広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
あじかん創業者の足利政春さんが語った言葉の端々に、何とも言えぬ迫力があった。穏やかだが、日々精魂を傾けてきた体験の裏付けがあり、引き込まれる。途上で「いったん会社を閉じなくてはいけない」事態さえ危ぶまれたこともあったという。その岐路に立ち、何が明と暗を分けたのだろうか。
創業者が語る「あじかんの原点と経営思想」に、次の一節がある。
「母が私を膝の上に抱きながら『癇癪(かんしゃく)は癇癪玉という宝なんよ。宝物はめったに人に見せるもんではないですからね』などと言い聞かせられ、知らず知らずに私の血肉となり、生き方や経営観の底流になっています」
逸話がある。競合する同業者があることないことを言いふらして歩いたときも、自分自身に言い聞かせたのが「癇癪玉」の教えである。
「相手を誹謗(ひぼう)するような会社は、世の中で認めてもらえるはずがない。同じように誹謗して歩く会社になったら、相手の同じ位置に成り下がってしまうからやめとこう」
後に語れば簡単なようだが感情こそやっかいで、火の玉のような「やりがい」を引き出すこともあれば、怒りに負けて身を滅ぼす危険も待ち構えている。勘所だろう。
京都の吉田喜で修業し、玉子焼きの技術だけでなく商いのイロハも教わり、人を見る目も養ってもらったという。
「(吉田社長は)若い者を愛情とゲンコツで鍛え、一人前の職人に育て上げてくれた。修業中にはどれほど涙を流したかわかりません。しかし笑って過ごした楽しい思い出はほとんど記憶に残らないのに対し、涙するような苦しかった出来事は年々美化されて、あのときは大変だったなあと楽しく語ることで今あることを感謝できます。人間が生きられるのもそれゆえで、もし苦しい思い出が苦しいまま残っていたとしたら、とても生き続けていることなどできないでしょう。今は楽しく語れる苦労をいくつ持っているか。その数が歩んできた人生の勲章だと私は思っています」
経営のコツここなりと気づいた価値は百万両。松下幸之助の言葉である。
「この言葉に初めて接してからというもの、松下さんの著書を読み漁(あさ)りました。著書に−経営のコツとはどういうところにあるのか、どうすればつかめるのかということになりますが、これがまさにいわくいいがたし、教えるに教えられないものだと思います。経営学は学べるが、生きた経営のコツは教えてもらって分かったというものではない。いわば一種の悟りとも言えるのではないかと思います−と書いてあります」
日夜試案の末、眠りに就こうとした瞬間、パッとひらめくものがあった。あじかんを支えてくださる方々の喜びがコツではないか。自分の実践の中で気づいた「商いのコツ」です、とくくる。
3代目の足利恵一社長は、
「倫理と利益の両立が人を豊かにしていく。利益だけを追い求めても駄目。倫理だけでは経済が成り立たない。渋沢栄一の言葉です。資本主義の草創期にそう指摘している。学ぶとはいかに知らざるを知るか。ここから一歩を始め、生涯続けていきます」
誰も教えられない。わが手でつかむほかないのだろう。
一代で大きな仕事を成し遂げた男のすごさを秘め、どこか人懐っこい、おおらかさがあった。総合食品製造・販売のあじかん(西区)創業者の足利政春さんが1月16日亡くなった。86歳。
京都市下京区出身。京都の玉子焼の老舗吉田喜の吉田喜作社長からのれん分けされて広島で1962年に前身の三栄製玉を個人創業。瞑想法「阿字観」(われを見詰めて広く意見を聞く)という、商いの原点ともいえる言葉に由来し、78年から現社名に。2000年に東証2部上場を果たす。20年3月期連結決算は売り上げ447億円、純利益は5億5000万円。来年で創業60周年を迎える。
一燈を下げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め。
同社が創業50周年の年に「あじかんの原点と経営思想」(244ページ)を上梓。江戸時代の儒学者佐藤一斎が「言志四録」で述べた言葉から書き出す。あえて足利さんが語らなければ、途上で「死のうとまで思い詰めた」ことがあったとは知るよしもない。一度だけ本業を離れて、ガラス製造の事業を継承したことがあった。しかし苦心惨憺(さんたん)のあげく、わずか2年でただ同然に手放した。手持ち資金は泡のごとく消え、さらに個人負債まで抱える。資金繰りはひっ迫し、困窮を極めた。
「ショックのあまり、一時は死のうとまで思い詰めた」
