広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2019年6月20日号
    タイムリーに手を打つ

    台帳が「いろはにほへと」で仕分けられていた時代。慶応大学を卒業後、近代化への覚悟を決めて三村松(中区堀川町)に入った社主の三村邦雄さん(71)は28歳で社長に就いた。江戸時代から受け継がれていた社内の慣習や当たり前に危機感を抱き、近代化にまい進。創業154周年を迎えた今年、金仏壇の製造出荷本数で40年連続日本一を達成した。三村松は全国各地のニーズの変化に柔軟に対応できる自社製造〜販売の一貫体制を敷く。
     入社後、22歳の若さで就業規則の作成に着手。さらに、既に用地を確保していた吉島工場の設計から建設まで手掛け、開業にこぎ着けた。
    「大学の卒論テーマは産業革命。エネルギー革命によって蒸気で機械が動かせるようになり、ものづくりの現場は大変革。その卒論が原点だったように思う。仏壇づくりは問屋制家内工業で成り立っていたが、これと自社工場生産との2本立てで高度成長の波に乗った」
     仏壇づくりは素人だったが当時、途切れることのない注文に追われ、納期待ちが慢性化。何としても直営工場が必要と考えていた。漆塗りや箔押しの職人が中山工場で仕上げを受け持っていたが、一人前になるには10年かかる。このままでは現状を打破できない。組合の紳士協定もあり、ベテラン職人の引っ張り合いはご法度。そこで工程を細分化し、自前の職人の養成と手仕事を効率化させた。
    「名人も最初から名人ではない。経験を重ね失敗もして技術は磨かれる。新人には段階的に技術を習得してもらった。自社工場だからこそ職人を育てることができた。問屋制生産では納期が長く工賃の高い大型の仏壇、中型は広島工場、小型は鹿児島工場と分担し、あふれる注文に応えた。生産効率が大幅にアップすると同時に生産規模も拡大。原材料の買い付けをはじめ、あらゆる場面でスケールメリットが有効に機能し始めた」
     高度成長が始まったタイミングに合わせ、量産体制が軌道に乗ったと振り返る。
     生産拠点は広島や九州、素材加工や部品製品を担う海外も含めると11工場に上る。直営10店舗を擁し、製造卸65%、直販35%の扱い。近年は神社仏閣の新調・修復、仏壇の修復受注も増えているという。広島宗教用具商工協同組合の理事長も務める三村さんは、伝統工芸技術の継承にも力を入れる。若手職人の腕を磨こうと全国伝統的工芸品仏壇仏具展に毎回出品し、多数の受賞歴を持つ。
     2016年9月には、仏壇通りの本社隣に「和の工芸館」を開設。マンション世帯が増える中、今の生活様式にマッチする伝統工芸〝モダン仏壇〟を提案する。ここにも若手の発想を生かす。モダンでシンプルだが、例えば、引き出しは組み継ぎ(釘・金具など使わない凸凹の接合法)で作るなど、伝統の基本と技はしっかりと押さえる。
    「最新設備の導入や機械化などのほか、店舗展開も早め早めに手を打ってきた。時代を読み、常にタイムリーに先行投資すること。これが先々で強い体力を養い、いざという時の備えになる」
     令和の時代を迎え、5月1日付で長男の和雄さん(42)が社長に就任した。〝和〟の新時代を託す。−次号へ。

