広島の経営者、注目のビジネスパーソンの「お気に入りのスポーツ」チームを紹介。
カープと同じ1950年に私も生まれ、幼少期は父親に連れられて西区観音の広島総合球場へ。ものすごい人で、父に肩車されて見ていました。途中で帰りたくても、混雑で球場を出られないので、外野側の石垣から飛び降りて場外へ。当時5歳で、野球観戦の思い出は恐怖と共にありました。ナイター設備が整った旧広島市民球場が完成したときは、本当に感激しました。
中国新聞社に入社後、経済部に所属していた1975年、カープが初優勝し、バーゲンや大売り出しを取材。本通から流川の一帯が朝から晩まで酒臭かったのも、良い思い出です。
カープと1番深く関わったのは、新球場建設に当たり、私も担当に加わって音頭を取った2004年の「平成のたる募金」。球団存続の危機にも直面し、広島のマスコミ業界が先頭に立って盛り上げました。結果、市民から約1億2300万円もの巨額の寄付金が集まり、企業・自治体にも波及。まさに、市民のカープ愛を感じた出来事でした。
旧ひろしまケーブルテレビ社長に就き、14年からウエスタンリーグの生中継を始めました。現在は首都圏を含む16局でも放送しています。現在のちゅピCOMでは、中断なくカープの全試合を見られるのが最大のメリットで、年々契約が増えています。
個人的に注目するのは坂倉将吾選手。ルーキーで受賞した年のファン感謝デーで私がプレゼンターを務めました。がちがちに緊張して握手する姿が初々しかった彼が今では身体も一回り大きく、たくましくなった。さらなる成長と活躍に期待したい。
ロードバイクが趣味で、2016年からヴィクトワール広島のスポンサーを務めています。それまで、趣味らしい趣味がなかったのですが、デュアスロンが趣味の社員に触発されて30万円ほどの自転車を思い切って購入。妻に「エンジンがついていないのにどうしてそんなに高いの」と言われ、「エンジンは自分の足だ。今は軽だけど、鍛えてそのうち馬力をつける」と説得したのを覚えています。いざまたがってみるとママチャリとはまるで別物。しまなみ海道を走ると、絶景だけでなく、匂いや心地よい海風を感じることができる。年に2回は大会に出ており、年齢を重ねてもしっかり完走し続けることで体力維持に努めたい。今後の目標は四国一周です。
ヴィクトワールの中山卓士社長と初めてお会いした時はまだ選手権監督でした。競技で負傷している中、松葉杖をつきながら当社を訪れてくださり、その人柄にひかれ、その日のうちにスポンサーになると決めました。ロードバイクは東京オリンピックで注目が高まったとはいえ、日本ではまだまだ。ぜひ表彰台に上がり、広島からロードレース文化を発信してほしい。
当社のある太田川流域を「かわなみサイクリングロード」と命名し、イベントなどを通じた地域振興にも取り組んでいます。来年には地域の方々に当社を知っていただけるオープンイベントも計画。地域密着のヴィクトワールと同様、地域に一番のかけがえのない会社を目指したい。
倉敷市出身で、子どもの頃から巨人ファンでした。広島修道大学への進学を機に広島に移り住み、毎日メディアから浴びせられるカープ情報に洗脳され、来広して20年を経た2008年にカープファンを宣言しました。このシーズンは旧市民球場のラストイヤー。最終戦は、私と違ってもともとカープファンだった父親と一緒に観戦しました。先発のマエケンと、栗原がホームランを打ったのが印象深いです。
当時好きだったのは、ルックスが良く3拍子そろった末永真史選手で、私が初めて手にしたユニホームは彼の51番でした。堂林選手は入団当時からずっと応援しています。まじめで一生懸命頑張っているけれど、好不調を繰り返しどうも飛び抜けきれない。これから終盤までのレギュラー獲得は難しそうなので、代打の切り札としてもうひと花咲かせてほしい。今季は優勝経験メンバーにこだわらず、若い選手を起用し、将来に向けた育成の良い機会にしてほしい。
安佐北区亀崎のフジグラン高陽別館で宝石や貴金属などの買い取り専門店「でめ金」を営んでいます。貴重なカープグッズを買い取ることも。過去には江夏投手のサインボールや、価値が高い1974〜76年のイヤーブックなどがあり、とにかく驚いたのはおじいさんが持ち込んだ大きな木彫りの鯉の置物でした。買い取っても売れる確信はなかったのですが、男気で購入させていただきました。5〜6年前には当社オリジナルグッズで、真ちゅう製のカープ坊やのネックレスを発売しました。その時は球団運営に参画したような気になりうれしかったですね。
