広島経済レポート|広島の経営者・企業向けビジネス週刊誌|発行:広島経済研究所

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コラム― COLUMN ―

広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。

  • 2019年5月30日号
    勝負の一手

    マツダは2019年3月期連結決算で、世界販売が前年比4.2%減の156万1000台、当期純利益は43.4%減の634億円と苦戦。中国の通商摩擦・景気減速や為替、材料コストなどの外部要因が圧迫したという。
     どう巻き返すか。デザインや走行性能、静粛性などの基本要素を磨いた、新世代商品の第1弾「マツダ3」を投入し、セダンとハッチバックで年間35万台の世界販売を目指す。1月に北米、3月に欧州、4月にオーストラリアで発売に踏み切り、5月24日から国内販売を始めた。今後は中国などでの販売を控える。アクセラの後継車種で、車名にマツダを冠し「新時代を切り開く」期待を込めた。別府耕太開発主査は、
    「マツダ3が該当するセダンなどのセグメントは、SUV(スポーツタイプ多目的車)にシェアを奪われてきた。経済的な余裕があればプレミアムカーか、SUVを買う。こうした声を聞くこともある。だからこそ、妥協で選ばれるのではなく、誰もが羨望する車を目指した」
     走り、静粛性、環境性能、質感など、同社の先進技術を注ぎ込む。パワートレーンはガソリン、ディーゼルエンジンに加え、10月に世界初の圧縮着火技術エンジンの搭載モデルを発売する。補助モーターを使うマイルドハイブリッドも備える。人間が歩き、走るときと同じように運転時の体のバランスを保つ新構造「スカイアクティブ ビークル アーキテクチャー」や、超高張力鋼板の骨格部材を初採用。ボディパネルとマットの間にスペースを設けた二重壁構造も初めてで、遮音性能を高めた。
    「開発の企画段階からターゲット層の生活の中で1台の車の存在感をどこで発揮できるか探るため、デザイナーやプランナーを連れて世界中の顧客に会いに行った。みんなで同じ瞬間、価値を共有できたことは大きかった」
     デザインにもこだわる。土田康剛チーフデザイナーは、
    「日本伝統の美意識〝引き算の美学〟を追求し、セダンは何ら装飾しなくても美しいプロポーションを意識した。ハッチバックは従来の常識にとらわれず、ショルダー(リアタイア上部付近の段差)を廃止。このセグメントでは過去に例がない、一つの塊のようなデザインにした」
     200万円代後半までの価格設定だったアクセラと比べて、圧縮着火技術エンジンの搭載モデルだと100万円近く高くなるが、国内営業本部の齊藤圭介主幹は、
    「エントリーモデルの価格はあまり上げず、パワートレーンのバリエーションを増やすことでセダン購入層から高級志向層まで取り込む。SUV人気が続く中でも主力車種の一つとして確立させたい」
     1台当たりの売り上げと購入後の残存価値の向上に取り組む中、これまで低・中価格帯とされてきた同セグメントを、自ら高価格帯までの広い市場へと変革させる狙い。
     大きな期待を掛ける新世代商品の第1弾をあえて、縮小傾向にあるセグメントにぶつけたのはなぜか。マツダの販売台数の半数近くはSUVが占める。25年3月期の180万台達成へ、よほどの読み、決意があるのだろう。この勝負手が世界に通じれば、一気に道がひらける。