  • 2019年6月13日号
    まさか、まさか

    セ・リーグ首位で交流戦に突入。今季は滑り出しでまさか、8連勝からの快進撃にまさか。やきもきしたが、ようやく落ち着いてきた。もう忘れているかもしれないが、ここまで10年間のカープの足跡こそ、まさか、まさかである。2009年、マツダスタジアムに本拠地を移し、新球場効果で観客動員数は187万人に急増。その後4年間は平均で160万人を切り、少し停滞したが、14年に190万人へ急回復した後は、
     15年=211万人
     16年=215万人
     17年=217万人
     18年=223万人
     連日スタジアムは真っ赤に染まり、なかなかチケットが手に入らない。
     一方で、チーム成績はスタジアムに移転後も相変わらずBクラスに低迷。だが、13年に3位でクライマックスシリーズに進出し、これが起爆剤になった。15年には大リーグから黒田博樹投手、阪神から新井貴浩選手が復帰。ファンは沸騰し、選手も躍動。まさかの3連覇である。
     球団経営も一気に好転。カープ女子をはじめ、全国規模で新しいファンを獲得し、入場料収入はむろん、グッズ収入、スポンサー収入などもコイの滝登り。そもそも新スタジアム建設に始まり、観客動員数の増加、選手の活躍、チームが強くなれば、さらにファンは沸く。まさに好循環をつかんだ球団経営の選球眼、機動力、制球力がさえる。しかし飽きっぽい広島気質。これから先、まさかにならぬよう願いたい。
     広島カープが成功した要因は何か。サンフレッチェ広島の山本拓也社長が「ⅠCHⅠGAN(いちがん)力 強いクラブチームのマネジメント」と題し、5月28日にあった広島経営同友会(三村邦雄会長)の第723回月例会で講演した。
     主題はチームの構造改革。17年12月に社長に就いた際、久保允誉会長から「強い組織づくり」を託された。当時のありさまについて、
    「フロントはプロではなくファン、自分の好きな仕事をしている。他人、他部署と連動しない、その批判は評論家レベル。サッカー界しか見ていない、知らない。全体的にマイペースでゆっくり。いろんなことを諦め始めている」
     手厳しい。社長就任後の初出勤日のスピーチで、
    「昨年の15位という成績は監督、コーチ、選手がもたらしたと思っている人がいるなら、今すぐその考えを撤回してほしい。チームの成績はフロントがもたらす。これからはフロントがチームを勝たせよう。現場(選手)と一体になって仕事をしよう」
     素早く手を打った。ジョブローテーションの実施、顧客戦略部の創設、各部署から選出したバーチャルチーム立ち上げ、社長との定期的な一対一の対話、練習グラウンドでのフロントミーティング開催など。その結果、上昇志向が増し意欲が向上。目的が明確になり笑顔が増えた。仕事中は上下関係なし。勝敗に対する責任感が増したなど、フロントと現場の「一丸力」が発揮されるようになったという。ようやくサッカースタジアム計画も動き始めた。新スタジアムを契機に好循環をつかんだカープ研究に余念がなく、強いチーム、ファンづくりに全精力を注ぐ。カープとのダブル優勝なら最高だ。

  • 2019年6月6日号
    田村さんお別れの会

    3月26日亡くなった広島信用金庫元理事長の田村鋭治さんの「お別れの会」が5月24日、リーガロイヤルホテル広島であった。広島経済同友会代表幹事、広島シンガポール協会会長、広島市スポーツ協会会長などの要職を務め、2000年に黄綬褒章、05年に旭日小綬賞を受章。本誌にもたびたび登場していただいた。鯉城高校野球部エースとして1948年秋の広島大会で優勝したものの、学区再編でチームが分散し、甲子園選抜大会への出場はならなかった。取材の折も、野球になぞらえた話がよく飛び出した。
     理事長に就任した2カ月後のインタビュー(1993年11月13日号・要約)で、
    「65カ店を4つのブロックに分け、延べ8日間をかけて一組8人ずつ支店長に集まってもらい昼食会をやりました。かつて池田総理がなさったカレー談義を思い出し、食事はいつもカレー。これからは何事も本、支店が一体になってやっていこうと私の考え方を披露し、理解してもらうことに努めました」
    「今年のペナントレースを制したパの西武・森監督とセのヤクルト・野村監督それぞれの人物評が新聞に紹介されていたのを切り取り、コピーを各支店長に渡した。優勝監督には必ず見落としてはならぬ、指導者としての苦労や痛みがあったはず。文中からこれを読み取り支店経営の参考にしてほしい」
     バブル期の金融機関に、
    「資金コストも半ば無視してみんながホームランの魅力に取り付かれたわけですが、今じゃコストを考えない経営はあり得ません。これからはバットを短く持ってミート中心に進塁打を心掛けてほしい。ミート打法で確実にヒットが打てるようになったらその延長線上で長打やホームランが出ることもある。とにかく全員野球ができる球団(金融機関)に仕立てたいと思う」
     宮島信金との合併で、
    「営業区域がダブっている上に、互いに遠慮し合っている今の関係はどうも不自然。早く一緒になった方が好ましいんじゃないですか、と意見が出ていた。あうんの呼吸といいましょうかね、どちらともなくというのが正直な話です。強いていえば私の方から合併という言葉を使ったかも知れません」(98年3月7日号)
     広島経済同友会の代表幹事に就任して、
    「地域の経済団体活動に具体的に関わるのは初めてのことなので、イロハから勉強し直し、新しい視点でこれからの広島経済を考え、政策の提言活動に寄与していきたい」(97年5月10日号)
     広島信金の新人事制度導入について、
    「よく野球を引き合いに出すんです。バッターボックスにいったん立ったら、必ずバットを振って来い。バッターは振らなきゃ絶対に結果は出んのだから。空振り三振はいいが、見送り三振はどんなに評価してもゼロはゼロ。全員にこの気持ちがないと金融ビッグバンは乗り切れません」(2000年2月19日号)
     政令市の体育協会で最初の公益財団法人認定を受け、
    「移行手続きに1年かかり、職員には大変な作業をしてもらいました。公益法人化は社会に対するイメージアップになり、スポーツによる地域貢献を今後も進めていきたい」 (11年4月28日号)

