広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
広島城のある中区基町の中央公園は、旧市民球場跡地やサッカースタジアム建設予定地のほか、県立総合体育館、市立中央図書館、ひろしま美術館などの施設が建ち並ぶ。その中央公園と平和記念公園〜紙屋町・八丁堀地区を結ぶトライアングルの都市空間は観光拠点、人が集まる街として一層の回遊性向上が求められている。その一部は9月に特定都市再生緊急整備地域指定を受け、都市再開発を誘発するゾーンとしてもクローズアップされている。
近く「広島城天守閣の木造復元を実現する会」が発足する運びになった。有志が集まり、署名活動などを展開。関係方面や地元経済団体などに働き掛け、市へ天守閣の木造復元を要望することにしている。このままでは震度6強の地震で天守閣が倒壊する危険があるという。
原爆により広島城は天守・太鼓櫓・表御門・中御門などが壊滅。その後、1958年の広島復興博覧会開催に合わせて、いまの鉄筋コンクリートで外観復元された。規模は地上5階建て延床1332平方メートル。それから62年。市が昨年実施した耐震診断で、「天守閣(RC造)と天守閣入り口(木造)は大規模の地震や衝撃で倒壊、崩壊する危険性が高く、耐震補強が必要」という調査結果が出た。これを受け、市は耐震改修か、木造再建か、耐震対策の検討を進めている。
木造復元を実現する会は、ひろしま美術研究所校長の大橋啓一氏が会長を務める。
「広島城天守閣は歴史的、学術的にも文化的にも優れた価値を有しています。木造復元できれば、数百年、メンテナンス次第では千年以上もちます。歴史の伝承という観点においても、原爆ドーム、平和記念公園と共に、後世に残すべき遺産、千年後の未来に残すべき宝」
とし、忠実に木造復元することを会の目的に掲げる。
鯉城(りじょう)とも呼ばれる。われらがカープ命名の由来でもある。城近くに鯉城通りが走り、市民生活に深く根差す。その歴史をひもとくと、いまから431年前にさかのぼる。1589年に毛利輝元が広島城築城の鍬(くわ)始めを行い、この地を広島と命名。その後に藩主は福島正則、1619年には紀伊より浅野長晟が入城。昨年、街中で浅野氏入城400年記念事業が繰り広げられた。広島の歴史をたどる道しるべになり、広く広島を情報発信できる貴重な資源として価値は大きい。
築城当時の面影を残す現存天守は松本城、彦根城、姫路城、松江城、松山城など、全国に12ある。
「戦前まで20あったが、そのうち8つが戦災などで失われており、広島城天守閣もそのひとつ。現存12天守、それに今後復元可能な4天守を加えた16天守の中でも最も古い時代に築かれたもので、当時の豊臣時代の大阪城を模して造られたものです」(会の資料)
被爆による倒壊前の、1931年に広島城天守閣は国宝に指定されている。戦前に作成された実測図や多数の写真が残されており、忠実に復元が可能。復元されれば、国内で最も古い様式を伝える天守閣になるという。
近年は急速に劣化が進み、壁部のひび割れや剥落が複数確認される状況。木造復元の可能性などを次号で。
年金生活者6万人を受け入れるという、広島経済同友会の提言「ストップ・ザ広島県の人口減少」(2004年)に当然、地域の負担を懸念する反対の声もあった。しかし、提言をまとめた「広島県を考える委員会」の森信秀樹委員長(森信建設社長)は、
「いまの60代は元気だ。知識も経験もある。広島で新たな働き方を提案し、その受け入れ態勢を整えれば地域も、産業も元気になる」
と訴えた。これが藤田雄山知事の目に留まり、早速、県庁内に交流定住促進室が設置された。さらに5月に県内14市9町、民間12団体でつくる協議会を設立。07年2月に県と同友会は包括協定を締結し、6月に51社でつくる「ひろしま暮らし支え隊」が結成された。当時、県人口が減少(00年の国勢調査)に転じるという衝撃的なニュースが走った。1998年の288万人をピークに、今後は一段と早い速度で減少し、2040年には239万人になると予想されている。
わが国は08年をピークに人口減少局面に入り、このままでは50年に9700万人、2100年には何と5000万人を割り込むと予想。同友会報告書(17年2月)で、
「(県人口の減少は)消費市場の魅力を失うことで、個人サービス関連業種をはじめ、企業の県外転出が進むことが考えられる。労働市場は縮小に向かい、失業と人口流出が起こり、地域経済の縮小を招く負のスパイラルに陥る」
と危機感をあらわにする。
