広島の経営者、注目のビジネスパーソンの「お気に入りのスポーツ」チームを紹介。
安佐南区中須で建築塗装業を営んでいます。
父がテレビのチャンネルを常にカープ中継に合わせていた影響で、幼い頃から一筋。同じ音の名字の正田耕三さんを応援していた記憶があります。小学生になり、野球をするようになったころから、憧れの選手は孤高の天才・前田智徳さん。試合で安打や本塁打を放っても、自身の納得のいく打撃内容でなければ喜ばない。ひたむきな姿勢はまさに〝打撃職人〟でした。
印象深いのは、200勝目前の北別府さんが先発した1992年9月13日の東京ドームでの巨人戦。緊迫した場面でセンターを守る前田さんが打球を後逸して勝ち星が消滅。北別府さんの降板後、前田さんが決勝2ラン本塁打を放ちますが、試合後のインタビューには応じず、自分のふがいなさを責め、ひたすら泣いていたそうです。人間味に感動し、一層ファンになりました。動画を何度も見返し、自らを奮い立たせる原動力にしています。アキレス腱断裂などの大ケガがなければ、どんな成績を残していたか。引退された今も空想にふけります。
赤松さんや天谷さん、広瀬さんなど、「暗黒期」を支えた走塁・守備のスペシャリストも大好き。走攻守そろったスター選手のような派手さはありませんが、自身の特長を最大限に生かし、チームに貢献する姿は応援していてワクワクしました。納得のいく仕事を追求する当社の職人と重ねています。
今季は低迷しましたが、小園、林選手など若ゴイの台頭が目立ちました。それぞれの武器で躍動し、来季こそファンの期待に応えてほしい。
東広島市西条町で貸し切りバス事業を運営。学校や企業、部活動の送迎に加え、観光や冠婚葬祭など用途に応じて幅広く対応しています。
安佐南区出身で安古市高校を卒業後、広島大学理学部に進学。両親が巨人ファンだったので、カープファンになったのは大学生になってからでした。ミスターカラオケ西条店でアルバイトを始めた際、同じくオープニングスタッフで入った妻と出会いました。私は物理学科で妻は数学科専攻。同じ大学の同じ学部ということもあり、すぐに意気投合しました。2001年頃だったと思いますが、妻の家族らと一緒にカープの試合を見に行きました。球場の熱気に圧倒され、地元にこんなに良い球団があるのに応援しないのはもったいないと感じたのを覚えています。
大学卒業後は大和証券で10年間営業を経験。東京勤務時代はカープの試合に合わせて東京ドームや神宮球場、横浜スタジアムにもよく足を運びました。その後、妻の実家が経営していた芸州観光に入社し、帰広。特に印象に残っているのは16年のリーグ優勝の試合です。優勝が決まった瞬間は冷静にテレビの画面を見ていましたが、黒田さんと新井さんが抱き合って泣いている様子を見ると涙をこらえることができませんでした。来年こそはリーグ優勝を奪還してもらいたい。
最近は次女がバレー部に入ったのをきっかけにJTサンダーズの試合を何度か観戦しました。あとはドラゴンフライズを見に行けば、地元の主要プロスポーツチームは制覇できます。機会があれば早めに達成したい。
2017年にクラフトビール製造販売の会社を設立し、安佐北区亀山に醸造所を構えています。直売所、飲食店、酒販店などで販売するほか、19年にJR可部駅東口に「広島北BEER BAR」、今年5月に福山駅前に「広島ノースボール福山店」をオープンしました。
広島ドラゴンフライズの浦伸嘉社長と会食する機会があり、コラボ商品を提案したところ、営業部長が地元の後輩だったこともあり話が進み、20年にB1参入記念の「B1 FIRST SEASON記念ビール」を発売しました。フットサルの広島エフ・ドゥの本拠地で、自社のビールを販売したこともあります。将来は、広島のいろいろなチームとコラボしたビールを作りたいですね。
小学校から大学まで野球を続け、広島工業大高校(西区)時代は投手で県大会ベスト8に。中部大学でも野球部でしたが、故障で退部しました。現在は地元の三入東体協でソフトボール部に参加。投手として腕を回転させるウインドミル投法で105キロ出し、打者との距離が近く野球の体感では140キロくらいに感じると言われました。仕事が忙しく練習に参加しにくいですが、チームは区大会優勝、市大会準優勝などの戦績を挙げています。生涯スポーツで、地元の人と公私に渡って親しくなり、試合後に自社のビールで乾杯することもあります。週末には、小学5年、3年の息子が所属する少年野球「三入クラブ」のコーチも務めています。できないことを熱を持ってやると成長する過程が面白く、子どもたちから学ぶことが多いですね。