  • 2019年5月30日号
    勝負の一手

    マツダは2019年3月期連結決算で、世界販売が前年比4.2%減の156万1000台、当期純利益は43.4%減の634億円と苦戦。中国の通商摩擦・景気減速や為替、材料コストなどの外部要因が圧迫したという。
     どう巻き返すか。デザインや走行性能、静粛性などの基本要素を磨いた、新世代商品の第1弾「マツダ3」を投入し、セダンとハッチバックで年間35万台の世界販売を目指す。1月に北米、3月に欧州、4月にオーストラリアで発売に踏み切り、5月24日から国内販売を始めた。今後は中国などでの販売を控える。アクセラの後継車種で、車名にマツダを冠し「新時代を切り開く」期待を込めた。別府耕太開発主査は、
    「マツダ3が該当するセダンなどのセグメントは、SUV(スポーツタイプ多目的車)にシェアを奪われてきた。経済的な余裕があればプレミアムカーか、SUVを買う。こうした声を聞くこともある。だからこそ、妥協で選ばれるのではなく、誰もが羨望する車を目指した」
     走り、静粛性、環境性能、質感など、同社の先進技術を注ぎ込む。パワートレーンはガソリン、ディーゼルエンジンに加え、10月に世界初の圧縮着火技術エンジンの搭載モデルを発売する。補助モーターを使うマイルドハイブリッドも備える。人間が歩き、走るときと同じように運転時の体のバランスを保つ新構造「スカイアクティブ ビークル アーキテクチャー」や、超高張力鋼板の骨格部材を初採用。ボディパネルとマットの間にスペースを設けた二重壁構造も初めてで、遮音性能を高めた。
    「開発の企画段階からターゲット層の生活の中で1台の車の存在感をどこで発揮できるか探るため、デザイナーやプランナーを連れて世界中の顧客に会いに行った。みんなで同じ瞬間、価値を共有できたことは大きかった」
     デザインにもこだわる。土田康剛チーフデザイナーは、
    「日本伝統の美意識〝引き算の美学〟を追求し、セダンは何ら装飾しなくても美しいプロポーションを意識した。ハッチバックは従来の常識にとらわれず、ショルダー(リアタイア上部付近の段差)を廃止。このセグメントでは過去に例がない、一つの塊のようなデザインにした」
     200万円代後半までの価格設定だったアクセラと比べて、圧縮着火技術エンジンの搭載モデルだと100万円近く高くなるが、国内営業本部の齊藤圭介主幹は、
    「エントリーモデルの価格はあまり上げず、パワートレーンのバリエーションを増やすことでセダン購入層から高級志向層まで取り込む。SUV人気が続く中でも主力車種の一つとして確立させたい」
     1台当たりの売り上げと購入後の残存価値の向上に取り組む中、これまで低・中価格帯とされてきた同セグメントを、自ら高価格帯までの広い市場へと変革させる狙い。
     大きな期待を掛ける新世代商品の第1弾をあえて、縮小傾向にあるセグメントにぶつけたのはなぜか。マツダの販売台数の半数近くはSUVが占める。25年3月期の180万台達成へ、よほどの読み、決意があるのだろう。この勝負手が世界に通じれば、一気に道がひらける。