  • 2019年5月23日号
    チャンスをつかむ

    産地限定の国産ニンジンを使い、自然な甘みと酸味で爽やかな味わいの「マイ・フローラ」。野村乳業が開発に成功した「植物乳酸菌飲料」だ。2月から本格化させた販売を後押しするように、第27回中国地域ニュービジネス大賞(中国経済産業局長賞)に、同社の「プロバイオティクス発酵飲料の国内事業化と海外展開」が受賞した。
     腸内フローラのバランスを改善する、プロバイオティクス発酵飲料は、特定の乳酸菌やビフィズス菌を爆発的に増殖させる発酵技術(特許)によって開発に成功し、2013年に発売。国内展開する植物乳酸菌飲料のほか、既に米国、韓国、中国の食品メーカーに微生物増殖剤を原材料素材として販売している。従来の〝乳業〟と一線を画す市場に挑むが、ここに至るまで厳しい道のりがあった。
     酪農で1897年に創業。野村光男社長の祖父、郁造氏が現在地の安芸郡府中町で牧場を始めたが、周辺の宅地化で乳業を県山間部へ。しかし牛乳の価格競争が激化。1970年代以降、経営の軸足をヨーグルトなど乳加工製品に移す。社長の甥で、開発責任者の野村和弘さんは、
    「健康志向のブームに乗り、乳加工製品はつくれば売れる時代がしばらく続いた。生産ラインや冷蔵庫も新設し、増産。売る心配はなかったが、バブル崩壊でデフレスパイラルに陥り、価格競争から逃れることができなくなった。小売店の棚替えに合わせて新商品を売り出す繰り返し。開発〜生産に疲弊し、次第に売り上げも減少。個性的な製品を持たない、価格でしか訴求できない苦しさがその後の教訓になり、他社製品との差別化をどうすればよいのか、次代への踏み台になった」
     試行錯誤を重ねる中、広島県の食品工業技術センターが事務局を務める、産学官の食品機能開発研究会に参加。2004年に転機のチャンスとなる出会いが訪れた。広島大学大学院(薬学分野)の杉山政則名誉教授が見いだした植物乳酸菌の機能に懸け、06年に植物乳酸菌のヨーグルト開発に成功。差別化へ光が差したものの、当時、機能性食品という言葉が普及していなかったためか、期待ほどの成果を挙げることができなかった。そのうち特売品のイメージが払拭できなかった牛乳は07年、次いで東日本大震災直前の11年2月、ヨーグルト製造から完全撤退。売り上げは激減した。経営は苦しく、このままでは危ない。その危機感と葛藤しながら、製品化したのが植物乳酸菌飲料だった。開発段階で一切の妥協を許さない杉山教授に引っ張られ、差別化に確信の持てる新製品開発にこぎ着けた。
     数年計画で事業を見直し、次第に技術が評価されるように。08年に文部科学大臣表彰科学技術賞と中小企業優秀新技術新製品賞などを受賞。自社ブランドに先立ち、大手通販会社に採用されて年々売り上げを伸ばしている。業績は上向きに転じたが、かつての教訓を踏まえ、経営方針とブランディングを根底から見直す作業を進めた。
    「自信を持って商品説明できることが心強い。次の製品へつなげ、息長く愛されるブランドに育てたい」
     機能性表示食品の取得を目指し、年内にも臨床試験に入る予定という。

  • 2019年5月16日号
    劇場船が出航

    瀬戸内海エリアの7県を拠点に活動するアイドルグループ「STU48」専用の劇場船「STU48号」が完成し、4月16日に広島港で初公演した。「瀬戸内 海の道」構想を進めてきた広島県の湯崎英彦知事は、クルーズやサイクリングに加え、新たな観光資源の船出に期待を寄せる。
    「劇場船は広島港を母港としており、宇品地区のにぎわい創出を後押ししてくれる。県は港湾計画の一環で商業施設の誘致や緑地整備、クルーズ寄港の促進などに取り組んできた。交流、にぎわい、憩いなどをテーマに掲げるが、STU48の活動には全ての要素が詰まっている。築港130周年の節目に迎えた船出は港の歴史に残るほど大きな出来事。象徴的な存在として活動してほしい」
     湯崎知事が会長を務めていた瀬戸内ブランド推進連合を前身とする「せとうち観光推進機構」と「せとうちDMO」の活動を引き合いに、
    「数年前から観光プロモーションで世界へ打って出ている。認知度が一層高まり、ニューヨークタイムズの〝今年行くべき地〟で瀬戸内が日本で唯一選出され、7位にランクインした。船上公演で魅力が再発見され、ますますにぎやかになると思う」
     劇場船の就役式には湯崎知事、広島市の岡村清治副市長、国土交通省の藤田耕三国土交通審議官、せとうち観光推進機構の佐々木隆之会長、広島商工会議所の深山英樹会頭や広島経済同友会の池田晃治前代表幹事らが出席。県内外から訪れるファンの交通・宿泊・飲食といった経済効果を歓迎する。
     STU48は2017年3月に結成。これまで専用の劇場を持たず、AKB48ほか姉妹グループの専用劇場や瀬戸内海エリアのイベント会場を中心に公演していた。船は全長77.8メートルで、300人収容。メンバーがステージに立つ際に揺れを若干感じることがあるというが、波の動きも船上ならではの魅力だろう。全客席への救命胴衣の配備などで安全面も考慮。白地に海を連想する青いラインを入れたシンプルな外観で、客席のブラインド付きの窓からは瀬戸内の風景が広がる。同グループは、海や船の魅力を知ってもらう国の「C to Sea プロジェクト」の大使を務める。日本初の劇場船工事で国交省の技術協力を受けた。船舶国籍証書を交付した中国運輸局の土肥豊局長は、
    「地域を盛り上げ、多くの人が海に興味を持つよう、大使と劇場船の大活躍を願っている」
     船には地元企業も多く関わる。ウッドワン(廿日市市)は客席下段に波をイメージするデザインウォールをあしらった。船内の飲食コーナーでは、ベーカリーのアロフト(中区)が製造するホットドッグ「せとうちドッグ(音戸ちりめんなど4種)」、田中食品(西区)のカツオみりん焼きふりかけ〝アイスのトモ〟をトッピングした「せとうちアイス」などを販売する。
     アイドルグループと劇場船の活躍が、広島にどれだけの経済効果を及ぼすだろうか。舞台、仕掛けは上々だが、県民、市民の応援こそ決め手。まずは乗ってみよう。