呉市出身でカープファン歴45年。1975年、私が小学校3年生の時に悲願のリーグ初優勝した頃から応援しています。当時の盛り上がりはすさまじく、最近では2016年からのリーグ3連覇で盛り上がりましたが、それとは比べものにならないほどの熱気に街全体が包まれていたように思います。子どもはカープの赤い帽子をかぶるのが当たり前で、そこら中にカープ坊やがあふれていました。友達とプロ野球チップスのおまけで付いてくる選手カードを集めたり、書店でカープ選手年鑑を買って選手一人一人の出身高校などの情報を頭に入れるのが楽しかった。
特にカープ愛が強かったのは山本浩二さん引退の年の1986年。私が早稲田大学1年の時です。当時、東京で広島出身の私は周りからよく田舎者扱いされていました。野球に関しても巨人のスター選手などに比べてカープの選手はダサいとばかにされ、悔しかったのを覚えています。しかし、その年に宿敵の巨人を破り、リーグ優勝して本当にスカッとしました。東京の広島県人会の友人たちと優勝の瞬間を見届け、午後11時頃まで居酒屋で飲み、そのまま寝ずに翌日発売の日本シリーズのチケット購入に並んだのが懐かしい。
今のお気に入りは鈴木誠也選手です。彼が打てずに悩んでいる姿を見るとこちらまで悲しくなります。最近は調子が上がってきたようで、〝神ってる〟と言われた頃の勢いを再燃焼し、ホームラン数を伸ばしてもらいたい。コロナが一刻も早く収束し、以前のように球場でファンが一体となって応援できる日を待ち望んでいます。
元プロ野球投手で、現在は中区寺町で野球指導などを手掛けています。初登板は阪神時代の2003年9月の巨人戦。強打者・清原さんのがっしりとした体格と威圧感に圧倒されましたが、なんとか抑えてやるぞと投じたフォークボールで三振に仕留めました。興奮したのもつかの間、次のペタジーニさんにアウトコースのボール球の直球をいとも簡単にスタンドへ運ばれ、真っ向勝負では通用しないプロのレベルの高さを痛感。そこから、超一流と言われる打者を攻略するにはどうするべきかを模索する日々でした。
「1点でも取られたら失敗」の中継ぎが主な仕事場だった私は、1球ごとに投球テンポを変えて打者に考えさせる隙を与えなかったり、時には四球覚悟でストライクゾーンぎりぎりに投げて打ち気をそらしたりと、とにかく「0点で抑える」ことにすべてを懸けました。いつ、どのタイミングで登板するか分からない上に、試合の流れを左右するかもしれない重要な局面を任される役目。精神的にしんどかったですが、抑えたときに沸き上がるファンの歓声に報われていましたね。
12年に西武から故郷の球団・カープにトレード移籍。ベテランから若手まで、がむしゃらに練習して目の前の試合に一生懸命に挑む姿勢は幼い頃にイメージしていたカープそのままでした。けがに悩まされながらもファンやチームメートに支えられ、カープで引退できたのが何よりも幸せです。
苦しいチーム状況ですが、力のある若手が多い。一人一人が持てる力を出し切り、歯車がかみ合えば強いカープが戻ってくると確信しています。
学校法人三幸学園(東京)が運営する「広島リゾート&スポーツ専門学校」は、東区東蟹屋に新校舎を建設中で、南区稲荷町から10月に移転予定です。2年制のスポーツトレーナー科とスポーツインストラクター科があり、学生数は計230人。大手フィットネスクラブ・ルネサンスと提携して教育カリキュラムを策定。医療機関やプロスポーツチームなどでの実習があり、ドラゴンフライズに就職した卒業生もいます。
スポーツ大会でのボランティアも行っており、最近では6月のサッカー天皇杯、なでしこの代表戦でボール供給、担架、VIPの対応、受付などをサポート。広島県サッカー協会と教育的目的で連携するアカデミーパートナーシップへ向けた話し合いも進めています。新リーグに参戦予定の中国電力レッドレグリオンズとも地域ラグビー普及へ向けた協定の交渉を行っています。ドラゴンフライズ、フットサルの広島F・DOとスポンサー契約を結んでおり、トレーナーなどの実習、試合でのボランティアで連携しています。
岩手県盛岡市出身で、仙台リゾート&スポーツ専門学校で学び、ダイビングインストラクターの資格を取り、三幸学園に入社。大阪校で指導員を含め5年、仙台校では学校運営で8年勤務し、2019年に広島校に副校長として着任。小学生からラグビーを始め、高校では社会人チームに所属。19年のワールドカップはウェールズ対ウルグアイ戦を熊本まで観戦に行きました。スポーツは日常では少ない奇跡の瞬間に立ち会えるところが魅力ですね。
