルトなど乳加工製品を軸に売れる時代が続くが、量販店などの乳製品売り場はやがて大手乳業メーカーが大量生産、価格競争でしのぎを削る戦場と化した。これに対応し同社は棚替えに合わせて新商品を売り出す繰り返し。開発〜生産に疲弊する苦しい時期へ突入した。野村和弘社長は、
「価格でしか競争できない苦しさは、その後のわが社の生きる道を探る上で大きな教訓となった。どうやって差別化すればよいのか。個性的な魅力を備えた商品開発を追い求め、寝ても覚めても考える日々が続いた」
意を決し、県の食品工業技術センターが受け皿になった産学官の食品機能開発研究会に飛び込む。2004年、転機となる出会いが訪れた。広島大学大学院(薬学分野)の杉山政則名誉教授が見いだした植物乳酸菌に着眼。牛乳は07年、11年にはヨーグルト製造から完全撤退。売り上げは激減した。危機感と葛藤しながら製品化したのが植物乳酸菌飲料だった。
一般的にヨーグルトの生産は動物性乳酸菌の働きによるが06年、特定の乳酸菌やビフィズス菌を爆発的に増殖させる発酵技術(特許)によって植物乳酸菌による開発に成功。13年にマイ・フローラ発売にこぎ着ける。ブランディングも見直して腸内環境を改善する〝腸活〟(プロバイオティクス)を打ち出す。
「植物乳酸菌の機能を生かす飲料製品に社運を賭けた。当社の存在価値を見極める大きな決断だった。何よりも乳業から派生した発酵という技術が当社の命。発売来、腸活を実感するリピーターも確実に増えており、健康を実感してもらえる〝乳業〟であり続けようと決意している」
思い続けたことが実現し、今年7月から機能性表示食品をパッケージに表示した。既に米国、韓国、中国の食品メーカーには原材料素材として微生物増殖剤を販売している。工場に新設したR&Dセンターはこうした海外も含めた共同研究や開発も進める構え。創業126年来、多くの苦難を乗り越えながら新たなスタートラインに立つ。今年創業90周年を迎えた八天堂の選択と集中の戦略を次号で。
ロシア・ウクライナ戦争で東西の溝が深まり、グローバルサウスも各国の思惑の中で綱を引き合う。日中関係は原発処理水の放出を機に日本製品の不買運動が起きた。国際経済は一段と混迷の様相を強めており、マツダはどんな戦略を描いているのか、最重点とする米国市場の現状と将来展望を聞いた。
顕著な変化が現れている。2018年度から販売台数構成比で米国が中国を再び上回り最多の27%を占める。米国法人のCEO時代(16年から5年)に手腕を振るった毛籠(もろ)勝弘専務が6月に社長昇格。米展開を加速する。マツダノースアメリカンオペレーションズの梅下隆一副社長は、
「都市部を中心にマツダ車が強い、または強くなるポテンシャルのある39地域に力を入れていく。プレミアムブランドに肩を並べられる店づくりの決意を示し、これに共感してくれなかった264店に退出していただいた。一方で賛同してくれた174店が新規に加わる。全545店のうち既に半数の272店が次世代店舗への移行を完了し、着手済みや予定を含めると369店に及ぶ。しっかりと運営してくれている地方の小規模店にはもともと無理な改装を依頼していない。販売台数ベースで全米の約9割を次世代店舗が担う計算だ。トップブランドの領域に近づいてきたと自負しており、今後もマツダの理念を伝えていく」
人気の高いSUVを相次ぎ投入し、今年4月に発売した大型SUVのCX-90に続き、来春には同70を発売する予定だ。魅力的な車両と店舗を打ち出し、これまで販売店が値引きに充てることの多かった販売奨励金を抑制することで〝稼ぐ力〟を高めた。結果として、22年の米国市場の車両平均取引価格は18年に比べ約7000ドル増え、3万3700ドルに伸長。