  • 2019年5月9日号
    そのとき何をなしたか

    そのころの広島にとって晴れやかな光景ではなかったろうか。有力企業を中心に建設資金に充てる寄付金を募り、1955年3月の竣工式と同時に市へ寄付した「広島市公会堂」が開館した。場所は平和公園の西側、中区中島町。平成の時代に入り、公会堂を改築・改称した「広島国際会議場」が89年7月に開館。約1500人収容のフェニックスホールほか、大小会議室などを備え、数多く会議や音楽会などが開かれている。
     公会堂が完成した年に財界グループ「二葉会」が発足。上原昭彦氏の著書「二葉会のあゆみ」に、公会堂に続く、二葉会の寄付行為のうち公的なものを主に掲げる(要約)
     ① 広島県庁建設資金(56年4月落成)
     ② 旧広島市民球場建設資金(57年7月落成)
     ③ 広島バスセンター建設(現在と同じ所にあった前バスセンター、57年7月完成)
     ④ 本願寺広島別院の再建協力(64年11月完成)
     ⑤ 旧広島空港ビル建設資金(現在の広島ヘリポート、61年9月開港)
     ⑥ 広島県立体育館建設資金(現在のグリーンアリーナの前の建物、62年6月落成)
     ⑦ 国鉄山陽本線の電化工事建設債引き受け(62年6月完成)
     ⑧ 県立体育館屋内プール建設資金(65年8月完成)
     ⑨ 広島民衆駅ビル建設資金(65年12月完成)
     ⑩ 広島県立美術館建設資金(現広島県立美術館の前身、68年9月落成)
     ⑪ 広島県立産業会館建設資金(70年10月開館)
     などがある。
     旧広島空港(西区観音新町)の発端について。二葉会の新年会で、56年度から実施される空港整備法を踏まえ、広島にも空港建設をという声が上がり、さっそく大原博夫知事に要望。一気に方向性が生まれている。予定地の既存建物移転が前提になったが、その費用約1億円ほか、空港ビルの建設費約9000万円のうち、8000万円を県と財界で折半し、残り1000万円を国が持って、ビル内に収容する運輸省の航空保安事務所に充てたという。広島の都市機能の充実に深く関与していたことを裏付ける。
     50年発足した「広島野球倶楽部」は、55年12月に「広島カープ」に改組。専用球場もなく、資金難で球団運営は困窮を極めていた。そこで専用球場の約2万平方メートルの土地は市が基町の国有地を手当てし、建設費2億6607万円のうち、2億4399万円は二葉会を中心とする財界が拠出。こうして「広島市民球場」の1期が57年、2期が58年4月に完成。これを機に設けられた「広島市民球場運営委員会」の民間構成メンバーは、50年後にJR貨物ヤード跡地へ移転(現マツダスタジアム)するまでほぼ変更がなく、球場と二葉会の関係を何より物語る−と記している。
     かつて竹下虎之助知事は、
    「財界の方には是々非々で、大所高所からの意見を聞かせていただきたいのです」
     広島の復興という大きな目的をほぼ達成したためか、二葉会から商工会議所などの経済団体へ舞台を移したころと重なり、竹下知事にとって一抹の物足りなさがあったのではなかろうか。