海田小学校に通っていた頃、校長先生が当時現役で活躍していた小早川毅彦選手のお父さんで、自然とカープに興味を持つようになりました。高校卒業後に就職で東京に移り観戦の機会はあまりありませんでしたが、カープの戦績が良いと誇らしい気持ちになりました。今は順位が低迷していますが、また1位を取れるように頑張ってほしい。佐々岡監督の采配に期待しています。
当社は2015年に東京で創業し、自社エンジンを使ったゲームコンテンツ開発などを行っています。「ゲームが上手い事に価値がある、そんな世の中を作る」をモットーに、19年にプロeスポーツチーム「チームiXA(イクサ)」を創設。「ストリートファイターV」、「クラッシュ・ロワイヤル」などのゲームで世界大会などに出場歴のあるプレーヤー約20人が参加しています。今年5月に本社を東広島市に移転し、チーム名を「広島チームiXA」に改称しました。今後はメンバーの一部が広島に移り住み、県内をホームグラウンドに活動していきます。7月には全国組織のJeSU(日本eスポーツ連合)に加盟。地元産品を賞品に大会などを開き、地域に貢献したい。
移転を機に広島に戻り、改めてカープがいかに県民に愛されているかを実感しています。今後、ファミコンに親しんだ世代が年齢を重ね、野球やサッカーと同じように、ゲームを観戦しながら余生を過ごすような時代が訪れるのではないかと考えています。そうした未来が来た時に、カープのように、県民が当たり前に応援してくれるチームにしていきたい。
高速バスや観光バスの運行をメインに行っており、ドラゴンフライズやサンフレッチェの選手輸送用バスに加え、カープ優勝パレードでオープントップバスが使われるなど地元プロスポーツチームとのかかわりが深い会社です。JR西日本交通サービス(兵庫県)の社長を経て、今年6月に社長就任。大阪府出身で、中学、高校とバスケットボール部に所属。身長は高くありませんでしたが、72センチメートルのジャンプ力と体力を生かし、ポストプレーヤーというポジションでロングシュートやリバウンドからの速攻などが武器でした。レギュラーとして背番号5で試合にフル出場し、市の大会で決勝戦まで勝ち進んだのは良い思い出です。今となっては、当時頑張ってつけた基礎体力が仕事にも生かされています。
来広した時は既にシーズンが終わっており、まだドラゴンフライズの試合は観戦できていません。レベルの高いプロのプレーを間近で見るのが待ち遠しい。ドラゴンフライズには2014年からチーム専用のデザインバスを提供しており、選手が利用しない日は一般客向け貸切バスとして使用。座席のヘッドレストカバーに選手のサインがあるので、ドラゴンフライズをより身近に感じることができる。個人的には今季キャプテンを務めた朝山正悟選手に注目しています。今年で40歳を迎えたベテランながら、ここぞという時に結果を出してくれる。チームは今季低迷したが、来季は大幅な補強もあり、全体のレベルは上がっていると聞く。1試合でも多く勝ってもらい、広島を盛り上げてほしい。
今年の3月に府中町で設備販売と省エネに関するコンサルをメインに創業しました。島根県松江市出身で、小学校から高校まではバスケットボール部に所属し、汗を流す日々。地元が田舎だったので、バスケしかスポーツの選択肢がなく、最初は仕方なく始めたのですが、いつの間にか生活の一部になっていました。社会人になってからは、高校の後輩が実業団に入ってスタメンで活躍していたこともあり、試合をよく見るように。そんな中、広島で独立するに当たり、たまたまドラゴンフライズのホーム最終試合を観戦する機会がありました。チームは最下位であまり期待していなかったのですが、最後の意地を見せて勝利でシーズンを締めくくった。その試合を通じてドラゴンフライズのファンとなり、会社としても地元スポーツを盛り上げたいと広島ドラゴンフライズの後援会に法人登録。7月31日には小学校高学年向けにバスケット教室「広島ドラゴンフライズカップin坂町」の共催支援も行いました。7歳の息子もバスケを習っており、将来のNBA選手を目指して日々練習を頑張っています。
今季は西地区で最下位となりましたが、来季には高順位が期待できます。シーズン得点王のニック・メイヨ選手をはじめ、東地区3位の川崎ブレイブサンダースで日本代表を経験した辻直人選手や副キャプテンの青木保憲選手、西地区優勝の琉球ゴールデンキングスから船生誠也選手が入団。オリンピックや八村塁選手でバスケが盛り上がる今こそ、最下位脱却といわず、優勝を目指してほしい。