果たして菅内閣は地方創生にどこまで切り込むのか。人と人との交流から生まれるにぎわい、活力、新たなアイデア創出の機会などが失われる人口減の痛手は大きい。
県は10月25日、東京都千代田区有楽町の東京交通会館で「ひろしま大集結 UIターンフェア」を開いた。新しい暮らし方、働き方を求めて首都圏から地方へ移住を希望している人に、広島の住みよさをアピール。仕事探しなどのさまざまな相談に応じた。
出展者はマツダをはじめ、荒谷建設コンサルタント、オオアサ電子、ドリームアーツ、日造協、広島電鉄、やまみ、ローツェや、県内の17市町など。当日、151人が会場を訪れたほか、新型コロナ感染予防に配慮し、オンラインによる相談に245人の計396人が参加した。社会へ飛び出し、およそ10年でスキルを磨いた30代から働き盛りまでの相談者が大半を占める。
みんな東京へ向かった反動が底流にあるのか、終身雇用の時代から移り、地方で「自分らしく働き、暮らしたい」と思う層が次第に増えているようだ。東日本大震災やリーマンショックを契機に、安定した暮らしを求める移住希望者が急増。有楽町の「ふるさと回帰支援センター」のデータによると、相談件数は7年で約7.6倍の5万件近くに増え、40代以下が72%強を占める。随分と風向きが変わってきた。目の前にチャンスはある。しかし移住希望者が求めている就業機会をどうやって提供するのか。
経営の後継者や幹部、専門技術者がほしいと考えている中小企業トップは多い。首都圏で高度なスキルを磨いた人材を探し出し、広島で活躍してもらう仕掛けをつくる。さまざまな人が集まると広島、企業は元気になる。
どの角度から見るのか。見方によってがらりと姿が変わることがある。一つの視点だけではなく、いろいろな角度から見えた形を一つの画面に集約し、全体像を表したピカソ作「アビニヨンの娘たち」は後にキュビスム革命の発端となった。一方向から見ていたら、ものの本質は見えてこない。ピカソの絵画革命はものの見方を開放し、世界に大きな影響を及ぼした。
文化の日。酒どころ西条の中心部に11月3日、東広島市立美術館が移転オープンした。市の芸術文化活動の拠点として、1979年に八本松町に開館。中国地方で最も古い市立美術館で、黒瀬町出身の大久保博氏が寄贈した旧美術館の展示室を2.5倍に広げ、移転新築。新たなアートの風を吹き込む。
近現代の版画をはじめ、陶芸や郷土ゆかりの作家の作品853点を所蔵。松田弘館長はピカソを引き合いに、アートの力を話してくれた。
「いまや技術革新が急ピッチで進展し、新しいものの見方がさらに重要になってきた。産業や文化、暮らし方、働き方にも新たな発想が求められている。技術革新を起こす原動力はこれまでになかった、新しいものの見方だと思う。もともとアートは自然に対する人工、人が関わる技や術を意味しており、テクノロジーと不可分の素性を持ち合わせている」
酒どころ西条と技術革新に関わる話にも触れた。
吟醸酒の父ともいわれる安芸津出身の三浦仙三郎は、酒造りには不向きだった発酵しにくい軟水の弱点を逆手に、まろやかで芳醇な酒を生み出した。西条を酒どころの土地柄に育て、全国に広島の酒が知られるようになったその礎を築いた功績は大きい。
数値による科学的な手法を導入し、これまで勘に頼っていた酒造りにイノベーションを起こした。くしくも「アビニヨンの娘」が描かれた1907年、第1回清酒品評会で日本酒業界を席巻していた硬水で仕込む灘の酒を抑え、上位2位を独占。受賞率74%をたたき出し、兵庫の同57%を大幅に上回った。
「仙三郎さんは自ら編み出した軟水醸造法を独占することなく公開し、皆が幸せになることを選んだ。西条には技術革新の歴史があり、DNAが息づいている。アートの良さは新しいものの見方ができ、時空を超えていろんな体験ができること。知識は積み重ねられるものだが、知性は鍛えられて身に付くもの。人と会い、実物と相対時して、感性も知性も鍛えられる。発想の転換の歴史でもある美術史を学ぶビジネスマンが増えていると聞く。ダイバーシティ経営が推奨される中、発想の転換で新たなチャンスは無尽蔵にある。マンネリに陥らず、感性と知性を更新する場として、日常の中で非日常に出会える美術館は、まさにうってつけだと思う」
同館は「現代の造形−Life&Art」をテーマに、旧館時代からユニークな独自の企画展を開いてきた。地方美術館の目指す未来についてディスカッションするシンポジウム「くらしとART−地域における美術」を11月7日に開く。