  • 2019年4月25日号
    二葉会のあゆみ

    被爆で、一瞬にして廃墟となった地から立ち上がり、今の広島へつながる道筋で、財界グループ「二葉会」が果たした役割は大きい。
     そのころの広島市役所は甚大な被害からの復旧、学校や住宅建設などに追われて財政が困窮。多くの人を受け入れる「公会堂」建設に割く予算の余裕などない。大きな会議や音楽会などは大阪から福岡へ飛び越え、広島を素通り。
    「わしらでやろうやないか」
     地元企業トップの発言をきっかけに、公会堂の建設資金に充てる寄付金集めが始まった。個々の企業の利害得失を離れ、広島を復興させようという、当時の経済人の気概が伝わってくる。広島の復興を目的に、1955年に二葉会が発足。特段の会則はない。対外へ名を伏し、寄付するだけ。この辺りは、3月20日に発刊された本「二葉会のあゆみ」(80ページ)に詳しい。著者の上原昭彦氏はローカル月刊誌、経済週刊誌の記者を通じて、50年近く広島の政治、経済、社会の動向をウォッチしながら蓄えてきた関連資料を元に、新たな取材を加えて上梓。巻頭に、設立時のメンバー(氏名50音順)と、その顔写真を載せる。
     伊藤信之・広島電鉄社長、島田兵蔵・中国電力社長、白井市郎・中国醸造社長、田中好一・山陽木材防腐(現ザイエンス)社長、橋本龍一・廣島銀行(現広島銀行)頭取、林利平・広島瓦斯(現広島ガス)社長、藤田定市・藤田組(現フジタ)社長、松田恒次・東洋工業(現マツダ)社長、森本亨・広島相互銀行(現もみじ銀行)社長、山本實一・中国新聞社社長、67年に新規加入した村田可朗・中国電気工事(現中電工)社長の11人。(以降、敬称略)
     さて、公会堂の件(要約)だが、52年10月に本放送を開始した中国放送初の正月番組「新春座談会−初夢を語る」で、田中好一は、
    「広島には、人が集まろうと思っても適当な会場がない。私の年来の夢は、広島に立派な公会堂とホテルと物産陳列館をつくることだ」
     浜井信三市長は、
    「私も公会堂はぜひ建てたいと思って、これまで国の補助金を要求してきたが、どうしても認めてくれなかった。さればといって、市費で建てることは当分見込みがないし、諦めているところだ」
     この放送を聞いていた松田恒次は田中に、
    「(市が直ちに建設できないのなら)わしらでやろうやないか。なくなった親父(創業者の重次郎氏)も広島に何か残したいと言うとったんや」
     公会堂をつくって市に寄付する。田中、松田の呼び掛けに応えたのが、当時の広島の有力企業10社、10人。5階建て7814平方メートル、1700人収容可能。ホテルを併設した公会堂は55年2月に総工費3億2245万円で完成した。その後、二葉会として結集する10社が、うち2億9000万円を寄付。
     のちに浜井市長は著書で、
    「戦後日本の経済状態から見て、地元財界にしても決して楽な捻出ではなかったはずである。それを、あえてこの挙に出た広島財界を、私は広島の誇りに思っている。この公会堂ができたために、市民の生活にどれほど潤いを与えたかと思うと、ただただ感謝に堪えない」
     と記している。−次号へ。

  • 2019年4月18日号
    広島の発展につなげる

    広島の文化と流通を支えてきた大動脈の「西国街道」は、古代から中世まで京都と太宰府をつなぐ山陽道(約650キロ)として宿場町や一里塚などが整備されており、江戸時代は参勤交代をはじめ、万人が往来したという。
     中区の仏壇通り、本通商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)は、市が描く「広島駅周辺地区」と「紙屋町・八丁堀地区」をつなぐ「楕円形の新たなにぎわい構想」に呼応して西国街道を復興させることにより、市中心部の東西の核である両地区のにぎわいを都市全体に広げることを目的に、さまざまな活動を展開している。関連資料も集めており、城下町と街道について、
     −毛利輝元が建てた広島城中心に城下町になった広島。その城下町を東西に貫く「西国街道」は当時、城下町より北を通っていた。しかし毛利氏から城を引き継いだ福島正則は、広島城下を東西に貫通するように移設。街道沿いにあった屋敷も移動させ一帯を町民の居住区にした。この時のにぎわいが今の広島のにぎわいに息づく(要約)−。
     1619年に浅野氏が広島城に入城。協議会は、江戸期から今日までのひと、もの、伝統、技術などを掘り起こすとともに、西国街道らしい特産品の開発や、まちづくり提案などに取り組む。
     広島藩の財政を支えた産業を総称して「3白、7り」という。3白は、紙(大竹)、綿(広島)、塩(竹原)の3つが白いことに由来。7りは特産品のあさり、いかり(碇・尾道)、かざり(仏壇金具)、くさり(船舶の碇をつなぐ鎖)、のり、はり、やすりの7つ各「り」を指し、軽妙に10品をくくる。時代を経て拡大あるいは縮小しながらも今に受け継がれており、こうした産業や文化などが人から人へ伝わり、広島の礎を形成している一端をうかがわせる。
     西国街道の歴史を日本語と英語で併記した「文化の大動脈・西国街道マップ」(仏壇通り活性化委員会制作)は、広島城下絵屏風や、広島諸商仕入買物記、四國五郎作「猿猴橋新春」などそれぞれの資料を元に、広島の発展を支えてきた経過を解説。
     広島市郷土資料館の本田美和子学芸員、歴史研究家の佐々木卓也氏をアドバイザーに迎え、実際にまちを歩いて西国街道への理解を深め、課題や情報を共有することからスタート。子どもたちに自分たちが住んでいる郷土の歴史を学んでもらい、郷土愛を育みたいと、沿道の小学校中心に「出前授業」を実施。駅前大橋東詰めの歩道に西国街道をデザイン化した大型の案内板設置を予定するほか、まちなか西国街道グランドデザインを制作し、道路標識(色分けなど)での可視化を目指して市と協議を重ねている。西国街道をかたどったマンホールを街道沿いに配置すべく、市と広島市立大学芸術学部と連携してマンホールのデザインを制作中。9月を目途に「広島城入城行列」構想を描く。国が提唱する「夢街道ルネサンス」認定地区の指定を受けるなど、本年度もさまざまな計画が動きだす。
     こうした活動を契機に、広島に暮らす人が広島の歴史を知り、語り伝え、広島に誇りを持つことで、広島の発展につなげたいと目標を定める。