ずいぶんと高い授業料になったが、性根を入れ替えて、玉子焼を一生の仕事にしようと決める。神様が、ふわふわしていた私にガツンと試練を与え、途中で投げ出さずにちゃんと玉子焼の道を歩めと諭してくださったに違いない。その意味でも、私は幸せ者ですと述べている。
何とも素直で、なおプラス思考である。経営存亡のピンチにどう立ち向かっていくのか。逃げることなく、真正面からぶつかったことが、危機脱出につながったのではなかろうか。玉子焼を一燈として提げて、ただひと筋に人生を歩む転機となった。
こんな話もある。地元同業者から申し入れがあり、対等合併で1970年に「広島製玉」をスタート。これが大失敗だった。何のかんのと理屈をつけて作業をボイコット。労働争議である。48時間にわたって交渉を続け、ボイコット派の社員に退職金を支払って辞めてもらうことでようやく決着した。
しかし、その後も難儀が続く。退職金を手にした彼らが会社の裏手で同じ商売を始めて数人引き抜いたほか、営業の先々で、あることないことを言いふらして歩く。こういうときこそ会社(経営者)が何を考えるかが勝負。ぐっとこらえて聞き流した。案の定その会社は1年半で倒産。つぶさに経過を見ていた社員は企業経営とはこういうものだと正当に評価し、一丸になってくれた。企業思想の継承とは、そうやって受け継がれていくものだと体験から学んだという。長年のうちに鍛え上げられた職人技のごとく骨身に染み込んでいる、特有の経営観なのだろう。
経営のコツここなりと気付いた価値は百万両。松下幸之助の有名な言葉である。誰かに教わったものでもなく、まねたものでもなく、実践の中で気付いたという「商いのコツ」について次号で。
わが人生の主題をどう捉えるか。誰しも迷うことが多いが、ネッツトヨタ中国(西区庚午中)社長の槙本良二さん(60)は実に明快である。日々是感動。人生は思い出づくり。それが私の信念です、と言い切る。
今日までの歩みもなかなか興味深い。広島大学付属中・高等学校から東京大学経済学部へ。卒業後、東京海上日動火災保険に入り、企業担当営業、自動車ディーラー担当営業を15年余り。大きな転機が訪れた。上司から「ネッツトヨタ中国の将来の幹部にという話がある。どうか」と問われて、3秒熟考し「広島で頑張りたい。チャレンジさせてほしい」と回答。実に明快である。その後、現在の卜部典昌会長との面接を経て、2011年に同社に入り、15年から社長を務める。先頭に立って社員250人を引っ張るが「私は社員の応援団長」を自認している。
中学1、2年と学級総代に選ばれ、3年は協議会議長、高校1年は総代、2年は書記局長を務めた。生徒会活動などを通じて人の世話をするのをいとわなかった。昨年7月には全国1万2000人の同窓生を有する広島大学付属中・高等学校同窓会「アカシア会」の会長に就任。世話好きは母親譲りなのか、こんなエピソードがある。
「中学3年の遠足だったと思うが、故郷の白木山に登ることになり、母が40人全員分の計80個のおはぎを作り、持たせてくれた。みんなから大いに喜んでもらった記憶がある。いつの間にか、人のためにお手伝いする喜びを培っていたのかもしれない」
高校1年の体育祭で応援団員を経験。エールで人を応援する魅力にとりつかれて、そのまま応援団に入団した。大学でも応援部に入り、4年時には応援団長を務めた。
「運動部の仲間を中心に東大はもちろん、東京六大学応援団、京大などにも多くの友人ができた。私の宝になっている。毎年の六大学応援団の同窓会には35年間かかさず参加している。応援団はエールで母校の同窓生の心をひとつにし、結束を強くすることが役目と心得ている。都合がつけばどこへでもはせ参じてエールを送る所存。同窓の湯崎英彦知事の出陣式でも過去3回エールを送り、拍手喝采。これからも皆さんが幸せになっていただけるよう、応援道を極めたいと思う」
人との出会いや縁を大切にしており、小学校の友人から仕事で出会った人までプラベートで送る年賀状は毎年1200枚を超える。
「本や映画、人との出会い、道端に咲いた花、夕焼けなど日常には多くの感動があふれている。その感動はやがて思い出となり、人生を通じていかにたくさんの思い出づくりができるかが、私の生きる指針になっている。社員の小さな頑張りを見逃さないよう、感謝と激励のために毎週土日に県内17拠点を回り、暑い日も寒い日もひたすら頑張っている社員1人1人に声を掛けるようにしている。これからもみんなの応援団長として多くの人から喜ばれる会社をつくっていきたい」