企業経営にもさまざまな価値観や考え方が求められている。未知と遭遇できるチャンスを見逃す手はない。
広島県人口の社会減に歩調を合わせるように、県外に本社機能を移した企業数が県内へ転入した企業数を上回り、2019年までの10年間で企業の「転出超過」は72社に上った(帝国データバンク調査)。47都道府県で5番目に多いという。
転出した217社のうち、移転先は東京が51社で一番多い。広島への転入は145社で、うち東京から33社。東京との間で差し引き18社の転出超過になる。やはり東京への一極集中が加速しており、県産業は大丈夫かと心配が募るが、新型コロナ禍の影響を受け、オフィスなどに居なくても働ける在宅テレワークやウェブ会議などの普及によって「賃料の低い地方への移転が増えるのではないか」(帝国データバンク広島支店)との見方もある。
コロナ禍の大打撃を受け、経済活動や働き方などが、今後どのように変貌するだろうか。これまで頑として変わることのなかった政治、経済、文化や人材、情報などの東京一極集中。こうした中央集権の潮目が変わり将来、人や企業が地方へ分散する時代がやってくるのだろうか。そんな大変革はにわかに信じ難いが、手をこまねく暇などなく、打つべき手を打つほかない。
広島県内へ移住者を呼び込むために、県が全国初の機能を搭載し本格運用を始めた「AI移住相談システム」が威力を発揮するまでに、しばらく時間がかかりそうだが、移住希望者にどのような暮らしや、働き方を提供できるのか、広島の受け入れ態勢は大丈夫か。
かつて広島経済同友会筆頭代表幹事を務め、いまも「県の人口問題はライフワーク」という特別幹事の森信秀樹さん(森信建設社長)は、
「地方創生は国をはじめ、地方行政、経済界、関係機関を総動員し、決して諦めることなく、長い、きつい坂を上っていく覚悟が必要と思う。県人口の減少は地元経済にとって大問題です」
03年に同友会の「広島県を考える委員会」の委員長を務めたのがきっかけで、県の人口問題に関心を寄せるようになった。翌年1月に「ストップ・ザ広島県の人口減少」と題し、提言をまとめた。
提言の主旨は、
「会社人間を卒業し、子弟の教育から解放された方々が余生ではなく、年金で、自分のための、自分たち夫婦のための人生を楽しむことができる新しい都市空間の創出を目指すものである。話がうま過ぎると思われるかもしれない。しかし質素で健康的な生活を目指す限りは、また少し注意深く現在の年金、介護保障、また個々のこれまでの蓄えを見直せば不可能なことではない。例えば、現在の東京一極集中から、地方、特に広島県の福山市から呉市までの瀬戸内海諸都市への転居を考えていただければ“安心”を創出することができる」
首都圏では不安であっても広島県では安心に転化することができる。既存の気候温暖で落ち着いた街並みや市民・若者と共生するニュータウン計画を紹介したいと提言の「はじめに」に述べる。
いまでも新鮮な響きがあるが、この提言が当時の藤田雄山知事の目にとまった。その後に定住促進のターゲットがリタイア層から働き盛りにシフトした経過などを次号で。
どんな暮らし方を望んでいるのか、どんな仕事に就きたいのか。移住を検討している相談者のニーズやその熟度などをAIが判断し、回答を出し分けするという。
広島県は、東京の移住相談窓口で蓄積したノウハウなどを生かし、全国初の機能を実装した「AI移住相談システム」の本格運用を始めた。昨年11月26日から試験運用を開始し、現在の登録者数は1万8千人弱。登録制のウェブ移住相談では全国最大規模を誇る。いつでも、どこからでも相談対応が可能で、一日当たりの相談件数は多い時で700件を超える。
登録者アンケートで「移住に関して新たな気付きがあった」「ネット検索では入手できない情報が分かった」などの評価が多数を占める。AI相談を機に、実際に相談窓口を訪問し、広島県に移住した事例もあるという。
例えば、利用者が自由記入欄でそれまでに使ったキーワードからニーズを判断し、AIの中に蓄積した関連情報の中から、親和性の高い情報を複数提示する。どんな仕事を求めているのか。それまでに使ったキーワードから「おしゃれな職場に関心がある」と判断し、セレクトショップやワイナリーなどを紹介するようなケースもある。蓄積されたノウハウや膨大な情報から回答を引っ張り出す機能があり、相談者さえ気付いていなかった「潜在的な意識」などが可視化され、再認識することに役立つ価値は大きい。