東広島市黒瀬町で自動車試作部品や産業用ロボット部品などの金属加工を手掛けています。
呉市出身で物心ついた時からカープファン。会社で経理総務を担当している妻と一緒に自宅で応援するのがお決まりのスタイルです。シーズン中はスマホに野球情報のアプリを入れて毎試合チェックしています。互いに違う場所にいても、ラインで連絡を取りながら一緒に盛り上がっています。
特に注目しているのは、広島出身の中村奨成選手です。鳴り物入りで入団しましたが、なかなか一軍に上がれず、今年ようやく芽が出てきました。6月19日にはプロ初のホームランを打ち、球場を盛り上げてくれました。カープは良いキャッチャーが多いのでライバルに負けないよう頑張ってもらいたい。
今のカープについては負けが多いのもありますが、雰囲気がぱっとしません。少し盛り上がりに欠けるように思います。何か話題が欲しいところです。もしも黒田博樹さんが次の監督になってくれたら盛り上がるのにと期待しています。
私自身は中学時代から2015年に起業する41歳までサッカーを続けてきました。プレーするのはサッカー、観戦は野球が面白い。仕事においても常に楽しい気持ちで取り組むようにしています。設立当初は大変なこともたくさんありました。ちょうどその頃からカープが3連覇に向けて強くなり始め、日々の活躍がうれしくて気が紛れたのを覚えています。当時のカープのようにチームワークの良い会社をつくっていきたい。
小学生の頃、カープのファンクラブに入るために一人で、自宅のある廿日市市から自転車で市民球場へ。しかし保護者同伴でないと入会できず、そのまま帰ったのは良い思い出です。両親が共働きで球場になかなか連れて行ってもらえず、いつもテレビやラジオ中継で観戦していました。中学生になってからはスコアブックを付けていました。試合中に友達が遊びに来て中断させられ、何度も嫌な思いをした記憶が残っています。
美容師になってからは唯一休みの月曜に試合がなく、カープが疎遠に。現在は美容室を閉じ、ヘアゴム「アンニュ」の製造に特化しており、再び観戦できるようになりました。今季のカープは低迷していますが、若手が活躍。彼らが数年後に花を咲かせてくれると期待しています。
2013年にアンニュが広島市のひろしまグッドデザイン賞を受けたのを機に、スペースエイジの吉岡社長から声を掛けてもらい、カープバージョンの2色を発売しました。吉岡社長とは学生時代にバンド活動でつながりがあり、縁を感じます。カープのロゴが入った自社商品は、まるで夢のようでした。球場で知らない人が付けている姿を見るのは感慨深いです。
カープ選手の頑張りはファンに元気を与え、広島の経済に潤いをもたらします。コロナ禍で球場での観戦客数が制限されましたが、以前のようにファンが集い、真っ赤に染まった球場で選手を応援したいですね。
「昭和の黄金期」を見て育った私は、幼い頃から家族で市民球場によく足を運んでいました。48歳となった今でも忘れられないエピソードがあります。
小学低学年のころ、レフトスタンドで試合前の打撃練習を見ていたところ、打球が体に直撃。警備員の付き添いで母親と球場内の医務室へ向かうことに。普段、目にすることのないダッグアウト裏で、緊張しながらも痛みをこらえる私に声を掛けてくださったのが、憧れの投手江夏豊さんでした。警備員に代わり、抱えて運んでくださいました。興奮冷めやらぬまま診察台に寝かされると、様子を見に来られた監督の古葉さんからも声を掛けていただきました。大スター選手や監督の心遣いに子どもながらに感激し、一層カープファンになった瞬間でしたね。
強いカープに刺激を受けてソフトボールを始め、地元・安芸区の阿戸中学校軟式野球部に入部。小学生の頃からの友人と練習に打ち込み、中学3年時には市の大会で初の3位になりました。けがでしばらく野球から離れましたが、社会人となり、当時の仲間と草野球チームを結成。20〜30代は毎週のように汗を流したのも良い思い出です。
セ・リーグ3連覇を成し遂げた「平成の黄金期」の反動か、苦しい状況が続いています。こうした時こそ、黒田さんや新井さんなど球界を代表する選手を生み出した育成球団の本領発揮に期待。栗林、森浦、大道投手の3ルーキーを含め、才能のある若ゴイが多くいます。中堅、ベテラン選手との競争をあおり、次なる黄金期に向けて力を蓄える時期だと思います。