日々、感性を研ぎ澄ませ、小さな感動を見つける。その積み重ねが素晴らしい人生につながると言い切る。心に感謝があるから、その言動も爽やかなのだろう。
朝日新聞社は2020年9月中間連結決算で419億円の赤字に転落し、責任を取って渡辺雅隆社長が4月退任する。「構造改革のスピードが鈍かったことが赤字の背景にあることは否めず、責任は社長の私にある」とし、身を引く決意を固めたようだ。
日本新聞協会のデータによると、20年の業界全体の発行部数は3509万部で、1年間で271万部減。ここ数年は毎年200万部ペースで発行部数を落とす。
この、とてつもない難題にぶつかって大手各紙は、スマホなどを利用した有料電子版サービスなどワンソース・マルチユースやウェブファーストなどへの対応を急ぐ。一方で、こうした紙とデジタルの両面作戦が、新聞記者の取材活動にどのような影響をもたらすだろうか。デジタルで発信した記事に対する読者の反応は素早く、瞬く間にSNSで拡散する。読者の求める情報は何か。改めて原点の取材力に磨きをかけるチャンスになるかもしれない。中国新聞社の岡谷義則前社長はかつて、
「地方紙にとって新聞力とは地域の出来事を、あたかも地域の日記を書くように、過不足なく取材し、簡潔な文書で記事にし、事実の裏にある問題点について的確に論評し、読みやすい紙面に組む。こうした一連の仕事がきちんとできる力を言う。とりわけ、中国新聞が取り上げなければ日の目を見ないような地域のニュースを掘り起こし、発信し続けることが、地方に生きる新聞人の最大の役割であるように思う」
淡々と話すが、新聞人の気概が伝わってきた。
同社は今期(1〜12月)の重点目標としてデジタル発信力の強化を打ち出し、経営改革を断行する構えだ。まだ明確な姿形はなく、おそらく走りながら戦略を練り、結果を検証しながら作戦を立て直す繰り返しになるかもしれないが、陣頭指揮を執る岡畠鉄也社長の、デジタル化へ向かう決意は固い。
さまざまな分野でデジタル化の可能性を探っている。県と連携し、今春からベンチャー企業と協業する「アクセラレータプログラム」の実証実験に乗り出す。54社から応募があったうち、次の4社=事業内容を選んだ。
▷コンシェルジェ=AIチャットボットプラットフォームの開発・販売・運用。社内問い合わせ業務のチャットボットを複数構築し、サイトに実装する。
▷ネクストビジョン=動画売買プラットホーム「ビデオキャッシュ」の開発・運用。ビデオキャッシュへの動画投稿キャペーンを実施する。
▷ギフティ=ギフトプラットホーム、ビーコン事業。広島市内中心部50カ所程度にビーコンを設置し、行動データを収集。
▷ネクストベース=スポーツ解析技術を生かした有料オンライン野球アカデミー事業。3カ月間のオンライン野球教室を開催する。
新聞事業と一線を画す用語がずらり。井上浩一専務は、
「最適な情報を最適な所へ届ける『地域最適』ビジョンに向かって記事、画像、動画、音声情報を発信。 新時代に適した会社に生まれ変わる」
いつでも、どこでも必要な情報を入手できる時代に突入し、新聞界も大変革期。チャンスをつかむほかない。
来年で創刊130周年を迎える中国新聞社が、思い切った経営改革に踏み出す。
その第一にデジタル対応と報道展開を挙げた。3月にメディア開発室を改め、岡畠鉄也社長直轄のメディア開発局とし、同局にデジタルトランスフォーメーション(DX)推進本部の事務局を置く。デジタル事業を「成長戦略」の核に位置付け、DXの波をあらゆる業務に広げていく構えだ。むろん新聞事業が主柱だが、デジタル事業を販売、広告に次ぐ収益源へ発展させる意気込みを見せる。
さらに編集局は、紙とデジタルでそれぞれ魅力的なコンテンツを発信する統合編集体制を推進するため「デジタルチーム」を設ける。デジタル独自のコンテンツの立案、取材、デザインも手掛け、ウェブファーストを徹底する体制を敷く。果たしてDXにつながる扉から何が飛び出してくるのか、相当に具体的なプランを仕込んでおり、年頭の辞で、岡畠社長自らデジタル化へ向けた不退転の決意を示したという。
収益の多元化も目指す。近く西区の井口工場跡地を対象に小売り業者と賃貸契約を結ぶ予定。福山市の旧備後本社でも同様の契約を締結する運びになったほか、廿日市市大野の山あいに広がる大規模な「ちゅーピーパーク」をはじめ、社有財産全体の活用を図るグランドデザインづくりに着手する。