こうしてAI自身も機械学習という機能でさらに学習を重ね、その力量を一段と高めることにより、人の記憶力や心遣いなどで補い切れない分野をカバー。AIならではの得意技を発揮する仕組みで、確かに便利である。しかしAIに暮らし方まで制御され、ついに考える力が失われはしないかと余計な心配もしたくなる。県地域力創造課は、
「移住という大きな決断には人と人とのつながりが不可欠です。AIなどのウェブ上の仕組みと、人と人の対面による仕組みを融合させて、移住の流れをより大きく持続可能にしていきたい」
豊富なデータを自在に活用し、どちらの方向に進むべきか。自ら意思決定を下す力がさらに大事になりそうだ。
試験運用を経て大幅にリニューアルし、本格運用を始めたAI移住相談システムの主な機能は、相談者のニーズや移住検討の熟度を判断し、回答を出し分けするほか、相談者のニーズに応じた対話の進め方や誘導パターンの種類を増やし、回答情報を大幅に増加した。AIが相談者の名前を呼んで話し掛けることで、親近感を醸し出す工夫や、イベント参加などでポイントがたまって特典が提供される制度もある。ターゲットに応じた各種SNSからAI相談窓口への誘導経路や、オンラインイベント経由などによる、AI相談から「地域の人や関係機関へのつなぎの接点」を拡充している。
今後さまざまなデジタルマーケティングなどで登録者の増加を図り、利用状況などのデータを分析。回答の出し分け機能などを改善しながら回答数の増加を目指す。移住者の受け皿になる地域の人や企業がこれにどう応えるのか、成否を分けるポイントになりそうだ。経済界の取り組みなどを次号で紹介したい。
なぜか。総務省の人口移動報告(2019年度)によると、広島県は転出者が転入者を上回る、いわゆる社会減が8018人に上り、全国ワーストだった。
新しいことに挑戦する進取の気性にあふれた県民性があるから、どんどん外へ飛び出していくのだろうか。一方で保守的な一面があり、大きく門戸を開くことのない県民性があるから、なかなか外から人が寄りつかないのか。
県人口のピークは1998年11月の288万5617万人。それから22年後、8月1日現在で279万7703人にまで減り続け、ざっと8万8000人の人がいなくなった勘定になる。さらに減り続ける気配だ。働き手や消費者が減り、地元経済が衰退していく心配はないのか。県外からの移住対策を担当している広島県地域力創造課の山田和孝課長に聞いた。
「人口社会減の対策のうち、転入促進の取り組みの一つとして県外からの移住促進に取り組んでいる。全国的にも東京への一極集中の傾向になかなか歯止めが掛からないが、若い年代にみられる新たな地方移住の動向を取り込んでいくため、広島らしいライフスタイルの発信や、若年者の仕事マッチングなどに力を入れている」
有楽町駅前の「ふるさと回帰支援センター」内に県職員を派遣し、14年10月に「ひろしま暮らしサポートセンター」を開いた。東京で相談員を採用するケースがほとんどだか、県職員の派遣は全国でも広島と和歌山県だけ。
ふるさと回帰支援センター全体では、移動相談件数は7年で約7.6倍の5万件近くに急増し、相談者の中心がリタイア層から働き盛りの40代以下へシフト。10年前に40代以下の割合は全体の約3分1だったが、18年度は72%強にまで膨らんでいる。
リーマンショックなどの影響を受け、働き方に関する価値観が変わり、相次ぐ大災害に高度都市機能基盤のぜい弱性に気付いたせいなのか。県では、暮らしや仕事における人生のステップアップを地方に求める移住希望者が増えたのではないかと分析する。
地域資源を生かした仕事や暮らしをしようとしているのであれば、海と島、山、川の豊かな自然と都市が近く比較的に働く場所に恵まれている広島に出番がありそうだ。ライフスタイルにこだわる層に広島の魅力をどうやって伝えるのか。自己PRが下手だから魅力に気付いてもらえないなどの言い訳は通用しない。お国自慢大会では全国どこも同じに見えてしまう。
有名ではないが、県内にはナンバーワンやオンリーワン企業も多く、高度な技術職を求める人材へ十分にアピールできる。何しろ移住希望地ランキング(19年)で広島は全国2位に躍進。脈はある。
県が推進する転入促進作戦には、新卒学生UIJターン就職の応援、プロフェッショナル人材の獲得などもある。転出抑制では県内高等教育機関への入学者確保、県内外留学生の県内就職の促進など。どれも一朝一夕に成果を上げることは難しいが、こつこつと積み重ねるしかない。
移住対策としてAIを活用した相談窓口や、東京のネットワークと県内の受け皿をつなぐ新たな仕組みを計画している。次号で紹介したい。