  • 2019年5月23日号
    チャンスをつかむ

    産地限定の国産ニンジンを使い、自然な甘みと酸味で爽やかな味わいの「マイ・フローラ」。野村乳業が開発に成功した「植物乳酸菌飲料」だ。2月から本格化させた販売を後押しするように、第27回中国地域ニュービジネス大賞(中国経済産業局長賞)に、同社の「プロバイオティクス発酵飲料の国内事業化と海外展開」が受賞した。
     腸内フローラのバランスを改善する、プロバイオティクス発酵飲料は、特定の乳酸菌やビフィズス菌を爆発的に増殖させる発酵技術(特許)によって開発に成功し、2013年に発売。国内展開する植物乳酸菌飲料のほか、既に米国、韓国、中国の食品メーカーに微生物増殖剤を原材料素材として販売している。従来の〝乳業〟と一線を画す市場に挑むが、ここに至るまで厳しい道のりがあった。
     酪農で1897年に創業。野村光男社長の祖父、郁造氏が現在地の安芸郡府中町で牧場を始めたが、周辺の宅地化で乳業を県山間部へ。しかし牛乳の価格競争が激化。1970年代以降、経営の軸足をヨーグルトなど乳加工製品に移す。社長の甥で、開発責任者の野村和弘さんは、
    「健康志向のブームに乗り、乳加工製品はつくれば売れる時代がしばらく続いた。生産ラインや冷蔵庫も新設し、増産。売る心配はなかったが、バブル崩壊でデフレスパイラルに陥り、価格競争から逃れることができなくなった。小売店の棚替えに合わせて新商品を売り出す繰り返し。開発〜生産に疲弊し、次第に売り上げも減少。個性的な製品を持たない、価格でしか訴求できない苦しさがその後の教訓になり、他社製品との差別化をどうすればよいのか、次代への踏み台になった」
     試行錯誤を重ねる中、広島県の食品工業技術センターが事務局を務める、産学官の食品機能開発研究会に参加。2004年に転機のチャンスとなる出会いが訪れた。広島大学大学院(薬学分野)の杉山政則名誉教授が見いだした植物乳酸菌の機能に懸け、06年に植物乳酸菌のヨーグルト開発に成功。差別化へ光が差したものの、当時、機能性食品という言葉が普及していなかったためか、期待ほどの成果を挙げることができなかった。そのうち特売品のイメージが払拭できなかった牛乳は07年、次いで東日本大震災直前の11年2月、ヨーグルト製造から完全撤退。売り上げは激減した。経営は苦しく、このままでは危ない。その危機感と葛藤しながら、製品化したのが植物乳酸菌飲料だった。開発段階で一切の妥協を許さない杉山教授に引っ張られ、差別化に確信の持てる新製品開発にこぎ着けた。
     数年計画で事業を見直し、次第に技術が評価されるように。08年に文部科学大臣表彰科学技術賞と中小企業優秀新技術新製品賞などを受賞。自社ブランドに先立ち、大手通販会社に採用されて年々売り上げを伸ばしている。業績は上向きに転じたが、かつての教訓を踏まえ、経営方針とブランディングを根底から見直す作業を進めた。
    「自信を持って商品説明できることが心強い。次の製品へつなげ、息長く愛されるブランドに育てたい」
     機能性表示食品の取得を目指し、年内にも臨床試験に入る予定という。

  • 2019年5月16日号
    劇場船が出航

    瀬戸内海エリアの7県を拠点に活動するアイドルグループ「STU48」専用の劇場船「STU48号」が完成し、4月16日に広島港で初公演した。「瀬戸内 海の道」構想を進めてきた広島県の湯崎英彦知事は、クルーズやサイクリングに加え、新たな観光資源の船出に期待を寄せる。
    「劇場船は広島港を母港としており、宇品地区のにぎわい創出を後押ししてくれる。県は港湾計画の一環で商業施設の誘致や緑地整備、クルーズ寄港の促進などに取り組んできた。交流、にぎわい、憩いなどをテーマに掲げるが、STU48の活動には全ての要素が詰まっている。築港130周年の節目に迎えた船出は港の歴史に残るほど大きな出来事。象徴的な存在として活動してほしい」
     湯崎知事が会長を務めていた瀬戸内ブランド推進連合を前身とする「せとうち観光推進機構」と「せとうちDMO」の活動を引き合いに、
    「数年前から観光プロモーションで世界へ打って出ている。認知度が一層高まり、ニューヨークタイムズの〝今年行くべき地〟で瀬戸内が日本で唯一選出され、7位にランクインした。船上公演で魅力が再発見され、ますますにぎやかになると思う」
     劇場船の就役式には湯崎知事、広島市の岡村清治副市長、国土交通省の藤田耕三国土交通審議官、せとうち観光推進機構の佐々木隆之会長、広島商工会議所の深山英樹会頭や広島経済同友会の池田晃治前代表幹事らが出席。県内外から訪れるファンの交通・宿泊・飲食といった経済効果を歓迎する。
     STU48は2017年3月に結成。これまで専用の劇場を持たず、AKB48ほか姉妹グループの専用劇場や瀬戸内海エリアのイベント会場を中心に公演していた。船は全長77.8メートルで、300人収容。メンバーがステージに立つ際に揺れを若干感じることがあるというが、波の動きも船上ならではの魅力だろう。全客席への救命胴衣の配備などで安全面も考慮。白地に海を連想する青いラインを入れたシンプルな外観で、客席のブラインド付きの窓からは瀬戸内の風景が広がる。同グループは、海や船の魅力を知ってもらう国の「C to Sea プロジェクト」の大使を務める。日本初の劇場船工事で国交省の技術協力を受けた。船舶国籍証書を交付した中国運輸局の土肥豊局長は、
    「地域を盛り上げ、多くの人が海に興味を持つよう、大使と劇場船の大活躍を願っている」
     船には地元企業も多く関わる。ウッドワン(廿日市市)は客席下段に波をイメージするデザインウォールをあしらった。船内の飲食コーナーでは、ベーカリーのアロフト(中区)が製造するホットドッグ「せとうちドッグ(音戸ちりめんなど4種)」、田中食品(西区)のカツオみりん焼きふりかけ〝アイスのトモ〟をトッピングした「せとうちアイス」などを販売する。
     アイドルグループと劇場船の活躍が、広島にどれだけの経済効果を及ぼすだろうか。舞台、仕掛けは上々だが、県民、市民の応援こそ決め手。まずは乗ってみよう。