生命線である戸別配達網を堅持する有効策も練る。昨年秋にグループ各社、販売所で「新ビシネス推進会議」を設けた。デリバリー網を活用した宅配・物販サービスの拡充をもくろむ。例えば、有力なブランド商品を集めて新聞チラシで訴求する物販サービスの準備を進めている。若い世代に向けた訴求力向上へ、中堅や若手を中心とした「ブランドプロモーションチーム」を結成し、営業戦略や商品開発を検討中。潜在化していたグループの価値、力を掘り起こし、総動員する狙いだ。
4月から新たな賃金制度をスタートさせる予定。痛みを伴う改革だが、変えるべきは変える、そして時には思い切ってやめる。そうした姿勢が強くしなやかな経営につながると考え、社員みんなの理解を求めた。
中国新聞グループ21社の売り上げは合計779億円に上る。従業員は合わせて約1700人。さらに販売所従業員約6800人を含めると8500人に。新聞・チラシ制作や販売、輸送、放送、広告、人材サービスなど多岐にわたり、地域に根差す。
発行部数は昨年末で55万4000部。2002年をピークに減少傾向をたどり、歯止めがかからない。昨年はコロナ禍によってイベント事業などの多くが中止になった。こうした新聞界を取り巻く厳しい環境に直面し、何もかも総ざらいで見直す機運がグループ全体に広がり、何よりも危機感が大きなばねとして働いたようだ。
昨年、新聞社とグループ各社の中堅、若手でつくる「未来創造会議・将来ビジョン検討部会」は、あらゆる資源を生かす「地域最適」ビジョンを掲げ、「創刊130周年の22年までに新時代に適した会社に生まれ変わる」と提言をまとめた。いまが改革のチャンス。ベンチャー企業との協業事業などを次号で。
国内シェアの約6割を占める県産レモン。その生産性向上へ向け、AIを活用するプロジェクトが進行中だ。
採れたてレモンの画像から一定の品質やサイズの選別を自動化するもくろみ。広島県と東京のシグネイトが運営するオープン形式AI人材開発プラットホーム「ひろしまクエスト」を通じ、全国から画像選別のアイデアを募るコンペティションを2月1日スタートさせる。
国産レモンの需要は伸び続け、生産量全国一を誇るが、生産者の高齢化が進み、出荷や選果の負担は大きい。百貨店やスーパーなどの小売り向けや、加工用などの用途次第で購入する際の決め手となる〝見た目〟の判断は出荷者によって微妙に異なり、需要家の求めにしっかり応えることで生まれる商機を逃している可能性もある。産地の呉市大崎下島は世界で初めてミカンの缶詰生産を手掛け、かんきつ畑で潤い、黄金の島とも称された。一方で、若者はどんどん島を飛び出し、黄金の畑は最盛期の3分の1に縮小。
イノベーション立県を掲げる県はAI人材の育成をはじめ、デジタル技術普及などに体系的な事業を展開。同プラットホームはAI/IoTの実証プロジェクト「ひろしまサンドボックス」の一環で、昨年実施した第一弾のコンペはプロ野球がテーマ。2017年全公式戦で全投手が投じた25万球のデータを基に、翌・翌々年の球種とコースを予測。総投稿件数は3カ月間で1万479件に上り、オンラインで全国から2038人が参加。うち112人が〝カープを日本一にしよう!〟という命題に21件のアイデアを投稿した。想定以上の反響だったという。
レモンをテーマとする第二弾は、AIに1000枚のレモンの画像データを学習させて自動で一定水準の選別を可能にするアイデアを募る。省力化に加え、付加価値アップも狙う。応募数は画像データ対象のコンペの水準を鑑み、数百人規模を見込む。
コンペ方式により、データを駆使して地域の課題解決を導き出すAI人材を掘り起こし、県内企業などと人材マッチングを促す目的だが、県商工労働局の片岡達也主任は、
「AIに対する垣根を払い、敷居を低く、裾野を広げることが先決。今回は比較的に難易度が低く、われこそはと気軽に参加してほしい」
サンドボックスで18年から始めた、レモン生産へのスマート農業導入を目指す「島しょ部傾斜地農業に向けたAI/IoT実証事業」の一環で大崎下島を舞台に全国からIT人材を集め、実装に向けたハッカソン(ハッカーとマラソンの造語)を一昨年開催。レモン判定装置の開発にこぎ着けた。1月30日、黄金の島再生プロジェクトに取り組む「とびしま柑橘(かんきつ)倶楽部」のとびしまカフェ(川尻町)に同装置を設置する。サイズや重さ、球状などの精度向上や判定ミスの再学習など課題もあり、今回のコンペは画像だけで読み取れる判定技を募る。国内唯一のAI開発プラットホームを運営するシグネイトの中山星一郎さんは、
「農作業は本当に大変。AIで確実に労力は軽減される。まずは興味を持ってほしい」
香りと味の選別はまだ先のことになりそうだが、AIの名人技に期待が高まる。