  • 2019年4月11日号
    「元和」から「令和」へ

    共同通信社の世論調査によると、新元号「令和」に好感が持てるという回答が73%。この影響からか、内閣支持率を大幅に押し上げたという。
     その一字「和」でつながる「元和(げんな)」の頃。将軍徳川秀忠は広島藩主福島正則を転封した後、和歌山藩主浅野長晟(ながあきら)の広島42万6千石への転封を決めた。広島市の「浅野氏入城400年記念リーフレット」によると、秀忠はいつも寝所としている奥座敷に長晟を呼び、「広島は中国の要ともいうべき重要な地だけに、めったな者に与えるわけにはいかないが、その点お前ならば安心して任すことができる」と言ったという。
     そうして元和5年(1619年)8月8日(旧暦・9月17日)に浅野氏が広島城に入城した、その日から400年を迎える記念事業として、江戸時代の装束をまとった官民一体の約200人で「広島城入城行列(仮題)」を勇壮に展開する構想が浮上。9月ごろ開催を目途に、市民グループ中心に検討を進めている。
     江戸時代の広島城下を東西に貫く西国街道を舞台に、入城行列は、猿猴川の河畔にある柳橋公園を出発し、仏壇通り〜金座街商店街〜本通商店街〜元安橋〜平和公園に到着するまでの約1.7キロ(約40分)を予定。その後、舞台を広島城に移し、当時の浅野氏入城をできるだけ再現するというプランを描く。
     その沿道の商店街や関係者らでつくる「まちなか西国街道推進協議会」(山本一隆会長=広島市文化協会会長)が関係方面と連携し、同イベントの企画を練る。2016年2月に準備会を発足以来、西国街道マップの制作、沿道にある小学校を中心に郷土の歴史を学ぶ「出前授業」開催や、新たな土産品づくり、まちづくり提案などに取り組んできた。専門家の案内で実際にまちなかを散策し、地域資源や人的資源の収集などのフィールドワーク・アイデアセッションを繰り返し、昨年3月に同協議会を設立した。
     入城行列の案には、下敷きがある。広島藩を代表する「通り御祭礼(とおりごさいれい)」を模し、経済界を中心に15年10月10日、華やかな時代絵巻を再現した広島神輿(みこし)行列「通り御祭礼」を復活。当時の衣装をそろえて大神輿を担ぎ、山車や長槍、鉄砲、弓隊などの行列を繰り広げ、大きなニュースになった。通り御祭礼は、広島城下町の地誌「知新集」に、
    「町々両側に拝見の男女家毎に充満し、近国遠在よりも承り伝えてこの御祭礼を拝み奉らでやむべきかわと、あらそいあつまるもの幾十万ということを知らず」
     官民一体となって行われる城下町全体の祭として、大いににぎわったようだ。
     今も、全国各地に時代、時代の行列を模した祭がある。山本会長は、
    「入城行列の案はこれから先、国内外から多くの人を呼び込む、秋の一大イベントに発展する可能性を秘めているように思う。令和元年とも重なり、浅野氏入城400年の節目は被爆以前の歴史をひもとく良い機会。各時代の文化や産業などが積み重なって今があり、それを未来へとつなげていく。歴史をのぞき、今を考え、将来の糧とする発想も大事ではないでしょうか」
     さらに西国街道にまつわる多彩な企画を実施していく構えだ。−次号へ。