  • 2019年5月9日号
    そのとき何をなしたか

    そのころの広島にとって晴れやかな光景ではなかったろうか。有力企業を中心に建設資金に充てる寄付金を募り、1955年3月の竣工式と同時に市へ寄付した「広島市公会堂」が開館した。場所は平和公園の西側、中区中島町。平成の時代に入り、公会堂を改築・改称した「広島国際会議場」が89年7月に開館。約1500人収容のフェニックスホールほか、大小会議室などを備え、数多く会議や音楽会などが開かれている。
     公会堂が完成した年に財界グループ「二葉会」が発足。上原昭彦氏の著書「二葉会のあゆみ」に、公会堂に続く、二葉会の寄付行為のうち公的なものを主に掲げる(要約)
     ① 広島県庁建設資金(56年4月落成)
     ② 旧広島市民球場建設資金(57年7月落成)
     ③ 広島バスセンター建設(現在と同じ所にあった前バスセンター、57年7月完成)
     ④ 本願寺広島別院の再建協力(64年11月完成)
     ⑤ 旧広島空港ビル建設資金(現在の広島ヘリポート、61年9月開港)
     ⑥ 広島県立体育館建設資金(現在のグリーンアリーナの前の建物、62年6月落成)
     ⑦ 国鉄山陽本線の電化工事建設債引き受け(62年6月完成)
     ⑧ 県立体育館屋内プール建設資金(65年8月完成)
     ⑨ 広島民衆駅ビル建設資金(65年12月完成)
     ⑩ 広島県立美術館建設資金(現広島県立美術館の前身、68年9月落成)
     ⑪ 広島県立産業会館建設資金(70年10月開館)
     などがある。
     旧広島空港(西区観音新町)の発端について。二葉会の新年会で、56年度から実施される空港整備法を踏まえ、広島にも空港建設をという声が上がり、さっそく大原博夫知事に要望。一気に方向性が生まれている。予定地の既存建物移転が前提になったが、その費用約1億円ほか、空港ビルの建設費約9000万円のうち、8000万円を県と財界で折半し、残り1000万円を国が持って、ビル内に収容する運輸省の航空保安事務所に充てたという。広島の都市機能の充実に深く関与していたことを裏付ける。
     50年発足した「広島野球倶楽部」は、55年12月に「広島カープ」に改組。専用球場もなく、資金難で球団運営は困窮を極めていた。そこで専用球場の約2万平方メートルの土地は市が基町の国有地を手当てし、建設費2億6607万円のうち、2億4399万円は二葉会を中心とする財界が拠出。こうして「広島市民球場」の1期が57年、2期が58年4月に完成。これを機に設けられた「広島市民球場運営委員会」の民間構成メンバーは、50年後にJR貨物ヤード跡地へ移転(現マツダスタジアム)するまでほぼ変更がなく、球場と二葉会の関係を何より物語る−と記している。
     かつて竹下虎之助知事は、
    「財界の方には是々非々で、大所高所からの意見を聞かせていただきたいのです」
     広島の復興という大きな目的をほぼ達成したためか、二葉会から商工会議所などの経済団体へ舞台を移したころと重なり、竹下知事にとって一抹の物足りなさがあったのではなかろうか。