100年前。新型ウイルスによるパンデミック「スペイン風邪」が猛威を振るった。世界で5億人が感染し、2000〜4000万人が死亡。日本では45万人が亡くなったという。再びいま、新型ウイルスの直撃を受け、世界中が大混乱。速やかにワクチンが威力を発揮し、事態収束を願うばかり。
車産業は100年に一度の変革期といわれる。これにタイミングを合わせたように、東京は「都内で販売される新車について2030年までにガソリンエンジンだけの車をなくし全て非ガソリン車にする」目標を明らかにした。菅内閣は「カーボンニュートラルに向けたグリーン成長戦略」を打ち出し、50年までに温室効果ガスの排出をゼロにすると表明。ひろぎん経済研究所の水谷泰之理事長は、
「世界的に見ても自動車の規制を強化する動きが強まっている。特に自動車の世界販売で大きな割合を占めている中国、米国などでは将来的にガソリン車を完全に排除しようとする動きが広がってきた。日本勢を含む各自動車メーカーでは独自の電動化方針を掲げ、電動化を強力に進めている。今後、電動化の進捗度合次第では、自動車業界の勢力図が大きく変わることも想定される」
県経済を引っ張るマツダは「30年までに全車種に電動化技術を搭載する」方針だ。協力企業は広域に裾野を広げている。電動化によって部品点数の増減などに大きく影響を及ぼすといわれており、新たな生産体制、技術を築くまでに時間的な余裕はない。パンデミックの年に創業し、100周年で再びパンデミックに遭遇。この間幾度も荒波をかぶり、厳しい苦境を乗り越えてきたマツダのたくましさ、技術力が試されることになり、しばらく目が離せない。先頭で変革期を突破するくらいの底力を発揮してもらいたい。
経営者に欲がない
菅内閣での有識者審議組織「成長戦略会議」メンバーのひとり、デービッド・アトキンソンさん(小西美術工藝社社長)は、
「日本の人材評価は世界第4位だが、労働生産性は第28位と先進国の最下位クラスに低迷している。規模の小さい企業の多いことが一因。日本企業の平均規模は米国の約6割、欧州の4分3しかないからこそ、その分だけ生産性が低い」
さらに日本の経営者は「お金に対する欲がない」という具体例として著書「日本人の勝算」で、
「ラーメン屋さんの社長の場合、人気が出ても3〜5軒の店を展開したら、それ以上に店を増やそうとしない人が多い。社長はベンツに乗れて、六本木で好きなように遊べる収入が取れるから、それ以上に店を増やそうという意欲がなくなる。まぁ、欲がないといえば、欲がない」
と述べている。
人材は優れているのに、経営者に欲がなく、規模の小さい企業が多く、そのため生産性が低いと指摘する。こうした意見を受け、菅内閣がどんな施策を打ち出してくるか、しばらく目が離せない。
かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とたたえられて日本式経営が高く評価されたこともあった。それもバブルだったのだろうか。
未曾有の年だった。1年前には米大統領トランプが再選されるかどうかは経済がポイント、東京五輪の経済効果は大きいなどの経済見通しがしきりだったが、全て新型コロナで塗り替えられた。急激に世界経済が縮小。そのダメージはリーマンショックを大きく超える。さて今年の世界、日本、広島県の経済見通しはどうか。シンクタンクのひろぎん経済研究所(中区)の水谷泰之理事長は、
「ほぼ間違いなく回復する。しかし、そのスピードはワクチン次第。米国は昨秋以降の感染拡大と経済活動の制限が続いていたが、ワクチンの接種が始まり、明るさが見えてきた。中国は昨年もプラス成長を維持。中国国内の経済活動に大きな問題がなく、とりあえずは順調だろう。わが国でも、そろそろワクチン接種のスケジュールが見えてくると思われる。何とか落ち着かせて、東京オリンピックが開催できれば、世界中の空気もがらりと明るくなる」
バイデン政権は減税から増税へ。対外政策ではアメリカファーストから国際協調へ。西側諸国は一安心。中国への厳しい姿勢は変わらないが、貿易や関税での損得の問題ではなく、香港や中国国内の人権問題のほか、露骨な覇権の誇示を牽制すべく、法に基づく国際秩序に関心が向く。
「中国も対抗して安全保障上の観点から輸出入の制限を打ち出している。中国ビジネスではその製品について、米国での使われ方や米国でのライセンス契約など、両国での規制内容に注意しておく必要がある」
菅内閣はどうか。