「販売奨励金の抑制は業界の中で上位にある。新車購入者は数年後に手放す際に高値で売却しやすくなり、ブランド価値が上がっている。長年の課題だったマツダ車の再購入率は着々、業界平均に近づいてきた。高価格帯のCX-90の手応えがよく、当面は平均取引価格が上昇すると予想している。最大年産15万台のアラバマ工場稼働や新型車の投入など、成長加速へのピースがそろった。第3〜第4四半期でフル生産に近い状態へ持っていく」
本年度の販売は前年度比22%増の36万7000台、25年度に45万台を掲げ、同社が参入する車種分類で現在のシェア4.9%から6%への拡大をにらむ。マイナス要因に働く政策金利の引き上げなどの動きも予断を許さない。北米で組み立てた車などを条件に、EV(電気自動車)税優遇も始まった。22年のEV販売台数(全メーカー)は前年比6割増の81万台で、全体の約6%に。しかしマツダはこの流れと一線を画し、カリフォルニア州限定で試験販売していたMX-30のEVモデルの扱いを終える。
「ロードマップに基づき、27年ごろにEV専用の新型車を予定するが、必ずしもEVでトップランナーになろうとは思っていない。一部の州を除き、まだ米国政府の見立てほど市場が活発化していないと思う。まずは来年発売するプラグインハイブリッドの反響に期待したい」
充電インフラ整備や環境規制の実態は各国さまざま。補助モーター含め、多様な電動化技術を使い分ける独自の戦略を描く。
それぞれに個性的な経営者の言動は興味深い。時にはあまりに茫洋(ぼうよう)とし、問いをはぐらかされることもある。その人の体の中に入らんと本音は分からんという。とうてい無理な話だが、垣間、意外な一面を見せることがある。
今年で創業60周年を迎えた東亜地所の記念パーティーが8月3日、市内ホテルであった。創業者の西本辰男さんは牛田町(東区)の山持ちの末っ子に生まれる。地元の山を切り開いて宅地造成したのが始まり。その後、高度経済成長期のマイホームブームに乗り、頭角を現す。次々と大型団地を開発して広島の住宅業界を引っ張ってきた。取材に出向くとポーカーフェースながら興味津々の話題が次々に飛び出した。
優良な宅地開発事業と良好な居住環境の宅地供給に寄与したとし、1987年に建設大臣表彰、89年に藍綬褒章、98年に勲五等双光旭日章を受ける。東亜地所とグループで建築部門の東亜ハウスの両社代表取締役会長に在任中の志半ば、2006年8月17日亡くなる。78歳。葬儀で、幹部社員が在りし日のエピソードを交えながら、
「本当に凄(すご)かった。一喝されると身動きすることさえできなかった。それで、何で何にも言わんのか、と言われても頭の中は真っ白でした。何くそ、と頑張っていると、陰では親身になっていろいろと支えていただいた」
と遺影に語りかけた。西本さんは特有の経営観を語る一方、厳しい表情を一瞬和らげ細やかな気配りも見せた。
戦後の復興を経て世界を席巻した日本経済。世界の大手銀行上位10行のうち日本の銀行が過半数を占めるなど、わが世の春を謳歌(おうか)した。まして群集心理が働いたのか、こぞって不動産融資に躍起となりバブル経済を起こす。しかし土地高騰に危機感を抱いた政府の「不動産融資総量規制」などであえなくバブル崩壊。後に「失われた30年」とも言われる長い、長い不況のトンネルへ突入した。
広島の住宅業界も大波に洗われ、相次いで経営破綻が表面化。次第に郊外から都市部のマンションへと主戦場を移し、各社は営業戦略の見直しを迫られた。10年に3代目に就いた西本義弘社長は、
「かつてはマイホームに夢を託し、あこがれを抱いていた人が大勢いました。大型団地が郊外へ広がり、目白押しのありさまだった。それから数十年が過ぎた頃、郊外に住む高齢者の方が便利の良い所へ住み替える都心回帰が進み、加えて若者のマイホームに対する意欲も次第に薄くなってきたように感じる。ゆとりのある生活を楽しみ、決して無理をしたくないという考え方の表れなのでしょうか」