出身地の庄原市で一般住宅などの設計施工と雑貨店を営んでいる。カープの松田オーナーにビジネスフェアで声を掛けていただき、マツダスタジアムのスポーツバーの設計施工を担当。以来、球場内のカバなどのオブジェや選手の像などを毎年作っている。
2011年に天谷宗一郎、赤松真人両選手のスーパーキャッチを再現したオブジェを制作した時には、選手控え室で顔や腕などを採寸。非常に緊張したが、2人はとてもフレンドリーに話しかけてくれた。それをちゃかしに来るマエケンのおちゃめな姿も。選手の仲の良さや和気あいあいとした雰囲気を感じられ、一層ファンになった。
ファン歴は山本浩二さんや衣笠祥雄さんが活躍していた小学生の頃から。初優勝した1975年に地元でサイン会があった際には、とても楽しみにしていたのに当日に熱を出してしまった。「行くならこれを着て行きなさい」と母に渡されたのは、親戚のお兄さんからもらったジャイアンツのジャンパー。「これはさすがに着ていけない」とすったもんだの末、やっと会場に到着すると、既にサイン会は終了していた。選手が乗ったバスの後ろ姿を泣く泣く見送ったあの時の光景は今でも忘れられない。
妻が私以上に熱狂的なファンで、試合がある日は家族みんなでテレビにかじりついて応援している。年4〜5回は家族や取引先の方と球場へ。中﨑翔太選手の投球前にお尻を下げる独特な動きがチャーミングで好き。故障もあって今は調子が良くないが、また活躍してくれるのを楽しみにしている。
今年の6月に法人を設立し、従業員向けのキャリアカウンセリングなどを手掛けています。広島市出身で必然的にカープファンとなり、幼少期は家族でよく旧市民球場に通っていました。当時は、江藤選手や金本選手、前田選手が活躍。家族で盛り上がって応援しましたね。
社会人になり、チームが不調の時も球場に通い、2016年からリーグ3連覇した時には日本シリーズの応援にも駆けつけました。印象的な試合がたくさんある中で、一番思い出に残る試合は2015年のリーグ最終戦です。先発はエースでメジャー行きが決まった前田健太投手。勝てば3位でクライマックスシリーズ進出、負ければ4位でシーズン終了。エースの好投で7回無失点、8回に緒方監督は大瀬良投手をマウンドに送りますが、これが誤算となり3失点。チームは0対3で敗戦し、プレーオフ進出を逃しました。号泣する大瀬良投手を見て、なんとも言えない気持ちに。会社の同僚と観戦しており、いつもは試合後に飲みに行きますが、その日はそのまま帰路に就きました。
今季はBクラスに低迷するも、悪いことばかりではありませんでした。東京オリンピックでカープから最多の4選手が選ばれて金メダル。若鯉は栗林投手、森浦投手、大道投手のルーキー3投手が大活躍しました。特に栗林投手は抑えとしての新人記録を更新し、新人賞候補。今後のカープにとって大変明るい話題になりました。当社も今年設立し、広島の会社では3投手と同期。刺激をもらいつつ、負けない活躍ができるよう頑張りたいと思います。
南区元宇品町でプレジャーボートの販売や保管、修理を手掛けています。私は現在37歳。代表取締役会長を務める父の花野章や社長の亀田耕司から多くを学び、将来は経営を担えるよう自己研さんしたい。普段から海に関連する職業柄、先般の東京五輪ではウオータースポーツに注目しました。
初採用されたサーフィンは、やはり格好良いですね。瀬戸内ではあり得ないほどの強い波が新鮮でした。日本は五十嵐カノアさんが銀メダル(男子)、都筑有夢路さんが銅メダル(女子)を見事に獲得。テレビ画面を通じても、ぐっとくるものがありました。セーリングでは広島出身の吉岡美帆さんが吉田愛さんとのペアで7位入賞。カヌーなどを含め、多くの人が興味を持つ機会になったのでは。
当社がギャラリー「海道」を構えるボートパーク広島(中区南吉島)では、ジェットスキー(水上バイク)大会が度々開催されています。疾走感はさることながら回転したり跳ねたりと躍動的で、見るだけでも楽しめます。また、ボードに乗ってロープを持ち、小型船に引っ張ってもらうウェイクボードも爽快さがある。今はプロ選手を引退してインストラクターをされているようですが、江田島の川尻江美さんが広島の愛好者の間で有名です。ウオータースポーツの魅力を伝えてくださる人物がいることは心強い。
広島の魅力を尋ねると、大半の人がその一つに瀬戸内海を挙げます。しかし、ウオータースポーツやボート乗船を経験したことがある人がどれだけいるでしょうか。まずは釣りなどの試しやすいことから海に触れてほしい。