「アベノミクスを継承するとしているが、単純な継承ではなく、従来の政策からの発展が期待される。安倍内閣での有識者審議組織の未来投資会議を、菅内閣で成長戦略会議に再編。カーボンニュートラルに向けたグリーン戦略をトップの位置にもってきた。しかしグリーン戦略はコストがかかり大変と消極的な人も多い。確かにわが国のエネルギー政策の転換が必要であり、大規模な投資が必要だが、ここでの投資と新しい技術が、次の成長エンジンになるからこそ、成長戦略会議のトップにもってきたのだろう。これはデジタル・トランスフォーメーションと並び、あるいは一体となって、いまからの経済政策の基幹となる」
1970年初頭、米国のマスキー法(排ガス規制)を最初にクリアしたのはホンダ。以降30年、ホンダは米国の自動車市場を席巻した。
「時代に適応した新しい技術を持つ者が、次の時代の王者になる。少子高齢化を嘆くだけでなく、未来を信じて前へ進む。やらなきゃ」
ポストコロナのほかには、地銀再編、行政デジタル化など多彩な項目が目を引くが、これらはいままでの延長線上で、いままでにできていなかった目録。次に「足腰の強い中小企業の構築」が独立した項目に登場。日本商工会議所の三村会頭やデービッド・アトキンソン氏(小西美術工藝社長)らによる議論に基づく、しっかりとした政策が提案されてくるものと期待。
衆議院の解散がなければ、秋に衆議院議員の任期が到来する。状況次第で前回の総裁選で次点になった方に期待が集まる。県内経済やマツダのことなど次号で。
楽しみは清静にあり。茶における上田宗箇の境地を伝える言葉である。宗箇を流祖とし、桃山時代の武家茶をいまに伝える茶道上田宗箇流。16代家元の上田宗冏(そうけい)さんは朝、上田流和風堂(西区)の安閑亭に入り、畳を拭き清め、水屋の掃除を済ませて、庭に出て花を切り、軸を整え、ひとり静かに茶筅(せん)を振る。
和風堂にいるときは毎朝そうしている。5割くらい多めにお湯を入れて茶を練り、お濃茶の一服点をいただく。とてもおいしいという。
「息つく暇もないような日々に追われて、とても余裕のあるひとときを過ごすことなどできないと諦めている方が多いように思います。そうした日常の繰り返しの中で一日の始まるときを、どう過ごすのか。工夫して時間を生み出している方もいます。清々しい朝の光や花の美しさ、茶碗にさえる茶の鮮やかな色、茶を飲み干す爽やかさなど、その一つ一つが五感に染み入り、呼吸が自然に長くゆっくりとなり、心が収まり、静かな心になります。日常の中で静かなときを楽しむという、いまの日本人が忘れかけている習慣を少しでも生活に取り戻すことができないか。日常にあって幸せを見つける楽しさも大切ではないでしょうか」
今年は例年と違って、稽古や茶席を設けることもなかなかかなわなかった。毎年4日間で600〜650人を招く和風堂の初釜を開くべきか否かと迷ったが、新年の始まるけじめの行事として、楽しんでいただきたいと決意した。
書院の広さなどを勘案し、密を避ける空間を確保。感染対策を優先し、本来は飲み回す濃茶も各服点に。大福茶席と濃茶席をそれぞれ10人に分け、祝膳席は間隔を空けてアクリル板を設置。最大20人をもてなす。いまのところ招待客は400人を予定。
「現代では大寄席の茶会が普及し一般化していますが、桃山時代の茶会はもともと少人数でした。武家茶を継ぐ当家の流派は全国的にも珍しいと例年、東京や関西など県外からのご参加が半数近くあります。来春の初釜はそれぞれの茶席を少人数とし、より清静とした空気の中で茶の魅力を堪能していただけるよう、もてなしに全力を注ぎます」
スタッフや関係者ら総出で幾度も打ち合せを重ね、入念な準備に余念がない。
2007年に発行された宗冏さん著作「日々ごゆだんなきよう」は〝幸せを呼ぶ礼法入門〟をサブタイトルに、宗箇から400年の時を紡いだ武家茶の伝統と精神を伝えながら、日常を健やかに過ごす指南書として文庫化し、版を重ねる。
その礼法は分かりやすい。姿勢や呼吸、歩き方、所作、室内の設えなど、武家茶の作法に裏付けされており、いまからすぐに実践できる平易なものが多い。伝統を大事にしながら時代の空気を取り入れて「不易流行」の禅の教えを重ねてきた、清水のようなすがすがしさがある。
一服の茶を点てて、飲む。その単純な行為が茶の湯という。著書で−私は茶の湯を通して三つの心を実践するよう努めています。まずは柔軟な心。次に静かな心。最後に執着しない心です。
今夏、若宗匠の宗篁(そうこう)さんはウェブで茶道の講習会を開いた。変えてはならない伝統を守り、新しい扉を開く。