同社が開発した廿日市市の団地「宮園」2000区画は発売からほぼ5年で完売。続く東亜祇園ニュータウン「春日野」は今年3月、全2453区画を完売した。開発段階から20年の歳月が流れた。むろん宅造事業は景況や住宅事情などに左右されるが、住宅購入者の意識も時代とともに大きく変遷した。
国交省の18年度統計によると空き家は全国に849万戸。業界全体に新たな戦略が問われている。東亜グループは小規模な宅地開発、住宅の買い取り再販、分譲マンションの三つを柱に据え、営業展開する構え。2年前に始めた再販事業は創業来供給してきた約1万7000戸を中心に進める。60年を積み重ねた財産を生かさない手はない。
動態調査の結果によると、今年1月1日時点での日本人人口は前年から80万人以上減り、統計開始以降で最悪になった。全都道府県でマイナスとなるのも史上初という。
全体的なパイ縮小に加え、広島県は2年連続して県外への転出者が県内転入を上回る「転出超過」で全国ワースト1位。このままでは若者が減り、産業が衰退していく危機感が募る。県は地元経営者や人事担当者に呼び掛け、昨年から大学生へ仕事の特色や広島暮らしの魅力を伝える「業界研究講座」を始めた。
7月末までに広島女学院大学、広島工業大学、広島文教大学などで各回2〜3社が学校へ赴いたほか、夏以降には立命館大学など、県外の大学でもオンラインを活用して同様の活動を計画。県内外の約25校で実施する。
登壇する企業も熱が入る。人材確保につながる好機として若者の心をつかむ、独自の取り組みの紹介やプレゼンテーションに工夫を凝らす。6月に広島市立大学で講演したウェブサービスのフォノグラム(中区)は50人以上の学生を前に、企業サイトなどを活用したウェブマーケティングの需要が一層増えてくると業界展望を説明。個人の判断で在宅勤務と出社を選べる点や社員間のニックネーム制度、オフィス内に卓球台やバランスボールを置くなど、自由な社風も伝えた。
広島文化学園大学の坂キャンパスでは7月、アミューズメント事業などのプローバホールディングス(安佐南区)が人事担当者と同校OBの若手社員の2人で登壇。90人近くの学生を飽きさせぬよう、掛け合いで30分間、OB社員が仕事内容や就職活動時の体験談などを話した。
県は、大学3年生を主なターゲットにオンラインイベント「就活スターティングガイダンス」を6月上旬の平日夜、5日連続で開いた。世界への挑戦や街づくり、IT・DXなど、日ごとに異なるテーマに沿って大創産業、中国新聞社、マツダ、広島銀行、イズミといった有名企業10社が県内外学生へ取り組み内容を説明。併せて夏休み期間に開くインターンシップ(就業体験)への参加を促した。
夏休みは「パッケージ型インターンシップ」と題し、学生は9コースの中から地域貢献やキャリア教育、理系向けの専門教育など興味関心のある就業体験プログラムに参加する。3社での実習に事前と事後の学習会をセットにした計5日間、本格的な就職活動を始める前の1・2年生を中心に受講。受け入れ企業は八天堂、ウッドワン、モルテンに加え、佐伯区で新工場の建設を進めるカルビー(東京)など。企業もねじり鉢巻きで真剣そのもの。
現代の「Z世代」の学生たちは残業時間の少なさや休日の多さ、在宅勤務やフレックス勤務といった柔軟な働き方ができるかどうかを重視する傾向が強いという。仕事への意欲が低く感じる、といった嘆きもよく聞くが、結婚や子育てへ真剣に向き合いたいという意識もあるのだろう。
学生からの質問は、男性を含めた育児休業や時短勤務の取得に関する内容も目立つ。若者の減少、流出をくい止めるために行政と企業が一体となり、彼らの価値観を理解した上で仕事の楽しさ、やりがいをどう伝えるかが一番の決め手。工夫が要りそうだ。
信長は人材登用の達人だったと伝わる。急ピッチで拡大した版図とともに急膨張した業務をこなすため、身分などに関わりなく家来の能力を素早く見抜き、抜擢する必要に迫られたのだろう。