カープと同じ1950年に私も生まれ、幼少期は父親に連れられて西区観音の広島総合球場へ。ものすごい人で、父に肩車されて見ていました。途中で帰りたくても、混雑で球場を出られないので、外野側の石垣から飛び降りて場外へ。当時5歳で、野球観戦の思い出は恐怖と共にありました。ナイター設備が整った旧広島市民球場が完成したときは、本当に感激しました。
中国新聞社に入社後、経済部に所属していた1975年、カープが初優勝し、バーゲンや大売り出しを取材。本通から流川の一帯が朝から晩まで酒臭かったのも、良い思い出です。
カープと1番深く関わったのは、新球場建設に当たり、私も担当に加わって音頭を取った2004年の「平成のたる募金」。球団存続の危機にも直面し、広島のマスコミ業界が先頭に立って盛り上げました。結果、市民から約1億2300万円もの巨額の寄付金が集まり、企業・自治体にも波及。まさに、市民のカープ愛を感じた出来事でした。
旧ひろしまケーブルテレビ社長に就き、14年からウエスタンリーグの生中継を始めました。現在は首都圏を含む16局でも放送しています。現在のちゅピCOMでは、中断なくカープの全試合を見られるのが最大のメリットで、年々契約が増えています。
個人的に注目するのは坂倉将吾選手。ルーキーで受賞した年のファン感謝デーで私がプレゼンターを務めました。がちがちに緊張して握手する姿が初々しかった彼が今では身体も一回り大きく、たくましくなった。さらなる成長と活躍に期待したい。
ロードバイクが趣味で、2016年からヴィクトワール広島のスポンサーを務めています。それまで、趣味らしい趣味がなかったのですが、デュアスロンが趣味の社員に触発されて30万円ほどの自転車を思い切って購入。妻に「エンジンがついていないのにどうしてそんなに高いの」と言われ、「エンジンは自分の足だ。今は軽だけど、鍛えてそのうち馬力をつける」と説得したのを覚えています。いざまたがってみるとママチャリとはまるで別物。しまなみ海道を走ると、絶景だけでなく、匂いや心地よい海風を感じることができる。年に2回は大会に出ており、年齢を重ねてもしっかり完走し続けることで体力維持に努めたい。今後の目標は四国一周です。
ヴィクトワールの中山卓士社長と初めてお会いした時はまだ選手権監督でした。競技で負傷している中、松葉杖をつきながら当社を訪れてくださり、その人柄にひかれ、その日のうちにスポンサーになると決めました。ロードバイクは東京オリンピックで注目が高まったとはいえ、日本ではまだまだ。ぜひ表彰台に上がり、広島からロードレース文化を発信してほしい。
当社のある太田川流域を「かわなみサイクリングロード」と命名し、イベントなどを通じた地域振興にも取り組んでいます。来年には地域の方々に当社を知っていただけるオープンイベントも計画。地域密着のヴィクトワールと同様、地域に一番のかけがえのない会社を目指したい。
倉敷市出身で、子どもの頃から巨人ファンでした。広島修道大学への進学を機に広島に移り住み、毎日メディアから浴びせられるカープ情報に洗脳され、来広して20年を経た2008年にカープファンを宣言しました。このシーズンは旧市民球場のラストイヤー。最終戦は、私と違ってもともとカープファンだった父親と一緒に観戦しました。先発のマエケンと、栗原がホームランを打ったのが印象深いです。
当時好きだったのは、ルックスが良く3拍子そろった末永真史選手で、私が初めて手にしたユニホームは彼の51番でした。堂林選手は入団当時からずっと応援しています。まじめで一生懸命頑張っているけれど、好不調を繰り返しどうも飛び抜けきれない。これから終盤までのレギュラー獲得は難しそうなので、代打の切り札としてもうひと花咲かせてほしい。今季は優勝経験メンバーにこだわらず、若い選手を起用し、将来に向けた育成の良い機会にしてほしい。
安佐北区亀崎のフジグラン高陽別館で宝石や貴金属などの買い取り専門店「でめ金」を営んでいます。貴重なカープグッズを買い取ることも。過去には江夏投手のサインボールや、価値が高い1974〜76年のイヤーブックなどがあり、とにかく驚いたのはおじいさんが持ち込んだ大きな木彫りの鯉の置物でした。買い取っても売れる確信はなかったのですが、男気で購入させていただきました。5〜6年前には当社オリジナルグッズで、真ちゅう製のカープ坊やのネックレスを発売しました。その時は球団運営に参画したような気になりうれしかったですね。