秘すれば花なり。有名な世阿弥の言葉である。室町時代に観阿弥と世阿弥の父子によって大成された能楽は、とりわけ豊臣秀吉が好み、江戸時代も多くの大名に愛好されて今日まで約600年にわたり受け継がれてきた。花こそ、世阿弥が追求した美学で、表現を惜しみ、隠すことで美しさを伝えようとするところに能楽の面白さがあり、魅力という。何もかもあらわにするより、秘する花、秘伝を持つことによって、いざという時に相手を圧倒できる。修練を重ねた境地なのだろう。
古くは「猿楽」と呼ばれており、広島市内には能楽に由来する町名が多くある。広島城大手門につながる、現在の中区大手町一丁目から紙屋町二丁目辺りは、江戸期から1965年の住所表示変更まで「猿楽町(さるがくちょう)東組・西組」の町名で呼ばれていた。能楽師や囃子(はやし)方の住む家が軒を並べ、この地に連なり、能装束や楽器類の細工師が住む「細工町(さいくまち)」があった。いまの原爆ドーム東隣の猿楽町に生家があり、そこで少年期を過ごしたナック映像センター代表の田邊雅章さん(83)は、
「被爆直前まで町家のあちらこちらから、謡曲や鼓の稽古の音が聞こえていた。生家は江戸時代から伝わる古い屋敷でした。離れ座敷に板張りの広間があって、祖父は仕舞いを、祖母は小鼓の稽古をしていたと聞いたことがある。当時の県産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコの建築家ヤン・レツルさんも当家に立ち寄り、親交を深め、広島のお国柄を理解したと、のちに漏れ聞いた。被爆によって能楽ゆかりの町、伝統芸能や地域文化、伝承する人々や町並み、在りし日のエピソードなどは跡形もなく、全て消え去った。いまは能楽という芸能に触れることさえ少なくなった。われわれの世代が、その能楽を伝承していかなければならないと感じるようになり、消された町へ鎮魂を込めて、ゆかりの場所で薪能を上演することができないか。江戸時代以来の歩みを、昔日の面影を思い起こすきっかけにしたい」
有志が集まり「猿楽町・細工町鎮魂薪能実行委員会」(山本一隆委員長)を発足する運びだ。猿楽町、細工町の元住民らも賛同しており、地域の伝統文化再生に期待を寄せている。今後は幅広く関係方面や市民の賛同を募り、来年11月初旬を目途に、原爆ドームを背景に能舞台を設営し「薪能公演」の構想を描く。
演能者は、広島藩にゆかりの深い喜多流を対象に、県在住の喜多流大島家を中心に能楽を上演。ワールドワイドで安定して配信できるシステムを選び、無観客方式で世界へネット・ライブ配信する。
広島と能楽の関わりは地名のほか、橋や川の名などにもある。相生橋、萬代橋、御幸橋、常磐橋、猿候川、横川、羽衣町、住吉町、松原町、霞町、東雲町、愛宕町など、いずれも能の名曲から名付けられたと思われる。
「猿楽町を基に藩主、藩士、そして城下や町村に広がり、芸能として能が親しまれてきた証ではないだろうか。世界最古の舞台芸術とも言われる能を伝えることで広島の町、歴史へ関心を向ける契機になればと思う。われわれ市民の誇りになり、未来へつなぐ架け橋になれば幸いです」
居酒屋で席に着くと、いきなり卓上のタブレットを指差して「これで注文してください」と言う。多少慣れたが、初めは面食らった。ついにロボットが配膳する店も登場。コロナ禍を受け、納得するほかないが、東京五輪誘致で世界へアピールした「おもてなし」の心が失われはしないかと、余計な心配も募る。
広島の街から老舗料亭が次々と姿を消す中、今年で60周年を迎えた正弁丹吾(中区三川町)は当初、中区新天地に屋台を出し、やがて得意のふぐ料理で名をはせるようになった。いまも看板のふぐ刺し、ふぐ鍋をはじめ、新鮮な食材の料理を出す。2代目女将の森野初美さんは、
「料理人の森野辰真(故人)と百代の夫婦で当時では珍しい、ふぐ料理専門の屋台を出したのが始まり。お品書きなどなく、全て“お任せ”だったようです。辰真の腕と、百代の明るい接客が相まって次第に繁盛するように。1990年に現在地へ移転。私が注文をうかがうと、常連の方から『昔は注文したことがない。黙って座っとりゃ、ちゃんとおいしい料理が出よった』と。このお客さまには今日はこれ、と見繕って出していた。安心して任すことのできる、よほどの信頼があったのだと気付かされました」
それからは百代女将の立ち居振る舞いに目を凝らす。
「とにかくお客さまをよく見て、相手の立場に立ってものを考えているようでした。ご機嫌はどうか、どうしてほしいのだろうかと満足してもらうことに一生懸命。例えば、お孫さんを連れていたら、本通のしんやに走り子供服。ある時は桜井花店に走り季節の花。自分の店にないものはよそから調達する。満足していただくことが絶対でした。予備知識のない、いちげんのお客さまをどのようにもてなせばよいのか。何もかも真剣勝負の姿に圧倒されました」