急成長企業には人材不足が露呈し、破綻するケースが多く、人材登用は会社経営の要諦という。いつの時代も、指揮官の誰もが適材適所に腐心しているのだろう。国境を越えて経済、企業経営が新たな時代へと突入したためか、仕事の価値に応じて賃金を支払う「ジョブ型人事制度」を導入する企業が増えてきた。年功序列の経営では立ち向かえなくなった危機感からか、あるいは社内から高度な人材を調達することに見切りをつけたのか、近年、大手企業が相次いでジョブ型人事制度を採用しニュースになった。
山根木材グループ(南区出島)はジョブ型に移行して4カ月が経過した。職務内容と報酬体系を明確に定義し、ジョブディスクリプション(職務記述書)に基づいて報酬・評価・教育を行う仕組み。日本ではそんなに簡単ではないといった意見も多い中、優秀な人材を確保・定着させるため、準備期間に1年以上をかけ、慎重を期した。
管理、営業、設計など約200個全ての職務を定義。従来は存在しなかったマーケティングの職務も設けた。SNSの運用など、ウェブ系の仕事が増えており、その仕事の価値を評価した。
2023年4月に新卒採用した人材をいきなり新設の職務に登用。海外経験を持つ大学院の卒業生で25歳。マーケティングの知識と能力を備える。従来の人事制度は有能な人材から就職先として選ばれないといった難しさがあったが新制度で仕事の価値に見合う報酬を提示。それでも大企業より低いというが、希望の職務に魅力を感じたことが一番の動機になった。岡田宏隆専務は、
「旧ルールでは高度な能力のある人材をリクルートし、育てることも難しいといった課題があった。価値の高い仕事に見合う報酬を支払うのは論理的に当たり前。みんなが希望の職務に挑戦できる機会を広げたい」
職務記述書は『これをやりなさい』といった具体的な行動や数字のノルマではなく、会社が求めるビジョンやミッションに絡めて、従事する人に期待することを抽象的に定めている。
「移行後のアンケートで6割を超える社員から回答を得て200件超の指摘や意見があった。今後3年間は移行期間として職務の棚卸と質の向上を図り、定着させたい」
報酬は職務に応じて上限・下限を設定。自らのキャリア形成で必要と考える職務に自発的に応募できる「オープンポジション制度」も始め、新たなスキルの取得を奨励して上位の職務、もしくは異なる職種への挑戦を促していく。
「人事は採用、異動・配置、退職・再雇用など人の流れに対して教育、等級、評価、報酬といった施策を的確に行うことで経営理念やブランドアイデンティティを実現し、社員一人一人の輝きを生み出す仕事。さまざまな価値観や経験・能力の異なる人材が認め合い、新しい価値を生み出すことは個人、企業の成長にとって何よりも重要です。ジョブ型で社員の自己実現を図り、誰もが生き生きと働く場にしたい」
意識改革は簡単ではない。企業文化として根付くまで根気も試されそうだ。
2016年のプロ野球日本シリーズ。25年ぶりに出場したカープはファイターズを相手にいきなり2連勝し、一気に頂点をつかむと思えたが、そこから4連敗。カープファンを黙らせた敵将、栗山英樹さんは3月にあったWBCで世界一の監督に輝く。7月13日に札幌市であった全国私立大学就職指導研究会のセミナーで「信じる力と伝える力」と題し、講演した。
「通常であれば開幕に向けた調整の時期に、選手が体と気持ちを最高の状態に仕上げるのは想像以上に難しい。疲労がたまればシーズンに影響するだけでなく、けがの可能性も高まる。過去にはそうした理由から選出を辞退した選手もいた。それでも日の丸のために全力で戦いたい、というスイッチを入れるのが仕事」
特に、所属球団と何十億円という額の契約を結ぶメジャーリーガーの招集には腐心。リスクを考えると、二つ返事で承諾してくれる選手はいない。そこで栗山さんはまず自身の思いを熱く、余すことなく伝え、そして返事をずっと待つことにした。