  • 2019年4月25日号
    二葉会のあゆみ

    被爆で、一瞬にして廃墟となった地から立ち上がり、今の広島へつながる道筋で、財界グループ「二葉会」が果たした役割は大きい。
     そのころの広島市役所は甚大な被害からの復旧、学校や住宅建設などに追われて財政が困窮。多くの人を受け入れる「公会堂」建設に割く予算の余裕などない。大きな会議や音楽会などは大阪から福岡へ飛び越え、広島を素通り。
    「わしらでやろうやないか」
     地元企業トップの発言をきっかけに、公会堂の建設資金に充てる寄付金集めが始まった。個々の企業の利害得失を離れ、広島を復興させようという、当時の経済人の気概が伝わってくる。広島の復興を目的に、1955年に二葉会が発足。特段の会則はない。対外へ名を伏し、寄付するだけ。この辺りは、3月20日に発刊された本「二葉会のあゆみ」(80ページ)に詳しい。著者の上原昭彦氏はローカル月刊誌、経済週刊誌の記者を通じて、50年近く広島の政治、経済、社会の動向をウォッチしながら蓄えてきた関連資料を元に、新たな取材を加えて上梓。巻頭に、設立時のメンバー(氏名50音順)と、その顔写真を載せる。
     伊藤信之・広島電鉄社長、島田兵蔵・中国電力社長、白井市郎・中国醸造社長、田中好一・山陽木材防腐(現ザイエンス)社長、橋本龍一・廣島銀行(現広島銀行)頭取、林利平・広島瓦斯(現広島ガス)社長、藤田定市・藤田組(現フジタ)社長、松田恒次・東洋工業(現マツダ)社長、森本亨・広島相互銀行(現もみじ銀行)社長、山本實一・中国新聞社社長、67年に新規加入した村田可朗・中国電気工事(現中電工)社長の11人。(以降、敬称略)
     さて、公会堂の件(要約)だが、52年10月に本放送を開始した中国放送初の正月番組「新春座談会−初夢を語る」で、田中好一は、
    「広島には、人が集まろうと思っても適当な会場がない。私の年来の夢は、広島に立派な公会堂とホテルと物産陳列館をつくることだ」
     浜井信三市長は、
    「私も公会堂はぜひ建てたいと思って、これまで国の補助金を要求してきたが、どうしても認めてくれなかった。さればといって、市費で建てることは当分見込みがないし、諦めているところだ」
     この放送を聞いていた松田恒次は田中に、
    「(市が直ちに建設できないのなら)わしらでやろうやないか。なくなった親父(創業者の重次郎氏)も広島に何か残したいと言うとったんや」
     公会堂をつくって市に寄付する。田中、松田の呼び掛けに応えたのが、当時の広島の有力企業10社、10人。5階建て7814平方メートル、1700人収容可能。ホテルを併設した公会堂は55年2月に総工費3億2245万円で完成した。その後、二葉会として結集する10社が、うち2億9000万円を寄付。
     のちに浜井市長は著書で、
    「戦後日本の経済状態から見て、地元財界にしても決して楽な捻出ではなかったはずである。それを、あえてこの挙に出た広島財界を、私は広島の誇りに思っている。この公会堂ができたために、市民の生活にどれほど潤いを与えたかと思うと、ただただ感謝に堪えない」
     と記している。−次号へ。

  • 2019年4月18日号
    広島の発展につなげる

    広島の文化と流通を支えてきた大動脈の「西国街道」は、古代から中世まで京都と太宰府をつなぐ山陽道(約650キロ)として宿場町や一里塚などが整備されており、江戸時代は参勤交代をはじめ、万人が往来したという。
     中区の仏壇通り、本通商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)は、市が描く「広島駅周辺地区」と「紙屋町・八丁堀地区」をつなぐ「楕円形の新たなにぎわい構想」に呼応して西国街道を復興させることにより、市中心部の東西の核である両地区のにぎわいを都市全体に広げることを目的に、さまざまな活動を展開している。関連資料も集めており、城下町と街道について、
     −毛利輝元が建てた広島城中心に城下町になった広島。その城下町を東西に貫く「西国街道」は当時、城下町より北を通っていた。しかし毛利氏から城を引き継いだ福島正則は、広島城下を東西に貫通するように移設。街道沿いにあった屋敷も移動させ一帯を町民の居住区にした。この時のにぎわいが今の広島のにぎわいに息づく(要約)−。
     1619年に浅野氏が広島城に入城。協議会は、江戸期から今日までのひと、もの、伝統、技術などを掘り起こすとともに、西国街道らしい特産品の開発や、まちづくり提案などに取り組む。
     広島藩の財政を支えた産業を総称して「3白、7り」という。3白は、紙(大竹)、綿(広島)、塩(竹原)の3つが白いことに由来。7りは特産品のあさり、いかり(碇・尾道)、かざり(仏壇金具)、くさり(船舶の碇をつなぐ鎖)、のり、はり、やすりの7つ各「り」を指し、軽妙に10品をくくる。時代を経て拡大あるいは縮小しながらも今に受け継がれており、こうした産業や文化などが人から人へ伝わり、広島の礎を形成している一端をうかがわせる。
     西国街道の歴史を日本語と英語で併記した「文化の大動脈・西国街道マップ」(仏壇通り活性化委員会制作)は、広島城下絵屏風や、広島諸商仕入買物記、四國五郎作「猿猴橋新春」などそれぞれの資料を元に、広島の発展を支えてきた経過を解説。
     広島市郷土資料館の本田美和子学芸員、歴史研究家の佐々木卓也氏をアドバイザーに迎え、実際にまちを歩いて西国街道への理解を深め、課題や情報を共有することからスタート。子どもたちに自分たちが住んでいる郷土の歴史を学んでもらい、郷土愛を育みたいと、沿道の小学校中心に「出前授業」を実施。駅前大橋東詰めの歩道に西国街道をデザイン化した大型の案内板設置を予定するほか、まちなか西国街道グランドデザインを制作し、道路標識(色分けなど)での可視化を目指して市と協議を重ねている。西国街道をかたどったマンホールを街道沿いに配置すべく、市と広島市立大学芸術学部と連携してマンホールのデザインを制作中。9月を目途に「広島城入城行列」構想を描く。国が提唱する「夢街道ルネサンス」認定地区の指定を受けるなど、本年度もさまざまな計画が動きだす。
     こうした活動を契機に、広島に暮らす人が広島の歴史を知り、語り伝え、広島に誇りを持つことで、広島の発展につなげたいと目標を定める。