10月15日から新聞週間が始まる。危機のとき、新聞がよく読まれるといわれるが、この度は健康や命にかかわるコロナ禍で急激に経済が停滞した影響なのか、各紙共に広告スペースは相当減ったように感じる。新聞週間の標語に「危機のとき 確かな情報 頼れる新聞」と掲げる。新聞力回復に向けた願いや、危機感があるのだろう。
インターネットやスマホが普及し、次第に新聞、雑誌などの、いわゆる紙媒体の苦戦が始まった。果たして新聞は役に立っているのか。厳しく問い掛けてきた。新聞の役割を見詰め直すことから始め、5年前から「新聞を活用したビジネス講座」を開く中国新聞社の井上浩一専務は、
「新聞をどうつくるかではなく、どう使ってもらうか。社内横断的に若手、中堅で組織したプロジェクトチームで検討を重ね、2016年4月に企業向け新入社員研修を中心にした講座をスタート。講師陣の工夫や、新聞を活用している企業の動画を上映するなど、次々に新しい手法を取り入れてきた。最近は出前講座の要望もあり、新聞を読み、活用する若者が年々、一人一人増えてきていることを実感している」
講座開設のヒント、きっかけが興味深い。井上専務が人事部長時代に交流が広がった地元企業幹部との飲み会で異口同音に「新入社員のコミュニケーション力をつけるにはどうしたらいいか」という悩みが次々飛び出した。はい、いいえ、わかりました、ええまぁ、などの“単語族”が横行し、なぜやりたいのか、できないのかという自らの意思を伝えきれない若者が多いと口々にこぼす。
ここに新聞を生かす手はないか。新入社員に一番つけてもらいたい力は何か。井上専務は後日、順々に人事担当者を訪ねて新入社員への期待、要望などを聞いて回った。その結果、社会・一般常識の会得、コミュニケーション力やプレゼンテーション力向上、論理的な思考の習慣化、セールストークの参考、文章力のアップなどに集約された。
新聞を読まなくなったせいか、近年広まったSNSの影響か。何とも大変だが、何とかするほかない。新聞に出番があると直感したという。
文章を読む、行間を読む、想像する、知識を得る、考える。むろんストレートで分かりやすい映像情報や、手っ取り早いSNSもいいが、新聞には国内外の政治、経済、文化、スポーツ、身の回りのことなど、記者が集めた確かな情報があり、商談を離れたときの雑談の場などに大いに活用できると力を込める。
講座は春と夏の年2回。コロナ禍で春を中止し、9月に初めてとなるオンラインで開いた。過去最多の26社・団体から69人の参加があった。カリキュラムは、社会人のビジネスマナー(オンライン上のマナー)、朝の3分で世界と日本、広島がわかる(新聞を読み解く力)、中国経済面の活用術(新聞をビジネスに生かす力)、雑談力はビジネスの基本(コミュニケーション力)、文章で差がつく仕事力(表現力)などで構成。
ある記者がテレビ番組で「安倍前首相とトランプの会談はほとんど雑談だった」と明かした。世界を動かしたその雑談力がすごいと言えなくもない。若者よ、頑張れ。
ピンクやイエローのパステルカラーの軸が楽しい。仿古堂(安芸郡熊野町)の筆シリーズ「マカロン」は、4代目の井原倫子さんが書筆の新たな可能性に願いを込め、幾度も改良を重ねて開発した。日常生活で気軽に書筆を手にしてほしい。そうした使い勝手と手入れのしやすさを考え、通常は穂の直径分ほどだが、穂の半分を軸中に納めて特有の作りにした。クラウドファンディングの返礼品としても人気を集めたよう。
穂の原毛はイタチやヤギ、リス、馬などの動物毛だが、その確保も次第に難しくなっているという。井原さんは、
「昔の筆はもっと毛がしっかりして書き味も良かったなどの声が届く。当時の筆を見本に預かることもあり、腕利きの筆司(筆を作る職人)たちは、こんな毛で作ってみたいと羨望の声を口々にする。それが職人気質を一層刺激するのか、いま手に入る毛で最上の筆を作る。頭も手もフル動員し、さらに熱意を込める」
仿古堂は、井原さんの曾祖父の東氏が創業。10月2日に120周年を迎える。時代に合わせて変えるべきこと、変えてはならないことは何か。井原さんは4年前の社長就任に臨み、大好きだという古事記にある初代の神武天皇が祀られる奈良の橿原(かしはら)神宮を訪ねた。多くの困難を乗り越え建国に尽くした神武天皇の神殿に向かい、日本のアイデンティティーでもある筆作りを通して、日本の素晴らしさを伝えていく覚悟を決めたという。
仿古堂の筆は、2代目の思斉氏と親交のあった棟方志功や、現代書道の父と言われる比田井天来、その弟子、上田桑鳩ら多くの書家に愛用されている。自らも書筆を握った思斉氏は、