「普通の交渉では、例えば何カ月以内と期限を決める。もし返事がなければ連絡し、結論を尋ねるのが当たり前。しかしそれは、全てを出し切っていないような気がして失礼だと感じた。だからどんなに返事が気になっても、期限を過ぎようとも、こちらから連絡はしないと決意。それが私の思いを表すと信じた」
大活躍した大谷翔平をはじめ、鈴木誠也(後にけがで辞退)などの招集に成功。中でも最年長のダルビッシュ有の存在は大きかったという。
「他のメジャー選手は契約の関係上、大会の直前まで合宿に参加できなかった。初日から合流したダルビッシュも練習試合の出場は制限され、調整の面ではギリギリまで米国に残った方が好都合だったはず。それでも若い選手との橋渡し役を担うべく、リスクを承知で来てくれた。彼の心意気こそ侍の魂。チーム一丸となるきっかけだった」
ダルビッシュが先発した予選2試合目の韓国戦でアクシデントが起きた。試合前、カープから唯一選ばれていた栗林良吏が腰痛を発症。さらにゲームでは遊撃の絶対的レギュラー、源田壮亮(西武)が右手小指を骨折してしまう。その2人への対応は、全く異なるものだった。
「源田は代え難い存在。世界一のため西武に許可を取り、本人の意思や指の状態も確認した上で残すことに。一方で栗林。球団は残していいと言ったが、投げられる体ではない。しかし彼にも魂があり、そこに触れると情に流され、判断を誤ると思った。だから何も聞かず、広島へ帰るよう言った」
リーダーは誰しも情と結果のはざまで揺れる。しかしWBCでは何より結果を重視したと語る。決勝戦で大谷とダルビッシュが登板した経緯についても明かした。
「体力面では投げられるか微妙だった中で、2人とも自ら準備を始めていた。その姿勢が最高の結果につながったと思う。大谷が二刀流を始めた時も感じたが、人は困難なことに挑戦すると力が伸びる。選手の気持ちに火を付け、挑む環境を整えてあげることが指導者の役目」
信じる力と伝える力。勝負の世界の重圧に耐え、つかんだ信条なのだろう。ひょっとするとあるかも知れないと期待が高まる新井カープ。その二つの力こそカープを突き動かしているように映る。
いま、どのような人材が求められているのか。産業界で事業構造の変革が加速し、企業の採用活動にも大きな変化が起こっているという。北海道から沖縄まで235大学でつくる全国私立大学就職指導研究会(事務局=東京)は7月13日、北海道の札幌グランドホテルで「企業と大学との就職セミナー」を開いた。
道内中心にコンビニエンスチェーン「セイコーマート」を1200店近く展開するセコマの丸谷智保会長が「地域と共に歩むサステナブルな経営」と題し、講演した。(公財)日本生産性本部の顧客満足度調査によると、コンビニ部門で7年連続し全国トップ。道内の店舗数も全国最大手のセブンーイレブンを上回る。丸谷会長は、
「地域密着が事業の本質にあると思う。地元に支えていただくため道内産品を数多く使用。原材料の生産・調達〜加工〜物流〜販売といった過程をグループ企業内で管理するサプライチェーン経営で効率化を図り、過疎化が進む地域であっても、どうすれば出店できるのか考えた」
現在は道内179自治体のうち175市町村に出店し、離島も含めた人口カバー率は99.8%。2014年12月には人口わずか1200人の小さな村に新店をオープンした。コンビニ経営は最低3000人の商圏人口が必要とされる中、地域からの切実な嘆願が決断を促したという。
「村中心部にあった商店が閉じ、村長から直々、住民のためにどうしてもと頼まれた。土地は村が無償に近い価格で貸してくれた。物流は他店への配送ルートに組み込むが、店単体では赤字やむなし。グループ全体でカバーできればという想定だった。案の定、暫く赤字続きだったが、徐々に業績を伸ばし、いまは安定した経営を続けている。リピート客をつくったことが大きい。極論すると住民が朝昼晩と繰り返し来てくれると採算は取れる。地域興しのための出店だったが、道民の生活を支える地域残しの方が先だと知った。ニーズに沿い、少しでもいいから黒字を出し続けること。地域貢献といっても短命で終わってしまえば住民にとって大迷惑。継続できなければ意味がない」