  • 2019年4月11日号
    「元和」から「令和」へ

    共同通信社の世論調査によると、新元号「令和」に好感が持てるという回答が73%。この影響からか、内閣支持率を大幅に押し上げたという。
     その一字「和」でつながる「元和(げんな)」の頃。将軍徳川秀忠は広島藩主福島正則を転封した後、和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)の広島42万6千石への転封を決めた。広島市の「浅野氏入城400年記念リーフレット」によると、秀忠はいつも寝所としている奥座敷に長晟を呼び、「広島は中国の要ともいうべき重要な地だけに、めったな者に与えるわけにはいかないが、その点お前ならば安心して任すことができる」と言ったという。
     そうして元和5年(1619年)8月8日(旧暦・9月17日)に浅野氏が広島城に入城した、その日から400年を迎える記念事業として、江戸時代の装束をまとった官民一体の約200人で「広島城入城行列(仮題)」を勇壮に展開する構想が浮上。9月ごろ開催を目途に、市民グループ中心に検討を進めている。
     江戸時代の広島城下を東西に貫く西国街道を舞台に、入城行列は、猿猴川の河畔にある柳橋公園を出発し、仏壇通り〜金座街商店街〜本通商店街〜元安橋〜平和公園に到着するまでの約1.7キロ(約40分)を予定。その後、舞台を広島城に移し、当時の浅野氏入城をできるだけ再現するというプランを描く。
     その沿道の商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)が関係方面と連携し、同イベントの企画を練る。2016年2月に準備会を発足以来、西国街道マップの制作、沿道にある小学校を中心に郷土の歴史を学ぶ「出前授業」開催や、新たな土産品づくり、まちづくり提案などに取り組んできた。専門家の案内で実際にまちなかを散策し、地域資源や人的資源の収集などのフィールドワーク・アイデアセッションを繰り返し、昨年3月に同協議会を設立した。
     入城行列の案には、下敷きがある。広島藩を代表する「通り御祭礼(とおりごさいれい)」を模し、経済界を中心に15年10月10日、華やかな時代絵巻を再現した広島神輿(みこし)行列「通り御祭礼」を復活。当時の衣装をそろえて大神輿を担ぎ、山車や長槍、鉄砲、弓隊などの行列を繰り広げ、大きなニュースになった。通り御祭礼は、広島城下町の地誌「知新集」に、
    「町々両側に拝見の男女家毎に充満し、近国遠在よりも承り伝えてこの御祭礼を拝み奉らでやむべきかわと、あらそいあつまるもの幾十万ということを知らず」
     官民一体となって行われる城下町全体の祭として、大いににぎわったようだ。
     今も、全国各地に時代、時代の行列を模した祭がある。山本会長は、
    「入城行列の案はこれから先、国内外から多くの人を呼び込む、秋の一大イベントに発展する可能性を秘めているように思う。令和元年とも重なり、浅野氏入城400年の節目は被爆以前の歴史をひもとく良い機会。各時代の文化や産業などが積み重なって今があり、それを未来へとつなげていく。歴史をのぞき、今を考え、将来の糧とする発想も大事ではないでしょうか」
     さらに西国街道にまつわる多彩な企画を実施していく構えだ。−次号へ。