呉市出身でカープファン歴45年。1975年、私が小学校3年生の時に悲願のリーグ初優勝した頃から応援しています。当時の盛り上がりはすさまじく、最近では2016年からのリーグ3連覇で盛り上がりましたが、それとは比べものにならないほどの熱気に街全体が包まれていたように思います。子どもはカープの赤い帽子をかぶるのが当たり前で、そこら中にカープ坊やがあふれていました。友達とプロ野球チップスのおまけで付いてくる選手カードを集めたり、書店でカープ選手年鑑を買って選手一人一人の出身高校などの情報を頭に入れるのが楽しかった。
特にカープ愛が強かったのは山本浩二さん引退の年の1986年。私が早稲田大学1年の時です。当時、東京で広島出身の私は周りからよく田舎者扱いされていました。野球に関しても巨人のスター選手などに比べてカープの選手はダサいとばかにされ、悔しかったのを覚えています。しかし、その年に宿敵の巨人を破り、リーグ優勝して本当にスカッとしました。東京の広島県人会の友人たちと優勝の瞬間を見届け、午後11時頃まで居酒屋で飲み、そのまま寝ずに翌日発売の日本シリーズのチケット購入に並んだのが懐かしい。
今のお気に入りは鈴木誠也選手です。彼が打てずに悩んでいる姿を見るとこちらまで悲しくなります。最近は調子が上がってきたようで、〝神ってる〟と言われた頃の勢いを再燃焼し、ホームラン数を伸ばしてもらいたい。コロナが一刻も早く収束し、以前のように球場でファンが一体となって応援できる日を待ち望んでいます。
元プロ野球投手で、現在は中区寺町で野球指導などを手掛けています。初登板は阪神時代の2003年9月の巨人戦。強打者・清原さんのがっしりとした体格と威圧感に圧倒されましたが、なんとか抑えてやるぞと投じたフォークボールで三振に仕留めました。興奮したのもつかの間、次のペタジーニさんにアウトコースのボール球の直球をいとも簡単にスタンドへ運ばれ、真っ向勝負では通用しないプロのレベルの高さを痛感。そこから、超一流と言われる打者を攻略するにはどうするべきかを模索する日々でした。
「1点でも取られたら失敗」の中継ぎが主な仕事場だった私は、1球ごとに投球テンポを変えて打者に考えさせる隙を与えなかったり、時には四球覚悟でストライクゾーンぎりぎりに投げて打ち気をそらしたりと、とにかく「0点で抑える」ことにすべてを懸けました。いつ、どのタイミングで登板するか分からない上に、試合の流れを左右するかもしれない重要な局面を任される役目。精神的にしんどかったですが、抑えたときに沸き上がるファンの歓声に報われていましたね。
12年に西武から故郷の球団・カープにトレード移籍。ベテランから若手まで、がむしゃらに練習して目の前の試合に一生懸命に挑む姿勢は幼い頃にイメージしていたカープそのままでした。けがに悩まされながらもファンやチームメートに支えられ、カープで引退できたのが何よりも幸せです。
苦しいチーム状況ですが、力のある若手が多い。一人一人が持てる力を出し切り、歯車がかみ合えば強いカープが戻ってくると確信しています。
学校法人三幸学園(東京)が運営する「広島リゾート&スポーツ専門学校」は、東区東蟹屋に新校舎を建設中で、南区稲荷町から10月に移転予定です。2年制のスポーツトレーナー科とスポーツインストラクター科があり、学生数は計230人。大手フィットネスクラブ・ルネサンスと提携して教育カリキュラムを策定。医療機関やプロスポーツチームなどでの実習があり、ドラゴンフライズに就職した卒業生もいます。
スポーツ大会でのボランティアも行っており、最近では6月のサッカー天皇杯、なでしこの代表戦でボール供給、担架、VIPの対応、受付などをサポート。広島県サッカー協会と教育的目的で連携するアカデミーパートナーシップへ向けた話し合いも進めています。新リーグに参戦予定の中国電力レッドレグリオンズとも地域ラグビー普及へ向けた協定の交渉を行っています。ドラゴンフライズ、フットサルの広島F・DOとスポンサー契約を結んでおり、トレーナーなどの実習、試合でのボランティアで連携しています。
岩手県盛岡市出身で、仙台リゾート&スポーツ専門学校で学び、ダイビングインストラクターの資格を取り、三幸学園に入社。大阪校で指導員を含め5年、仙台校では学校運営で8年勤務し、2019年に広島校に副校長として着任。小学生からラグビーを始め、高校では社会人チームに所属。19年のワールドカップはウェールズ対ウルグアイ戦を熊本まで観戦に行きました。スポーツは日常では少ない奇跡の瞬間に立ち会えるところが魅力ですね。