北海道は課題の先進地域と表現し、高齢化や食品ロスの問題についても語った。
「1カ月のうち最も売り上げる日は年金支給の15日。高齢者の生活はそれほど社会保障へ依存している。われわれは付加価値を高めるのではなく、売値と品質をそのままに原価を下げる削減価値の考え方が必要。例えば低脂肪乳の製造時に出る脂をバターや生クリームに、メロンの規格外品をソフトクリームに加工。本来なら捨てるものを売って得た利益をコスト低減につなげている」
今後は海外展開やネット販売にも乗り出す。グローバル人材を重要視するが、基盤はローカル市場にあるという。逆転の発想というより、むしろビジネスの本質を突いた考え方が根本に流れる。
ポプラ(安佐北区)は5月に就任した岡田礼信社長が指揮を執り、高齢者向け冷凍食品の製造販売分野に本格参入する。セコマと同様、社会課題と正面から向き合う事業に挑むほか、地場産品とのコラボ商品の拡販に力を入れており、地域と一体となった取り組みが進む。
続いてWBCで世界一に導いた栗山英樹監督が「信じる力と伝える力」と題し、講演した。次号で。
木地、狭間、宮殿、須弥壇、錺金具、漆塗・金箔押し、蒔絵。金仏壇づくりになくてはならない七匠の技だ。仏壇・仏具製造販売の三村松(中区堀川町)は昨秋、浄土真宗本願寺派広島別院の親鸞聖人厨子を修復し進納(献納)を無事終えた。総代を務める社主の三村邦雄さん(75)は、
「被爆50回忌の修復以降、厨子はそのまま時を経て、すすで黒ずんでいたが、漆を塗り替え、金箔を貼り替え、新たな輝きを取り戻していただいた。広島は安芸門徒の地。焦土と化した被爆直後でさえ、あり合わせの材料で木箱のような仏壇をこしらえて拝む人の姿があったと伝え聞く」
戦後間もない昭和30年代、「金仏壇を拝みたい」という切実な声が多く寄せられていたという。経済復興とともに仏壇需要が高まり、三村松は家内工業から生産体制の近代化を図った。仏壇づくりを細分化。分業制で安定した品質と納期、仕様変更も迅速な対応を可能とした。遠隔管理で製造できる仕組みをつくり、開発から一気通貫で生産に入ることができる。直営10店舗と全国卸の営業体制を敷く。国内外直営11工場のうち、中区南吉島の広島工場は最高級仏壇や金仏壇の修復を手掛ける。広島別院の厨子もここで生まれ変わった。
今春、金仏壇製造出荷本数で44年連続日本一に輝く。三村さんは全国1万強の寺院を擁する浄土真宗本願寺派の全国門徒総代会会長の3期目を務める。
「お寺は日本人の心のふるさとではないでしょうか。仏教が海を越えて伝わり、戦乱の世にあって心の安寧を願う人々のよすがとなった。仏樣に手を合わせ、生かされていることへの感謝が心にゆとりを生み、指針となり、前を向く力になっていると思う」
毎朝、仏に手を合わせて仕事を始める。折に触れてお経を唱和する。心を一つに業務に臨む習慣が三村松の日本一を支えているのだろう。
少子高齢化が進み、生活スタイルも様変わり。コンパクトでシンプルな仏壇や修復需要が全国的に増え、柔軟に対応している。いかに筋肉質の経営体質をつくり、多様化するニーズに応え続けられるかが、伝統技術を守り抜く鍵になるという。仏壇づくりで培った技は古来伝わる寺や神社修復、納骨堂の新築などにも生かされている。
今年で158周年。いまの生産体制へと発展させた、世の動きを見抜く鋭い感性が生かされている。三村さんは街歩きするときも変化に目を向け、その背後に何があるのか旬な情報収集を怠らない。しかし伝統に立脚した信条がぶれることはない。