  • 2019年4月4日号
    若者をひきつける

    どういう理由か、2012年度から減り続けていた全国の自動車整備士数が、17年度から増加に転じた。(社)日本自動車整備振興会連合会の調べで18年度は0.6%増の33万8438人。2年続けて前年を上回った。
     慢性的な人手不足に危機感を抱いた業界団体などでつくる「自動車整備人材確保・育成推進協議会」と国土交通省が連携し、14年度から高校への訪問活動などをスタート。こうした地道な取り組みが、ようやく実ってきたのだろう。しかし、11年度に比べ約8800人少ない水準。決して手を緩めることなく、求人作戦を展開していく構えだ。
     近年は理系学生の進路の選択肢が増え、自在にこなすスマホアプリやゲームなどの影響からか、IT分野などに多くの人材が奪われているという。対策として、専用サイトで整備士のドキュメンタリー動画などを流す。何より若者の関心をひきつけることが先決。一方で、各地区で独自の取り組みも始まった。
     同協議会の広島地区事務局を務める(社)広島県自動車整備振興会は高校への訪問活動に加え、4月初旬に冊子「自動車整備士への道」を初めて制作し、県内の全高校へ配布する。村雲浩司専務理事は、
    「やりがいがあり、生き生きと働く現場の空気を伝えたいと思った。冊子は、先輩や若手、女性の整備士らのインタビュー記事を掲載。進路を選ぶときの参考になるよう、親しみが湧くよう工夫した。当会が単独で行っている、学校のホームルーム時間への訪問などにも冊子を活用する。また、毎年約9000人の家族連れなどが来場するイベント『GO!GO!Carにばる』では、自動車メカニックお仕事体験ツアーやジュニア整備士スタンプラリーなどを実施。子どもらに自動車への興味を持ってもらうことが、将来の人材確保につながると考えている」

  • 2019年3月28日号
    遠隔診断を世界へ

    マイナス28度にもなる極寒の1月。病理センター(中区八丁堀)代表で、ひろしま病理診断クリニック院長を務める井内康輝さん(70)はモンゴルの首都ウランバートルに降り立った。国際協力機構(JICA)の「草の根技術協力事業」に採択されたモンゴルへの医療支援事業を広島県から受託し、大気汚染が深刻なウランバートルで「呼吸器疾患の遠隔診断システム」の導入に取り組んでおり、今年で2年目になる。ICT(情報通信技術)を使ってモンゴルの専門医を3カ年計画で育成し、現地の医療機関などで活躍してもらう狙いだ。
     今年も5日間の日程で10月に放射線診断、11月に病理診断の各チームを構成する医師・技師を広島に招く。毎年、現地での事前講習と試験を実施。放射線科は100人から19人、病理は30人から13人を選んで受け入れる。それぞれ5人の日本の専門医が短期集中で病変を早期発見する診断技術を指導し、母国で広めてもらう。渡航や宿泊費ほか、昨年輸出した病理標本のスキャン装置などに約5000万円(3年)の資金が提供される。 
     同事業は技術習得だけではなく、モンゴル政府や国立病院、国立病理センター、労働安全センター、地元の病院などをネットワーク化し、井内さんが理事長を務めるNPO総合遠隔医療支援機構を通じて放射線と病理の診断に対する教育指導から実稼働後のバックアップ体制まで一貫して取り組む。
    「早期診断、早期治療をモンゴルで普及させていくことが一番の狙い。まずは患者のデータベースを作成。病変の放射線画像や病理標本画像をデジタル化してクラウド上にストレージ(記憶)し、必要な時にアクセスできる仕組みを構築。1月にスキャン装置の設置を終え、3月の最終週からコンサルテーション(専門医による診断の相談)をスタート。現地の医療機関に自力で診断する力を身につけてもらうとともに、関係機関で扱う患者情報を一元化する支援も進めていきたい」
     広島大学医学部の時代に内科医を志望したが、大学院博士課程で4年間学んだ後、担当教授の勧めで病理専門の道へ。32歳で3カ月、35歳から米ニューヨークのセント・バーナバス・メディカルセンターなどで1年、研修医として勤務。日本人が一人もいない中、多国籍の病理医と共に働きながら多くを学んだ。若い時の国際経験が視野を広め、後進国へ医療技術を伝えようという志につながったのだろう。これまでにイラン、ベトナム、カンボジアへ同様な支援を行ってきた。
    「モンゴルは石炭や銅、モリブデンなどの資源産出国で、現場で働く人の職業性塵肺症対策が急務。人口300万人の半数がウランバートルに住み、しかも5つの火力発電所が立地する上、大量の石綿が防寒に使われ、呼吸器疾患が多い。日本が経験済みの大気汚染対策も含め、さまざまな課題解決に対処できる人材教育こそ重要だと思う」
     病理医の不足する過疎地に住む人も等しく、高精度で迅速な診断を受けることができるようにと2012年3月にNPO法人を設立し、遠隔病理診断システムの普及に乗り出した。古希を迎え、その思いは世界をめぐり、わがライフワークにいそしむ。