−製作にあたって、常に心あたたまる筆をつくりたいとねがっています 常に表現意欲をゆすぶらずにはおかないひびきのある筆をつくりたいとねがっています 常に古典をみ あらゆる墨象にふれ 時代の筆をつくりたいとねがっています 常にあなたの絶大な支援をねがっています−
の言葉を残す。
職人が一人前になるまでにおよそ10年はかかる。挫折し途中で辞める人も多く、悩みは尽きないという。筆作り産業を〝絶滅危惧種〟と捉えながらも呉市川尻や愛知県豊橋市、奈良などの熊野以外での産地全体でつくる〝和筆〟として継承し、職人を日本の宝物として支える必要があると訴える。コロナ禍を契機に社内改革を決行。経営基盤を再整備しながら、使い手の思いに寄り添って筆を作ってきた思斉氏の志を引き継ぐ。
筆生産量で全国一の熊野は秋分の日に「筆まつり」を開く。例年5万人が訪れるが、86回目の今年は初めてオンライン開催に挑戦。9月22日は榊山神社であった筆供養の様子を動画でライブ配信したほか、27日まで「バーチャル筆まつり」と称し書、画筆はむろん、オンラインならではの動画で化粧筆を使ったメークレッスンなど、熊野筆をアピール。まつりを企画した熊野筆事業協同組合の城本健司常務理事は、
「販売促進に並行して各社でオンライン商品の開発も進めていただきたい。広く筆の魅力を伝えることが、われわれの使命です」
いまこそ老舗の底力を発揮してもらいたい。
菅内閣が発足した。「自助・共助・公助、そして絆」を旗印に、新型コロナウイルス対策と不況克服という2つの難関に立ち向かう。日本の浮沈をかけ、大改革のチャンスでもある。まったなし。地方議員から出発した、そのたたき上げの手腕が試される。
「かつてない不況からはかつてない革新を生む」(松下幸之助の言葉)という。ここを踏ん張り、新たな活路を開くことができるか、まさに経営者の腕の見せどころ。安佐北区口田の医療法人社団いでした内科・神経内科クリニックの井手下久登理事長・院長は、
「新型コロナウイルス感染の不安もあり、たくさんの市民が病院に押しかけた。当院はみんなが知恵を出し、建物の外に発熱外来を設けるなどのアイデアをすぐに実行。相手の立場に立って考えるホスピタリティー日本一を目指し、外来の待ち時間短縮など、いわば当たり前の改革に取り組んできた。困難から革新が生まれるという幸之助さんの経営哲学は実にシンプルで、誰にでもすぐに実行できそうに思えるが、いざその立場に直面すると、さまざまな迷いや悩み、疑問などが頭をもたげてくる。本で読んだことと、実践することの間には大きな開きがあり、素直な心で改革に向かうようになるまで長い時間が必要だった。小さな改革の1つ1つを積み上げていくほかない。試行錯誤の経験を通じ、いまはスタッフ約160人に共通の信条、基本動作となっている」
2007年に医療・介護分野で唯一、「ハイサービス日本300選」に選ばれた。1999年からトヨタ方式による改善活動を導入するなど、やるからには万事徹底した。例えば、外来診察の2時間待ちを改善する目標を立て、人の動線を整理するところから着手。所用時間の計測タイマーを備え、居場所や待ち時間を見える化。外来者に丁寧な案内を心配りするなど、大幅な時間短縮を実現させた。
工場経営や病院経営の枠組みを超えて「人間尊重」の考えが根本に流れており、興味深い。同クリニックは4つの日本一を目指している。日本一立派な経営者、職員を物心両面で日本一幸せに、医療・障がい・介護の質が日本一、ホスピタリティーとサービスが日本一と掲げる。どれも客観的な基準があるわけではないが、大きな志がなければ、小さなことも何一つ成すことができないという井手下理事長の覚悟なのだろう。
広島大学医学部を卒業後、広島市民病院勤務を経て、日本一の〝かかりつけ医〟を目指し、1992年に開院。体が不自由になっても、安心して生活できる在宅医療と介護を実践するために、通所リハビリテーションや認知症デイケア、デイサービス、居宅介護支援事業所、2016年に県内初の高次脳機能デイケアを始めるなど、障害者向けトータルヘルス・サポートの体制を充実させている。来春には小規模多機能型居宅介護を始める計画だ。
子どもの頃から建設業を営む父親の背中を見て育ったから、知らず知らずのうちに経営者の心構えが備わったのだろう。経営者に大切なことは熱意、人を思いやる心、そして実行力と言い切る。20年前からスタッフらと共に同クリニック周辺で早朝の清掃を続けている。