来年で米寿を迎える大女将の百代さんが先ごろ、身の上のことなど、とつとつと話してくれたそうだ。
「佐賀出身で当時は食べるものにさえ困り、近所の農家で農作業をして食料を分けてもらって帰る。人に尽くすことで、食べていく。何事も裏表があってはならない。誠心誠意に努めてこそ、人はそれに応えてくれると確信したのではないでしょうか。その時、身に染みた自分流を貫いてきたと思います」
厳しい時代を経験し、乗り越えてきた人の生き方を、まざまざと背中で教わった。
バブル期を過ぎ、次第に客層も変わってきた。接待などで役割を果たした料亭の存在は薄らぎ、気の置けない仲間同士でひとときを過ごす店へ客足が向く。20年前に飲食店では珍しかったホームページを掲載。互いの目的は一つと心得ているものの、大女将との衝突は日常茶飯事。
「メールで予約を受けると、大女将は『つまらん』と。電話で直接、相対しないともてなすことはできないと思っているようでした。どうやって予約を頂くのか、私の仕事と心得ていますが、大女将の、いつも真剣勝負の心意気は大切に守っていきます」
老舗になり、やがて時代の波に洗われて消えていく先もあるが、初代から二代、三代へ心をつなぎ、みずみずしい魅力を放つ先もある。まさに真剣勝負なのだろう。
いまから431年前に毛利輝元が築城し、福島正則から浅野家へと引き継がれた広島城。豊臣時代の大阪城を模して造られたといわれており、安土桃山時代の様式を伝える天守閣は1931年に国宝に指定されていたが、被爆によって倒壊したため、1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元された。
その日から62年。「広島城天守閣の木造復元を実現する会」が発足した。一般的に鉄筋コンクリート造の建物の耐用年数は60年程度。このままでは強い地震などで倒壊の危機があるという。現在、広島市は文化、観光分野の有識者で広島城のあり方に関する懇談会を設け、耐震改修工事にするのか、それとも木造復元にするのか、本年度中に決める予定という。
木造復元を実現する会は学識者、文化関係者や、広島青年会議所、まちなか西国街道推進協議会などの関係者ら有志が集まる。設立趣旨に、
「耐震補強工事はあくまでも耐震基準をクリアすることが目的で、天守閣の躯体自体の寿命を延ばすものではない。木造復元できれば、メンテナンス次第では千年以上もつ。未来にも残せるような木造で忠実に復元することにより、広島の歴史や文化を世界へ発信できる価値は大きい」
広く市民の賛同を募り、署名活動を展開。年明けにも市へ要望することにしている。
中央公園にあるさまざまな文化、スポーツ施設や、平和記念公園、中心部の紙屋町・八丁堀地区をトライアングルでつなぐ都市空間の平面的な広がりを生かし、未来へ発展を促すとともに、城下町としてたどる歴史の「縦軸」を折り込む、奥行きの深い街づくりを夢に描く。
中央公園には旧市民球場跡地やサッカースタジアム建設予定地もある。こうした新しい施設の建設計画に歩調を合わせて、多くの市民の応援を得ながら広島城天守閣の木造復元を実現。近くに原爆ドームや平和記念公園がある。そして紙屋町・八丁堀地区にある都市再開発プロジェクトなどの進展により「温故創新」の織り成す、いい街になる。
紙屋町・八丁堀地区の一部は特定都市再生緊急整備地域に指定されているが、大手資本の投資を誘発するだけの街の魅力がなければ、都市再開発事業なども計画倒れになる恐れがある。ここらは啐啄同時(そったくどうじ)のタイミングがあり、都市計画を進める勘所ではなかろうか。
木造復元を実現する会の大橋啓一会長(ひろしま美術研究所校長)は、1994年8月に広島城二の丸復元工事が完成した「記念誌」に一文を寄せている。抜粋。
「二の丸の3つの櫓(やぐら)の復元工事が終わり、そこに美しい姿を見せている。改めて日本の伝統美と当時の建築様式の素晴らしさを見せつけられた感じだ。屋根の幾何学模様、漆喰の白壁と黒い下見板(したみいた)、石垣塀のコントラストが堀の水面に映し出され、風土に裏打ちされた自然の安心感は、現代に生きる私たちに何かを伝えようとしているようでもある」
東京芸術大学美術学部工芸科専攻卒業し、1973年に研究所を設立。いまの文化庁長官は大学時代の同期。率直な思いを語り、旧交を温めたいと言う。その会の進展を期待したい。