  • 2019年3月21日号
    大学の真価

    大学経営が転換期を迎えている。2018年度の大学・短大進学率(全国)が過去最高の57.9%だった半面、現役進学者の人数自体は前年度比7163人減の58万1958人となり、4年ぶりにマイナスに転じた。18歳人口が減り続ける中、多くの大学が生き残りを懸けた対策を急ぐ。
     広島経済大学は13年度から入試・カリキュラムの抜本改革に乗り出した。入試の合格点を引き上げ、基準に達しない学生は定員に満たなくても不合格にした。同年度の入学者数を直前の12年度から約120人減らす荒療治だったが、効果はてきめん。その後志願者数は上昇カーブに転じ、19年度入試は4年連続増の3915人。ただし、安易に入学者を増やさないという基本方針はそのまま貫く。石田恒夫理事長は、
    「優秀で意欲ある学生が一層集まるようになった。以前は〝滑り止めで受ける大学〟という不本意な評価をされることもあったが、軽い気持ちで臨んだ受験生が軒並み不合格になり、高校の先生方もびっくりされたと思う。徐々に当校を見る目が変わり、18年度は大学ランキングの一つ『高校からの評価』で県内私立大学のトップに。私どもの本気度が伝わったのだと思う」
     学生数が収入に直結し、どの大学も定員確保を目標に定める。同大の18年5月現在の定員充足率は85.9%にとどまり、入試改革によって約15%の収入を切り捨てたことになる。痛みを伴う改革を断行した胆力はすごい。しばらく台所事情は苦しいだろうが、目先の利を追わず、これから先を見据えたブランド価値の向上を狙う。
     併せてカリキュラム改革などを徹底。教職員一丸で「学生と向き合い育てる」方針を明確にした。次第に企業からの評価も高まり、18年3月末卒業者の就職率は前年比1.3ポイント増の99.2%だった。地元の有力企業や金融機関へも多く輩出する。
    「長年にわたり、斬新な発想やチャレンジ精神を備え、仲間と協働してゼロから何かを成し遂げられる人材の育成プログラムに力を入れてきた。学生が自主的に企画した、年間約20件のプロジェクトに補助している。こうした活動を促すため、16年12月に約48億円を投じ、学生のアクティブ・ラーニング専用施設『明徳館』を完成した。10階建て延べ約1万1600平方メートルと国内最大級。オープンな造りで授業の空き時間などに学生が集い、互いに刺激を受け、コミュニケーションに役立つ効果が生まれていると思う」
     4月には従来の経済学部に経営学部とメディアビジネス学部を加え、3学部5学科の社会科学系総合大学に発展改組する。
    「高校生から見ても興味のある学部を選びやすくなる。時代とともにスピーディーな変革を遂げたい。開学から50年以上がたち、卒業生は累計3万6000人を超える。卒業生が地元企業の経営者になり活躍する姿を多く目にするようになった。同窓会活動も盛ん。これからも社会や企業に求められる人材を送り続けることが、われわれの大きな使命と考えています」
     大学の真価とは何か。大学経営の転換期にひるむことなく、抜本改革を断行した取り組みが、将来、どんな実を結ぶだろうか。

  • 2019年3月14日号
    明日の百万俵

    米百俵。北越戦争に敗れた長岡藩は財政が窮乏し、藩士はその日の食さえも困窮。これを見かねた三根山藩から百俵の米が届く。しかし藩の大参事だった小林虎三郎は米を藩士に分け与えず、売却して学校設立の費用にした。藩士らは押しかけて抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の1万、百万俵になる」と諭したという。
     工場設備メンテナンスを主力とするメンテックワールド(東広島市)は、2008年のリーマンショック後の不況の波をかぶり、売り上げが前年比6割に落ち込む。しかし小松節子社長はためらうことなく「雇用を守る」と決断。仕事を分け合うワークシェアリングでしのぐ一方、「何でもする課」を設けた。うつ病などの障害を抱える従業員らが花を育てる、ネジを巻く、清掃をする・・・など、さまざまな仕事をこなし、これがリハビリ効果を果たしたのか、病を治して通常業務に復帰したケースもあったという。
     もう一つの決断があった。これまで慢性的な人手不足に悩まされてきた経験が脳裏にあったのか、人と仕事のあり方を根本から見直すきっかけになり、多様な人材を生かす「ダイバーシティ」経営を推し進めた。国籍や男女、年齢、学歴、障害の有無や新卒、中途の差なく、素直で意欲のある人材の確保と育成に取り組んだ結果、仕事が減ったのに、人が増える事態になったが、これがその後のイノベーション、新事業や海外展開に役立つ布石になった。
     大手を定年退職した専門技術者や、経営破綻した先の離職者を受け入れ、最高齢者は74歳。彼らの持つ技術や技能が刺激になり、職場が活気づく。外国人も積極的に雇用。いつの間にか在籍する外国人の国籍は10カ国近くに及ぶ。主力受注先の自動車関連の海外工場などに沿ってメキシコやアセアン諸国へ進出した時期とも重なり、国籍を超えた従業員間のコミュニケーション能力、グローバル人材の養成などに効果を発揮した。
     むろん、人間力や技能を磨く研修にも注力。ビジネス基本コースとマネジメントコースに各15人編成で一泊2日の研修を繰り返し実施。学ぶ楽しさ、向上する喜びで生き生きとした姿を目の当たりにし、さらにダイバーシティ経営を通じ、より教育の大切さを痛感したという。
     子育て中の女性が働きやすい職場をつくるため、待機児童の問題をどうやって解消すればよいのか。答えはストレート。同社が設置運営事業者になり東広島市西条町寺家に企業主導型保育園「インターナショナル キッズ コミュニティ」(愛称IKC(イック))を4月1日開園する。4カ国語以上の語学教育などで国際性豊かな子どもを育む方針だ。軌道に乗れば、西日本で展開したいと意欲をにじます。
     4月に「エデュケーション事業部」を立ち上げ、教育関連の新領域に挑む構え。まさに不況のピンチが発想の転換になり、事業を支える根本は人材、人材を育むのは教育という中心軸を構築。アセアン諸国に出張すると、貧しい子どもらが目につく。いずれはそうしたところへ保育園を開設したいと夢を描く。こうした一連の取り組みが明日の百万俵になれば、その決断が果たした価値は大きい。