  • 2019年4月4日号
    若者をひきつける

    どういう理由か、2012年度から減り続けていた全国の自動車整備士数が、17年度から増加に転じた。(社)日本自動車整備振興会連合会の調べで18年度は0.6%増の33万8438人。2年続けて前年を上回った。
     慢性的な人手不足に危機感を抱いた業界団体などでつくる「自動車整備人材確保・育成推進協議会」と国土交通省が連携し、14年度から高校への訪問活動などをスタート。こうした地道な取り組みが、ようやく実ってきたのだろう。しかし、11年度に比べ約8800人少ない水準。決して手を緩めることなく、求人作戦を展開していく構えだ。
     近年は理系学生の進路の選択肢が増え、自在にこなすスマホアプリやゲームなどの影響からか、IT分野などに多くの人材が奪われているという。対策として、専用サイトで整備士のドキュメンタリー動画などを流す。何より若者の関心をひきつけることが先決。一方で、各地区で独自の取り組みも始まった。
     同協議会の広島地区事務局を務める(社)広島県自動車整備振興会は高校への訪問活動に加え、4月初旬に冊子「自動車整備士への道」を初めて制作し、県内の全高校へ配布する。村雲浩司専務理事は、
    「やりがいがあり、生き生きと働く現場の空気を伝えたいと思った。冊子は、先輩や若手、女性の整備士らのインタビュー記事を掲載。進路を選ぶときの参考になるよう、親しみが湧くよう工夫した。当会が単独で行っている、学校のホームルーム時間への訪問などにも冊子を活用する。また、毎年約9000人の家族連れなどが来場するイベント『GO!GO!Carにばる』では、自動車メカニックお仕事体験ツアーやジュニア整備士スタンプラリーなどを実施。子どもらに自動車への興味を持ってもらうことが、将来の人材確保につながると考えている」

  • 2019年3月28日号
    遠隔診断を世界へ

    マイナス28度にもなる極寒の1月。病理センター(中区八丁堀)代表で、ひろしま病理診断クリニック院長を務める井内康輝さん(70)はモンゴルの首都ウランバートルに降り立った。国際協力機構(JICA)の「草の根技術協力事業」に採択されたモンゴルへの医療支援事業を広島県から受託し、大気汚染が深刻なウランバートルで「呼吸器疾患の遠隔診断システム」の導入に取り組んでおり、今年で2年目になる。ICT(情報通信技術)を使ってモンゴルの専門医を3カ年計画で育成し、現地の医療機関などで活躍してもらう狙いだ。
     今年も5日間の日程で10月に放射線診断、11月に病理診断の各チームを構成する医師・技師を広島に招く。毎年、現地での事前講習と試験を実施。放射線科は100人から19人、病理は30人から13人を選んで受け入れる。それぞれ5人の日本の専門医が短期集中で病変を早期発見する診断技術を指導し、母国で広めてもらう。渡航や宿泊費ほか、昨年輸出した病理標本のスキャン装置などに約5000万円(3年)の資金が提供される。 
     同事業は技術習得だけではなく、モンゴル政府や国立病院、国立病理センター、労働安全センター、地元の病院などをネットワーク化し、井内さんが理事長を務めるNPO総合遠隔医療支援機構を通じて放射線と病理の診断に対する教育指導から実稼働後のバックアップ体制まで一貫して取り組む。
    「早期診断、早期治療をモンゴルで普及させていくことが一番の狙い。まずは患者のデータベースを作成。病変の放射線画像や病理標本画像をデジタル化してクラウド上にストレージ(記憶)し、必要な時にアクセスできる仕組みを構築。1月にスキャン装置の設置を終え、3月の最終週からコンサルテーション(専門医による診断の相談)をスタート。現地の医療機関に自力で診断する力を身につけてもらうとともに、関係機関で扱う患者情報を一元化する支援も進めていきたい」
     広島大学医学部の時代に内科医を志望したが、大学院博士課程で4年間学んだ後、担当教授の勧めで病理専門の道へ。32歳で3カ月、35歳から米ニューヨークのセント・バーナバス・メディカルセンターなどで1年、研修医として勤務。日本人が一人もいない中、多国籍の病理医と共に働きながら多くを学んだ。若い時の国際経験が視野を広め、後進国へ医療技術を伝えようという志につながったのだろう。これまでにイラン、ベトナム、カンボジアへ同様な支援を行ってきた。
    「モンゴルは石炭や銅、モリブデンなどの資源産出国で、現場で働く人の職業性塵肺症対策が急務。人口300万人の半数がウランバートルに住み、しかも5つの火力発電所が立地する上、大量の石綿が防寒に使われ、呼吸器疾患が多い。日本が経験済みの大気汚染対策も含め、さまざまな課題解決に対処できる人材教育こそ重要だと思う」
     病理医の不足する過疎地に住む人も等しく、高精度で迅速な診断を受けることができるようにと2012年3月にNPO法人を設立し、遠隔病理診断システムの普及に乗り出した。古希を迎え、その思いは世界をめぐり、わがライフワークにいそしむ。