心に響く言葉がある。元カープ投手の黒田博樹さんの座右の銘「耐雪梅花麗」(雪に耐えて梅花麗し)は、わが道を選び、幾多の苦難にぶつかり、ついに目的を成し遂げた爽やかな感慨が伝わる。人により、境遇により、胸に秘める言葉はさまざまだが、三国志に登場する曹操が詠んだ詩に、
神亀雖寿 猶有竟時
騰蛇乗霧 終為土灰
老驥伏櫪 志在千里
烈士暮年 壮心不已
寿命が長いといわれる亀でもいつかは死ぬ時を迎える。霧に乗じて大空に舞い上がる竜でも、いつかは死んで土くれとなる。だが、一日に千里を走るといわれる驥は、年老いて馬屋につながれても、志だけは千里のかなたにはせている。それと同じように、老いて晩年を迎えても、勇者は志を忘れることはない。
この詩は、中村角(西区草津港)の中村成朗会長(81)が当時、広島商工会議所の副会頭(1991〜97年)を務めた縁で、橋口収会頭から頂いた書にしたためてあり、いまも大切にしているという。
橋口会頭の発想から口火を切り、広域連携の新しい事業が動きだした。多彩な都市圏を擁する広島湾。中四国地域の結節点に位置し、広域的な交流拠点として発展の可能性を秘めている広島湾域の一体的な基盤整備と機能強化に向けて、商議所は1997年に「海生都市圏構想」なる提言をまとめた。
広島湾を6つのゾーンに分ける。①広島、廿日市市、坂町を「海生拠点」として国際物流拠点などを整備。②宮島と大野町を「迎賓拠点」、③大竹、岩国市を港湾物流機能の「臨海拠点」、④呉市を「海洋拠点」、⑤江田島市などの島しょ部を新たな生活圏域の創造を図る「共生拠点」、⑥柳井市や周防大島、防予諸島を海洋リゾート・リクレーション地区にする「回遊拠点」に位置付け、ウォーターフロントの長期的な整備方向を示した。
海とのかかわりを視点に置いた壮大な構想である。商議所の広域交流委員長として中村さんは2年をかけ、広島県や広島市、柳井市など1県6市16町を訪ねて構想説明会を重ね、大半の首長と懇談。この過程で継続的な協議機関の設置案が浮上し、2000年7月に広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会を立ち上げた。初のモデル事業「海から行く歴史深訪」クルーズで、広島港−周防大島、周防大島−倉橋島、倉橋島−周防大島の3コースを実施。陸路だと車でおよそ4時間の間も、海で結ぶとわずか30分の至近距離。改めて参加者は海の利便性を体感した。
次に、経済産業省に事業採択されて体験型修学旅行の誘致に乗り出す。民泊方式による体験メニューや受け入れ体制づくり、旅行社へのプロモーション活動などの粘り強い取り組みが実り、年に1万5000人を超える修学旅行生が訪れるようになった。発想があり、これに賛同した多くの協力があり、やがて地域を巻き込み、大きなうねりになった。生徒と住民の交流、受け入れ地域間の広域交流を通じて地元が元気になり、教育や経済などに及ぼした価値は大きい。中村さんは、
「行政と民間がそれぞれの得意を分担。今日までに大勢の力が重なり合った。継続は力と確信した。あきらめない。志こそ人を動かす源です」
何しろ粘り強い。いつも穏やかだが、相当な負けず嫌いなのだろう。広島商工会議所常議員の中村成朗さん(81)に広島市をはじめ、県西部と山口県東部にまたがる8つの市町から感謝状が贈られた。商議所の過去に例がない。
商議所が主導し、行政エリアを越えて官と民が連携した広域観光の推進組織「広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会」を2000年発足。当時、商議所の広域交流委員長だった中村さんが協議会運営委員長に就き、7月8日の総会で退任するまでの20年にわたり、広島湾域の都市、島々、山里を巻き込んで観光関連事業に取り組んできた。
重点事業の体験型修学旅行の誘致活動では08年からの累計で545校、8万2713名の生徒を受け入れる。商議所中心のこうした取り組みは全国的にも珍しく、当初には誰もが予想できなかったほどの成果を挙げ、関係者を驚かせた。16年には観光庁長官表彰を受ける。
毎年自ら足を運び、主に首都圏や関西圏の旅行代理店などの関係方面を訪ねて熱心なプロモーション活動を展開。これに触発されるように市町のトップ、事務局も足並みをそろえ、一日に7、8カ所の旅行社を巡る分刻みの過密スケジュールをこなした。これを毎年繰り返した根気がすごい。反響が広がった。