  • 2019年3月7日号
    みんなの生活を守る

    後継者難を理由に、1832年創業の宮田油業(中区猫屋町)が1月に自社株を売却し、大成石油(南区段原日出)グループ入り。先代の宮田一雄社長はのれんを大事にする人だったという。婿養子で、老舗の経営を継いだ気負いもあったのか、高度経済成長期の波に乗り拡大路線を走る。その後、販売手数料が3分の1に圧縮されるなど激変した業界環境のあおりを受け、赤字基調に転落。経営再建のため、出光興産を退職した下野洋介さんを役員に迎えた。
     25年前、苦渋の決断で社員の3分の1をリストラ。ここから全社一丸で再建へ立ち向かう奮闘が始まった。徹底したキャッシュフロー重視の経営が実り、2019年7月期決算は32期連続の黒字を見込む。当面、現社員体制で8給油所を維持。現在、経営顧問の下野さんは、
    「何としても、社員のがんばりと愛社精神をむげにしたくなかった。極めて順調な業績を維持しており、その誇りを胸に刻み、大成グループ一員として新たなステージで力を発揮してほしい」
     と気遣う。今回のM&Aを報告した席で意気消沈した社員の姿を目にし、店長クラスから「無念です」の声が漏れ聞こえた。共に奮闘してきた仲間だけに、胸が痛んだ。
     石油業界は元売り再編が続き、外資系は日本市場から撤退。4月には出光と昭和シェルの経営統合を控え、これでJXTGグループとの2大勢力となる。少子高齢化、省エネ車の普及、若者の車離れなどで、ピーク時の1994年に6万強あった全国の給油所数は半減し、広島県も同様に減り続け700カ所台に。燃料油の販売手数料に頼る経営は成り立たなくなってきた。後継者難で地場経営が減り、元売り系列の子会社が運営するケースが増える中、今回のような地場企業同士のM&Aは珍しい。
     生き残りを懸け、宮田油業が09年に打ち出した戦法は安さこそ最大のサービスと商圏最安値をうたい、セミセルフ式のローコスト運営を推し進めた。給油とタイヤ販売を主にカーケア関連を強化。コーティングや車検にも力を入れ、収益を生む仕組みの確立を急いだ。一方で、決算期ごとに成果を挙げた社員を対象に年1回の海外研修を20年以上続け、モチベーションの向上や福利厚生も充実させてきた。M&Aの懸念は社員の処遇。この一点だったが、今は安心して働く社員の表情は明るく、ようやく胸のわだかまりがほどけたという。
     同社の18年7月期売上高は35億円。大成石油は県内と岡山に計12給油所、13販売店を擁し、同5月期で78億円を計上。両社を合わせたグループ年商は100億円を突破し、県内の同業で大野石油店や広川エナスに次ぐ企業規模に。宮田、大成共にカーケア志向の事業方針を打ち出し、M&Aによるシナジー効果が期待される。下野さんは、
    「のれんを守るためにはリスクを恐れず先手を打つことが大事。何よりもキャッシュを稼ぐ経営にこだわった。これが財務を健全化し、価値ある会社として前向きなM&Aにつながったと思う」
     自主路線が崩れ、無念だったろうが、奮い立った日々と誇りが消え去ることはない。さらにみんなの職場、生活が守られた価値は大きい。