「いかに技術革新が進もうと現場、現実、現物に向き合うことが大切だと思う。ものづくりに携わる者にとって現場で初めて気付くことがある。オンラインで遠隔画像を見ることはできるが、現場のちょっとした気付きが大きな改善につながることが多い。三つの現から乖離(かいり)したら机上の空論になる。伝統の力と和を尊ぶ日本人の心を継承していくためにも、現実を見失ってはならない。社会から求められる存在意義のある会社になるよう一層精進します」
今年は浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の生誕850年。三村さんは、800年を超える教えが息づく親鸞の言葉「遠慶宿縁(おんきょうしゅくえん)」(出典・教行信証)を胸に刻む。以前からの全ての縁(宿縁)に感謝し、縁をつないでいこうという心の支え、商いの励みともいう。
どこに立って街の景色を眺めるのか。高い所か、低い所か、同じ街なのに、がらりと景色を変える。価値基準によって歴史の受け止め方も異なり、いままで見えなかったものが姿を現すことがある。歴史を通して広島の街をのぞくと、いままで知らなかった事実が浮かび上がってくる。
流通大手イズミの創業者、故・山西義政さんの個人コレクションを所蔵する泉美術館(西区商工センター)で特別展「広島の記憶」が開かれている。軍都として多くの人や物資を呼び込んだ戦前期から原爆投下と敗戦を経て、1952年の平和条約発効による主権回復までをフォーカス。どのように広島の街が変貌したのか、当時を捉えた写真、資料、新聞記事、ジャーナリストのルポなどからたどる。
当たり前にあった人々の平穏な暮らし。軍都へと突き進んだ経緯。原子爆弾で一瞬に廃墟と化した街。世界を震撼させた事実の多くは、プレスコード(GHQによる言論統制)で覆われた。特別展を企画したNPO広島写真保存活用の会代表でクリックファーム社長の松浦康高さんは、語る人が少なくなってきた広島の記憶をどのように伝えていけばよいのか、模索する。
「多くの人があまりにも知らなさすぎるように思う。軍需産業の盛んな街だから標的にされたのか、原爆の威力を試すために格好の地形を選んだのか。被爆した街、市民にとって理不尽な歴史を風化させてはならない。被爆後12年がたった広島の実態を目の当たりにした写真家の土門拳は知らされなさすぎたと吐露。その言葉が広島の記憶を集め、伝える動機になった。歴史をひもとき脳裏に刻み、感謝の念と共に後世へ引き継いでいく。広島の記憶展が少しでも役に立つことができればと願っている」
松浦さんはイズミに23年間勤務。中区新天地に61年に開店したスーパーいずみ1号店を業態変更し、85年開業した若者向けファッションビル「ウィズワンダーランド」立ち上げに携わった。98年には西日本最大規模のゆめタウン高松の立ち上げに関わり、長崎の夢彩都オープンを見届けた後、好きな写真で独立した。もともとはカメラマン志望。現在はゆめタウン3店舗のデジタルサイネージや広報の写真を請け負う。
46年、山西さんが広島駅前で始めた露店を起点に連結売上高7000億円(旧会計)規模に発展したイズミの50年史制作に関わったことも遠因になった。
「歴史に向き合って初めて自分の立ち位置に気付き、物事を見極めることができるようになると思う。いまはネットで素早く情報を手に入れることができる。果たして何が必要な情報なのか、自分の頭で考え、判断できる立ち位置を構える。そうしないと情報に振り回されるだけの時を過ごすことになる。歴史を知ってわが街、わが人生をより愛することができるようになるのではないでしょうか」
イズミ50年史は戦後の広島の歴史とも重なる。年史につづられた行間から誇りも芽生えてきたという。
「革新、挑戦、スピードの三つの旗印を高々と掲げ、西日本一の流通業へ発展を遂げた軌跡は先輩から後輩へと受け継がれてきた知恵と努力の連続だったように思う」
情報技術の便利さに依存することなく、丁寧に歴史のページをめくる探求心、根気が求められているように思う。特別展は8月27日まで。