08年に初めて、山口県の周防大島で修学旅行生212名を受け入れる。これを皮切りに翌年からぞくぞくと予約が舞い込むようになり、何と2011年度には関東、中部、関西方面から中・高校を合わせて19校、計3097名を受け入れる。翌年は21校で計4076名。その頃、椎木巧町長は「ものすごいことになりました」と、驚きを隠さなかった。
同町は1947年頃に人口6万5000人を数えたが、いまは2万人を切る。高齢化の進む島に修学旅行生が訪れることなどかつてなく、椎木町長自らプロモーション活動に参加したものの、半信半疑だったのではなかろうか。
「海、山、川の風景だけでなく、自然に根差した漁業、農業があり、何よりも素朴で温かい人情がある。地元には当たり前のことが、都会の子どもらには新鮮な感動になり、貴重な体験になると思う」
中村さんも周防大島での民泊受け入れ説明会で現地に乗り込み、漁業関係者や住民らと車座で語り合った。その後に大崎上島町、江田島市、安芸太田町、北広島町、福山市沼隈・内海町、庄原市、佐伯区湯来町へと広がり、昨年はエリア全体で1万5093名の修学旅行生を受け入れた。経済効果は平均体験料1万3000円として約2億円。そればかりではない。地域住民の生きがいになり、地域に活気があふれた。中村さんは、
「家では料理もしなかった生徒がアジを3枚におろす。感激した母親から民泊先に手紙が届いて互いの感謝、喜びにつながる。そうした話がたくさんあることが、本物体験の一番の成果。うわべだけの対応では通用しない。受け入れ地域が本気になり、本物を伝える決心が大切です」
数年前から今年で退任すると決めていた。コロナ禍で今年の予約は全てキャンセルになり先行きも不透明。しかし再開のときに備え、いまこそ力を蓄えてもらいたい。
ライオンは、幼いわが子に狩りを見せる。やがて子は危険な狩りに加わり、命懸けの体験から生きていく力と知恵を学ぶという。
体験型観光の提唱者である藤澤安良さんはかつて、岩国市であった研修会で「本物の体験が必要な時代」と題し、熱弁をふるった。
「野外で遊びもしない。小学校低学年と高学年が遊ぶ機会も極めて少ない。異年齢間や多人数の中で人間関係を学ぶのである。部屋に閉じこもりテレビやコンピュータゲームばかりでは疑似体験であり、真実は学べない。生き物や人の命の尊さを考える機会はゲームで得られないことは明らかであり、むしろ悪影響を及ぼす。学習環境の向上、つまりは人間関係の構築能力と、やる気こそが重要である」
農・山・漁村体験などの具体的なプログラムを示しながら、人間関係構築能力を磨く体験教育の理念として、次のキーワードを挙げた。
▷「たいへん」だから、挑戦したい。誰にも簡単にできないから、どこにでもないから優越感が生まれる。自慢ができる。自信が生まれる。自分を確かめられる。
▷「難しい」から乗り越えた喜びがある。達成感がある。
▷「危ないから、天候が変わるから」安全対策や健康管理が体験からノウハウとして身に付き、自然や環境、農林漁業が深く理解できる。
▷「原始的や旧式」は手先や体を十分使うことになる。先人の知恵や技術の高さから人間の潜在能力を知る。自分の能力の発見や再認識があり、自信が持てる。
など。その日から十数年たつが、果たして学習環境は改善されて、その後の人生の糧となっただろうか。
広島湾を生かす
素晴らしい眼力というほかない。広島商工会議所の橋口収会頭は当時、51歳の中村成朗さん(中村角社長)を副会頭に抜擢し、併せて広島湾沿岸の自治体、商工会議所、商工会などでつくる「広島湾ベイエリア・海生都市圏研究協議会」の運営委員長に起用。その後、中村さんは重点事業の体験型修学旅行の誘致活動に奔走し、2008年からの累計で545校、8万2713名もの生徒を受け入れている。商工会議所が県境を越えて修学旅行の誘致活動を展開する例は全国的にも珍しく、大きな成果を挙げた。
広島県西部から山口県東部にかけて多彩な都市圏、島々を擁する広島湾。中村さんは関係市町に足を運び、大半の首長に直接、協議会への参加を呼び掛けた。
「発想は素晴らしい。だが、くれぐれも計画倒れにならぬよう願いたい」
と、やや冷ややかな注文もついた。当時を振り返り、
「行政エリア、官と民の枠を取っ払い、広島湾岸一体で発展を目指すという趣旨に賛同してもらった。何とか現状を打破したいという思いもあったのでしょう。一方で、広島市がストローで周辺市町から吸い上げることになりはしないか、などの手厳しい反応もあった。行政の区割りや意識を飛び越えるのは並大抵ではない。粘り強くやっていくほかないと決心を固めた」
海によって隔たれているのではない。海によってつながっていると証明した事業の歩みを、次号で紹介したい。